読書中断中 神々の沈黙 ジュリアン・ジェインズ
副題、意識の誕生と文明の興亡。600ページ近い大冊、いつ読破できるか。

読書中 熱狂のお好み焼き 快食.COM シャオヘイ

読書中 ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと     奥野克巳

★★★ うずまき猫のみつけかた 村上春樹
この本を読んだ理由は、ランゲルハンス島の午後、と同じ。小確幸がどんな文脈で使われているかを確認する為。
生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。そしてそういった「小確幸」のない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。(p.118)
とくにのんぴりと散歩がてら近所のパン屋に買い物に行って、ついでにそこでちょっとコーヒーを飲みながら(アメリカのベイカリ一には椅子が置いてあって、そこでコーヒーの飲めるところが多い)焼きたての温かいパンを手でちぎってかりかりと囓るのは、僕にとっての「小確幸」のひとつである。(p.157)
もう一箇所あったような気もするが…
満足しました。そしてこの本は全部読みました。面白い。村上春樹は才能があると思う。いや、努力なのかな。一つ気になったのが、形容詞にですをつける文章が多いこと。特に、
テキサス州オースティンに行く。
アルマジロと
ニクソンの死

で目立った。今では、認められていると広辞苑にも書いてあります。でも、私は変だと思う。
一つビックリしたのが、村上春樹が、中華料理アレルギーだということ。中国旅行で大変苦労したそうです、そうでしょう。

★★★ 檸檬 梶井基次郎
先日読んだ『京都人だけが食べている』という本で、ぼろくそに書かれていた『檸檬』、そんなことはないだろうと、何十年振りかに読んでみました。それも何回も。結果、この作品は傑作だと思います、私にとっては。昔の文章ですが、流れるように読みやすい。主人公の気持ちにより添うことが出来る。読んだあとに何かしらスッキリした気持ちが残る。要は、主人公のような体験があるかないかで、作品の評価が変わるのではないでしょうか。
短編を集めた本ですが、この作品以外は読みませんでした。

★★ ランゲルハンス島の午後 村上春樹
村上春樹の本はほとんど読みました。切っ掛けは30年以上前、職場の同僚に彼の大ファンがいたことです。それまでに出ていた本を貸してもらって読みました。気に入って、その後のものにも挑戦し、読んでいないものはほとんどないと思います。この本も以前読んだはずです。今何故読み返したかというと、以下の小確幸という言葉がどのように使われたかという確認。
引出しの中にきちんと折ってくるくる丸められた椅麗なパンツが沢山詰まっているというのは人生における小さくはあるが確固とした幸せのひとつ(略して小確幸)ではないかと思うのだが、これはあるいは僕だけの特殊な考え方かもしれない。(p.77)
村上春樹はこの言葉を広辞苑に載せたかったそうです。もうちょっと無理かな。このような意味の言葉がないのであったらいいと思うが、音と字面がこなれていないと思います。何かいい言葉があればいいのですが・・
結局全部読みました。村上春樹は長編と長編の間にこのような軽いものを書く傾向にあると思います。エスプリの効いた文章で、ちょっとした発見があり、楽しく気楽に読める作品です。

★★ 生理ちゃん 小山健
この本を読もうと思った切っ掛けが思い出せない。手に取ってみると、ちょっと想像していたものとは違う。読むのをやめようかとも思ったが、マンガですぐ読めそうなので取り敢えず取り掛かった。生理を「生理ちゃん」というキャラクターに擬人化し、生理にまつわる諸々をユーモラスに描いている。10の話があり、一番面白かったのは、『おばあちゃんと生理ちゃん』、日本に於けるアンネナプキン誕生の話。もう一つ、『女子高生と生理ちゃん』、大林宣彦の転校生みたいに男女が入れ替わる話。女には「生理ちゃん」がつきまとっているが、男には「性欲くん」と「童貞くん」がつきまとっている。男女それぞれがお互いの苦労を知るという、まあ、男の著者ならではの展開なのかな。続編も出ているようで、映画化もされるとのこと。あんまりヒットするとは思えないけど。

★★★ 「死」とは何か シェリー・ケーガン
タイトルの下に、イェール大学で23年連続の人気講座、と書いてあります。大学での講座を本にしたものです。マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』、も講義をもとにしたものでした。このような本は作りやすいのかな。
今年の3月に市の図書館に予約しました。86番目、今やっと41番目になっています。ではどうやって手元に来たのか・・県立図書館で借りました。ひょっとしてと思い調べてみると、普通新しい本は入れないのに、あったのです。貸出中でしたが、予約はなし、暫くして借りることが出来ました。明日返却しますが、現在予約は1名。一方、3冊保有の市の図書館は予約が122名になっています。みなさん、県立図書館に行くことをお勧めします。貸出期間は、二週間ではなく、三週間。遠くて不便という人には、市の図書館に回してくれるというサービスもあります。
さて、本書は哲学書です。400ページ近くあります。まず、第1講のあとの「日本の読者のみなさんへ」の一部を読んで下さい。
私はみなさんが読み終えたばかりの先の講で、本書の前半では形而上学的な問題、すなわち魂の存在や死の本質、死後も存在し続けることにまつわる疑問について考えると書いた。そして、本書の後半でようやく価値の問題に目を向けるとも述べた。価値の問題というのは、死はなぜ、どのように悪いのか、死を恐れるべきなのか、仮に死なずに済むとすればそれは望ましいことなのか、はたして自殺が許されるときがあるのか、といったものだ。本書のもともとの完全版では、まさにそうなっている。だが、今みなさんが読んでいる版(この日本語訳)は縮約版で、前半のはとんどを飛ばして、さっさと後半に進む。つまり、形而上学的な詳しい考察のほとんどを省き、倫理と価値にかかわる問題――死の悪い点や、人生の価値と不死についてのさまざまな見方、必ず死ぬという運命を認めたときに私たちはどのように生き方を変えるべきか、にまつわる疑問――に的を絞るということだ。(p.24)
なんと本書は原書のかなりの部分が割愛されたものなのです。それを補う為、ここのパートに要領よくそのエッセンスが書かれています。上の引用部分でこの本のポイントが判り、これらについての丁寧な考察が本書の具体的な内容なのです。まさに哲学的な考察で、様々な可能性について綿密な論考が繰り広げられています。そこまで考えるのかとしばしば驚きました。
昔父の本棚にあった『哲学入門』(多分、野田又夫著)を読んだことを思い出しました。最初に、二匹の蛇が互いにその尾を食べたらどうなるか、ということに関して種々書いてあり、驚いた記憶があります。
ということで、考察部分は面白いのですが、引用しづらいので結論的なものを。
魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。/そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない。(p.373) 太字は傍点部分
私たちがあまりに早く死んでしまう可能性が高いことはたしかに悲しみうるが、私たちがこれまで生きてきたのはまさに信じられないほど幸運であることに気づけば、その悲しみの感情は相殺されてしかるべきかもしれない。同時に、生きてこられたのは幸運だったと気づいても、生き続けるほうが必ず幸せだということにはならない。残念ながら、生きているほうが良いとは、もう言えなくなる時を迎える人もいる。そしてそうなったら、人生は何が何でも、いかなる状況下でもしがみついていなければならないものだとは言えない。手放すべき時が来るかもしれない。だから、私は本書を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように読者のみなさんを、促してきた。だがそれ以上に、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うよう促してきたのだ。本書を通して、みなさんがそれぞれ死と向かい合ってくれたなら、私にとって幸せなことである。そして、日本語版では割愛せざるをえなかった原書の前半部分も、いつかオリジナルに近い形でお伝えできることを願ってやまない。(p.374)
色々考えさせられました。著者のスタンスは私とほぼ同じだと思います。

★★★★ 金閣寺の燃やし方 酒井順子
1950年、21歳の修行僧(林養賢)の放火によって金閣寺が焼失。この事件をもとに、その時25歳だった三島由紀夫は1956年「金閣寺」を、一方、その時31歳だった水上勉は1963年「五番町夕霧楼」を発表。水上は1979年「金閣炎上」というほぼ事実だけを追った本も出版している。この三人を考察したのが「金閣寺の燃やし方」である。穏やかならざるタイトルだが、二人の作家が如何にして修行僧が金閣寺放火に至ったかを描写しているのだから、まあいいのだろう。著者は三島のファンだったそうだが、この本が進むにつれて、水上よりに変わっているように感じる。徹底的に二人の作家を比較して、見事な分析だと思う。チョットした作家論になっている。林養賢についてもかなり突っ込んで調べていて、水上と共通する点(二人は会ったことがあるそうだ)、この二人と三島との対比が面白い。
「金閣炎上」についてのあるインタビューにおいては、「三島さんは、自己の美学確立の為に渾身の力をふりしぼる人でしたから、事件後いくらも経たぬうちに自分の美学にデフォルメして三島さん流の小僧をつくりあげたと思います」「評論家や学者さんがいろいろおっしゃったけど、ぼくは同じ貧困な若狭から出た者として、こうだったんではないか、という思いをさし出してみたわけです。同期には発狂した小僧もいましてね。小さいものは、あの時代ずいぶん苦しんだと思います」とし、また三島「金閣寺」については、「お寺の長い廊下をふく、ぞうきんの冷たさだけだと思った。ぞうきんにはにおいもある。そのにおいを私は書きたかった」とも言っているのです。(p.54~p.55)
燃える前の金閣寺を特に美しいと思っていたわけでなく、上空から見たような観念上の美の物語として「金閣寺」を書いた、三島。そして、金閣寺を見ても、「どんな人がどんな苦労をしてこれを作ったのか」と思い、下から金閣を支えていた庶民の労苦に美を見る、水上。それぞれの美意識の上に成り立つ両者の作品は、同じ事件を題材にしながらも、全く違う方向を向いた小説なのです。(p.208)
私は本書において、裏日本を体現する作家である水上勉の湿り気と、表日本しか見ようとしなかった三島由紀夫の乾き方とを比較しょうとしているわけですが、しかし三島の太陽デビューは、このように二十代後半と遅いものだったのでした。それまではずっと心身ともにひきこもり状態だったのであり、日本海の浜へと降り注ぐ夏の日差しの意外なはどの強さを思うと、太陽デビューを果たす以前の三島の精神の湿度は、もしかすると水上よりもずっと高かったのではないかと思われるのです。普通の人であれば、そろそろ〝太陽の季節″が終りとなる頃に、太陽に目覚めた三島。大人になってから罹(かか)るハシカは重篤となるように、三島も大人になってから太陽を知ったが故に、そちらの方向へと急激に進んでいきました。(p.223)
人間は誰しも、生まれた時に、命という名の一粒の飴玉を与えられているのだとしたら、水上はその飴玉の甘さがどれほど貴重なものかを知っていたからこそ、なるべく長持ちさせようと、大切に舐めていた人のように思います。その甲斐あって、彼は八十五歳まで長生きをしたのです。対して三島は、飴玉の甘さが貴重であればあるほど、ゆっくりと少しずつ舐めるということをしたくない人でした。甘い飴玉は美味しいのだけれど、飴玉が小さくなってまでねぶり続けることを彼は潔しとせず、舐め終わるまではまだたっぷりと間があるという時点において、彼は飴玉を豪快に噛み砕いてみせた。最も貴重なものは貴重品扱いせず、最も美しいものほど美しくないとする。そういった姿勢が、三島由紀夫という人をつくりました。三島も、水上同様、戦争を知っている世代です。徴兵は逃れたものの、戦争中はいつ死ぬかわからないという日々を過ごし、終戦後には妹が腸チフスで亡くなり、悲しい思いもしています。しかし三島は、水上のように「だからこの命を、できるだけ永らえよう」とは思わなかった。戦争とともに自らの命を終える覚悟をしていたのがそうならず、「なんなのだ?」という気持ちで終戦後の二十代を過ごし、そして太陽と筋肉の三十代へと入っていったのではないか。(p.232~p.233)
昔読んでほぼ忘れていた二冊だが、著者の書き方が巧妙で、二冊の内容を思い出しながら楽しく読める本でした。

★★ 赤松利市
この著者の「らんちう」を読み、とても面白かったので、1月図書館に予約。やっときました。
第一章 覚醒、第二章 始動、第三章 脱皮、第四章 白光、の四章、1本釣り漁師5人の話です。割烹料亭の女将と料理人が絡んできて、更に、漁業で一儲けしようという男女が登場、ストーリーがあらぬ方向へ進んでいきます。第三章途中までは期待通りの面白さです。その後とんでもないことになり、読ませる力はありますが、少々残酷な場面が展開、バランスが崩れます。
出だしは主人公が一人称で語り、途中三人称的な所もあり、結局は行ったり来たり、まあ一人称中心とは言えるでしょう。これがこの小説の弱点、読者が感情移入できない所だと思います。
最終的に、この本の記述が終わったあと、残された人たちがどうなるのか想像出来ません。私の読解力不足かな?
この作品はチョット期待外れでしたが、面白いことは面白い、他の作品も読んでみよう。

食の軍師6 泉昌之
漫画です。「週刊漫画ゴラク」に連載(中)。テレビドラマになったこともある。
食にこだわる中年男が主人公。自らの内部に存在する「軍師」のアドバイスに従って、食べ歩く。そしてお決まりのライバルがいる。「食」=「蜀」、蜀の軍師、ということで、諸葛孔明をモデルにしている。
この巻は、今は少なくなった大衆食堂のことを書いている。そしてそこで真っ昼間から酒を飲む、飲みながら食べる。主人公が何を目指しているのか、よく判らない。ライバルの存在理由も曖昧。ユーモア・笑いも薄っぺらい。
現在7巻まで出ている。他の巻も読もうと思っていたのだが・・・・・

★★ ニートの歩き方 pha (ファ)
2012年9月に出た本、こんな古い本を読むのは珍しいことです。著者の、がんばらない練習、というほんが図書館に無かったのでまずこれに挑戦しました。
ニートとは、Not in Education, Employment, or Training の頭文字をつなげたもの、なんとなく判ったような気になっていましたが、よくよく考えると定義するのはかなり難しいのではないでしょうか。著者も言っています:
収入があって一応自活しているので厳密なニートじやないと言われるかもしれない。でも、基本的には「できるだけ働かない」という行動原理で動いていて、何か仕事の話があっても「だるい」って言って断ることが多いし、毎日昼過ぎに起きて一日中ぼーっとネットを見たりゲームをやったりするという生活をしているので、まあニートみたいなもんだって言ってもいいんじゃないかと自分では思っている。(p.66)
多分、人生で大切なことって保坂和志の小説のような何でもない日常の時間で、大げさな夢や理想や波乱万丈なんて別に必要なくて、天気の良い日に散歩したり猫と遊んだりゆっくりごはんを食べたりする時間こそが美しくて大事なものなんじゃないかと思う。(p.127) ここで保坂和志を出すのは教養のなせる技?
何も証明書を持っていない人には原付免許(原動機付自転車免許)を取るのをお勧めする。原付免許は教習所に通う必要もなく、筆記試験を受けてその後に講習を受けるだけで、試験にさえ合格すれば一目で取れる。かかる金額も一万円ちょっとだ。実際に原付に乗らなくても、免許証があるだけで結構便利だ。(p.185) これには成る程と思いました、が今はマイナンバーもあります。
ゲーム風に言うと「人生は初期設定によって難易度がイージーかペリーハードかが違いすぎるクソゲーなんじゃないの」ということだ。良いパラメータが出るまで何回もリセットするとかもできないし。(p.209~p.210) 今風の表現、面白い。
そもそも変なところは、「働かざる者食うべからず」という言葉で批判されるのは貧乏人の怠け者ばかりで、もともと金持ちだから働かなくても生きていけるという人はあまり批判されないことだ。お金持ちの人に対しては「そういう人は特別だから仕方ない」とでもいうかのように見えないふりをしながら、「人間は(=我々「普通」の一般庶民は)勤勉に働くべきだ」とか言う人が多いんだけど、そういうのを見ると「貧乏人同士が足の引っ張り合いをしてもしようがないだろう」と思ってしまう。だるい。(p.231~p.232)
著者独自の見解ではないと思われる言説が結構見られる。また、繰り返しが多い。
なんだかんだ言っても、世の中のニートの数って一定だ。新しくニートになる人もいるけどニートを辞めて働き始めたり死んだりする人もいて、全体としては大体一定の割合を保っている。別にニートに限らない。世の中の仕事大好き人間の数も、就職括動を頑張る意識の高い大学生の数も、中学や高校や大学に馴染めず中退する人の数も、うつ病の人の数も精神病院に入院する人の数も、毎年少しずつ変わりつつもそんなに急激に変動はしない。社会は全体としてそういうバランスが自動的に取れるようになっている。(p.246~p,247) このような統計的なものには主点が必要、特に前半の根拠は?
そもそもみんな生まれたときはニートだし、死ぬときも大体ニートだ。人間は、人生の最初と最後を除いた真ん中の一部分を働いているにすぎない。家族の中に赤ん坊や老人など働いていない人がいるときは、働いている人がそれを支えている。コミュニティの中に一定数ニートがいることは自然で健全なことだ。(p.279~p280)
部分的に正しいことを言ってはいるが、全体的に一貫していなくて、説得力に欠ける、と思う。ちゃんと説明することはできないが。人間が社会的な生き物だと言うことが考慮されていないのではないか。

★★★ 緩和ケア医が、がんになって 大橋洋平
タイトル通りの本である。ただ、著者の癌は、消化管間質腫瘍(ジスト)、10万人に1人発症の稀な悪性腫瘍とのこと。素人にはどのようなものかは判らないが、治療経過を読んでいると相当に酷そうである。2018年6月発病、10日後ぐらいに手術、2019年4月肝臓に転移していることが判明。現在治療中(だと思います)。医者が癌患者になって、双方の立場から書いているのが興味深い。特に緩和ケア医なので、言っていることに説得力がある。著者独自も問題もあり、また特殊な癌でもあることから、一般化することは難しいだろう。しかし、このような病気で治療していることを公にして、事細かに本にしたことは世の人の役に立つと思う。名言が多数散りばめられているが、引用していると切りがないので、興味のある人は本を読んで下さい。
そもそも余命は真実なのか。そう、余命は真実ではない。予測、推測に過ぎない。あくまでも見通しだ。それに対して、患者の病名ががんであるか否かは真実だ。よって、病名と余命は次元の異なるものだと捉えている。もっともどうしても余命を知りたい、真実でなくても知りたいと願う患者にどう対処するのかは、また別の話だ。(p.98)
仮に「余命半年」と考えたとしよう。すると、私の生きる時間は今日、明日、明後日(あさつて)と進むにつれて、1日、また1日と減っていく勘定になる。いわゆる引き算だ。人にとって、減っていくものはあまり嬉しくない。借金を除いては。そこで、私はこう考えた。余命に意識を向けるのではなく、今日から過ごせた日を数えて生きていこうと。引き算ではなく、足し算で。そうすれば今日、明日、明後日と過ごすにつれて、その日は1日、また1日と増えていく。増えていくことは、私にとってとても嬉しい。言わずもがな、貯金もしかり。(p.181)

★★★ 京都人だけが食べている 入江敦彦
著者はよく判らん人ですが、一応エッセイストのようです。『京都人だけが知っている:』というようなシリーズを出していて、この本も似たようなものなのでしょう。ロンドン在住とのこと。このようなことは一切知らず、県立図書館の目立つ棚に展示してあり、面白そうなので借りました。タイトルが示すとおり、京都の食べ物についての本です。以下が目次です。
まえがきにかえて 草喰(そうじき)なかひがし 三分の一の煩悩
ちらし寿司 
質素道楽福耳 幸せの愉しみ方柚子味噌 パッケージのかほり天下一品 パラサイ・ラーメンカツサンド 狭まれた宇宙すぐき おつけもの行儀幽霊子育飴 虚構キャラメルすきやき ジュネーヴで鍋を麩もち 吉野太夫かくありなん青葉 73点きざみきつね アンカレジの想ひ出ほうじ茶 鹿の子怖いナッツのタルト ジャニーズ・スウィート紫竹納豆 Shall we eat, Miss Havisham?きぬごし 不死の妙薬はったい粉 どきどきの味覚吉加寿お好み 奇跡の高城さんグレープフルーツゼリー ご馳走に花束を六味 辛口のケチ猪(しし)肉 真紅なる牡丹に祈りを仕出し弁当 愛はいらない玉締しぼり胡麻油 桃源郷の記憶鱧(はも)の照り焼き 鰻の鱗酵母原液 コーソトオミズあげカレー井 植物性牛肉開運桜 黒塚切干大根 京美人の条件春巻 一線を越えた海老大学いも 京おんなに捧ぐおやつ昆布 僕の西陣へおいでたこ焼き 京都式行列の法則フルーツパフェ 京都の下には檸檬が埋まっているだし巻き ほろほろぶぶづれ カサノヴァ茶漬け豆餅 つきたてのエロティカ
あとがきにかえて 抹茶あずきキャンデー 
美味しいクーデター あるいは、すべて京都になる日まで
最初の「まえがきにかえて」が6ページ、最後の「あとがきにかえて」が5ページ、他はすべて4ページです。1ページは写真とその説明、文章は3ページ。この文が面白い。取り上げている食べ物の説明、というか、食べ物そのものではなく、それに絡んだ話が多いような。自分のことや家族(特に母親)のこと、などもあからさまに書いています。京都の独自性の説明も面白く、ものの見方が斜に構えているような感じです。
すきやき ジュネーヴで鍋を (p.44) 鍋物を食べるという行為は一連託生というか、運命共同体というか、全員が同じ味つけ、同じコンディションのものを受け入れざるを得ない状況を前提としている。生まれも育ちも違う複数の人間が、各々の嗜好を忘れなければこの食事は成立しない。「鍋を囲む」というのは幸せな響きのある言葉だが、そういう意味で鍋のある食卓は一歩間違えればところてんよろしく戦場と化しもする。
鱧(はも)の照り焼き 鰻の鱗 (p.105) 京都人は不幸だ。「魚は新鮮(トレトレ)を刺身で喰うのがイチバンでいっ!」という単純な固定観念(トリアタマ)で幸せに生きている人々に比べたら。けれど寿司だって、ただの"技術"ではなく、かつてはひと手間加えたちゃんとした"料理"だったんだけどな。生も美味しい、調理したものも美味しい、凝ったソースで食べるのも美味しい。なんでみんな「究極」なんかにこだわるのだろう。そんなん、つまらやん、と、京都人は不思議に思う。おとしも美味しい、てりやきも美味しい、皮だってやっぱり美味しい鱧を頬ばりながら私は首を傾げる。京都人は貪欲だ。鰻の鱗を食べてしまうくらい貧欲だ。究極を知らない不幸を楽しんでいる。
あげカレー井 植物性牛肉> (p.112) 思えば、たった二〇数年前まで日本人は本当に狭い味覚しか持っていなかった。大人も子供も。いろいろ話を聴いていると、戦勝国であるイギリスヤフランスですら似たようなもので、戦後、人々はひたすら工夫のない料理を食べていたという。バリエーションはあっても発展性がなかった。京都にカレー用角切り豚肉が登場し、英国人が伝統料理からインド系移民の作る本場のカレーに乗り換え、フランスにカレー粉を含めエキゾティックな素材を積極的に取り入れるという発想を有したヌーベル・キュイジーヌが起った七〇年代半ばというのは世界的に〝食″の転換期だったのかもしれない。
フルーツパフェ 京都の下には檸檬が埋まっている フルーツパフェなのに何故か、まず始めに、梶井基次郎、が出てくる。ぼろくそである。そして話は檸檬を買った果物屋へと向かう。今も営業している。二階にフルーツパーラーがあり、美味しいフルーツパフェがあるらしい。梶井批判、京都文化評論がほとんど、フルーツパフェは付け足しのよう。
37の店が紹介されている中で、行ったことがあるのは5つ。次回京都に行く時に参考にしようと思います。
それと、梶井基次郎の『檸檬』、もう一度読んでみなければいけないでしょう。

★★★★ そのうちなんとかなるだろう 内田樹
内田樹の自伝です。ちょっと意外な感じがします。さらに、とてもオープンで、彼の人となりが判ったような気になりました。驚いた私生活は、小学校で不登校、日比谷高校中退・家出・大検受験、離婚をして6歳の女の子と12年間の父子家庭生活、など挙げたら切りがありません。それでも、タイトル通りなんとかなるという生活態度がさわやかというのか、読んでいて面白い。
いちばん閉口したのは、「寮雨」です。これは寮の2階、3階に住んでいる人たちが、窓から小便をすることです。各階にトイレがあるんだから、そつちに行けばいいと思うんだけれど、どうも駒場寮では伝統的に、上の階の寮生は窓からしなければいけないというルールがあつたようす。だから、絶対に北側の窓を開けるわけには票ない。でも、夏になると暑いから窓を閉め切るわけにはゆきません。階下で窓が開いているとわかっていても、上の階の連中はかまわず寮雨を降らせてくる。風が吹くと、室内に吹き込んでくるんですから、汚いといったらない。だから寮の北側の地面はいつも濡れていて、苔が生えてました。きっと一高時代からの年代物なんでしょう。(p.54)
すべてご縁のものです。どれも「あの~、僕でよければ、やりますけど」というあまり主体的ではない流れの中で、その後の人生を決定づけるような出来事が起きた。どれも、「はい、やります」と言ったあとに「そういえば、これがなんだか自分の天職であるような気がする」というふうに思うようになつた。ですからその様子を外から見ると「強く念じたことが実現した」というふうにも見えるし、「いるべきときに、いるぺきところにいて、なすべきことをなしている」とも見える。/そういうことではないかと僕は最近思っています。(p.98)
あらゆる仕事には、「誰の分担でもないけれど、誰かがしなければいけない仕事」というものが必ず発生します。誰の分担でもないのだから、やらずに済ますことはできます。でも、誰もそれを引き受けないと、いずれ取り返しのつかないことになる。そういう場合は、「これは本当は誰がやるべき仕事なんだ」ということについて厳密な議論をするよりは、誰かが「あ、オレがやっときます」と言って、さっさと済ませてしまえば、何も面倒なことは起こらない。家事もそうです。どう公平に分担すべきかについて長く気鬱なネゴシエーションをする暇があつたら、「あ、オレがやっときます」で済ませたほうが話が早い。(p.154)
後悔には2種類があります。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかつた後悔」です。取り返しがつかないのは「何かをしなかつた後悔」 のほうです。「してしまつたことについての悔い」は、なんだかんだ言ってもやったのはたしかに自分なんです。そのときには自分がやりたいと思って、やるべきだと思ってやったことがうまくゆかなかった。だから、それが失敗したとしても、それについては自分で責任を取るしかない。その失敗を糧にして、同じ失敗を繰り返さないようにすればいい。そうやって人間は成長してゆくんですから。でも、「しなかった後悔」には打つ手がありません。というのは、「しなかつた後悔」には後悔する主体がいないからです(青字部分傍点)。/「あのとき、ああしておけばよかった」と思うのは「あのときああしていた自分」が「本当の自分」だと思っているということです。でも、今の自分は「あのときあれをしなかった自分」です。だから、論理的に言うと、今の自分は「本当の自分」じゃないということになる。「オレは本当はこんなところにいて、こんなことをしているはずじゃない」と思っている「仮の自分」です。そういう人はその失敗を糧にすることもできないし、それを通じて人格陶冶をすることもできません。だって、今「あれしておけばよかった」と思って悔やんでいるのは本当の自分じゃない「誰か」だからです。「ああ、うんざりするぜ」という「うんざり感」だけが空中に浮遊していて、「うんざりしている主体」が存在しない。笑いだけが残って姿を消すチェシャ猫みたいなものです。後悔だけがあつて、「こんな失敗は二度と繰り返すまい」と思っている人間がいない。(p.208~p.209)
比喩が触覚的・身体的になると、論の進め方もやっばり触覚的・身体的になる。話が「にゅるにゅる」進むんです。「おや、ここに隙間があるぞ」と思ったらその隙間に入り込む。進んでゆくうちに、壁に当たつて、つかえたら、しかたなく元に戻る。そして、また「にゅるにゅる」を続ける……そういうふうにだらだらと書いています。でも、このだらだらした書き方が今の自分に一番しっくりきます。読み返してみると、まるで理路整然とはしていないし、起承転結にはほど遠いんだけれど、とにかく言葉はずっと流れていて、読みやすい。流れに身を任せていると、すらすら読める。合気道のおかげで身体感覚が研ぎ澄まされたのかもしれないし、生物として退化したのかもわかりませんが、だんだんと思考も書き方も原生動物的になつてきている感じがします。単細胞生物だつて、エサがあれば向かい、捕食者が来たら逃げる。それくらいのことは触覚的にわかる。同じことがこれほど複雑な生命体である人間にできないはずがない。でも、なかなかそれがうまくゆかないのは、人間が視覚優位だからです。/空間認知が視覚優位なので、社会構造も視覚的に設計されている。視覚ベースで制度設計されている社会の中でずつと暮らして、視覚優位で反応していると、視覚的スキームから出られなくなつてしまう。いつの問にかあらゆるものを視覚的に、空間的に表象するようになる。でも、それではとらえられないものによって世界は満たされています。例えば、視覚ベースの社会制度の中では、時間が表象できない。時間について考えるときに、ほとんどの人は時計の盤面を思い描きます。たしかに、そこには12時間が360度に分割されていて、12時間という時間が視覚的に一望されます。それは実は時間じやない。時間についての視覚像に過ぎません。(p.214~p.215)
この最後の引用部分を読んでいて、著者の文章の魅力が判ったような気がします。内容が独特で、論理展開が判りにくいようで一歩立ち止まると腑に落ちる。素晴らしいと思います。

★★★★ 進化の法則は北極のサメが知っていた 渡辺佑基
タイトルは人を惹き付ける為のもので、本書の内容を表しているとは言えない。まず、はじめにの冒頭:
冬の寒い日に鼻水が垂(た)れてくるのはなぜか。それは低温という刺激によって副腎皮質ホルモンが分泌され、鼻腔にあるホルモン受容体と結び付いて鼻水の流出が促進されるから――というのは真っ赤な嘘である。ごめんなさい。じつは話はすこぶる単純である。冬の空気は冷たくて乾燥しているが、人間の体内は温かくて湿っている。だから鼻から吸い込まれた外気は、気道を通って肺に送り込まれるうちに温められて湿気を含む。そして次に、肺の空気が呼気として体外に送り出される際は、空気は外界に近づくにつれて急激に冷やされる。空気は冷やされるほど水分を保持できなくなるので、空気に含み切れなくなつた水分が鼻の内壁に結露する。これが冬のクリーンな鼻水の正体だ(だから鼻水を垂らしたくなければ、鼻ではなく口から息を吐き出せばよく、実際にマラソン選手はそうしている)。(p.7) これは著者が生物は物理だと気づいた逸話。
第一章 冷たい――本当の極寒はニシオンデンザメしか知らない
一言で言うと、体温の話。水温0度の北極海に住むニシオンデンザメの調査研究が面白く興味深く語られる。
海の中や水辺で生活する動物ほど顕著ではないが、対向流熱交換器は人間を含む幅広い哺乳類や鳥類に見られる。人間の腕や脚においても、体幹部から末端部に出ていく方向の血管と、末端部から体幹部に戻っていく方向の血管が近接している箇所があり、そこである程度の熱の交換が行われる。冬の寒い日に手足の先が凍ったように冷たくなるのは、異常事態では決してなく、むしろ人間の体から奪われる熱量を最小限に抑えるための仕組みが作動している証拠だといえる。(p.40)
第二章 熱い――アデリーペンギンが教えてくれた南極の暮らし方
ここでも体温の話だが、如何に様々な環境で体温を維持するのかということに話が及ぶ。そしてアデリーペンギンの調査研究についてもその過酷さをユーモアを交えて書かれている。
動物の体温が維持されているとき、体外に出ていく熱量と体内で生み出される熱量とはぴたりと一致する。ということは、特別な防寒具を持たないために体外に出ていく熱量が非常に多いカワウでさえも、それを補う大量の熱を体内で発生させることができれば、体温は維持できる。支出がいくら多くても、それを打ち消す収入さえあれば貯金額は維持できる。(p.132)
第三章 ぬるい――ホオジロザメに学ぶ中間的な生き方
恒温動物と変温動物の中間的な生物の話。古生物学者、その現生しない生物についての推定方法も面白い。
生物は気の遠くなるような長い時間をかけて、ほんのわずかずつ姿かたちや行動を変え、環境に適応し、それが積み重なつて進化と呼べるほどの大きな変化を獲得する。ダーウィンの自然選択説に沿って言うのならば、よりよく環境に適応した個体がより多くの子孫を残すので、そうした個体の持つ遺伝的な形質(姿かたちや行動)が少しずつ蓄積されながら後世に伝わつていく。生物の進化は往々にして、時々の諸条件や偶然に左右されながら、くねくねと予想不可能な経緯をたどる。けれどももし、異なるグループに属する生物が独立して同じ形質を進化させたのであれば、その形質こそが環境に適応するための「最適解」であると考えていい。難解な数式を解いた複数の数学者が同-の答えにたどり着いたとき、それはおそらく正解であるのと同じように。(p.179)
第四章 激しい――イタチザメが見つけた生命エネルギーの法則
成長の話が興味深い。代謝量理論、すごい。
今回の調査の協力者であるアダムは、サメの生態を専門にしている四〇代後半の海洋生物学看である。若い頃はシドニーやロンドンの一流レストランでシェフをしていたという珍しい経歴を持っており、ダイビングが好き、サメが好きという自分の気持ちを抑え切れなくなって三〇歳を過ぎてから一念発起、研究の世界に飛び込んだらしい。スキンヘッドの強面で口が悪かったり、Tシャツの袖から青々とした入れ墨が覗いていたりするところも、研究一筋で来た優等生タイプとは違う。海外に行くと、このように異業種から方向転換してきた研究者がしばしばいて、人生に対するスタンスの違いを感じさせられる。日本の研究者は私を含め、多少の紆余曲折はあったにせよ、少なくとも経歴的には学部生の頃からストレートに来たケースがほとんどだ。それがいいことなのか悪いことなのかは、よくわからないけれど。(p.205)
動物が自らの体を成長させるためには、体内で新しい細胞をどんどん生み出さねばならず、そのためのエネルギーが消費される。いや、むしろこう言ったほうがいいかもしれない。成長という生命現象の本質は、動物が持ち前のエネルギー(代謝量)の一部を切り分け、それを日々の生命活動の維持のためではなく自分の体の拡大のために使うことである。これは企業が年間予算の一部を切り分け、それを日々の業務の切り盛りにではなく将来へ向けた事業拡大のための投資に使うことに似ている。だから動物の成長速度もつまるところ、代謝量に制限されており、代謝量を決める二つの要因――体の大きさと体温――によってその大枠が決まる。(p.258)
体の大きさと体温さえ決まれば、生物が生物として生きるペース(pace of life)が決まり、それによって生物の運動能力や生活スタイルや成長速度が決まる。進化のスピードや生態系の多様性さえ決まる。地球上で起こつている生命現象のすべてを包み込む汎用性を持った代謝量理論は、ダーウィンの自然選択理論に匹敵する意味合いを持つ、生物学の新たな金字塔だと私は信じている。(p.263~p.264)
第五章 儚(はかな)い――バイカルアザラシが語る生命時間のルール
この調査研究も過酷である。ただ、時期的には古いもので著者が若かった時のもの。
体の大きさが同じであれば、体温の高い動物ほど代謝量が高く、そのため成長速度が上がって世代時間が短くなる。そもそも成長というのは、代謝エネルギーを元にして新しい細胞や組織を作り出し、自身の体を拡大していく生命活動なのだから、つじつまは完壁に合っている。(p.303)
体重二五キロの小学生と、体重六五キロの大人を比較すると、時間の濃度は子どものほうが一・三五倍も濃い。大人の薄い時間に換算するならば、子どもは一日が三一時間、つまり七時間も余計にあるようなものである。小学生の頃は一日が長く、とりわけ予定の何も入っていない夏休みの一日など、途方もなく長く思えたものだ。それなのに、大人になってからの一日の速いこと速いこと。そこにはもちろん社会的な立場の変化もあるが、根本にあるのは、体の大きさが変化したことによる(そして成長が止まったことによる)体重一キロあたりの代謝量の変化なのである。ついでに言うと、人間は成人して以降、体重は大きく変わらなくても加齢とともに代謝量が落ちていく。二〇代の頃を基準にすると、四〇代で基礎代謝量は約一〇パーセント低下し、六〇代になると約一五パーセント減少する。代謝量が落ちるということは、まるでニシオンデンザメのように時間の濃度が減るということであり、一日、一週間、一か月という一定の時間の持つ重みが減るということである。年をとるほどに時間の流れが加速していくという、誰もがうっすらと(あるいははっきりと)感じている感覚には、このように科学的な裏付けがある。(p.309~p.310)
ニシオンデンザメ型の生き方、アデリーペンギン型の生き方、そしてホホジロザメ型の生き方。それぞれの生き方にメリットがあり、デメリットがある。しかし、一世代あたりの生産性ということになると、先ほどの計算で示されたように、すべて1になつてしまう。体重の影響も、体温の影響も、消えてしまう。省エネ(あるいは飢餓への耐性)のメリットは、成長が遅いというデメリットによってそっくり相殺される。ようするに三者の動物の生き方の違いは、薄く長く生きるか(ニシオンデンザメ)、濃く短く生きるか(アデリーペンギン)、あるいはその中間なのか(ホホジロザメ)の違いだけであって、最終的な成果に大差はない。(p.316)
内容的にも、読み物としてもうまく書けている。興味がある方は本を読んで下さい。

★★★ 無葬社会 鵜飼秀徳
タイトルに「無葬」とあるが、葬儀がなくなるのではなく、簡素化されるということだろう。私自身十年ぐらい前、父の葬儀を今で言う家族葬という形でやった。勤務先で変な顔をされたが今は逆にそれが一般的になっているのではないか。まず最初に、簡素化されている葬儀を本書から拾ってみよう。
直葬葬式をせずに、火葬だけで済ませてしまう葬送。最小限の親族だけが火葬場を訪れ、骨を拾って帰って行く。(p.12~p.13)
船上火葬炉を備えた船の上で火葬する方法。大正時代には火葬船葬鎧株式会社という企業が警視庁から認可を受けた。最大のネックは沿岸の漁師や港湾関係者の反対で、これまで実現には至っていない。(p.26)
ふるさと火葬首都圏の火葬場の混雑を避けるため、故郷に遺体を移して火葬しないか、と呼びかけている自治体もある。石川県小松市と加賀市では小松加賀環境衛生事務組合が音頭を取り、二〇一五(平成二七)年夏から「ふるさと火葬」を始めた。地元の火葬場「小松加賀斎場さざなみ」では、小松空港から車で数分という地の利を生かして、主に羽田空港経由での棺の空輸を受け入れる。 空路で首都圏から遺体を運ぶには一五万円程度のコストがかかるが、故人をずっと霊安室で待たせている、という遺族の心理的な負担が解消されるメリットもある。しかし、長距離移動の煩わしさなどの問題があり、利用者ははとんど現れていないのが実情だ。(p.26p~p.27)
遺体ホテルひと言でいえば、死後、葬式や火葬をするまで遺体を安置しておく民間施設のことだ。事情があって自宅に保管できない遺体、あるいは火葬場の不足による「待機遺体」が次々に運ばれてくる。遺体の保管場所に困った遺族が、すがる気持ちで利用してくる。(p.28) 料金は一日三四時間)当たり九〇〇〇円。訪れた日は全一一室のうち九室が埋まっていた。最近では月に二〇〇人ほどの遺体が運び込まれてくる。二〇一五(平成二七)年の稼働率は七三パーセント。一般のホテルに置き換えれば、なかなかの繁盛振りだ。(p.31)
送骨「遺棄するくらいならば、宅配便を使って寺に送ってほしい」と、宅配便で送られてくる遺骨を有料で引き取って供養するサービス。たとえば、送骨に関する情報サイト「送骨ドットコム」では、全国から送骨を受け付ける寺院の一覧が掲載されている。送骨サービスを実施している寺は、関東圏を中心に全国七〇カ寺に及ぶ。供養料は三万円から五万円のところが多い。(p.50)
様々なやり方があるのに驚く。この先本格的に多死社会になり、孤独死が増え、どんなことになるのか。
孤独死の凄惨な現場をクリーニングするビジネスに需要が集まっている。業界では「特殊清掃」と呼ばれる。(p.64)
そもそも寺院で初めて永代供養をうたったのは、比叡山延暦寺大霊園だと言われ、一九八五(昭和六〇)年に募集が始まった。同霊園では、子供のいない夫婦や独身者、墓地の継承者がいない人の増加を背景に、「あなた自身に代わって、永代にわたって比叡山延暦寺が供養する」という趣旨のもと、「久遠墓地」という名前で造成した。比叡山延暦寺は天台宗だが、この久遠墓地に限り、宗教宗派を問わないのが特徴だ。だがこの時点では、久遠墓地のような永代供養は広がりを見せなかった。(p.92)
墓という手段を使えば、人口流出を食い止められるのではないか。墓が故郷に残っていれば、そこは故郷であり続けるからだ。社会のニーズを捉えた散骨という斬新な手法で、地域再生を試みる。死後、骨は自然に還り、人は故郷に帰る。そんなモデルが隠岐で始まろうとしている。(p.129)
永代供養の考え方は、もともと江戸時代から存在している。また、先に述べたように、一九八五(昭和六〇)年、比叡山延暦寺大霊園の久遠墓地が、イエを継承しない現代人に対し、「永代に渡って供養する」というキャッチフレーズの下に販売を開始したことがきっかけで、現代における「永代供養墓」の定義ができあがった。安穏廟は、比叡山に次いで、全国で二番目に完成した永代供養墓である。(p.132)
「『葬る』という語源を知っていますか。『放(はふ)る』であるとも言われています。つまり中世の時代、庶民が死ねば、遺体は河原などに放っておかれた。その後、木などで墓標が造られることもありましたが、それもいずれは朽ちてなくなる。もっと言えば、石の墓でも、いずれは土に埋もれて、忘れ去られてしまいます。どのような形であれ、いずれ自然に還り、無線になってしまうのが、墓であり遺骨なのです。逆に言えば、墓や遺骨が世の中に残り続ける存在ならば、世界は墓で埋め尽くされてしまうでしょう。しかし同時に、人はできることなら永い時間、供養し続けてあげたい、とも思う。それが供養心というものでしょう。骨仏であれば、省スペースに安置でき、また、大勢の人に手を合わせてもらい続けることもできます。骨仏の最初は、遺骨が集まり始めて寺が置き場所に困ったから、というのが偽らざる事実ですが、骨仏事業が始まってからは、庶民の供養心に応える寺として、宗教的役割は大きくなっていきました」/骨仏の造形方法だが、まず人骨を石臼で粉末状にするところから始まる。粉末を布海苔(現在はセメント)で練り合わせ、阿弥陀如来像の鋳型に流し込んで形成するというものであった。像高は五尺(約一・五メートル)だ。(p.148~p.149)
葬儀の仲介などを手掛けるベンチャー「みんれび」(東京都新宿区)が、二〇一五(平成二七)年一二月から、「僧侶の手配サービスチケット」をアマゾンで販売し始めた。その名もずばり「お坊さん便」だ。お坊さん便は、寺や僧侶と接点がない都市部の人を主たるターゲットにしている。四十九日や一周忌、三回忌といった法要、墓回向、仏壇の魂抜きなどの際、いとも簡単に「供養が買える」のがメリットだ。決済(価格は三万五〇〇〇円から、全国一律料金)は、クレジットカードでできる。チケットを購入すれば、あとは決められた日時・場所(葬祭会場や墓地など)に手配された僧侶がやってきて、お経を唱えてもらうだけだ。(p.153)
本書の副題は、「彷徨う遺体 変わる仏教」となっている。第四章 仏教の存在意義――佐々木閑氏聞く
仏教という宗教には厳然たる定義があって、それは仏と法と僧です。仏とは「ブツダを敬う」ということ、法とは「ブツダの教えを敬う」ということ、そして僧とは「サンガをつくって修行生活をする」ということ。この三要素がそろわなければ、「仏教が導入された」とはいえないのです。聖徳太子は仏教を日本に導入したいと考えましたが、それは言い換えれば、仏・法・僧の三宝を導入するということなのです。しかし、今言ったように、サンガはまだ聖徳太子の時代には日本には存在していないわけです。朝廷は何とか本式の仏教を導入したいと思っていた。中国に向けて、「我々日本は真の仏教国だ」ということを公に示したい。ところが、そのためには仏・法・僧の三要素を全部導入しなくてはいけない。仏は仏像を輸入すればいい。これは簡単です。法はお経を持ってくればいいので、これまた簡単。いわゆる『三経義疏』の伝説が、法を導入した証明です。ところが最後のサンガ(僧)だけが、どうしても導入できなかった。一〇人以上の中国人僧侶を一挙に連れてこなければならないからです。ですから聖徳太子以降、日本にとってはサンガの導入が悲願だったのです。しかしその一方で、インドのような完全依存型の仏教を広めようなんていう思いはさらさらなかった。国家公務員としての僧侶を生み出すためのスタート地点となる、最初の一〇人が欲しかっただけなのです。(p.231~p.232)
――いまさら日本にサンガはつくれないのでしょうか?
佐々木 絶対に無理です。それはなぜかといえば、律がないという前提で鎌倉仏教が生まれてきたからです。今になって律を復興したりすれば、日本の仏教の教義が崩れてしまうのです。特に浄土真宗は、律とは水と油です。サンガとは自分の力で修行するための場ですが、浄土真宗は「自力」を完全否定していますからね。/今から日本仏教に律やサンガをつくることは不可能です。ただし律の存在は抜きにしても、釈迦の理念が別の形で実現できるならば、それはそれで立派な仏教のあり方だということかもしれません。
(p.242~p.243)
各宗派が持っている個別性はもうなくなっているということです。浄土真宗なら、本来ならば、「念仏することで極楽往生できる」と言わなくちゃいけないのですが、そう言うと社会では通用しないので、それをみんな「心の問題」に落とし込む。そのキーワードが「命」とか「心」なんです。現在の宗教界は「命」と「心」のオンパレードです。人の命も心も、安っぽくなりましたね。
――つまり「こころ教」の時代を迎えていると。
佐々木 「こころ教」がこれからの宗教の姿です。「こころ教」は、万人には受け入れられます。なぜかというと特殊性がないから。万人に受け入れられますが、その人の人生を丸ごと救う力はありません。つまり、気休め以上のものにはならない。
――では、宗教全体はますます弱体化していくのですか?
佐々木 いや、気休めとして、どんどん広がっていくのです。「一時療法」としての役割を宗教が担うようになっていく。「宗教はそういうものでいいんだ」と考える人も大勢おられますから、それはそれでまっとうなあり方と言うこともできます。
(p.263)
その一方で、原理主義もしっかりと生き残る、、と佐々木はいう。
仏教と科学は、組織的に同じ構造を持っていることが分かります。一般社会からお布施をもらう代わりに、何をリターンとして与えるかといえば、僧侶の場合なら、正しく誠実に修行をしている姿。そして科学者ならば、うそ偽りなく堅実に誠実に研究する姿ですよ。
(p.270~p.271)
最後に資料編がある。出生・死亡・寿命など、政府が予測を見誤ったものあるが、非難さるべきは対処を怠ったり間違ったりしたことだろう。火葬場の偏在にも驚いた。人々の意識調査にも意外なことが。葬儀・死に場所・墓についての考え方、六〇代が一番自由な考え方をしている。若い方が保守的なのは何故か、資料編なので分析はないが、身近なことではないのかもしれない。

★★ 空からのぞいた桃太郎 影山徹
「空からのぞいた」は、絵がまさに高いところから見たものになっているから。お話は何の解説や解釈を加えず、そのまま。最後に小さな別冊の解説が付いていて、桃太郎の「ツッコミどころ」をあげています。何故桃太郎は唐突に鬼ヶ島へ行くと言ったのか。何故イヌ・サル・キジなのか、何故きびだんごを要求したのか。鬼とは何者か、その後どうなったのか。などなど。最後に以下のようにまとめてあります。書いているのは、岩崎書店社長 岩崎夏海、です。
このように、桃太郎にはさまざま疑問、ツッコミどころが満載です。それが、多くの人に非難されてきたところでもありますが、同時に多くの人を魅了してきたところでもあるでしょう。そういう謎の多いところが、さまざまな解釈を生み、楽しまれてきたのです。そのため、この絵本『空からのぞいた桃太郎』では、そんな桃太郎をあえて良くも悪くも描いていません。ただ、「ここにはいくつもの疑問、ツッコミどころがありますよ」ということを、多くの方々にお伝えしたかっただけなのです。また、私たちはそこで生まれたさまざまな解釈や感想を、ぜひ周囲の方々とお話になり、共有していただければと望んでおります。なぜなら、先の大戦から七〇年が経過した今、「正義」や「戦争」の意味があらためて問われており、そうしたことを話し合うには桃太郎は格好の教材だと考えているからです。この絵本は、単に読んで楽しんでいただくだけでも嬉しいのですが、ぜひ多くの方々と議論するきっかけにご活用いただけたら、これ以上の喜びはありません。
難しい解説は柳田国男あたりに任せ、わざわざ議論などもせず、素直に楽しめばいいのでしょう。

★★★ サピエンス異変 ヴァイバー・クリガン=リード
原題、Primate Change:How the world we made is remaking us 霊長類の変化:我々が作った世界は我々を作り変える。邦題はどうなのか? 副題として、新たな時代「人新世」の衝撃。「人新世」とは最近始まったと考えられ始めている新しい地質年代の名称。この副題も原題ほどには内容を表してはいない。
人類誕生からの壮大な歴史を書いたものと言えるだろう。目次から文を拾うと大まかな流れが判る。
プロローグ――私たちの身体に異変が起きている
第Ⅰ部 紀元前八〇〇~紀元前三万年 すべては「足」からはじまった ヒトは「移動」で進化した
第Ⅱ部 紀元前三万年~西暦一七〇〇年 「移動」をやめた人類に何が起きたのか? 農耕が「歯」を変えた あごと虫歯の人類史
第Ⅲ部 西暦一七〇〇年~西暦一九一〇年 「椅子」が学校教育を可能にした 腰が痛い! ひたすら延びる労働時間
第Ⅳ部 西暦一九一〇年~現在 動かなくなった人類に何が起きているのか? オフィスビルの登場 産業革命の遺産「腰痛」
第Ⅴ部 未来 超人類への扉を開ける「手」

大まかに言うと、時代とともに人類は進化してきた。しかし、現代は進化するには変化が急で激しすぎる。といっても、身体は変わる、自分たちが作った環境に対する反応として。そして、だんだん身体を使わなくなっている。著者は様々なアドバイスをしている。最も強調されていることを一つ、歩く!
屋内ではドーパミンの放出が抑制される。この神経伝達物質は子どもの目の発達のために必須で、日光を浴びると活性化される。ドーパミンは昼夜が入れ替わるときに身体に起きる各種の変化にも関与している。まだ研究ははじまったばかりだが、ドーパミンは目の発達に欠かせないので、この昼夜のサイクルがはっきりしていることが必要だと考えられている。今後、日光-ドーパミン仮説の理解が進めば、日光浴が子どもたちにとってもっとも重要な近視予防薬と判明するかもしれない。(p.173~p.174)
かつて、住居の周りの景色は木々が支配していた。しかし産業革命の時代に、煙突やそこから立ちのぽる煙が経済的成功の重要なシンボルとなった。そして産業革命後の風景では、煙突が姿を消し、その代わりにもっと大きいオフィスビルが立ち並んだ。(p.195)
腰痛は身体障害の原因として世界的にもっとも重大だ。医療システムが中程度の症状を悪化させて慢性化させているのかどうか、大きく変化した労働環境が身体障害の可能性を高めているのかどうか、いまだに最終的な結論は出ていないが、どちらもおそらくはそのとおりだろう。そしてどちらについても、その真犯人は私たちが作ってきた環境である。座りっばなしの習慣が世界的に広まったのに合わせて、腰痛も世界的に拡大したというのは、けっして偶然ではない。(p.216)
私たちがほとんど身体を動かさないことにはきわめて複雑な要因があるが、環境が大きく変化してきたのは間違いない。私たちも剣歯虎(食物連鎖の頂点にいたが、更新世から完新世に移った時、環境の変化に適応できず、退化して絶滅した)のように、新たな地質年代の崖際に立っていて、完新世の日が沈むのを眺めている。私たちの身体は必要以上に複雑すぎる。これほどたくさんの関節も、これほどの移動能力も必要ない。現在私たちがこなしている仕事を行なうにはもっと単純な身体が必要だが、DNAはそのことを知らないのだ。(p.234)
人間が進化する上で手は、汗や脳の大きさと同じくらい重要な役割を果たしてきた。人間の解剖学的構造のうち多くの部分が狩猟に適応していて、手もその例外ではない。進化上もっとも重要だった役割の一つが、道具を作って使うことだが、それとともに動きの正確さを高めることも重要だった。足は地面に付いているが、手はつねに空中で開いている。他人の肌やスマートフォンに触れたくてたまらないのを我慢している。ほとんどの時間は何も気づかずに、やみくもに手探りしている。それでいて、何でもできるのだ。人間が達成したり作ったりしてきたものにはほぼすべて、手が使われた。棒を拾うことから、宇宙ステーションの船外モジュールを修理することまで、何でもこなしてきた。手という二つの器官が、もののイメージを現実に、生物学的集団を社会に、石を道具に、そして時間の流れを歴史に変えたのだ。(p.265)
ポケットに入れて持ち歩いているさまざまなテクノロジーのせいで、私たちは二三〇万年におよぷ人類史のなかでかつてなかったほど座りつばなしの生活を送っている。スマートフォン、ノートパソコン、デスクトップパソコン、インターネットは、新たな消費の可能性を開いて私たちの行動を変えただけでなく、身体やライフスタイルや寿命をも変えようとしている。これらのテクノロジーが人類という動物種を変えようとしているといっても大げさではない。人類はすでに進化の次の段階に入っている。これからも身体を手放したくないのであれば、身体をケアしてやらなければならない。身体が何を望んでいるかを理解するだけでなく、身体を本来の形で働かせて、身体に役に立つことをするための、新たな方法を見つけなければならない。手は、いま私たちが暮らしているこの場所を、さらにはこの世界を作ってきた。それとともに、その生活と私たちの首を絞めようとしている。まるで自分自身を絞め殺そうとしているかのようだ。がらくたがきれいに片付けられてしまった人新世に順応するためには、自分たちが作ってきた世界を変えようという壮大な意思表示が必要である。(p.308)

★★★★ 世界史の新常識 文藝春秋編
本書の最終ページに以下のように記されています。
本書は季刊『文藝春秋SPECIAL』の「教養で勝つ大世界史講義」(二〇一五年夏号)、「ニュースがわかる!世界三大宗教」(二〇一六年冬号)、「入門 新世界史」(二〇一七年春号)、「世界近現代史入門」(二〇一七年秋号)に掲載された原稿を加筆・修正し、再編集したものです。
315ページに23人が世界史の新常識について書いています。ちょっと論考が短く、物足りない面もありますが、いずれも興味を引かれる面白いものです。
グローバル経済が浸透する中で世界史も、民族や国家によって地域を細分する方向から、地球規模で人類史を鳥瞰する方向に姿を変えている。世界史の内容と、世界の現状とのギャップが拡がり、世界史の有用性が問われているからである。鳥瞰的に世界史を考える際に着目されるのが、農耕空間を結びつける、ラクダを使う砂漠の商人、馬を操る草原の遊牧民、船で航路を拓く海洋民の空間形成能力である。砂漠の商人、草原の遊牧民、海の商人という広域ネットワークを織り上げる人々の活動を組み込むことで、世界史は大空間の歴史に変身する。広域ネットワークというと、「大航海時代」ばかりが目につきやすいが、世界史で、先駆的にそれを作り上げたのが、ムスリム商人と遊牧民である。彼らがユーラシア全体のネットワークの中核部分を作り、その成長を通じてユーラシアの歴史が展開していった。(p.100) 中世グローバル経済をつくったのは遊牧民とムスリム商人 宮崎正勝(歴史家)
この三人の独裁者の政治手法は、過去のものだといえるだろうか。ヒトラーが行なったのは、積極的な経済政策に、ナショナリズムの高揚を加えた国家主義的ポピュリズムだったといえる。しかし、これは人種主義(ことに戦時下での反ユダヤ政策)を除けば、いまも多くの政権が採用している組み合わせではないだろうか。その意味で、いまなおヒトラー的手法は汎用性が高いといえるだろう。そして官僚機構(党)への権力集中+恐怖による統治を展開したのがスターリンだ。これも二十世紀の多くの権力者たちが採用した「ノーマルな独裁者」モデルだったといえる。そして毛沢東である。反官僚主義はしばしばポピユリスト政治家に採用されるが、実際に推し進めると、ボルボト政権のように、近代国家そのものが成り立たなくなる。農民や職にあぶれた若者たちなど多数者の不満を煽り過ぎると、コントロール不能な内乱につながる危険性も高い。政治指導者にとっては扱い困難な劇薬なのだ。反汚職運動を進める習近平は、この規格外の先人からいかなる教訓を得ているのだろうか。(p.233~p.234) 独裁の秘術 ヒトラー、スターリン、毛沢東 福田和也(慶應義塾大学教授)
アメリカの真の歴史を振り返れば、民主党が人種差別政党であることは歴然としている。しかし、一般の日本人がアメリカの歴史を詳しく学ぶことははとんどない。それだけに、民主党がかつて進めた政治や外交を現在の民主党のイメージで読み解こうとする。それがどれほど間違った理解を生むかは読者には了解していただけると思う。現代の一般のアメリカ人も民主党の歴史を知らない。だからこそ、ウッドロー・ウィルソンもFDRも偉大なる大統領のままなのである。戦後になると、民主党の主たる支持層であった南部白人層、特に貧困白人層が相対的に豊かになっていった。豊かさが人種差別意識を緩和した。彼らは次第に共和党支持にシフトした。民主党は、人種差別政党として存続するレゾンデートルを失っていった。この劣勢を一挙に挽回する奇策が、党是を「市民権運動のリーダーである」と一八〇度転換させることだった。黒人を含めたマイノリティの人権を守る政党。弱者にやさしい進歩主義の政党。こうしたイメージを見事に作ってみせた。彼らは、過去の民主党の人種差別的行状を覆い隠すために、あるレトリックを使った。人種差別の主体を「アメリカ人全て」だったことにしたのである。民主党が人種差別をしたのではなく「アメリカという国全体が人種差別的であった」ことにした。このレトリックは呆れるはどに効果的であった。この点について詳しく扱う紙幅は残っていないが、「華麗なる変節」に成功した民主党は、今では黒人層や他のマイノリティ人種から圧倒的な支持を集めている。もちろん現在の民主党支持者は同党の過去など知りはしない。アメリカの歴史を正確に理解するには、民主党という政党を知る必要がある。それだけでも、心のプリズムの曇(くも)り(アメリカ史への無理解と誤解)を相当に拭(ぬぐ)うことが出来る。残った曇りの部分(戦後の民主党のカメレオン的変質と、民主党的思想を隠しながら共和党に潜り込んだグループによる共和党の悪化の経緯)については機会をあらためて論じたい。(p.248~p.249) 共和党対民主党 日本人が知らないアメリカ史 渡辺惣樹(日米近現代史研究家)
この続きは是非読みたいと思います。
グローバル・ヒストリーとは、歴史を国別にみる姿勢を拒否し、世界的なつながりを重視する歴史の見方のことである。今日、地球全体が一体化していて、遠く離れた地域の出来事も、日本人の日常生活に直結する。しかし、重要なことは、その「一体化した世界」の実体が何なのかということである。たんに世界中の出来事を並べ立てたり、相互のつながりを指摘するだけでは、意味のある歴史にはならない。多くの歴史家が「一体化した世界」を、資本主義的な構造をもつものと認めているのは当然である。(p.252) グローバル・ヒストリーとほ何か 川北稔 (大阪大学名誉教授)
これは、第四章 ブックガイド、の中にあります。グローバルヒストリーについての説明も興味深いのですが、なので、面白そうな本がいろいろ紹介されています。読んでみたいと思うものがありますが、果たしてどれだけ読めるか?
いまや世界政治は、先進的な国民国家によってではなく、米・中・露・EUの四帝国によって動かされる時代となっている。国民国家の基盤はネイションであるが、帝国の基盤は文明である。そのために帝国はなんらかの意味で膨脹主義的であり、複数の文明の接触する地域では、帝国どうしの摩擦や衝突が起きやすい。重要なのは、そうした帝国の時代において日本がおかれる微妙な位置である。アメリカの政治学者ハソティソトンによれば、日本は、中国文明ともヨーロッパ文明とも区別される独自の文明をもつ。しかし、その文明圏は、ネイションの枠を超えることがない。それゆえ、みずからが独自の多民族的な帝国を形成することもできないままに、アメリカと中国といった他の文明相互の対立・衝突のなかで右往左往することになりかねない。ハソティソトンが描き出す「文明の衝突」のシナリオによれば、やがて起こるであろう米中間の文明戦争において、日本はそうした哀れな存在として戯画的に扱われている。帝国の時代における日本のおかれた位置の特異性を知るためには、とりわけヨーロッパ諸国との比較が役立つだろう。日本は英・独・仏といったヨーロッパ諸国をモデルとして国民国家を構築してきたか、ここへきて、国家形態に関する彼我の差異ほ大きいのである。簡単にいってしまえば、ヨーロッパ諸国は、いまや自前の国家の屋根のはかに、EUという国家を超えた共通の大屋根をもっている。いわば、二重構造の造りになっているのである。それにたいして、日本は、国民国家という一重の屋根しかもたない。これでは、世界政治における日本の発言力がドイツなどにくらべて低下してゆくのほ、避けられないだろう。(p.304~p.305) 世界史から何を学ぶか 野田宣雄(京都大学名誉教授) 以下の引用も同じ。
帝国たりえない日本に残された行動範囲は、著しく限られている。日米同盟によって米国主導の階層秩序に自己を組み入れつつ、東南アジア諸国やインド、さらに中近東諸国とも関係を親密化し、ひたすら中国中心の華夷秩序に編入されることを拒み続ける。日本にとって、こういった選択肢以外に、実行可能な戦略は思いつかないのである。しかも、いかに華夷秩序への編入を拒んでみても、中国の軍事的脅威は現実のものだし、また、中国の巨大市場が発揮する経済的魅力には抗しがたいものがあろう。ここまで論じてきて、帝国の時代における日本の将来は、いよいよ憂慮すべきものと思わざるをえない。この上は、私の時代観察が悲観主義に過ぎて、十年後あるいは二十年後には、日本にとって意外に明るい展望が開かれていることを願うばかりである。(p.314)
この先日本はどうなるのか。

★★★ そんなとき隣に詩がいます 谷川俊太郎/鴻上尚史
副題、鴻上尚史が選ぶ谷川俊太郎の詩。はじめに、に以下のように書いています。
『ふたりのロッテ』や『飛ぶ教室』で知られる作家エーリヒ・ケストナ一に『人生処方詩集』という作品があります。ケストナーが、自分自身の詩に対して、「私生活の治療にささげられたもの」として分類した詩集です。「年齢が悲しくなったら」「結婚が破綻(はたん)したら」「孤独に耐えられなくなったら」と、さまざまな症例によって、自作のたくさんの詩を分類しています。ケストナーは、「精神薬学に該当するものであり、当然『家庭薬局』とよばれるぺきものである」 と言っています。岩波文庫から出ているのですが、本の紹介には〝悩めるオトナのための読むクスリ〟と書かれています。担当編集者小宮久美子さんの提案と谷川俊太郎さんとの直接のお話と、いくつかのひょんなことから、同じことを谷川さんの詩でやらせてもらえることになりました。1952年に出版された『二十億光年の孤独』から2018年の谷川俊太郎展を記念して出版された『こんにちは』まで、(たぶん三千編以上の)すべての詩を読んで、僕なりに症状別に分類しました。(p.5)
で、その分類が以下です。
さみしくてたまらなくなったら毎日、しかめっつらだけになったら愛されなかったら愛されたら大切な人をなくしたら家族に疲れたら戦争なんて起こってほしくないと思ったらことばと仲良くなりたいならおっぱいが好きなら生きるパワーが欲しくなったら詩が好きになったら
面白い試みです。80編近くの詩が収められています。詩そのものも魅力的だし、分類の仕方も素晴らしい。そして何よりも、心に強く響くものを感じました。それがなんなのか、もう一度読んでじっくり考えてみたいと思います、恐らくはっきり判ることはないでしょうが。興味深かった詩を以下に引用しておきます。

***** (p.22~p.23)

泣けばいい

泣けばいいんだ泣けばいい
哀しいときは泣けばいい
泣けは菜の花涙にゆれる
泣けば鳥もカアと鳴く

泣けはいいんだ泣けばいい
ひとりのときは泣けばいい
遠い誰かにとどけとばかり
風もいっしょにむせび泣く

泣けばいいんだ泣けばいい
苦しいときは泣けばいい
泣いてとうなるものでもないが
泣いてはらそう曇り空

泣けはいいんだ泣けばいい
泣きたいときは泣けばいい
まぶたはらして鏡を見れば
いつか笑いがこみあげる

***** (p.88)

指先

指先はなおも冒険をやめない
ドン・キホーテのように
おなかの平野をおへその盆地まで遠征し
森林限界を越えて火口へと突き進む


*****
(p.122) 「不機嫌な妻」の中の一行
心の奥に溜(た)まり続ける日々の燃えないゴミ
*****

★★ ただ、ありがとう 新井貴浩
副題:すべての出会いに感謝します
タイトル、副題、の気持ちを書いた著者の半生記。ほぼ編年体で書いてあり、読みやすい。著者のことはだいたい知っているつもりだったが、あらためて様々なことがあったのだと感心した。対処の仕方が、いわば優等生的で、こんな言い方は変かもしれないが、面白く読んだのだが大きな感動はなかった。まあ、真面目な人間なのでしょう。
p.152 の写真の解説に、「・・・功績ははかりしれない」とあるが、著者が書いた文にしては変、本文で自分のことは只管謙遜しているのだから。細かいことなのかもしれないが、少々気になった。

★★★ 移民クライシス 出井康博
副題:偽装留学生、奴隷労働の最前線
第一章 「朝日新聞」が隠すベトナム人留学生の違法就労
新聞奨学生というものがありました。いや、今もあります。従事しているのはほとんど外国人、ベトナム人が多いようです。恐ろしい勤務実態です。どの新聞も似たり寄ったりで、切り込めない。
第二章 「便利で安価な暮らし」を支える彼らの素顔
コンビニ、夜間の作業、など、我々日本人が便利な生活をしているのは、外国人留学生が見えないところで働いているから。このような勤務もひどいものです。
第三章 「日本語学校」を覆う深い闇
外国人留学生を受け入れるのが日本語学校。学校と言っても名ばかり、送り出す国の業者とタッグを組んで、もうけ主義のビジネスです。こんなことが放置されていていいのでしょうか。
第四章 「日本語教師」というブラック労働
タイトル通り、日本語学校で働く日本人教師もひどい目に遭っているようです。
第五章 「留学生で町おこし」という幻想
廃校になった学校の校舎を利用して専門学校を作り、町おこしをする、という一石二鳥の素晴らしい計画、に思えるが、実態は外国人ばかりで安価な労働力を獲得する手段。
第六章 ベトナム「留学ブーム」の正体
ベトナムでの取材を加え、実態がより明らかに。裏では日本人が暗躍している。
第七章 「幸せの国」からやってきた不幸な若者たち
ブータンの場合が一番悲惨である。学生は意欲もあり、学歴もある。ブータン政府も絡んでいるが、汚職だらけ。
第八章 誰がブータン人留学生を殺したのか
一応自殺のようだが、このことによってブータンでも実態が判ってきたようである。
第九章 政官財の利権と移民クライシス
結局安い労働力が欲しい、そこにつけ込んでボロ儲けをする輩がいる、なにやら救いがないように思われる。
以下は本書の最後です。
留学生を斡旋(あっせん)するブローカー、バブルを謳歌(おうか)する日本語学校、そのおこぼれに与(あず)かる専門学校や大学、留学生の違法就労をわかって雇い入れる企業、何より「留学」をエサに新興国の若者を日本へと誘い込んでいる政府――。皆、醜悪である。だが、その醜悪さもまた、他者を思いやる余裕をなくしてしまった、落ちゆく日本と日本人の姿そのものなのかもしれない。

★★★ 赤松真人38。 赤松真人
カープファンなら知っている赤松。2016年12月、胃がんが発覚。年末に記者会見をして公表。
この本は、この時から今年の4月までの治療やリハビリ、復帰に向けての取り組み、そして、これまでの半生、について書かれています。この二つがうまい具合に織り交ぜてあり、読ませる構成です。病状や治療法についても割と詳しく、胃がんと言っても様々だと思いました。プロ選手故の悩み、最後にそれを克服するまでの心の動き、ちょっと感動しました。子供の頃のことやプロのなるまでのことも素直に書かれていて心に響きます。プロの選手が何を考えているかも判り、野球の見方が変わるかもしれません。赤松ファン、野球ファン、必読の書です。赤松選手の今年の活躍を期待します。

★★★ シンクタンクとは何か 舟橋洋一
まさに、シンクタンクとは何か、を知りたくて読みました。しかし、シンクタンクが何をしたかについてはよく書かれています。大半がアメリカのことなので、アメリカの偉大さが納得できました。中国やロシアにも触れていて、現状理解がすすみました。逆に、日本の政治の稚拙さがシンクタンクが少ないことに起因しているようだということも理解できます。最終章・日本の課題、で様々な提言がなされていますが、そして成る程と思うのですが、残念ながら私には実現可能性がどれくらいあるのか判りません。
で、最初に戻りますが、シンクタンクとは何か、は未だ霧がかかったような状態です。一番知りたかったのは、経済的基盤です。お金を貰えば自立できないのではないかと思います。
民主党のオバマ前大統領も、(シンクタンクについて)これ<トランプ政権>と似た批判的な見方をしていた。オバマに深く食い込んでいたジャーナリストのジェフリー・ゴールドバーグは二〇一六年四月、オバマ時代の集東歌のようなインタビュー記事を『アトランティック』誌に載せたが、オバマ・ホワイトハウス中枢で「一般に抱かれているセンチメント(感じ)」は、ワシントンのシンクタンクというのは、「アラブとイスラエルの献金者のどちらがより献金するかでどうにでもなる存在」といった類だった、と記している。ベン・ローズ大統領次席補佐官も「ワシントンの外交論争なんていうのは、理想ばかり追求しながら実は保身だけを考える連中の議論のための議論のようなものだ。それがここのシンクタンクのペーパーとかいうものさ」と言ったものである。それでも、オバマ政権はワシントンのシンクタンクとは密接な関係を維持した。オバマ政権には多くのシンクタンク研究者たちが政治任命で加わっていた。/トランプ政権は違った。トランプ陣営中枢の一人の表現を使えば、「ここのシンクタンクの連中は、献金者たちの言いなりになっている」。その献金者たちの多くは、彼らが敵視する「グローパリスト」にはかならない。ワシントン・ポスト紙の外交専門記者、ジョッシュ・ローギンは二〇一七年の大統領就任式の直前、トランプの政権移行チームの一員が、「この政権の誕生は、ワシントンのシンクタンクの死を意味する」と語ったと伝えている。(p.90~p.91)
このような記述もあり、著者はシンクタンクの資金調達については明確な納得できる説明をしていません。
結局、繰り返しになりますが、シンクタンクとは何か、資金の出所によっては中立な提言は出来ないのではないか、という疑問は解決しないままです。まあ、シンクタンクが果たした役割はよく判り、興味深い話ではありました。

★★ 犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)⑤―サンセット― 作・花村萬月/画・あそうあきら
主人公マヒケン、結局理解できない、共感できない、ままで終わってしまいました。このような人間が増えているのかもしれません。世の中で起こっている事件を見ると、確かにそう思ったりもします。だとすれば処方箋が必要ではないでしょうか。少しでも明るい光が欲しいと思います。日が沈んだらどうやって生きていけばいいのか。

★★ 犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)④―半端もの― 作・花村萬月/画・あそうあきら
三番目の男が主役級に。女は犬ではなく、男三匹が犬のようだ。一人過去が描写されていなかった人物の昔が語られ、犬三匹の半生が明らかに。残るは中心人物の凍ったように思われる心がどうなるか、が最終巻の焦点か。

★★ 犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)③―血と水― 作・花村萬月/画・あそうあきら
益々芸術クサくなっています。ルノワールのような絵があったり、文学談義や哲学談義っぽいものも出てきたり。
愛とか幸せとか自然とか永遠とか――人が発明した言葉は、なんだか現実にないものばかりって気がしてな。現実には有り得なくて、しかし、切実に必要なものを言葉にして発明したんだよ。(p.46) など
第二巻で新たに登場した人物が大活躍、彼が三匹目の「犬」なのか。第四巻に続く。

★★ 江戸料理大全 八百善十代目栗山善四郎
サブタイトル:将軍も愛した当代一の老舗料亭300年受け継がれる八百善の献立、調理技術から歴史まで
カバーに書かれた説明:享保2(1717)年に浅草山谷で創業、広重や国貞に描かれ、料理番付でも常に別格で扱われるなど江戸随一の料理屋とうたわれた「八百善」。当時からのれんを上げていた老舗がほとんどなくなった現代において貴重な江戸の残り香を今も伝える「八百善」の当主が300年受け継がれてきた献立と技をくわしい手順とともに解説する。
八百善についての記述もありますが、殆どは八百善の献立です。材料や調理法が書いてあります、が、部外者が再現するのは困難ではないでしょうか。ただ、このような料理があり、どのように調理されているかが判るのは、とても興味深いことでした。十代目が書いたということになっていますが、十代目が客観視されている記述が何カ所もあり、複数の人が書いたと思われます。
長い歴史の中には、大火があり、大地震があり、大空襲もあり、栄枯盛衰が激しかったようです。最近のことだけ書くと、2003年に店舗がなくなり、その後2010年頃に通販を開始、2013年に初めて東京を離れ鎌倉で店が復活しているようです。一度食べてみたいと思います、が、調べてみましたがどのようなお店なのかよく判りませんでした。
この本は、県立図書館の書評に取り上げられた本のコーナーにありました。どのような書評かは残念ながら判りません。

★★ 犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)②―黄金三角― 作・花村萬月/画・あそうあきら
負け犬三匹が絡み始めます、かなり歪な形ですが。益々悪の方へすすみそうな、それでいて、解決の糸口が仄見えそうな、さすが花村萬月です。この漫画を読もうと思ったのは、彼が原作者だったからです。そう、これは漫画、昔の愛読雑誌、ビッグコミック(スペリオール)に連載されたもの。花村萬月は2000年頃嵌まって、色々読みました。ゲルマニウムの夜、王国記、皆月、笑う山崎、風転、風に舞う、汀にて。人間の欲望を見詰める作品だったとぼんやり記憶しています。これも同様のテーマーのようで、更に突き進んでいるようです。彼ら三人に、芸術(絵)やドストエフスキーがどう絡んでくるのか、第三巻へ。

★★ 犬・犬・犬(ドッグ・ドッグ・ドッグ)①―幸福な王子― 作・花村萬月/画・あそうあきら
なにかの本(井上章一の本だったような?)で知って読もうと思ったもの。
表カバーの文:
親もなく、名もなく、金もなく、友もなく・・・
犯(や)っているけど惚れてない。死にきれない、このままじゃ。
一人は親を殺し、天涯孤独、一人は万年モラトリアムの父っちゃん坊や。一流ソープ娘だがそれだけの女。
失うものなLの人生の負け犬三人組が己の宿命に、いまリベンジを開始する!!
カバー裏の文:
マヒケン。麻痺してる賢ちゃんでマヒケン。陰でそう呼ばれる伊達賢は、まじめな勤労青年。しかし実は、虫も殺さぬ優男ぶりとは裏腹な、眉ひとつ動かさず人を殺す、ヤクザも敬遠する全くのアウトローだった。そんな彼に一流ソープ嬢の佐和子は執着し尽くしている。道男という職場の同債で流れ者の食い詰め画家にマヒケンは接近し始める。ある日、マヒケンを知らぬもぐりの下っ端ヤクザがわざと彼の足を轢いていった。組に乗り込んだマヒケンは、落とし前に犯人の身柄を要求し!?
第一巻ということで、負け犬三人の紹介程度、全五巻です。楽しみに読み進みます。

★★★ ボクたちはみんな大人になれなかった 燃え殻
カバーに書かれている著者紹介。
燃え殻 もえがら
都内で働く会社員。
休み時間にはじめたTwitterで、
ありふれた風景の中の
抒情的なつぷやきが人気となり、
多くのフォロワーを獲得。
「140文字の文学者」とも呼ばれる。
ウェブで連載した小説
「ポクたちはみんな大人になれなかった」が
話題となり、本作がデビュー作となる。
この本、図書館に予約して手元に届くまで600日かかった、ので、読もうと思った切っ掛けがもう判らない。読むと面白い、私好みのもので、なにかに紹介されていて食指が動いたのだろう。目次からして興味を引く。
最愛のブスに〝友達リクエストが送信されました〟 7
暗闇から手を伸ばせ 15
ビューティフル・ドリーマーは何度観ましたか? 22
好きな人ってなに? そう思って生きてきたの 29
そしてまたサヨナラのはじまり 37
「海行きたいね」と彼女は言った 45
1999年に地球は滅亡しなかった 54
ギリギリの国でつかまえて 62
東京発の銀河鉄道 69
雨のよく降るこの星では 77
東京という街に心底愛されたひと 87
あの子が知らない男に抱かれている90分は、永遠みたいに長かった 98
ワンルームのプラネタリウム 104
ボクたちはみんな大人になれなかった 110
君が旅に出るいくつかの理由 115
やつらの足音のバラード 123
永遠も半ばを過ぎて 130
必ず朝が夜になるように 140
バック・トゥ・ザ・ノーフューチャー 144

一行38文字、一ページ16行、157ページの本、まあ言ってみれば量的には多くない、が、内容の密度は濃い。流れに沿って時間が交錯し、少々曖昧になっても心にストンと落ちる。昔流行った、意識の流れ、なんていうことを思い出した。身も蓋もない要約をすると、若い頃愛した女のことを忘れられない、心の底から消すことが出来ない男の話、ということになるか。その間の生き方、結局はその女に行き着く、男の心の中で、いや、行き着かない、かもしれない。この作品、映画にしたら素晴らしいものが出来るのではないか。2017年6月30日発行、だからもう映画化はないか、難しいのだろう、誰かやってくれないかな。

★★★ らんちう 赤松利市
旅館の総支配人を従業員5人と元従業員1人が殺すという話。全4章で、第一章 犯行/従業員たちの衝動、では、6人が一人称で殺害の様子を語る。第二章 取調/容疑者たちの憂鬱、では、同じ6人が少し順番は違っているが、警察の質問は書かれていないのだが、それに答える形で殺害に至る経緯を一人称で語る。この部分が半分以上を占める。この章を読み始めて、私には結末が見えた、そしてそれはほぼ合っていた、といっても興が削がれるわけではない。第三章 供述/参考人たちの困惑、では、旅館を辞めさせられた元従業員3名、殺された総支配人の妻、ちょっとだけ触れられた人物、全く登場しなかった人物、計6名が、第二章と同じように警察に対して一人称で語る。終章 覚醒/受刑者たちの明日、では、殺害者6人が第二章と同じ順番で明日への希望を語る。第一章と同じで誰に語っているのか明確ではない。
なかなかによく出来た本だと思います。グングン読ませます。人物像が徐々に変化していき、第三章で大きく変わります。その変わり方が、意外性もありながら、納得させるものを持っていて、人は判らないものだと思いました。エンターテイメントとしては最高のものと言えるのではないでしょうか。

★★★ 大統領の失踪(下) ビル・クリントン&ジェイムズ・パタースン
ジェイムズ・パタースンはこの本のように共著が多いようです。結局二人の役割分担は判りませんが。まあその辺りは置いといて、面白い本ではあります。最後でほぼ全ての疑問が解決され、見事と言えるでしょう。ただ、私が今一物語の世界にのめり込めなかったのは、危機の原因がサイバーテロだったことです。これは私の想像力では現実に起こることとしてリアルに迫ってきません。理解できないのです。古い人間なのでしょう。大統領経験者が書いているのだから、ニュースを見ていてもそのようなことが起こっているようにも思えるのだから、現実なのかもしれません。
物語の中の大統領はスーパーマンです。スーパーマン過ぎます。この辺りも物語のリアリティを損なっていると思いました。クリントンの理想像だったのかもしれません。とはいえ、読むに値する楽しめる本だと思います。

★★★ うんちはすごい 加藤篤
確かに、うんちはすごい、と思いました。まあ、みんな判ってはいるけど、声に出していうのはちょっとと思っているのでしょう。なので、細かな数字的なことを別にすれば、ほぼ理解していることではあります。成る程と思ったこと、肛門はうんちとオナラを区別できる、トイレットペーパーには裏表がある、富士山のトイレ、羽田空港のトイレは世界一美しい、通路型トイレより広場型トイレの方が個室数が少なくても効率的、便秘とは週に二回以下うんちをしないこと、災害時に備えるものに携帯トイレを。
私の子供の頃に比べると、トイレは物凄くよくなっています。自分の家も、外出した時も。この本にも書いてありますが、高速道路のトイレが一番ではないでしょうか。この本を読んで思ったこと、トイレはすごい。

★★★ 大統領の失踪(上) ビル・クリントン&ジェイムズ・パタースン
著者二人がそれぞれどのような役割を担ったのか。クリントンがアイデアを出しパタースンが作品に仕上げた、のかな。その辺りはよく判らないが、面白い。グングン読ませる力を持っている。まるで映画を見ているようだ。上巻では、全体像を少しずつ出していき、話を大きく広げて終わる。まだ見えない仕掛けを、下巻でどう展開し纏めるのか、楽しみ。
今日ではツイックー、スナップチャット、フェイスブック、二十四時間垂れ流されるニュースが、有権者の行動を左右しているように見える。現代人は最新のテクノロジーを利用して、原始的な人間関係へと回帰している。マスコミは人々が何に飛びつくかを心得ている――争いと分断だ。ニュースにするには、それが手っ取り早く、簡単でもある。怒りが答を、敵意が道理を、感情が証拠を掻き消すことが、あまりにも多すぎる。いかに内容がなくても、独善的で皮肉たっぷりのひとことが歯に衣着せぬ物言いだと評価され、検討を重ねた冷静な反応が陳腐な戯言(たわごと)だと批判される。(p.80)

★★★ 1968年 (すが)秀美
私の生きてきた年月を考える時、68年がいろいろな意味で最も象徴的な年である。昔から本を読んだりして考えてきたが、納得できる見方に到達できない。この本はこれまで読んだ中では一番示唆に富んでいる。しかし、言葉、表現が難しい。特に、第四章、ヴァーチャルな世界のリアルな誕生、では、「偽史」というものが入り込み難解、前後とどう繋がるのかついて行けなかった。この部分をのぞけば、かなり説得力があり、今後の思索の役に立つと思う。私にそれだけの時間が残されていればの話だが。
言うまでもなく、労働組合とは、反資本主義的なものというよりは、資本主義を支える必須の構成要素であり、労働者を労働者として規律/訓練するシステムである。それゆえ、賃上げ交渉から労働条件改善要求まで、労働組合の役割は本質的に労使協調以外ではなく、それが資本をこえることはありえない。だからこそレーニンは、労働組合は「革命の学校」と見なしたが、しかし同時に、労働者の自然発生性は、それ自体では革命に到達しえないとも言ったのだ。そして、それが自治的な「革命の学校」であることさえ疑われ始めたのが、六八年なのである。(p.38)
「大学の大衆化」とは、単に、大学生が増加したということを意味しない。その意味であるならば、六八年も含めて一九六〇年代の大学生は、中卒・高卒にくらぺて、いまだに少数派にとどまっていた。だが、「大学の大衆化」とは、大学がもはや規律/訓練をほどこした労働力を育成しうる場ではなくなり、「大衆」を輩出するところとなったという意味である。そして、そのような場から、六八年が可能になるのである。(p.68)
高崎経済大や近畿大などの「民主化」要求とは、学生運動という「遊戯」を許さぬ大学に対抗する闘争ではなかったであろうか。そして、そのような側面が六八年に継承される。事実、東大、日大闘争に端を発して全国に波及する全共闘(全学共闘会議)の運動は、確かに、さまざまな要求を掲げはしたが(しかし、学費値上げ反対は「六八年」の中心課題ではなかった)、基本的には遊戯であり、「闘争のための闘争」であったと言えるのである。しかし、「闘争のための闘争」――それは、資本主義の脱構築的な運動に依拠することである――によって、資本主義は破棄されることはない。それは、五五年体制の成立から六〇年安保にいたる過程において、「反米愛国」的ナショナリズムから「太陽の季節」的、ブント=全学連的なナルシシズム=ナショナリズムヘの転換が、資本主義の力によってなされたナショナリズムの枠内でのものであったのと同様である。その決定的な矛盾を抱えていたのも「六八年」だったのである。(p.69~p.70)
六八年の学生の過激な行動主義は、べ平連の穏健な運動を軽蔑することが常であったが、それは単に、行動上のラディカリズムを誇ってのことではない。その「ただの市民」という抽象的な自称に、素朴に欺瞞を感じていたのだと言いうる (p.134)
現代では、学校は規律/訓練の場であることを放棄して、「ゆとり教育」という名の「動物園」と化しているとさえ言ってよい。より具体的に言えば、学校は六八年を契機にしてハローワークであることをやめた。一九四〇年代に端緒を持つリベラリズム体制下の六八年までの学校は、そこで規律/訓練をほどこされれば、それに見合った労働者=市民としてのパスポートを手に入れることができる場であるという信憑があった(実際には多少の誤差をともなうにしても)。それは、日本の終身雇用制においてあからさまだったが、他の先進資本主義国においても、同種の制度が維持されていた。ところが、六八年の革命による資本主義の転換は別の体制へと移行を開始するのである。今や、大学・専修学校など高等教育磯関への進学者が六割をこえているが、逆に、社会はそうした高等教育を受けた「市民」を大量に必要としていない。これは、市民社会の基幹組織である学校制度の実質的な解体を意味する。これが、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)にほかならない。その意味で、六八年の学生革命は、べ平連的な市民社会に依拠した「市民」運動の思想とは、まったく質を異にするものだったのであり、なおかつ、その後の時代状況を先取りしていたと言える。(p.139~p.140)
学生消費者主義は、学生数の確保に腐心せざるをえなくなった八〇年代アメリカ合州国の大学で、まず顕在化した。学生を規律/訓練の対象としてではなく、大学という資本に対する消費者と規定して、それに包摂しょうとするものである。その傾向は九〇年代以降、やはり学生数確保に悩む日本の大学にも、おのずと導入されている(もちろん、そうした自然的傾向は、大学が「マンモス化」する六〇年代にも芽生えてはいた)。(p.149)
六八年の運動における男性中心主義ほ、単に軍事中心主義としてあらわれたというばかりではなく、女性活動家には耐えがたいものがあった。しかし、それへの反発が運動へと接続しうることを教えたのが、まさしく七・七華青闘告発の衝撃だったと思われる。新左翼(とりわけ諸党派)が内包している民族差別を告発するその言説は、やはり、本質義的な衝撃として受け止められたと考えるぺきだろう。それは、日本帝国主義を打倒すれば、あるいは、世界革命が成就すれば民族問題も解決するという新左翼的イデオロギー(社会構築主義!)に対する批判であった。だとすれば、それは革命を成就しても解決できない問題があるという含意をともなっていたからである。(p.270~p.271)
1970年の、七・七華青闘(華僑青年闘争委員会)告発、を著者は重要視している。私は全く知らなかった。反省。これについてももっと調べて考えてみなければならないだろう。
確かに、われわれは二メートルを跳ぺる「革命」の力量があるにもかかわらず、それが千尋の谷であるために、一メートル五〇センチの幅の谷の前で躊躇していると言ってよいだろう。われわれの潜勢力にとって、本当は、五〇センチの差異など存在しないのである。にもかかわらず、われわれは、その存在しない差異にとらわれてしまっており、そのことがシニシズムを生んでいる。しかし一方では、その「無」であるところの差異こそがわれわれの存在の条件であり、われわれには、それを跳ぶことが不可能であるのかもしれない。おそらく、今できることは、五〇センチの差異は存在しない、われわれは谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうるための、その力を養う(この二文字に傍点)こと(だけ)だろう。その五〇センチこそ、ウーマンリブ運動のなかで、田中美津が言った、あの 「わかってもら」えない本質(この二文字に傍点)のことかも知れないからだ。そして、それこそが、「六八年」の露呈させたものだろう。(p.298)

★★★ 地球情報地図50 アラステア・ボネット
副題、自然環境から国際情勢まで
A4縦よりも横幅がちょっと広い大きな本。見開き二ページの世界地図に様々な情報が描かれ、次の二ページに解説。とても面白くためになる内容です。「陸、海、空」、「人類と野生動物」、「グローバリゼーション」、の三つのパートに分けられています。本の性質上、言葉で伝えるのが難しいので、興味を持った人は読んでください。県立図書館ですぐ借りることができると思います。私が読み終わって感じたことは、アメリカはすごい国だということです。ただ、その凄さに応じた責任を果たしていないことは残念、特に環境破壊に関して。トランプ大統領はさらに悪い方に導くでしょう。

★★★ 大阪的 井上章一
副題、「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた
著者の本は三冊目。一冊目は、京都ぎらい。二冊目は共著で、ミッションスクールになぜ美人が多いのか。著者は京都生まれの京都育ち(といっても洛外、これが京都嫌いのネタになっている)、現在も宇治に住んでいるはず。そんな人が書いている本のタイトルにしては、面白そうだと思わせるものを持っている、実際面白い。この本はその大阪版、とうわけではないが、ものの見方は共通している。第一章は、大阪人はおもしろい? テレビによって作られたという分析は正しいだろう。第二章は、阪神ファンがふえた訳。この章には野球に関して成る程というお話がたくさん出てくる。とても興味深い内容。第三章は、エロい街だとはやされて。これもマスコミの力、そして、東京との経済的確執、が議論されていて、説得力がある。第四章は、美しい人は阪急神戸線の沿線に。ここは、ミッションスクールになぜ美人が多いのか、とほぼ同じこと。以下、音楽のこと、食いだおれについて、アメリカの影響、歴史の視点からの考察、大阪弁の話題、など、一気に読ませるものを持っている本である。
戦前の職業野球は読売新聞が中心となり、運営されてきた。広報活動も読売が、ほぼ一手にひきうけている。そこへ、戦後になって、毎日新聞が参入をこころみる。とうぜん、読売とはそりがあわず、けっきょくプロ野球は、二つのリーグにわけられた。従前どおり読売が中心にいすわるセ・リーグと、新しく毎日がひきいるパ・リーグに。これが分裂劇の真相である。当初、パ・リーグヘうつると期待された阪神は、読売のセ・リーグにとどまっている。阪神にうらぎられたと感じた毎日は、自分の新チームに、阪神のスターをひきぬいた。別当や土井垣らだが、彼らは毎日オリオンズにむかえられている。このため、多くの阪神ファンは、まず毎日新聞をにくむようになる。読売ではなく毎日を。この球団が、反読売という感情で輿望(よぼう)をにないだすのは、もう少し後になってからである。(p.55~p.56)
幕末には、討幕の気運が高まった。朝廷をよりどころとした、新しい政権への可能性がさぐられだす。この時、大阪の商人たちは、その多くがそちらの勢いに加担した。三井が肝入り役となり、討幕勢力のために軍資金をあつめている。そして、彼らの経済的なあとおしにささえられ、のちの新政府軍は幕府を圧倒した。戊辰戦争なども遂行することが、できている。あるいは、天皇の江戸東京行幸(ぎょうこう)も。三井らが支援をしなければ、戦費や行幸経費の調達はのぞめない。新政権はできなかった。幕府が大阪の商人を、とりこみつづけておれば、旧体制はこわれなかったろう。明治維新は、ブルジョワが幕府を見かぎったから、なりたった。その意味で、私はあの政変をブルジョワ革命であったと、考える。(p.237)
もっと引用しようと思ったが、自分で読むのが一番。是非一読を。

★★★ 書かずに死ねるか 野上祐
副題、難治がんの記者がそれでも伝えたいこと
「がんを患い、コラムつづる 朝日新聞・野上祐記者が死去」 この本を読もうと思った切っ掛けは昨年末朝日新聞に出たこの記事である。朝日新聞を読んでいるのにこのコラムを読んだことがない。朝日新聞出版のニュースサイト「AERA dot.」に連載されていたようで、気付かなかった。連載をまとめた書籍が19年2月20日に出版されることが決まっている、と記事の最後にある。で、待ち構えていたのです。因みに、この本を調べている時に、坂井律子「<いのち>とがん」を見つけ、2冊とも図書館に予約したのですが、こちらが先に来ました。
二人の著者に共通するのは、膵臓がんで亡くなったこと。野上は40代、坂井は50代。野上の方が病状は悪かったようだ。二人とも死を見据えそれまでの時間を有効に使おうという意欲が凄い。野上の場合は特にその職業意識が強く、コラムは病気のことよりも、世の中の出来事、病気になって見えてくる世の中の出来事、について多くの言葉が費やされている、と感じた。病気についても勿論書いているが、病気について伝えることには主眼が置かれていない。一方、坂井の方は、病気のことについて書き記すことが使命と考えていたようだ。
余談のようなこと。著者は配偶者のことを「配偶者」と呼んでいる。尊敬する大学時代の教授がそう言っていたから。妻、家内、女房、どれも男女平等以前の歴史を背負っているのだ。成る程。私も昔知っていたらこう呼んだかもしれない。

★★★ <いのち>とがん 坂井律子
NHKの要職に就いていた著者が、50代で膵臓がんになり、その経緯を自ら書いた本。2016年春に病気が判り、手術をして、抗癌剤治療を受け、その副作用に苦しみながら、前向きに戦っている。戦うという言葉は適切ではないように思うが、他の言葉が見当たらない。元々医療関係の番組にも関わっていたようで、知識もあり、人脈もあり、戦いは行動的である。しかし、二度目の再発が2018年春に起こり、そこから半年ほどでこの本を書き上げたとのこと。本には書いてないが、今年になってお亡くなりになったようだ。著者がまだ若いということもあるが、このエネルギーはどこから湧いていたのだろう。
今日は時間がないので、ここまで。

★★ まるわかり「仏像図鑑」 エディキューブ仏像と寺を楽しむ会〔編〕
昔から仏像に興味があり、様々なもので断片的な知識を得てきたが、忘却という作用もあってほとんど身についていない。偶々この本を見つけ、読んでみたが、認識が深まったとは思えない。実際に仏像を見ながら理解しないと行けないのだろう。それに、そもそも仏教のことをもっと知ることが必要だと思った。
以下メモ:
誕生像、苦行像、説法像、涅槃像。
如来、菩薩、明王、天。
釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、八部衆など。
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、四天王、二十八部衆など。
薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将など。
大日如来、般若菩薩など、五大明王、八大童子など。
多聞天(四天王の一)=毘沙門天(七福神の一)

★★ 食パンをもっとおいしくする99の魔法 パンラボ池田浩明
著者は朝日新聞デジタルに<このパンがすごい!>という連載記事を書いています。美味しそうなパンの写真は勿論たくさんありますが、その文章表現がとても素晴らしい。すぐに食べたいと思う、しかし、紹介されているパン屋は日本の彼方此方、そう簡単には行けません。それでも旅行した時いくつか訪問しました。山口県の、Pois 1213(こちら)<リンク先は私のブログの記事です>。福岡県の、パンネスト(こちら)/パンネスト&レーブ・ド・ベベ(こちら)。熊本県の、高岡製パン(こちら)。京都市の、 ナカガワ小麦店(こちら)、 ル・プチメック(こちら)〔このお店は新聞で紹介されたのではなく、店主が著者と親しく、一緒にサンドイッチの本を書いたりしているので行ってみました〕。広島で紹介されたのは、ドリアン(こちら)だけ。ついでに、ドリアン関係のブログ記事は、ドリアン船越本店(こちら)、サン・マルセラン(こちら)、ドリアン復活(こちら)。
閑話休題。
そんな人が書いた本なので、食パンを美味しく食べようと読んでみました。「読む」という本ではなく、本来読書記録に載せるものではないのですが、まあこれも一応記録しておこうということです。誰でも簡単に、どこでも手に入るもので、体にいい素材、どこの家にもある道具を使って、が食パン魔法学校の校訓4カ条 (p.4) だそうです、しかし、いくつか作ってみましたが、そう簡単ではありません。これから少しずつ挑戦してみようと思います。そのために、この本は図書館で借りるのではなく、購入しました。

★★★ 日航123便 墜落の新事実 青山透子
副題、目撃証言から真相に迫る。
1985年8月12日に起こったこの事故について、事故機のクルーと同じグループの客室乗務員が2017年に書いた本。後で知ったが、2010年に、天空の星たちへ―日航123便 あの日の記憶、と言う本を書いていた。その本とこの本の関係は本文中で少し言及されているが、読んでいないのでなんとも言えない。まあ、この本が7年後に書かれているので、新たに判ったことも含めて書かれているのだろう。
はじめの方は事故の(客観的)説明。元職員なので、日航職員の献身的活動も記述されている。最も印象に残ったこと:
スチュワーデスから地上職へ移り、東京支店旅客販売課にて女性課長の先駆者として頑張っていたM・Ⅰさん(五十四歳)も世話役になり、一か月間遺体安置所で遺族との交渉や遺体の確認を行った。当時十九歳の娘さんに「大変な業務なの」と電話をかけていたが、十月十一日、突然くも膜下出血で死亡した。事故直後に世話役をした社員の中には体調をくずした者も多く、その様子を見た外国人記者は、日本の航空会社の社員はここまでするのか、と驚き、欧米で同じような事故があったとしてもその対応はまったく異なり、常識では考えられないという様子だった。実際に世話役をした人と現場を知らない人では同じ社員でも温度差が大きかったと記憶する。それにしても、お客様を救うことを第一に考えて、自分の職務を成し遂げて亡くなった客室乗務一員を想うとあまりにつらくて悲しい日々だった。(p.73)
その後、副題にあるように、目撃証言を中心に、様々な事実を組み合わせ、事故原因を推論する。以下は、当時の運輸大臣・山下徳夫が著者の一冊目の本を読み会いに来た時の話。
大臣という地位にあっても、すべてを正確に把握できる環境になかったのかもしれない、そう強く感じたのは、山下氏の別れ際の二言だった。「あのね、日本は何でもアメリカの言いなりだからね。遺族が再調査を望むのであれば、ぜひすべきだと思う」/ここでもアメリカが出てきた。これがどういうことを意味するのかはわからないが、この言葉は山下氏の良心から出た五百二十名へのメッセージだったと確信する。(p.99)
著者は、結局断言はしていないが、事故にはアメリカと日本(政府)が大きく絡んでいると思っているようだ。
多くの疑問が残る日航123便墜落事故について、私たちが忘れてはならないことは次のことである。あの日、まだ日の明るいうち、墜落前の日航123便を追尾するファントム二機を目撃した人たちがいる事実。日航123便のお腹付近に濃い赤色のだ円や円筒形のような物体が吸着しているよケに見えた事実。/墜落現場付近の人に目撃された真っ赤な飛行機の存在。検死した医師たちが見た、凄惨な遺体状況や炭化した遺体への疑問。さらにいまだに引き揚げようとしない海底に沈んだままの機体の残骸。/これらの点を繋ぎ合わせていくと見えてくるものがある。それが私たちに大きなメッセージを持って伝えようとしているのである。そしていまだに事故原因や救助活動に納得できない人たちがいるのだ。(p.187~p.188)
この事件で命を落とした人々への供養は、まだ生きている関係者が「真実を語ること」、それだけである。そして私たちに出来ることは、長い歴史の中で一時的な政権に惑わされることなく、それぞれの場でゆがみのない事実を後世に残す努力をし続けることではないだろうか。(p.190)
正直に言って、私には、著者が事実と言っていることが本当に事実なのか判らない、全面的に信じられない。しかし、充分にあり得ることだとも思う。この本に挙げられていることを、どこか(国土交通省?)がきちんと調査すべきではないか。

★★ 死と生 佐伯啓思
著者の名前だけは知っていた。経歴を読むと、実に多方面で活動している。この本の内容も多岐にわたるが、東洋と西洋の違い、特に宗教についての記述が多い。最後はまるで仏教書のようである。もう一つ、この本は雑誌に連載されたものを加筆改編したもの、なので、一定期間をおいて読み進めばあまり気にならないのだろうが、繰り返しの多いことに少々ウンザリした。でもまあ、内容的には共感できることが多い。タイトルが、「生と死」という順番ではなく、「死と生」なのが、大きなポイントになっている。
ユダヤ・キリスト教のような強力な一神教が支配し、人間の存在意義も、基本的にこの絶対神によって規定されてきた社会では、信仰か対決か、という態度決定が不断に要請されてきたという事情はよくわかります。これに対して、もともとアニミズム的な自然信仰があり、その発展としての神道的儀礼があり、仏教諸派があり、それらが神仏習合した日本では、特段の宗教的意識を自覚する必要はなかった。習俗として生活に根づくと同時に、特段の意識化作用も生じなかった。深い信仰も要請されなければ、厳しい対決も要請されなかったのです。したがって、そもそも、欧米の一神教のような絶対神を基準にして、日本人は宗教的か否かと問われても、われわれとしては答えようもない。「宗教」という言葉で理解しているものが違っているのです。(p.158)
創造主としての神であれ、アリストテレスのいうような個物であれ、ともかく、「存在」から出発し、その意味を尋ね、さらには、その「存在」を分類したり、そこに法則性を見つけたり、ついには存在を増殖させたり、人間の理性と意思によって作り変えたりしたのが西洋思想であり文化であり社会だった。それに対して、よかれあしかれ、日本人は「無」の方をより本質だとみた。何かがそこに「有る」ことは決して自明なのではなく、むしろ、様々な要素の偶然の帰結としてそこに現れている、という感覚がわれわれにはあります。永遠に属するのは「存在(有)」ではなく「無」の方なのです。すべての存在物は、「無」からでてやがては「無」へと戻ってゆく。時間は「無始・無終」であるといってもやはり「無」です。ものは、そこにあって個物として確固たる質量と形をもっているのではなく、常にゆらめき、無へ向かって運動しており、無にさらされて脆くもはかないものだ、という認識が強くでてくる。したがって、万物は生々流転し、決して一所に留まることなく、確固たる姿形をとどめない。生み出されたものは、やがて時間とともに姿を変え、朽ちてゆく。生命あるものは、いずれその生命を枯渇させる。いわゆる無常観やはかなさに日本人が強く惹きつけられたのは、「有」ではなく「無」にこそ本質をみたからでした。(p.186~p.187)
「生も死も無意味だ」から出発して、その「無意味さ」こそが、自我への執着を否定したうえで、現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。われわれは、草木のように土から生まれ、また土に戻ってゆき、そしてまた別の命が芽をだす。すべての存在がこうした植物的な循環のなかにあることをそのまま受け止めるほかありません。不生不死とは、生まれたものは死に、次めものがまた生まれるという植物的で循環的な死生観をいい換えたものといってもよいでしょう。生も死も自然のなかにある。そこにおのずと生命が循環する、ということです。この自然の働きに任せるのです。とすれば、われわれは特に霊魂はあるのかないのか、あるいは来世はあるのかどうか、などということに悩まされる必要はない。確かに、生も死もどちらでもよい、などと達観することはできません。しかし、この達観に接近しょうとしたのが日本的な死生観のひとつの大きな特徴だったのであり、それは現代のわれわれにも決して無縁ではないでしょう。(p.218~p.219)

★★ 天才はあきらめた 山里亮太
南海キャンディーズの山ちゃんが書いた本。何かの書評で高評価だったので読んでみた。そこそこ面白かったのだが、この世界に疎く、判らん固有名詞がたくさん出てきて、充分楽しめなかったのではないかと思う。そもそも南海キャンディーズを知っているとは言えないので、そのような人間が読むものではないのかもしれない。人は心の奥底に様々な感情を秘めていて、普通表に出さないのだが、この本ではそのような中でも、どす黒く醜い心の動きを赤裸々に明かしている、ということが評価されていた、と思う。確かに、そんなことまで書くか、という内容も多くあるが、全ては計算されていると感じた。結局、山ちゃんは天才にないたい、天才と呼ばれたい、のではないか。この本は、12年前に刊行された「天才になりたい」を改題し、大幅に加筆・修正したものなのだ。

★★★ ミッションスクールになぜ美人が多いのか 井上章一・郭南燕・川村信三
タイトルがあざとい。でもまあ、羊頭狗肉、にはなっていない、と思う。第一章は、井上章一による、プロテスタント校はあなどれない――読者モデルを量産するわけ。この章は、ファッション雑誌の読者モデル(一昔前の話?)にはプロテスタント校の女性が多いということが述べられている。ほぼそれだけ。第二章は、郭南燕による、ミッション系大学の成功――なぜ女子アナの多数を占めるのか。ここから徐々に面白くなる。少し読ませる内容になっているといえる。
日本神道の代表者である天皇家は、昭和期から平成期にかけて、キリスト教の教育に濃厚に彩られている。日本の国民はこれを意識的、無意識的に認知している。しかも、この神道・キリスト教の仲良い共存に特に違和感を覚える人は少ないようである。皇太子との成婚が報道された時、正田家のクリスチャンの家庭と教育が注目されたが、宮内庁は「洗礼を受けていない」と繰り返していた。洗礼を受けたかどうかの事実は別として、美智子さまはカトリック系の信者と変わらない教育を受け、それについての関心を持ち続けていることは、今日までのさまざまな活動から垣間見ることができる。(p.122)
日本の人口は一億二六七〇万六千人(二〇一七年一〇月現在)だが、宗教信仰者の総数は実際の人口数より多いという面白い現象がある。文化庁編の『宗教年鑑 平成29年版』によれば、神道系信者は八四七三万九六九九人(人口の六六・九パーセント)、仏教系信者は八七七〇万二〇六九人(六九・二パーセント)、キリスト教系信者は一九一万四一九六人(一・五パーセント)、他の諸宗教は七九一万四四〇人(六二一パーセント)。神道と仏教を合わせた信者数は、一億七二四四万一七六八人で、日本人口数より約五千万人も多い。つまり、日本人の半数近くは二つの信仰をもつ「ダブル信者」だ。しかもほとんどの人は信者になるための灌頂(かんじょう)、出家、イニシエーションなどの儀式を受けたわけではない。あくまでも自意識のレベルである。一方で、文化庁文化部「宗教関連統計に関する資料集」(二〇一五年)にある二つのデータは興味深い。一つは、宗教信仰の有無について、一五九一人の回答者のうち、七二パーセントは 「信仰なし」と答えている。もう一つは、「宗教的な心」を大切に思うかという質問に対して、六六パーセントは「大切だ」、二一パーセントは「大切ではない」、一〇パーセントは「わからない」、という。つまり、複数の信仰を都合よくもち合わせ、「宗教的な心」を大事にし、特定の宗派には帰属していない。仏教と神道を信仰する「ダブル信者」は、この六六パーセントに入っているだろう。 <略> しかし、日本の「ダブル信者」たちは間違っても、クリスチャンとは自称しない。キリスト教は厳然と存在する「宗教」で、「クリスチャン」になるための洗礼を受けていなければ、そのように自任できないという常識くらいは持っているのである。面白いことに、ふだんは教会を避けて通る人でも、結婚式となると、教会で挙式しょう、知人の教会式に参加しょう、となる。たとえ数時間でも、仏教、神道、キリスト教の「トリプル信者」となる。カトリック教会は、結婚式を教会で挙げたい人びとの「宗教的心情」を大切にし、「少なくともこの時だけは、彼らも一種の求道者」で、「神ご自身がその人との出会いを望み、祝福しょうとなさっていることを告げる機会」としている(「日本のカトリック教会における非キリスト者同士の括楯式について」日本カトリック司教協議会・宣教司教委員会)。(p.137~p.138)
第三章、変遷するキリスト教イメージ――悲劇のカトリック受容史を見直す。第四章、「お嬢様学校」を生み出したカトリック――女子教育で人気の秘密。この二章は川村信三。
そもそも、「キリスト教の受容」とはいったい何を意味しているのだろうか。戦後まもなく、地方の、あるカトリック女子校の保護者が語った次の言葉に、考察すべき課題の出発点がしめされているように思う。
「娘に洗礼は受けさせたくないけれど、カトリックの学校には通わせたい」
つまり、ごく普通の日本人は、カトリック学校に、宗教(信仰)は求めないが、その文化(習慣)は受け入れてもよいと本音で思っている証拠だ。日本人の多くは、最初から、「宗教」と「文化」、あるいは「信仰」と「慣習」の二つをはっきりと区別していた。カトリックの教えは必要としないが、カトリックの学校の雰囲気と方法は大いに評価している。家の宗教に取って代わるほどのことはないが、キリスト教は学び取り入れる価値をあたえる存在ではあると認めている日本人は少なくないだろう。
(p.164~p.165)
「ワスプ」(WASP=ホワイト・アングロサクソン・サバーバン(郊外居住者層)・プロテスタント:White Anglo-Saxon Suburban, Protestant)(p.168) S が Suburban というのは初めて聞いた。
「宗教部分を抜いた」クリスマスが世間一般にとりあげられ、大騒ぎの祭りとなる区切りとなったのは、一九〇六年だと堀井<堀井憲一郎、『愛と狂潤のメリークリスマス――なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』の著者>は言う。これ以後、クリスマスは「羽目をはずしていい日」として日本に定着していった。その原因はあきらかにロシアに対する戦勝気分であった。それまで西洋列強にいいように振り回されてきた三等国がキリスト教列強の大国ロシアに勝った、すなわち「日本は三等国ではなくなった」という思いが世間一般に行き渡った。これまで敬遠していたキリスト教文化を、キリスト教国並みになったと感じた日本人が、抵抗なく受け入れ始めたということか。つまり、日本はヨーロッパになろうとした。そのきわめてわかりやすい一例が「クリスマス」の世俗化だったのだろう。/そうすると、「世俗的」クリスマスはこれまで「キリスト教」に対していだいていた偏見や遠慮といったものを次第にうすめる契機となった。これは、「邪教」から、「貧者に寄り添う」というカトリックのイメージから、さらに「諸外国と結びつく契機」であるととらえる心情を後押ししたということである。(p.217)
結局のところ、いつもの日本人論になってしまったようにも感じるが、面白く読めた本でした。

★★★ ごみ収集という仕事 藤井誠一郎
副題、清掃車に乗って考えた地方自治。
地方自治・行政学・行政苦情救済、を専門とする大学の教員が、九ヶ月の清掃現場体験を通して考察した、清掃行政の現状と展望について書いた本。
乱暴に著者の主張を要約すると、ごみ収集を経費節減のため委託にすると、大切なものが失われる、ということ。読むと確かにそうだと思う。実際に働いて経験したことを織り交ぜながら説明されると説得力もある。変な比較になるが、買い物をスーパーでするのと専門店でするのとの違いだと思った。つまり、付加価値が有るか無いかの違い。区の現業職員は地域の実態をよく知っているので、
ごみ収集だけではなく、それに伴う様々なことにスムーズに臨機応変に対応することが出来る。さらには、今後の活用方法として、それを地域サービスに生かすように出来る可能性が大きい、ということが著者の展望である。
読んでいて驚いたのが、ゴミ出しルールを無視している場合が多いということ。これへの対応も委託の場合難しいようである。
ゴミ処理について、地方行政について、得るところ大の本だった。ただし、主に書かれているのは新宿区のこと、東京の他の区とも違いがあるようで、ましてや地方とはかなりの差があるだろう。自分の住んでいるところの実情についても知りたいと思った。

★★ すごいトシヨリBOOK 池内紀
著者はドイツ文学者、カフカの専門家、ということは知っていたが、1940年生まれの高齢者とは思っていなかった。なので、本の内容が予測とはかなり違っていた。でもまあ、楽しく読ませて頂きました。
最初に「あとがき」からの引用:
ある日、小さなノートを用意してメモをとり始めた。老いの兆候、歴然とした老いのしるし、見すごしていた微妙な変化……長く生きてきたからには、せめて老化という心身劣化の過程をまじまじと見ておきたい。それが身におびた時間の意味深さだと考えた。/ささやかなノートに、いつのまにかメモの紙片が束になるほどはさまっていた。そのことを、ある人を偲ぶ会で話したところ、編集者から、それをまとめる方向で改めて話してもらえないかと言われた。ノートには「すごいトシヨリBOOK」とタイトルをつけていた。(p.211)
これがこの本の誕生の経緯。ということで、全体として統一のテーマがある訳ではない。生き方(生活)指南的な内容があり、老婆心という感じもした。下に引用するように、人生の終わり方の考察も多く、歳を取ると皆このようなことを考えるのでしょう。
今、一番の問題は延命治療です。あれを治療とはとても言えないと思いますが、いったん延命の措置を執ると病院も医者も装置を外せません。当人も願わないし家族も願わないにもかかわらず、何の意思表示もできないまま、何年も生き続けることになる。日本の平均寿命を延ばしている理由の一つには、そういう人たちが非常に多いことがあります。しかも、それは病院にとっての大きな収入源になっている。果たして、延命治療をしてまで自分がこれ以上生きたいかどうか、常に自分に問いかけることは重要です。生まれてきたのは自分の意思ではありません。死ぬのも自殺以外は、自分の意思ではない。自分の人生が、自分の意思で生まれてきたのでないのなら、最期に自分の意思を働かせて結末をつけるのは、非常に意味のあることだと思います。(p.98)
そういう措置(延命措置)に至る前に、周囲と当人が「そういう治療を受けない、終末期医療を受けないで介護の状態で死を待ちますから」と言えば、医者のほうがそれを認めれば、それは通用します。当人と家族の意思、それを病院側に伝えて理解を求めれば、今はかなり患者側の権利、希望を受け入れるっていうことが多くなったようで、以前とはかなり違ってきたようですね。(p.198)
死を選ぶということも、もう、そろそろできるのではないでしょうか。法的なことは別にして、自分で自分の人生はここで、もう、けりをつけるという、そういう終え方があっていいんじゃないかと思います。これまでずっと、どんな生へ向かって、どんなふうに生きるかという選択をしてきた。最後はどんな死へ、どんな死に方をするのかという選択があっていい。僕は、風のようにいなくなるといいな。(p.209)
風のようにいなくなる、いいですね。

★★ 日本の気配 武田砂鉄
まずは「はじめに」のはじめを引用。
本書のタイトルは『日本の気配』である。なぜ、空気ではなく、気配なのか。空気読めよ、とは言われるが、気配読めよ、とは言われない。気配なんて読めないからだ。今、政治を動かす面々は、もはや世の中の「空気」を怖がらなくなったように思える。反対意見を「何でも反対してくる人たち」と片せば、世の中の空気ってものを統率できる、と自信に満ち満ちている。「空気」として周知される前段階を「気配」とするならば、その気配から探りを入れてくる。管理しようと試みる。差し出された提案に隷従する私たちは、「気配」から生み出される「空気」をそのまま受け流す。それは政治の世界だけに留まらず、メディアの姿勢にしても、個々人のコミュニケーションにおいても同様ではないか、とも思う。(p.4)
つぎは「はじめに」の最後。
本書は晶文社スクラップブックで連載していた「日本の気配」の原稿を方々にまぶしながら、これまで様々な媒体で記してきた原稿を編み直した一冊である。編み直したとはいっても、ほとんど書き直している。これまで、どうにも心地悪い日本の気配をほじくってきた、という少々の自負がある。掴むことができないのに、違和感がまとわりつく感覚。いったい、「気配=周囲の状況から何となく感じられるようす」とはどこで芽生えているのか。「何となく」を作り出しているのは誰か。空気読め、では見つからない、気配の在り処を見つめていきたい。(p.5)
つまり、本書は連載記事を集めたもの、なので、話題は多岐にわたり、まとまりがなく、それぞれはいいことを言っているのだが、印象に残らない。もう一つ、文章が、よく言えば凝っている、逆に言うと判りにくい。主語が曖昧なことがあったり、一文が長すぎて何回か読み直さないといけない時がある。面倒なので具体例は省略。
芸能界の話題も幾つかあり、ほとんどその方面に関心のない私には、どうでもよかった。
雑誌で週に一回読むのならばこの形でもいいのだろうが、一冊の本には何かまとまりが必要ではないか。幾つかにテーマを絞り、集中して考察を重ねるようにしたら、すごい本が出来ると思う。この形だと、なんとかの遠吠えみたいになってしまう。勿体ない。大変な下調べもしているようなので、著者には是非、焦点を絞った本を書いて欲しい。
最後に、読んでいて楽しい本ではあります。

★★★ 君たちはどう生きるか 吉野源三郎
1937年、吉野源三郎が書いた、日本少国民文庫の一冊。戦争に突入する時代に抗う性格を隠し持ったシリーズ、というか、児童向けの哲学書といえるか。2017年、漫画になって、元の本とともにブレイク。宮崎駿が、次の映画は「君たちはどう生きるか」というタイトルに知るといったとか。
こういうベタなタイトルの本は普通読まないのだが、映画や本の選択の参考にしているブログで大絶賛されていたので読んでみようと思った。15歳のコペル君という主人公が日々の生活の中で、経験を踏まえて生きるということについて考えるという構成、大学生の叔父さんのアドバイスが挿入されていて、良いような悪いような。主人公が主に学ぶことは、自己中心から人の繋がりへ、いじめへの対処、貧困について、ナポレオンと善良な一般人、友人への裏切りとそれへの対処、特にこの最後の問題に力が入っている。確かにどの問題も今でも考えなければいけないことである。この本の内容が、現在でも役に立つのか、私にはよく判らない。主人公の生活環境から考えて、上流階級の考え方が根底にあるように思われる。しかし、本が売れているということは、感動している人が多いということだろう。
本の最後は:
 そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。――
  君たちは、どう生きるか。
(p.299)
私が読んだ、2006年発行のワイド版岩波文庫の最後に、作品について(吉野編三郎)、『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる――(丸山真男)、が付いていて、読み応えがある。

★★ なるべく働きたくない人のためのお金の話 大原扁理
著者紹介には次のように書かれています:
1985年愛知県生まれ。25歳から東京で週休5日の隠居生活を始め、年収100万円以下で6年間暮らす。現在は台湾に移住し、海外でも隠居生活ができるのか実験中。著書に『20代で隠居 週休5日の快適生活』、『年収90万円で東京ハッピーライフ』。
これからも判るように、「隠居」の意味が普通とちょっと違うようです。著者の言う隠居生活は、週2日働き、後は好きなことをすると言うよりは、嫌なことはしないという生き方だと思いました。はっきり言うと、私には著者の言うことがよく理解できません。論理的に破綻しているところがあると思うのですが、そこを追求する気力はありません。最後の第五章、お金と話す、お金と遊ぶ、というタイトルなのですが、お金を人格化していて、ぶっ飛んでいます。これは三冊目の著書、タイトルをお金の話としたためにひねり出したものとしか思えません。ただ、生き方としてはいいと思います。台湾ではどのような生活をしているのか。本が出たら読むか?

★★★ わたしの森に アーサー・ビナード/田島征三〔絵〕
本の最後に以下の記述:
この絵本は、新潟の森から生まれました
新潟県十日町市鉢集落に、廃校をまるごと「空間絵本」としてよみがえらせた、
田島征三の「絵本と木の実の美術館」があります。
アーサー・ビナードが鉢集落を2年にわたって訪れ、その雪国の
四季とくらしを体験しながら、田島征三とのコラボレーション
「カラダのなか、キモチのおく。」を制作しました。
作品は「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018」で発表。
この『わたしの森に』は、同じ生態系の中で発見した物語です。

アーサー・ビナードはアメリカ生まれ、大学で英米文学を学び、卒業後来日、日本語で詩作をはじめる、受賞多数。
広島在住で、雑誌などに面白い文章を書いてる。多分、そのどれかでこの本を知った。
わたしの 森に
こんばんも
雪が ふる

このように本は始まります。独特のオノマトペが興味深い。
まあんまあんまあんむんむんむんしんしんししんしんしーん、など。
「わたし」とは? 少しずつ明らかになっていき、答えは、「ま」「む」「し」。
メスのまむしから見た、森の描写、生の営み、が描かれています。
子供用絵本の体裁ですが、大人でも充分楽しめる内容です。

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