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読書中 自死という生き方 須原一秀

読書中 60年前の東京・日本 J・ウォーリー・ヒギンズ

読書中 サル化する世界 内田樹

★★★ 死を生きた人びと 小堀鷗一郎
サライ(2020年3月号)のインタビューに著者が出ていました。
――著書『死を生きた人びと』が好評です。
「僕の初めての本です。はじめ、この堀ノ内病院(埼玉県新座<にいざ>市)での10年余りの在宅医療の看取りの経験を基にして、啓蒙<けいもう>書の形で原稿を書き始めたのですが、途中で挫折してしまい、しばらく放っておいたんです」
――そこから筆を執り直した。
「たまたま書きかけの原稿を読んだ同僚から、事例の描写がひとりひとりの人物を蘇<よみがえ>らせるようで、平凡な市井<しせい>の人々の死が意味のあるものに思えてくる、と言われましてね。そのとき、そうした記録を残すことは、彼らへの挽歌<ばんか>として意味があるのではないかと気づかされたのです。高齢化社会が進む中で、在宅での看取りへの関心も年々高まっている。みすず書房の創業者のひとり、故小尾俊人<おぴとしと>さんが古くからの知り合いだったので、その編集部に相談して出版にこぎ着けました」
――映画も各地で上映が続いています。
「『人生をしまう時間<とき>』ですね。NHKエンタープライズの女性ディレクターが、堀ノ内病院の看護師寮に8か月余り泊まり込んで在宅医療の現場を取材し、テレビ番組をつくつた。それを映画化した作品です」

この映画を見ました。そしてこの本の存在を知り、読もうと思ったのです。本の副題が、「訪問診療医と355人の患者」。上の雑誌のインタビューにあるように、患者それぞれの死に様がよく判り、教えられること、考えさせられることが多くあります。医療が人を生かすことだけに力を入れすぎた、食べられなくなったら肉体は死の準備をしている、ということが、他の本でも読んだことですが、この本では実例に則しているので、一層強く心に残りました。
 緩和ケアとは、生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処(治療・処置)を行うことによって、苦しみを予防し、和らげることで、クオリティー・オブ・ライフ(QOL:生活の質)を改善するアプローチである。
(「がんの療養と緩和ケア」『国立がん研究センターがん情報サービス』二〇一五年七月一七日)
二〇一〇年に、The Economist Intelligence Unit(EIU)がこの定義を基に世界四〇か国の「死の質」のランク付けを試みた結果がある。評価によれば、日本は二〇位以下に低迷しており、その理由として、終末期医療への公的支出が少ないために緩和ケアにおける個人負担が大きいこと、緩和ケア専門家の養成が遅れていることが挙げられている。一方、同じ団体が行った医療環境のランキングでは、日本はスイスに次いで二位となっている。その理由として、平均寿命が長いこと、病床数が多いこと、保険医療への社会保障支出が多いこと(国民皆保険)などが挙げられている。一言で表せば、日本は「生かす医療」はトップクラスであるが、「死なせる医療」は大きく立ち遅れているということになる。
(p.124)
経済的発展と並行して生じる、一国における医療の発展を学者はとりあえず三段階に分けている。第一段階では国の経済は極端に貧しく、専門的な診断や治療に対するアクセスを得られないために、大半の死は家の中で起こる。第二段階では国の経済が発展し、国民の収入が高い段階に移行し、こうした結果、医学の可能性をさらに幅広い層から利用できるようになる。病気になったとき、人々が医療システムに頼るようになる。人生最期の時、家ではなく病院の中で死ぬことが多くなる。第三段階では国の収入が最高段階に到達し、たとえ病気のときであっても、国民は人生の質にこだわることができるようになり、実は自宅での死亡が再び増えはじめる。(アトウール・ガワンデ著、原井宏明訳『死すべき定め』みすず書房、二〇一六年) (p.188)
これから日本が迎える多死社会、一人一人が死に方を考えなければ行けません。

★★★ 特別ではない一日 (短文集)
タイトルに、kaze no tanbun と添えられています。風の短文、かな?
17名の作家の19の短文(短編)を収録。短いものは2ページ、長くても15ページ。訳の分からないもの、チョット心に引っかかるもの、面白いと思ったもの、色々あります。「昨日のお肉は今日の豆」(皆川博子)、「北京の夏の離宮の春」(谷崎由衣)、「Yさんのこと」(水原涼)、「カメ」(小山田浩子)、「半ドンでパン」(滝口悠生)、「誕生」(藤野可織)、「オリアリー夫人」(西崎憲)、こうやって挙げてみると、結構面白いものがたくさん。残念ながら要約することが出来ません。変な話が好みの方にはお薦めします。特別ではない一日、ではなく、特別な一日のことが多いような感じです。

★★★ 僕らはそれに抵抗できない アダム・オルター
副題、「依存症ビジネス」のつくられかた。
依存症といったら、以前は薬物依存だった。今は、行為依存になっている。「行動嗜癖(しへき)」という。これについて解説した本。副題にあるように、ビジネスとして行われていることが、一般人を依存症にしている。その具体例が事細かに説明される。確かにそうだと思う。私もいろいろな依存症になっているようだ。でもそれは改善しようと思うものではない。考えた方甘いのかもしれない。しかし、実生活に何の不都合もない。依存症脱出の方法も様々書かれている。実生活に支障をきたしている人は実践すべきだろう。ゲームのやり過ぎ、SNSへののめり込み、等。多角的な考察が行われているので、さほど深刻になることのない読み物としても面白い。
フロイトとペンバートンがコカインに惹かれたように、現代人はテクノロジーの虜になっている。テクノロジーが叶えるすてきなメリットに心を奪われ、それがもたらす代償を軽視している。オンデマンドで娯楽が手に入るのは楽しい。自動車にさまざまなサービスがあるのはありがたい。ロボットが掃除をしてくれるのは便利だ。フェイスブックとツイッター、インスタグラムとスナップチャット、レディツトとイメージャー、バズフィードとマッシャブル、ゴウカーとギズモード、それからオンラインでギャンブルを楽しめるサイト、いくらでも動画を見られるプラットフォーム、ストリーミングの音楽配信サービス……。他にも、起業家が成功するには週100時間勤務が当たり前だとか、できるビジネスマンはパワーナップ〔戦略的な仮眠〕をとるものだとか、忙しい現代人は4分間のワークアウトメニューで運動をこなすべきだといった「常識」を聞きながら、私たちは20世紀には存在しなかった新しいタイプの強迫観念、強迫行動、依存症をこじらせるようになつている。(p.34~p.35)
クレオパトラもベトナム帰還兵も、ルーテンバーグの説を裏付けている。依存症は記憶に埋め込まれるのだ。クレオパトラにとっては檻が引き金(トリガー)だった。檻に入ると、依存症だったときの自分に戻ってしまい、古い習慣を再開せずにいられなくなる。幸いベトナム帰還兵たちは同じ記憶を繰り返さなかった。ベトナムを離れた彼らは、ヘロインを摂取する体験の「合図」とも緑が切れていたからだ。(p.62)
度を越しさえしなければ、個人的な目標を掲げるというのはまったくもって妥当なことだ。目標があればこそ、限られた時間や目標をどう使うべきか見えてくる。だが現代では、求めもしない目標が向こうからやってくる。ソーシャルメディアに登録すれば、フォロワーや「いいね!」の数を集めたくなる。メールアカウントを作れば、ずっと受信箱に目を光らせてメールをさばきつづけずにいられなくなる。活動量計を装着すれば、毎日特定の歩数まで歩かずにいられなくなる。ゲームアプリの「キャンディークラッシュ」で遊びはじめたなら、つねに前回のハイスコアを破らなくてはいけないと感じる。マラソンもしかり、仕事の価値を給料の額で測ることもしかり……自分のがんばりをタイムや数字に管理させていると、キリのいい数字に達すること、社会的比較で納得のいく数字を出すこと自体が目標になつてくるのだ。人より速く走りたい、人より多く稼ぎたい、まとまった形で結果を出したいと思えて仕方ない。フルマラソンを4時間1分で走るのは敗北だ。稼ぎが9万9500ドルしかないのも敗北だ。もくひょうは高くなる一方で、依存的な追求に油を注ぐ。つねに何かの目標に失敗している自分として生きながら、何かに成功するたび、また新しく野心的な目標を掲げずにいられなくなるのである。(p.136~p.137)
ヴイゴツキーの説によると、子どもは現時点の自分の能力より少しだけ先の素材を学んでいるとき、もっともよく学び、もっとも強いモチベーションを抱く。教室で言うならば、教師が生徒に対して越えるべき明確なハードルを示し、なおかつ、それが既存の能力に対して過酷すぎない(完全に歯が立たないほどではない)ようにするのが効果的、というわけだ。ヴイゴツキーはこの一番いい状態を「最近接発達領域(ZPD)」 と呼び、シンプルな図で解説している。(p.213)
円の中心=1人でできる、円の外側=できない、その間が最近接発達領域(サポートがあればできる)。
「デジタル健忘症」という言葉もある。こちらはテクノロジーに頼りすぎることによって生じる現象を指す。アメリカとヨーロッパで実施された調査では、回答した成人の多くが、大事な電話番号すらうまく暗記できないことがわかった。我が子の携帯電話番号も、職場の代表番号も思い出せない。また別の調査では、「(携帯電話は)自分の脳の拡張」という表現に、回答者の91%が同意している。大多数が、疑問があれば記憶を探るより先に検索エンジンで探すと答えた。70%は、スマートフォンが見当たらないと、それが短時間でも悲しくなったりパニックになったりすると答えた。回答者のほとんどは、自分の脳内にも、その他のどこにも保管していない、スマートフォンの中にしか存在しない情報があると答えた。(p.301)
デュヒッグによると、習慣は3つの部品で構成されている――「合図(キュー)(行動を促すもの)」、「儀式(行動そのもの)」、そして「報酬(同じ行動をこれからも繰り返すよう、脳に仕向けている見返り)」だ。悪癖や依存症を克服したいなら、「合図」と「報酬」はそのまま維持しながら、儀式の内容だけを変える。それまでの行動を、気をまぎらわせる別の行動に差し替えるのだ。爪を噛む癖があるならば、たとえば心がそわそわすることが「合図」となって、噛みたい欲求がわいてくるのかもしれない。だとしたら、そこで爪を口に入れるかわりに、ストレスボールを揉むという別の「儀式」を取り入れてみる。爪を噛んでいたときは、短く噛みそろえることで達成感という「報酬」を得ていたのだとしたら、今度はストレスボールを10回握るという任務の達成感を得られるようにする。(p.334~p.335)

★★★ 明日は生きていないかもしれない……という自由 田中美津
田中美津の著作二冊目。一冊目は「この星は、私の星じゃない」、このページの一番下に記載。二冊とも同じ形で、これまでの色々な文章や講演などを集めて本にしている。一応テーマ別になってはいるが、繰り返しが多い。一冊目と二冊目にも繰り返しがある。まさにそれが言いたいことなのだろう、意外にその繰り返しは気にならず、何か未知のことが加わっているようで(単に私が忘れているだけかもしれないが)、理解が深まるように感じた。面白かったのは、小熊英二の「1968」をこき下ろしていること、小熊英二本人もケチョンケチョン。この本、上下二冊、それぞれ千ページを超える厚さ5センチぐらいの本です。田中美津のウーマンリブも取り上げていて(私2010年に読んだのですが、リブに関しては記憶にありません)、その内容が誤読・誤用・捏造が多く、64ページに45箇所あると田中は主張している。小熊英二『1968』を嗤う、というパート40ページにわたって縷々書いているのを読むと、田中の方に軍配が上がると思いました。恐らく小熊はスルーするでしょう。著作は学者然としたもので、一般人には批判できそうもないものです。私は彼の本を4冊読みましたが、スケールの大きさに圧倒されましたが、例えば『1968』でいうと、私はその時代に生きていて、生きていない小熊が言うことに違和感を覚えた内容もありました。田中はまさに当事者なのです。
大事なことだからくり返しますが、生きているって、今生きているつてことが全てなのよ。癌であろうとなかろうと、今生きているつてこと以外に、生きているつてないんだから。命は、今だけのもの。それだから私は、今日だけ生きればいいんだっていう考え方が好き。明日も明後日もず一っとがんばらなきやいけないって考えただけで、つらい人生になってしまう。でも、今日だけ生きればいいんです。今日だけ、今日だけと思うと、私の場合ふっと余計な力が抜ける。じゃあ、今日をどんなふうに生きようか。もちろん、一番いい顔で生きる。そういう顔で、ベランダを見れば、花が風に揺れてるし、猫がじ一っと私を見つめてる。今日が人生のすべてだと思うと、見るもの間くもの触れるものの全てがなんかうれしいっていうか、いとおしい気持ちに自然になっていきます。(p,106~p.107)
生きるってなんだ、死ぬってなんだ
むかし、ニワトリは恋をした。卵を産んだ。ヒナをかえした。一日中地面を突っつき返して、虫を食べた。菜っばや残りごはんも食べた。
トリ小屋は臭かった。ウンコが汚いと思った。すぐ突っつき合ってアホやと思った。あたしと違って、母はニワトリが好きだった。夕暮れ時、母はジーッと一人、ニワトリを見てることがあった。ニワトリが嫌いな者も、好きな者もいて、そしてニワトリもいた。そんな風にあたしたちは暮らしてきた。いまニワトリはコンクリートのゲージの中。ブロイラーと呼ばれる、一見ニワトリ、たぶんニワトリみたいなニワトリが、ベルトコンベア一に乗ってやってくる。もうニワトリは臭くない。汚くもない。けんかもしない。恋もしない? 地面も突っつかないし虫も食べない。こどもたちがほうり投げるパン屑を迫ってトコトコ駆けることもない。自分以外のニワトリもロクロク知らない。だから、たぶん自分がニワトリだということも知らないだろう。生キナカッタニワトリハ、死ニモシナイノダロウカ。ソレトモ彼ラハ、生キナガラ死ンデルノダロウカ。生キナガラ死ンデルニワトリヲ食べテイルアタシタチモマタ、生キナガラ死ンデクコトニナルノダロウカ……。核戦争も怖いけど、明日もあさっても「平和」で、その実一人一人が内部から変質し、崩壊していっているような、このいまの「平和」が怖い。(p.132~p.133)
いつ、どこで、どんなふうに自分の人生が終るか一切、私たちにはわからない。わかっているのは、「今生きていること」と、「今が、生きてるということの総てなのだ」といぅことだけです。確かなのは今生きているということだけ。誰も明日はわからない。いや、明日どころか、次の一瞬ですら、わからない。言ってみれば私たちは、「選べなかった自分」を生きていくしかない者たちです。思えば、うちの猫もおたくの犬も縁の下の虫も五月蝿いカラスも、生きものはすべてその点では同じ。「なぜか生まれていて、そして、いつか死ぬ」という事しかわからない。あらゆるいのちがそうなのです。そんなこと、わかりきったことではないか……と思われる方がいるかも知れない。では聞きますが、これほど普遍性のあることつて他にあるでしょうか。いのちという観点から見たら、生きものはみな、たまたまそういういのちとして生まれたにすぎず、そんな 「選べなかった自分」を、嫌もおうもなく生きていくしかない者として、私たちはある。そういう意味であなたと私は横一列。女も男も、子どもも大人も、若者も年配者も、障がいを持っている人も持たない者も、猫、犬、虫やカラスも、みな横一列のいのちなのです。それゆえ、あなたは私だったかも知れない、私はあなただったかも知れない……という世界に、人はむろん、すべての生きものは生きているのです。(p.235~p.236)
タイトルがいいですね。今日生きている、明日は判らない、だからこそ今自由。

★★ 嫌なこと、全部やめても生きられる プロ奢ラレヤー
昨年末に読んだ、「レンタルなんもしない人のなんもしなかった話」でこの著者のことを知りました。この二人は現代日本が産んだ不思議な若者と言えるでしょう。本にある著者紹介には以下のように書いてあります。
プロ奢ラレヤー
本名、中島太一。22歳、年収1000万円の奢られ屋。「他人のカネで生きていく」をモットーにツイッターを介して出会ったさまざまな人に「奢られる」という活動をし、わずか6か月でフォロワー2万人を獲得。現在、フォロワー約9万人。奢ってくれた人々との邂逅を綴った「奢ログ」を含んだ日々の考察を有料 note 「プロ奢ラレヤーのツイッターでは言えない話。」として配信中。好きなものは猫とペンギンと下駄とサウナ。嫌いなものは靴下と、決められたスケジュールに従うこと。
奢る(奢られる)のは食事のようです。どんな人が奢りに来るのか・・
さて、僕の「本業」は「奢られ」である。ツイッターで奢ってくれる人を随時募集しているが、僕に奢ることができるのは、次の条件のうちどれか1つでも当てはまった人だ。・(ツイッターの)フォロワー5000人以上・面白い前科あり・博士課程卒 or 在籍・レアな職業(人口5万人以下くらい)・知り合いに話せない秘密がある・誰にも負けない好きなものがある・僕に2万円払うDMをくれた人と話をして、面白そうだなと思ったら合う。なぜ、こうした条件を提示するのか? そのほうが面白い話を効率よく聞けるからだ。奢りに来る人は、実にさまざまだ。漫画家、インフルエンサー、五輪代表、世界チャンピオンなどの超有名人から、裏社会の人、障害を持つ人、外国人まで各界各層まんべんなくいる。毎日毎日、社会の縮図を見ているようで楽しくて仕方ない。流入経路もツイツターだけでなく、人づてに聞いたり、まったく関係ないことがきっかけだったリする。(p.98~p.99)
本当なのかと思ってしまう。著者の服装がユニーク、以下のように書いている。本には写真あり。
僕は365日ほとんど同じ洋服を着て、同じニット帽を被っています。もちろん同じものをずっと着ているのではなく、まったく同じ衣服を7着持っていて日々ローテーションしてます。靴下を履くのが苦手なので基本的に足元は下駄。それ以外のものを履くってことはまずありません。冬は寒ければ国外逃亡するので問題ないです。(p.79~p.80)
本の内容は人生訓(生き方)に関してがほとんどと言っていいでしょう。まともなことをいっているようで、ズレているようで、何処かで聞いたことがあるようだったり、嘘だろうというようなこともあったり、例えば・・
彼は某空港でひたすらパスポートのチェックをしている。あの入国審査をする人だ。1日あたり500~600件ほどのパスポート確認を、朝10時から翌朝10時まで、ほぼぶっ続けで行う。その間、座りっばなしの24時間労働。想像するだけで気分が悪くなりそうだ。(p.103) こんなことがある?
あとがきには・・
最後に。ここでちょっとしたカミングアウトなのですが、実はこの本、僕はほとんど書いていません。「まえがき」と、この「あとがき」だけは僕が書きました。「ちょっと本みたいに長い文章は書くの疲れそうだし、嫌だなあ」と思ったので本を書くのもやめてみました。やめちゃった。テヘ。もちろん、僕の考えがまとめてあるのは本当です。でも、書いたのは別のライターさん。内容を話したのはもちろん、僕です。だから実質、僕の文章。この本のタイトルどおり「嫌なこと、全部やめても生きられる」ということで、許してください。ほら! 見たか! 嫌なこと全部やめても生きられただろ!(適当) (p.222)
レンタルなんもしない人、と似ています。この先どうなるのか、5年後、10年後・・・ そんな先はないかな?

★★★ 赤松利市
赤松利市、四冊目。またまた趣向がガラッと変わって、ホモ・セクシュアリティの話。60過ぎ(さくら)と20代前半(沙希)のゲイが主人公。大阪の座裏(新歌舞伎座裏)で泡盛に特化した店をやっている。そこに、さくらの昔の男がやって来て騒動が勃発。相変わらず、読ませる文章、ストーリーはすごい。ただ、話が話だけに独特な言葉が沢山出てきて面食らった。セックスの描写も過激で、半ば暴力行為である。私には拒絶反応はないが、気持ちのいいものではない。途中で過去のことが挿入され、人物の生き様が浮かび上がり、うまいと思った。舞台は西の方へ移動し、紆余曲折、多少ご都合主義的な展開もあるが、よく練られた流れになている。終わり方もよし。面白いとは思うが、一般の健全な生活をしている人にはお薦めできない、でしょう。

★★ 「承認欲求」の呪縛 太田肇
著者は、これまで承認や承認欲求について、そのポジティブな面を取り上げてきたが、次第にネガティブな面が気になり始め、この本を書いたそうです。読んでいて、ネガティブな面の例がパターン化されていて、何か現実的なものとは感じられませんでした。著者は呪縛を以下のように定義しています。
「認知された期待」「自己効力感」「問題の重要性」を呪縛の三要素と呼ぶことができる。定式化すると、(認知された期待-自己効力感)×問題の重要性=プレッシャーの大きさ、すなわち「承認欲求の呪縛」の強さである。(p.127)
呪縛の例として出されているものも、無理矢理承認欲求に結びつけられている印象です。解決策は見事なのですが、果たして実現可能なのか、机上の空論に思われます。
いろいろ文句を言いましたが、読んでいてスンナリ頭に入ります。それだからこそ、面白いと思いつつ、何か全面的に没入できない気持ちになりました。もっと論理的に反論できればいいのですが、私にはその力がありません。

★★★★ 看取り先生の遺言 奥野修司
副題、がんで安らかな最期を迎えるために。
著者はジャーナリスト。タイトルの、看取り先生、岡部健医師、がこの本の主役である。外科医だったが思う所があり在宅緩和ケアに方向転換。そして自らが胃がんになり、肝臓に転移。岡部医師の体験と知識は貴重なものということで、著者がインタビューをして、この本になったという次第。大部分は岡部医師の語りで、所々に著者の補足説明のようなものが入る。2013年1月に出版された本なので、内容的には古いものがあるかもしれないが、岡部医師の主張にはとても説得力がある。
(緩和ケアは)痛みをとる治療や心のケアや、生きることばかりで、死にゆく人の道しるべがない。見送る先があってこそ媛和ケアなのに、闇に降りていく道しるべを示せなければ、本当の意味の緩和ケアなどできないのではないか。なぜ死に至るときの道しるべがないのかと考えたとき、これが数百年前なら、こうすれば楽にあの世に逝けますよといった、死にゆく人の道しるべばかりだったことに気づいた。その道しるべの役割を果たしていたのが宗教である。それが近代社会になって、生きる手だては解析できるから情報として提示したが、死ぬための方法など観察しても検証できないとして切り棄てたのである。(p.51)
緩和ケアのあり方は確かにそうだろう。しかし、道しるべ、ならいいが、宗教、となると・・・
抗がん剤自体に発がん性があるのに、そのことが最近まであまり意識されてこなかった。たとえば健常者に、予防のために抗がん剤を打ちましょうと言わないのは、抗がん剤には遺伝子毒性があり、投与すれば必ず悪さをするからである。私と一緒にがんを手掛けてきた同僚は両手で数えられないほど亡くなったが、ほとんど“がん死”である。がんの治療医だから、抗がん剤を吸い込んだのだろう。(p.68) 抗癌剤は毒!
患者さんはがんになったら、必ずがんで死ぬと思っているが、実は三分の一は感染症で死んでいる(アメリカ癌学会は、がん患者の四九%はがん以外で死亡していると発表している)のである。とすれば、ストレスをかけるかかけないかで予後に対する影響が変わってきてもおかしくない。がんと穏やかにつきあっていると長生きする可能性があるというのは、あながち嘘ではないのである。(p.84~p.85) がん患者は必ずしもがんで死ぬわけではないようです。
肺がんの専門医であった岡部医師は、「治せないがん患者の専門医になろう」と、一九九七年に宮城県立がんセンターの医長から在宅医に転じたが、病院ではあまり見られなかった現象が、在宅では日常茶飯事に起こつていることに気づいた。死に臨んで、すでに亡くなっている人物や、通常見ることのできない事物を見る「お迎え」体験もそうだ。しかし、国民の八割ちかくが死亡する病院では、非合理的な「お迎え」現象は、今も幻覚を伴った「せん妄」として処置されているという。岡部医師は、お迎えがせん妄によるものかどうかを論じるよりも、「お迎え」を体験した患者がほぼ例外なく穏やかな最期を迎えることに着目してきた。それゆえ「緩和ケアの最終的なテーマは、どれくらいお迎えが来て、いかに穏やかに看取ったかなんだから、お迎え率が大切なんだ」と、二〇〇二年から三度にわたって、遺族を対象に「お迎え」体験の調査をしている。<略>その結果、実に四二・三%の人が「そういうことがあった」と答えている。三次調査では、調査範囲を宮城県南部から福島県に広げたが、四一・八%とほぼ同水準だった。(p.174~p.175)
「お迎え」とは、心の持ち方、精神の安定、と考えてもいいのかな。
二〇〇八年の『日本人の国民性調査』では、二十代の五〇%弱があの世を信じている。遺族調査で「お迎え」があったと答えた遺族が四割以上だったのも、このあたりとつながっているように思う。あの表(百九十六頁)では、あの世を信じていながら、<信仰・信心を持っている>層がわずか一三%になっているが、これは宗教心を持っているのに、宗派を信じていない、つまり、既存宗教に共感できないだけなのだ。宗派を信じていないが、祖霊神は信仰しているから、お盆になると、国民の祝祭日でもないのに会社まで休んで、まるで民族大移動のごとく墓参りに行くのである。「日本人は無宗教」というのは一神教の視点から言っているのであって、日本人は無宗教どころか、祖霊信仰という宗教心は非常に篤いのである。かつて、自宅での看取りが可能だったのは、ごく普通の人の中に宗教心が息づいていたからだろう。ところが病院死によって、こうした宗教心を覆い隠してしまった。無宗教といいつつ、ほとんどの人が潜在的な宗教心を持っているなら、そのあたりを依(よ)り代(しろ)にしてケアしていけば、少なくとも看取る家族の気持ちを穏やかにできるのではないだろうか。(p.225~p.226)
一神教の視点から見ると、日本人は無宗教、まさにそうだと思います。アニミズム。
人間は必ず死ぬ。死亡率一〇〇%の生き物である。だから、ほんの数十年前までは、死を迎える価値観があった。ところが、今は衰退して、生き続けるだけの価値観になってしまった。「食べられなくなったら、死を迎えるための準備に入ったんだよね」という価値観が共有されていたら、胃ろうを入れるという選択肢にならない。食べられないのは病気だという価値観しかないから、胃ろうという選択肢が生まれるのである。ある意味で、胃ろうは自然死を支える手だてを放棄した結果ともいえる。私が在宅を始めた頃だったが、認知症で徘徊している人を見て、あるお母さんが 「神様に近くなった人だからね」と、子供に諭していた。いい言葉だなあと思う。もっとも穏やかに死んでいくには、内臓障害がなくて、意識障害が先に進行してくれるのがベストなのだから、そう考えれば、認知症は神様が与えてくれた穏やかな終末期ともいえる。神様に近くなった人に、まさか胃ろうを入れようと思わないだろう。(p.230~p.231) 少しでも長く生き続けることが重要視され、死は悪いことになった、これが問題?
いろいろなことを考えさせられる本でした。生について、死について、もう少し考えようと思います。

★★ 絶対に休めない医師がやっている最強の体調管理 大谷義夫
タイトル通りの本。ただ、「絶対に休めない」はそうなのか? 私は「絶対」という言葉が嫌いです。「最強」もどうなのでしょう。
確かに徹底してやっているのは判ります。しかし、普通の人はそこまで出来ないと思います。私の歳を考えると、今更こんなことをやる必要もないと思いますが、医者がどんなことをやっているのかチョット興味があったので読んでみました。
体調管理には大きく三つの柱があります。
1.体調を崩す最大の原因である風邪・インフルエンザを予防する
2.食事など生活習慣を整えて「体調を崩さない基礎体力」をちける
3.睡眠不足や運動不足など「不調のトリガー」を取り除く
(p.6)
で、第一章は風邪の予防。聞いたことのある内容ですが、やり方が徹底してます。①正しいサイズのマスクを選ぶ②マスクをつける前に手を洗う③つけ外しはゴム紐の部分を持って④「使い捨て」を徹底する (p.37~p.40) 
著者は診察のある日には一日20枚、診察のない日は4枚以上使っているそうです。
第二章は「風邪による体調不良はどれだけ早く治せる」。著者も言っているが、風邪はそのうち治る。まあ医者はそんな訳にはいかないのでしょう。第三章は生活習慣について。著者の24時間を公開。印象的だったのは、朝の舌出し体操(私の父親もやってました)、朝食はヨーグルトにリンゴ、バナナを混ぜて(リンゴは皮付き)、昼休みに15分の昼寝と10分の散歩、夕食にトマトを加熱して食べる。第四章は食事術。ここでも、リンゴ、バナナ、ヨーグルトが推奨されています。コーヒーは一日3杯。
日頃から話しいていることを本にしたという感じ。内容そのものよりはその実践法に主眼がありそうですが、一般人には実行は難しく(少なくとも私には)、そこまでやる必要があるのかと思いました。もう一つ、風邪とそれ絡みのことだけではなく、もっといろいろな病気についても書いてあればいい、というか、それを期待していたのですが。

府中三億円事件を計画・実行したのは私です。 白田
タイトルに騙されて読みました。どんな衝撃的なことが書いてあるのか、期待したのですが、この意味ではハズレ。三億円事件については何の説明にもなっていません。内容的には恋愛小説といえるでしょう。それもチョット有り得ないような。ただ、文章が上手いわけではないのですが、読みやすく、文字数も少なく、スルスルと最後まで行きました。著者については何も判りませんが、事件当時学生ではなかったと思われます。あの時代が全く判っていません。
奥付に、それも最後に小さな文字で、「この作品は、フィクションです。」と書いてあります!?!

★★★ この星は、私の星じゃない 田中美津
著者は70年代初めのウーマンリブを牽引した人。82年には、鍼灸師となり治療院を開設、現在に至る。この本は、著者がこれまでに雑誌などに書いてきたものを加筆修正して集めたもの。
この本を読んで、ボンヤリとイメージしていた田中美津がとても真摯に人生を歩んできたということが判った。表面だけみていると誤解の恐れはあるが、一本芯の通った生き様だと思う。それはこの本に収められている対談で見えてくる。聞き手は三人、千田有紀、北原みのり、上野千鶴子。前の二人はよく知らない人、聞き手というよりは、かなり自分の意見を述べていて(特に千田)、その観念的なことに対して、著者は経験に基づく考えを的確に述べている。上野千鶴子は流石だと思った。質問が的確で、上手く答えを引き出している。ここの部分で著者の人物像が浮かび上がる。最後は、伊藤比呂美との往復書簡。赤裸々な内容で面白いのだが、要約引用不可能。対談も往復書簡も、同じような思想を持った者同士の馴れ合い的なものではなく、緊迫感があっていい。
昔読んだウォール・ストリート・ジャーナルにすごくショッキングな記事が出ていてね、全世界で稼働している四〇〇以上の原発のうち、中程度以上の地震危険地帯に設置されている原発は五六基ある。そのうち海岸から一マイル(一・六一キロ)未満で地震にも津波にも弱い原発は三九基で、な、なんとそのうちの三五基が日本にある原発なんだって! (p.27)
女性問題に限らず、すべての差別問題、社会問題は、生まれた時に決まってしまうさまざまな格差をほとんど不問に付したところで論じられていく。同じ障害を持って生まれても、貧乏と金持ちでは、美人と不美人では生きる重さが違うのに。社会的差別からは不問に付されてる運命というしかない動かし難い不条理。それが重くって、フェミニズムなどの社会的な活動に近づけない人って、実はた~くさんいるんじゃないの? (p.32~p.32)
「この星は、私の星ではない」という映画が昨年公開された。残念ながら、広島では未公開。
「明日は生きてないかもしれない…という自由 」という本も読む予定。

読書中 神々の沈黙 ジュリアン・ジェインズ
副題、意識の誕生と文明の興亡。600ページ近い大冊、いつ読破できるか。