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読書中 世界の辺境とハードボイルド室町時代 高野秀行 清水克行

★★★★ さよなら、田中さん 鈴木るりか
著者は2003年生まれ。小学校4年生、5年生、6年生の時に、3年連続で小学館の「12歳の文学賞」大賞を受賞した。この本には、その4年生の時と6年生の時の受賞作が掲載されている。大幅に改稿、と書いてあるから、出版の時の2017年の作品と思った方がいいかもしれない。他3作品は書き下ろし。それにしてもすごい。とても中学生が書いたものとは思えない。4作品は母と暮らす小学生の娘が主人公。最後の、「さよなら、田中さん」はその女の子を男の子から見た物語。この作品の世界は、著者の世界とは全くかかけ離れたもののようで、驚くべき創作力。特に表題作は現代の様々な問題を取り込んでいて、ただただ感心するばかり。次回作を期待。それにしても、藤井聡太といい、恐ろしい中学生が出てきたものです。
自分とは、あまりにかけ離れている人、明らかに別世界の人は、嫉妬の対象にならない。同じようなレベル、階級の人に嫉妬心は生まれるのだ。(p.171)
悲しい時、腹が減っていると、余計に悲しくなる。辛くなる。そんな時はメシを食え。もし死にたいくらい悲しいことがあったら、とりあえずメシを食え。そして一食食(く)ったら、その一食分だけ生きてみろ。それでまた腹が減ったら、一食食べて、その一食分生きるんだ。そうやってなんとかでもしのいで命をつないでいくんだよ (p.238)

★★★ 聖書、コーラン、仏典 中村圭志
タイトル通り、世界の有名な宗教教典の概要を述べるガイドブックである。今年になって読んだ4冊の本のうち2冊が宗教関係、特に宗教に興味を持っている訳ではなく、たまたま私のアンテナにかかった面白そうな本がそうだっただけ、と思います。そうではないかもしれません。何しろ年を取って死期が近づいているのですから。それは兎も角、面白い本です。聖書についてはある程度知っていましたが、他については今回かなり整理がつきました。そして、宗教間の類似点への言及が興味深い。確かに似ている面も多いのでしょう。第6章で、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道、について述べられているが、簡略すぎるのが少し残念。
第1章 旧約聖書
第2章 新約聖書
第3章 コーラン――正しい社会の建設
歴史的にはイスラム教徒は多神教のヒンドゥー教徒とも共存してきたし、日本のムスリムも日本の宗教的慣習に対してとくに口出しはしない。キリスト教の場合、「真理」ならざるものを信じる異教徒はすべて改宗させようという動機が強かったが、イスラム教徒のはうが布教には消極的だった。(p.156)
第4章 パーリ仏典――仏陀の修行マニュアル
ブッダは悟りを他人に教示することに消極的であったのだ。これは仏教が社会に無関心な隠遁(いんとん)主義的な傾向をもつことを意味すると解釈する向きもあるが、むしろ、悟りというものの本質的な「語り難さ」を表現するものであるかもしれない。社会に関心のあるユダヤ教においても、預言者は神のお召しを受けるとき、決まって辞退している。それは絶対者を前にした遠慮であるが、ブッダの躊躇(ちゅうちょ)に通ずるところがあるかもしれない。神の畏れ多さと、悟りの語り難さ。聖なるものの超越性を暗示しているのである。(p.173)
第5章 大乗仏教――諸仏の救済ビジョン
法華経のメッセージは、次の三つに要約できる。第一はあらゆる衆生の成仏可能性、第二はそれを応援する久遠の釈迦の存在、第三は釈迦の恩義に応えて菩薩道を歩むべきこと、である。キリスト教になぞらえれば、万人が潜在的に天国に行けること、それを神キリストが応援していること、そしてキリストの恩義に応えて神に忠実であるべきこと、となるだろう。(p.244)
宗教家は聖書やコーランや仏典のような聖なるテキストを権威の源泉と仰いで、その解釈によって自己の世界観・救済観を作り上げるが、それは実は能動的な営みである。彼らはときにはテキストとの格闘の末、思い切って踏み込んだ読み方をする。そのような営みの中で、漢訳者はサンスクリットの原典の意をとって漢訳仏典を作成し、中国や日本の宗派の開祖たちは漢訳仏典の最重要ポイントを絞り込んで大胆な新解釈を行なった。そもそも、インドの大乗仏教の運動家たちも、自己の瞑想と社会的実践の中で釈迦の仏教を再解釈して、大胆にも大乗仏典という新興のテキスト群を生み出したのである。それは旧約の伝統に立って新約聖書を生み出した初期のクリスチャンの営為に比べられるものである。(p.260~p.261)
第6章 東ユーラシアの多神教の教典
〔神道において〕罪が「水に流す」という感じで消えてしまうのは面白い。キリスト教のように、個人に罪を自覚させて、俄悔させるわけではない。仏教のように、個人に煩悩から脱却する修行を勧めるわけでもない。いずれにせよ神道は個人主義ではなく、共同体主義である。祝詞においては、人ほみな共同体の連帯と自然界のエコロジカルな秩序の中に生きている自分を思って、拝聴し、かしこまるのである。罪はいわば共同体の連帯責任であり、罪を運び出すのも複数の神々の連携プレーである。(p.292~p.293)
終章 教典のエコロジー
「聖書」「コーラン」「仏典」「ヴェーダ」といった教典と名指された文書はただそれだけで成立しているものではなく、周辺の文脈込みで機能してきたことが分かってくる。そうした文脈の中には教団組織もあれば歴史的環境もある。生物が周辺環境から切り離せないというエコロジー(生態学)に例えて、「教典のエコロジー」のようなものを語ることもできるだろう。(p.303)
第6章の内容を詳しく書いてある本を探して読んでみよう。

★★★★ 日本語のために 編者=池澤夏樹
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻の30番目。今年度完結の予定が、源氏物語の中と下の発売が遅れているようです。この巻は、編者の説明によると・・
はじめに/全体の方針/「日本文学全集」全三十巻の中でこれは他とは趣の異なる一冊になるだろう。特定の文学作品ではなく、さまざまな文体のサンプルと日本語に関する考察を集める。琉歌(りゆうか)など他の巻に収めきれなかったものをここで拾うという意図もある。(p.9)
その琉歌を一つ・・
215 夏ぐれのすぎて 露の玉むすぶ 庭のなでしこの 花のきよらさ 読人(ゆみびとぅ)しらず
方音 なついぐりぬすいじてい、ついゆぬたまむすぶ、にわぬなでいしくぬ、はなぬちゅらさ
語意 「夏ぐれ」は夏のにわか雨、夕立。
歌意 夏のにわか雨がすぎて、露の玉を宿している庭のなでしこの花が美しい。
解説 夏ぐれという言葉は、しやうんがない節の「降らぬ夏ぐれに我袖ぬらち」とあるのが有名で、大変面白い言葉だといって、折口信夫(おりくちしのぶ)氏がこの言葉を入れて短歌を作られたことがあった。
以下略 (p.185)
ここに掲載されている琉歌はすごい。方音が判らないが、きっと素晴らしい響きではないか。引用したいところがたくさんあり、あまりに多いので諦めた。目次だけを書いておくと、1古代の文体、2漢詩と漢文、3仏教の文体、4キリスト教の文体、5琉球語、6アイヌ語、7音韻と表記、8現代語の語彙と文体、9政治の言葉、10日本語の性格。どれも興味深かったが、7以降が特に面白い。ひとつだけ引用、10の中の、私の日本語雑記(中井久夫)から以下の部分。
間合いがいかに伝達に必要かを示す端的な事実がある。同時通訳者は、同時通訳は生(なま)の話し言葉だからできるのだと異口同音に言う。語調、間合い、ためらい、間投詞、そういうものなしでは同時通訳は成り立たない。何語に限らず、そういうものがあってはじめて生きた言葉なのだ。「あのー」はいちばん単純な小道具であろう。(p.497)
なるほど、書かれた文章には「あのー」はない。「あのー」はどこに行ったのだろうか。何くわぬ顔をして「読点」に化けているのではないかと私は思う。「読点」の打ち方に法則が見当たらないのは、そのためではないだろうか。わかりにくそうな文章、こみいった文章では工夫して打つ。ひらがなが続くとひらがなで始まる名詞の前に打ったりする。もっとも、逆は異ならずで、読点の位置まで「あのー」のありそうな位置と一致するわけではない。読点の機能は一つでほないが、文章を書いていて一息つきたくなると読点を打つことが多い。(p.498)
最初に「はじめに」から引用したので、最後は「あとがき」から。
何かおかしな本ができてしまった、というのが編集を終えた今の感慨。この「日本文学全集」は古代から現代までを貫く歴史の意識に導かれている。その一方で日本ぜんたいという地理的な広がりを求める気持ちもある。その上にできるだけ多種多様な文体を収めたいという望みが重なる。それらすべての意図を集約的に具体化しようと試みたのがこの一巻だ。結果は人工衛星の高さにカメラを据えて、八世紀から二十一世紀までの間にこの列島の全域で起こった言語現象を微速度撮影で撮った動画のようなものになった。時を追ってあちらこちらで花が咲く。それを上から見る。大輪のものあり密やかなものもあり、日本語・漢語・琉球(りゅうきゅう)語・アイヌ語と、言語ごとに色が異なる。その間を自在に飛び回って蜜を集め花粉を運ぶ蝶(ちょう)や蜂は、花の種類を超えて文学的価値を受け渡す翻訳者だろうか。(p.523)
*****
この本を読むのに、いろいろなことがあり、一年以上を必要としました。

★★★ どう読むか、聖書 青野太潮
先日、広島修道大学の公開講座、『新約聖書』 冒頭のイエス・キリストの系図に登場する女性たち―旧約時代の記憶―、を受講しました。とても興味深い講義で、その時紹介されたのがこの本。260ページあまりに聖書のことが色々書いてあり、勉強になりました。特に、聖書の成り立ち、聖書の読み方、などについて、知らないことばかり、もっと若いときにこの本に出会っていたら、聖書をもっと深く読んだかもしれないと思いました。反面、詳しすぎるところもあり、また、宗教的な考え方も色濃く、没入できない部分もあります。特に気になったのが、著者が翻訳について誤りを指摘しているところ。私にはそれが本当に誤訳なのか判りませんが、読んでいる限り成る程と思いました。となると、我々が聖書を読むとき誤解するのではないでしょうか。この不安を解消してくれるのが、以下に引用している終わりの方の記述です。人間は不完全である、聖書もまた。
神の国の福音が先行しているのであり、それゆえに、それを受容するという意味での「悔い改め」をするのである。「悔い改め」をしたから罪がゆるされる、というのではなく、罪がゆるされているからこそ「悔い改め」をするのである。(p.45)
たとえ神からの「啓示」の書として聖書が受けとめられたとしても、そこにその啓示を受けた人間が介在している限り、それは「批判」を意味する「吟味」の対象とならざるをえない。そしてそれは、すでに述べたように、すべての人間は完全無欠ではありえず、ただ相対的な存在にとどまるほかはないという聖書自身の主張に全く合致するものである。われわれ自身はもちろんのこと、聖書を記した記者たちも、たとえいかに神の真理を求める思いにおいて純粋であり、其撃であったとしても、そのことはその人のとらえた真理の内容が誤りなき完全なものであることを決して意味しないのである。(p.151)
パウロが、「十字架のキリスト」のみを知りたいと語るのはなぜだろうか。それはその「十字架のキリスト」のみが「復活のキリスト」でありうるから、という理由以外ではない。逆に言えば、上述したように「復活のキリスト」とは「十字架のキリスト」であり続けているということだ。そしてそのことは、ここで「十字架につけられたキリスト」と訳されているギリシア語の原文からも言える。なぜなら、そこでは現在完了形の分詞が用いられているのだが、ギリシア語における現在完了形は、完了した動作が今も継続しているということを強調して言い表しており、それゆえここは、「今も十字架につけられてしまったままでいるキリスト」と直訳することができるからである。(p.209~p.210)
「福音書」もただひとつではなくて、四つの「福音書」が採用されたということの意味は大きい。その理由の第一は、すでに見たように、旧約聖書は決して首尾一貫する形でその神理解や人間理解を示しているわけではないにもかかわらず、その中心思想においては、イエスもパウロも、旧約聖書と彼らの福音の連続性を認めているからである。第二は、四つの「福音書」も、互いに決してすべてがピタリと符合する形で記述されているわけではないにもかかわらず、それらを修正することもしないで、そのまま正直に相互間の齟齬・矛盾をさらけ出しているからこそ、そこに人為的ではない真実味が浮かびあがってくるからである。人は、容易にそこに見られる相違を訂正して、一見して矛盾のないものに仕立て上げることはできただろう。しかし、それは歴史の改竄(かいざん)であり、多様なとらえ方を一色に塗りつぶすことであって、実に不健全な作為である。矛盾や相違は、むしろ豊かさを示すものとして受けとめられるべきであり、ただ否定的にとらえられるぺきではない。(p.239~p/240)
「聖書」は人間の書いた他の文書とは次元のちがう神聖不可侵なものなどでは全くなく、むしろ全く逆にその原典そのものすらも存在せず、ただ人間の、相対的なわざ以外の何ものでもない文献学的な作業によって再構成されているものだという事実は、聖書それ自身が告げている教説に深く規定された現実を示しているからである。すなわち、人間は決して絶対的な正しさを持つことはできず、ゆるされなくては生きていけない相対的な存在なのだ、という教説によって規定された現実である。(p.257)
聖書は、それが現在とっているその形姿そのものをもって、決して自らの聖書の読み方を絶対化してはならないということ、むしろ聖書自身がそうであるように、人間は誤り多く相対的であることを知るようにと促しているのだ、そしてまさにその自らの弱く足りない者であることを知っている者のただ中にこそ、おぼろげながらではあるが、神自身が自らの絶対的な意志をあらわにするであろう、という結論である。そして唯一そこに、真理を手にすることへのわれわれの希望は存在しているのである。(p.259)

★★★★ オーケストラ指揮法 高木善之
1996年に出版された本を、2007年に改訂。著者は音楽の専門家ではない。小さい頃からピアノや声楽を学び、学校では合唱をやっていた。就職してからも、職場で合唱団の指揮をし、ついにはオーケストラの指揮をするようになる。前書きは「前奏」と題され、以下は「第〇楽章」となっている。第1楽章は、オーケストラ指揮法。合唱指揮者からオーケストラ指揮者になるまでが書かれている。知っているようで知らないオーケストラのこと(練習法や人間関係など)興味深いことがたくさん。第2楽章は、交通事故。33歳の時、死んでいてもおかしくないひどい事故に遭います。その事故のことやその後の奇跡的な回復について、そして、その闘病中にいろいろ考えたことで、著者がどう変わったか、それ以前とそれ以後を対比して述べられます。第3楽章は、新しい生き方。合唱団、職場、家庭、についての記述です。第4楽章は、新しい気づき。今現在著者が取り組んでいる、NPO法人ネットワーク「地球村」に至る経緯。あとがきは「後奏」。<後記>もあり、出版後から改訂までのことが簡単に記載されています。私は本来、この様な生き方について書かれている本は読みません。何故かというと、説教臭いものが多いからです。この本も最後の方はその匂いがします。しかし、それを消してしまうだけの迫力があります。私が音楽好きということもあるのかもしれませんが、七十歳前の人間が読んでも得ることがあります。若い人たちはもっと得るとこが多いと思います。オススメです。