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読書中 日本語のために 編者=池澤夏樹
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集30
~p.143

読書中 どう読むか、聖書 青野太潮


2017年、読んだ本は43冊。映画の激減に比べればまあまあでしょうか。難しい本が多かったということもあると思います。それにしても乱読です。もう少しテーマを持って、体系的な読書が必要かな。とはいえ、楽しむために読むのだから、あまり気にせず、気の向くままに行きましょう。


★★ 値段のカラクリ 宝島社TJMOOK
タイトル通り、値段のカラクリ、特に、原価率を取り上げている本。そこに注目しているので、その他のことが疎かになっている。つまり、人件費、広告費、固定費、などの考察が簡単すぎて、ちょっと物足りない。まあ、このページ数で幅広く色々なものを取り上げているので、そこまで要求してはいけないのだろう。昔温泉宿について次のように書いてあるのを見た:人件費30%、食材費25%、管理費20%、営業費15%、減価償却10%。これを読んですごく腑に落か感じがした。今回この本を読んで、今ひとつスッキリししないのは値段の全体を見ていないからなのではないかと思う。
この本で面白かったこと:
豪華客船クルーズに関して――原価計算するだけ野暮!?損得勘定とは無縁の世界 (p.71)
カツラに関して――口コミが期待できない (p.84)
結婚式・披露宴に関して――リピーターが望めない (p.89)

★★ 九十歳。何がめでたい 佐藤愛子
大層話題になっていたので読もうと思いました。で、図書館に予約。今年1月のことです。その時、453番目でした。12月、335日でやっと順番が巡ってきました。二日で読了。読みやすい本です。雑誌に連載されたエッセイ、特に奇を衒ったことを言っているのではなく、一昔前の常識を述べていると言えるでしょう。話題は広範囲で、割と最近のことが多いように感じました。来し方を振り返り、人生訓みたいなことが書いてあるのでは、と思っていた私には一寸拍子抜け。まあ、面白く読めたのでヨシとしましょう。市の図書館全体で30冊を所有し、今でも700人を超える人が予約をしているという人気です。

★★ 私たち、戦争人間について 石川明人
副題、愛と平和主義の限界に関する考察。Homo Bellicus, An Essay on Love and War という横文字も書いてある。著者も、あとがきに代えて、で書いているように、この本はエッセイのようである。様々な文献を引きながら、ああでもないこうでもないと述べていて、論文のようでもありながら、主張は弱い。
序章 この世界のいったいどこに神がいるのか
まず、ルワンダの大虐殺について書いてある。文章で読んでもすごい光景が浮かび上がってくる。
人道的なつもりの介入も、他国の政治に干渉するものである以上、純粋に中立的なものはありえない。ルワンダ大虐殺は国際社会の介入が少なすぎたという点で失敗だった。しかし、例えば、ほぼ同時期のソマリア内戦などは、逆に介入が大きすぎたという点で失敗だったとも言われている。(p.19)
第一章 戦争の原因は何か、という問いについて
あらゆる時代のあらゆる集団における戦争原因のエッセンスとして、さしあたりは、トゥーキュデイデースやホップズが指摘した「利益」「恐怖」「名誉」の三つを覚えておいてもいいだろう。確かにこの三つは、ほとんどの戦争の根底にあると言えそうだ。しかし、もう一度よく考えてみると、「利益」「恐怖」「名誉」の三つは、果たして「戦争」に特有なものなのか、という疑問も生じでくる。(p.41)
第二章 戦争は人間の本性に基づいているのか
人間だけが、自分の身体と無関係に発達した武器を手にしてしまった。だが、武器相応に強力な「抑止」は用意されていない。一撃で仲間を殺せるほどの武器を発達させたとき、その動物、すなわち私たち人間は、種の存続をおびやかしかねないその武器の使用を妨げるような社会的抑制をも発達させなければならない (p.83)
第三章 戦争の役に立つ技術と知識
「軍事」というのは、社会のなかの特殊な一領域なのではなく、その社会が持っているあらゆるものを用いる際の方向性だと言ってもよいかもしれない。そうした意味では、「軍事」そのものが実在するわけではないとも言えるし、「軍事」はすべての領域に拡散しているとも言える。(p.161)
第四章 あまり自明でない「戦争」概念
非軍事の戦いを軍事の領域と密接にリンクさせ、軍事闘争を政治のみならず、経済、文化などの分野での闘争とも呼応させていこうとする考えを、中国は堂々と打ち出しているのである。貿易、金融、外交、国際交流、資源、宗教、芸能文化、スポーツなど、あらゆる物事が戦争と関連づけられる。残念ながら、人間を幸福にするものは、戦争にも「使える」のだ。戦争は特定の一領域にとどまることなく拡散し、社会のあらゆる領域に溶け込んでいくのである。(p.183)
第五章 戦時における人の精神と想像力
「群衆」は、しばしば犯罪的行為を行う。単独であれば宮殿に火をつけたり、店舗を荒らしたりできないが、群衆の一員になって巧みな暗示を与えられると、一瞬のうちに残忍で凶暴になり、容易に略奪や殺人もやってのけてしまえると指摘されている。しかし、その一方で、群衆は何かのために自らを顧みない犠牲的な、無私無欲な行いもすることができるともいう。特に、栄光とか、名誉とか、信仰、祖国などといったことに関する感情に訴えれば、人々は見事に自発的に動くのであり、歴史というのはそうしで作られていくのだ (p.203)
第六章 私たちの愛と平和主義には限界がある
どのような国際関係であれば国家間の衝突は起きにくくなるのだろうか。一国が圧倒的な力を保持している状況では戦争が生起する可能性が最も低くなる、という考えもあれば、冷戦期の米ソのように、力の括抗する二つの大国が存在する状況が戦争の可能性を低くするという考えもあり、力の均衡する三つ以上の大国が存在する状況こそが戦争の可能性を最も低く抑えるといった考えなど、さまざまな見方がある。いずれにしても、個々の国がいくら進歩しでも、国と国との関係が常に平和的であるという保障はない。いまのところ国家よりも上位の権力はないので、国家間での葛藤は調整や解決が難しく、武力闘争に発展してしまう可能性はなかなかなくならない。そこで、これまで、いわゆる「世界政府」構想がさかんに議論されてきた。(p.246)
結局著者が何を言いたかったのかよく判らず、共感するところも反論するところもなく、読後スカッとしない。

★★ 楽しい縮小社会 「小さな日本」でいいじゃないか 森まゆみ・松久寛
以前何処かに書いたが、高校時代の政経の授業で、資本主義は拡大再生産を続けなければいけない、と聞いて疑問に思ったことがあった。今は、拡大再生産は続けていくことが出来ないと思う。しかし、現実世界は飽くことなく成長を求めている。何時か破綻するのではないか。私が生きている間は大丈夫かもしれないが、子孫の世代は次第に歪みがでるのでは。この本はこの様な疑問や不安に一定の解決への方向性を示している。しかし、考え方は正しいと思うが、論拠に理解できないところがあり説得力に欠けている。対談という形を取っているためかもしれない。著者二人が書いている本を読んでみたいと思う。
松久 一九六八年に全世界的に学生運動が起きました。ドイツではその活動家が地方議会から政治に参加していき、現在の緑の党につながっていると思います。日本でもそのころに闘った人たちが議会にどんどん出ていったらよかったと思います。(p.87~p.88)
私の世代に対してのこの指摘にはドキッとした。
ある本に「自立とは依存先をいくつ持っているかということ」と書いてあってそう思った。母は血縁地縁にたくさんの依存先を持っており、それで一人で生きていける。こういうのを「自立」というのだろう。(p.225~p.226)
対談は、森まゆみの文章に挟まれている。上の引用はその森まゆみの文から。確かに、自立はそういうことかもしれない。

★★★ 痛くない死に方 長尾和宏
以前何かで次のようなことを読んだ。肉体が死のうとしているのに無理矢理生かそうとするとそれが苦しみの元になる。この本はまさにこのことを丁寧に説明している。とても説得力があり、素晴らしい本だと思う。医者は病気を治すのが仕事である、ということは確かだが、回復の見込みがない患者の命を、生きていると言えない状態で長らえさせるのは問題がある。恐らくほとんどに人はこのことが判っているのに、何故平穏に死ぬことが出来ないのかもこの本に書かれている。医者の立場、家族の思い、なかなか単純には行かない。私も子供たちには言ってはいるが、明確に文章にして残そうと思う。
欧米各国の人が言う「<自殺が>許されている」というのは、法的なことでも倫理的なことでもなかったのです。それはつまり、「神様に許されている」ということ。仏教には、「自殺をしたらあの世に行けない」という教えは無いように思います。しかし、キリスト教やイスラム教においては、自殺はご法度。神様からの借り物である肉体を殺(あや)めることは重大な罪とされているようです。さらに日本は、つい最近まで切腹さえ存在した国。時代劇で見るサムライたちの〝ジャパニーズ・ハラキリ″は欧米の人から見ると、クレイジー! というか、アメージング! というか、とんでもないことなのです。もちろん現代日本人にはあり得ないことですが、ともかく欧米人は、自殺のできる国ということで日本人に畏怖(いふ)すら抱いているようでした。(p.39)
自然な死に方とは何か? 枯れゆくように死んでいく、ということです。それでは、自然な死に方の反対の死に方は何かと言えば、溺れながら死ぬ、ということ。人生の最期の10日間に過剰な点滴など延命治療をした人は、痰や咳で苦しみ、ベッド上で溺死している。これが日本人の大半なのです。(p.42)
人は生まれたとき、体重の約8割が水分です。それが、成人したときには約6割に減少しています。そして高齢者になると半分以下となっていきます。終末期を迎え平穏死される時には、(これは在宅医としての私の実感ですが4割といったところでしょうか。しかし、終末期以降も不必要な延命治療を続ければ、それは無理に肥料や水をやりすぎて根腐れをした木と同じようなもの。最後まで1日あたり2?もの輸液を行うと、心臓や肺に過剰な負担がかかり、心不全と肺気腫(はいきしゅ)でもがき苦しむことになるのです。つまりベッドの上で溺れているのと同じ状態です。(p.44)
ある葬儀屋さんがこんなふうに言っていました。「自宅で平穏死した方のご遺体は軽い。でも、大学病院で亡くなられた方のご遺体はずっしり重いんです」。実は、枯れて死ぬ最期(平穏死)と、溺れて死ぬ最期(延命死)では10㎏以上の体重差があるのです。(p.45)

★★★★ 聖地巡礼 Cntinued 内田樹×釈徹宗
聖地巡礼、四冊目。次は佐渡、と予告があったと思っていたのだが、対馬だった。ビックリ、そして嬉しかった。対馬は父親の出身地、私も何度か行っている。今回一行が巡ったところの半分ぐらいは実際に訪れている。まあ昔のことだが。その他はその様な所であるかは聞いたり、写真を見たことがある。なので、読んでいてとても納得できた。今回の巡礼には、地元の歴史家、永留さんが同行、これまでの著者二人の対話にかなり食い込んで、雰囲気が変わっている。例によって、本論とは絡まないところもありますが、面白かったところを引用します。
 日本人の職種って大正時代には三八〇〇ぐらいあったのに、今は二五〇ぐらいしかないらしいですね。だから、どれはど多様性のない社会になっているか。日本人のほとんどが会社勤めという、かつて人類が経験したことない社会になっている。(p.64)
以下は対馬について
永留 高度成長以後は、ちょっと言葉が廃れてきたような感じしますけど、「風土」という言葉が昔はありましたね。やっぱり風土として日本なんでしょうね。
 古い日本が残る風土だということですか。
永留 天侯、気象なんかでも、日本には梅雨がありますから、家でも日本の場合は高床や障子で、湿気と暑さ対策が優先される。韓国のはうはオンドルで、冬の寒さ対策のはうが優先される。そういう風土に適した民俗文化とか風習。
 なるはど、そういうことか。
永留 だから、気象とか文化なんかも含めた風土の違いっていうのが、やっぱり民族の違いとかそういうところになっていくのかなと。
内田 植生も非常に日本的ですものね。韓国の南のほうとはまた違う気がします。すぐ近くなのに。ここの植生は明らかに日本列島のそれなんですよね。
(p.104~p.105)
内田 昔、天安門の前で行進するとき毛沢東がいたり朱徳がいたりして、後ろのほうにレーニンとかマルクスとかエンゲルスの写真も一緒に行進してたじゃないですか。あれは中国共産党の境内に、ご祭神としてマルクスやレーニンを勧請しているんですよ。
 そういえば、やってますね、写真を掲げて行進。
内田 毛沢東神社に合祀しちゃうの。毛沢東神社の神格を高めるために、いろいろと有名で霊験あらたかなご祭神を勧請してくる。
 有名どころを勧請か、そうか。ある種のパレードやデモ行進は、ハレの営みなんですね。
内田 同じですよ、マインドは。宗教を否定した国家では、それを政治指導者の個人崇拝で代用する。
 結局、人間は何かの信仰を基盤に社会を運営しているんですね。
(p.258)
内田 日露戦争のときに、ジェイコブ・シフというユダヤ人の銀行家が、日本が起債した戦時公債の半分を引き受けてくれたことです。シフはそれと同時に世界のユダヤ人金融家に通達して、ロシアの戦時公債を「買うな」と厳命したのです。シフはロシア皇帝がロシアのユダヤ人同胞の迫害と虐殺に加担したことを怒り、ロシア帝国にユダヤ人として鉄槌を下そうとしたんです。ユダヤ人の国際ネットワークが機能したおかげで日本は日露戦争で薄氷の勝利を収めることができた。(p.327~p.328)
内田 植島啓司先生にですね、聖地行くなら対馬でしょうと言われてですね、それを信じて対馬に釆ました。でも、釆てよかったです。まさに聖地でした。土地のすみずみに神話が堆積している。それも一層じゃなくて、古代から中世、近世、現代に至るまでのさまざまな霊的な物語が、その都度の関心に則して書き込まれていて、それが堆積して層をなしている。いくつも層が重なっていて、それぞれの層が発する響きが輻輳(ふくそう)して、ある種の宗教的倍音のようなものを立ち上げている。非常に不思議な経験をいたしました。これに類するものを、僕は京都や奈良では経験したことがないですね。京都や奈良はもっと物語が整備されている。枝葉を払ってあって、まっすぐに骨太のわかりやすいストーリーが貫通している。でも、ここは違いますね。(p.348)
この本を読んで対馬にまた行きたくなりました。皆さんも如何ですか。
次の巡礼は、国東半島、出羽三山、最終巻は恐山、その後は海外へ、とのことです。

★★★★ 聖地巡礼 Rising 内田樹×釈徹宗
このシリーズは面白い。最初に三冊目を読み、次に一冊目に戻り、これが二冊目、熊野です。数年前に訪問し、確かに聖地だと感じました。この本で言及されているところ全てにいったわけではありませんが、行っていないところもその雰囲気は伝わります。以下、熊野とは直接関係ないことも含め、心に響いたこと。
内田 いまのところ、世代間に敵意というはどのものはないと思うんですけど、格差拡大が進行していますから、資源分配のフェアネスを訴えることは必要なんです。格差が行き過ぎると、それに対するフェアな分配への要求も必ず行き過ぎになる。でも、フェアな分配を求める暴力性というのは、それを抑制するロジックが弱いんです。(p.56)
内田 だけど、正義が行き過ぎるのは、ある意味では自然過程なんです。日本人の民族性として、とことんまで行くしかないというのがありますよね。『忠臣蔵』や『昭和残侠伝』がそうですけれど。不正を芽のうちに摘んでおいて、なにごともないところで収めるというのが苦手で、それこそ「膿が出る」まで、患部の劣化を放置しておく。途中のほどほどのところで抑制して、微妙な補正を行なうというのが苦手なんです。それよりは、万人が「これはいくらなんでも非道である。許しがたい」と思ってくれるところまで悪を顕在化させておいて、最後に劇的に破壊して、自分も返り血を浴びる。(p.56~p.57)
この海洋の自然力の活用ということは平家滅亡から七〇〇年抑制されるんですけれど、それが幕末にまた復活してくる。勝海舟と坂本龍馬は幕末に操船技術を高めて、海洋を自由に行き来できる技術が日本が生き延びるためには絶対に必要だということを言い出しましたね。これは平家滅亡以来の海洋の自然力の再発見だったと思います。日本の歴史を見ると、「野性の力、自然の力なんて別になくてもいい」という人工的というか、都会的な文化が栄える時代がありますね。平安時代がそうだったし、室町時代もそうだったし、江戸時代もそうだった。そういう都市文化的な政治体制は、必ず野性のエネルギーを制御できる種族によって滅ぼされる。都市文化と自然力信仰って、そういうふうに互い違いに現れるものじゃないですか。(p.82~p.83) 内田
都市文化=京都、自然力信仰=熊野・伊勢・福原(大輪田泊)
内田 脳が巨大化した理由は「ペンディングする」という機能を備えたからだと思います。「これ、どっちなんだろ?」「よくわかんない」というとき「とりあえず、ここに置いとこう」とデスクトップにカテゴライズ不能なものを置きっ放しにする。そういう「処理しないで、ほうっておく」という作業はデスクトップをどんどん拡げて、脳の容量を上げることによってしか対応できない。はかの動物にはそういう「ペンディング」ができないけれど、人間にはそれができる。「名づけえぬもの」がここにあるという宙づり状態に耐えられる。それが人間のいいところなんです。(p.176~p.177)
以下、お寺と神社が並んでいることについて。
内田 キリスト教の教会とイスラムのモスクが並んでいるようなものですって説明するしかないですよね。
 説明すると、そうなりますよね。
内田 不思議ですね。宗教施設から発散されている霊的なものが等質なんです。波動に違和感がないっていうか。
 ここで宗教儀式を営む宗教者自身も、元々あんまり違和感がなかったのでしょう。
内田 だから実際、僧侶が神社に行ってお経を上げたり、神官がお寺に行って祝詞を上げたりしたわけですよね。そういった宗教的な相互交流が、廃仏毀釈までは日常的に行なわれていた。
 並んでも違和感ないのは、ここの場合はやはり滝が持つ力でしょうか。
内田 そうですね。やはり圧倒的な霊的な力の前では、教派や宗派の区別はどうでもよろしいのではないか、と。
 エルサレムもそうですね。あそこは場の持つ宗教性が強い。
内田 そうですね。
 だからモスクと教会が並んでいても違和感がない。那智大社も青岸渡寺もこの地の宗教性が強いので違和感がなくなる。

(p.188~p.189)
内田 パワーの強い憑代を持っている神社仏閣には、うんざりするほど世俗的な観光装置や金儲け装置みたいなものが付着していますよ。そうすることで、無意識にバランスを取っているんじゃないかな。(p.227~p.228)
内田 ヨーロッパにおいて自然は、攻撃的で威圧的なものとして観念されている。だから、人間は、それと対立し、攻略し、支配し、収奪しょうとする。ですから、その場合にはテクノロジー、科学技術が人間と自然の間のインターフェイスになる。人間と「人間を超えるもの」との間を架橋するものが「機械ベース」なんです。機械的なものを介在させることによって、自然の巨大な力を人間世界の中に取り込み、有用なものに変換させる。でも、日本は違う。それはこの温帯モンスーンの列島の自然がヨーロッパのそれよりもはるかに人間に優しいからです。列島の自然は温和で、融和的で、共生可能なものとして人間を受け容れてくれる。自然と人間世界のインターフェースがとても柔らかいんです。だから、自然の大きな力を取り込むために使ったインターフェースは機械ではなくて、身体だった。自然と人間世界を架橋するものが「撃えられた身体」だった。だから、自然から大きな力を取り入れて、それを人間にとって有用なものに変換することを目指した人たちは、機械をつくるよりもまず自分の身体を整えた。感受性を高め、運動精度を高めて、自然と人間世界の間を架橋できるだけの能力を開発しようとした。(p.233)
身体を整えるシステム=平安末期の武芸、鎌倉期の仏教、室町時代の能楽、
神社の祭神さまも仏閣のご本尊も自分から動き出して何かするわけじゃない。祭祀の中心にあるものは身動きせず、何も語らないけれど、それを中心として場が整ってゆく。だから、本来の人間集団では、病人であったり、幼児であったり、老人であったり、その人自身は何もしないし、何もできないという人が集団統合の中心になったんじゃないでしょうか。(p.253) 内田
熊野本宮大社、大斎原、が未訪。行ってみようと強く思いました。

★★★★ 聖地巡礼 Beginning 内田樹×釈徹宗
この前に読んだ、聖地巡礼 Returns は何かの書評で知ったと思う。シリーズがあると知り、この本に挑戦。まず、聖地巡礼の始まりについて書いてあり、以下この本には三ヶ所、大阪・上町台地、京都・蓮台寺と鳥辺野、奈良・飛鳥地方、への巡礼が紹介される。
大阪は、土地勘がなく、全体像が把握しにくかった。
神社って歩いてみておわかりのように、何もないですよね。お寺なら明確に修行の場であったり、説法の場であったり、そういう意味付けがあって、体系化されています。でも、神社ってコンピュータのハードみたいなものです。それ自身はニュートラルな状態で、そこにソフトが入り込むことによって動く。ですから、神社の境内で芸能が発達したり、アートが発達したり、その都度、信仰が上書きされていくわけです。都を守る神になったり、商売繁盛の神になったり、学問の神になったりする。その時代の人々の欲求を映す鏡みたいなものが神社です。その都度、ニーズに合わせて姿を変えます。(p.51~p.52)
次は京都。場所は判るのだが、船岡山に入ったことがないので、書いてあることに今ひとつ感情移入できない。私が霊的人間ではないということも多いに影響していると思う。
個人的に思うのですが、人間の世界に侵入してくる異界のものは、実際にはそんなにおどろおどろしいものじゃない。なにかこちらの気の弱りとか、自己規律の破綻とか、緩みとか嫉妬とか、憎悪とか呪いといった、人間的なかたちをまとって入り込んでくるんじゃないかと思うんです。そういうネガティブな感情って、実は「非人間的なもの」が人間世界に入ってきて、「人間的なもの」と化学反応してアマルガムみたいなものをつくってできたものじゃないかという気がするんです。だから、そのケミストリーの材料になったものを向こう側に押し戻さなくちゃいけない。そういう境界線を人間はどこかでつくったんだと思います。
別に「非人間的なもの」とか「人間的なもの」が単独で実在しているわけじゃないんですよ。そうじやなくて、「非人間的なもの」と「人間的なもの」の間には境界線があるという「お話」を創り出したときにはじめて人間は「人間性」という観念を手に入れたんだと思うんです。境界線を引いたことの事後的な効果として、人間というものが立ち上がった。だから、本質的には境界線は恣意(しい)的なんです。あらゆる境界線がそうであるように。男と女も、昼と夜も、戦争と平和も、清浄なものと磯れたものというふうに人間は境界線を引くけれど、世界は実際にはアナログな連続体ですから、切り分けることができない。でも、人間は切り分ける。切り分けることで人間になった。話がややこしいのは、悪意的だからといって、境界線はどこに引いてもいいというものじゃないということです。ここらへんが境界線かなという感覚がある程度集合的に同意されないと、境界線なんか引けない。だから、「あ、ここに境界線がある」という身体実感があったときに、振り返って「ねえ、ここにあるよね」と訊ねると、かなりの数の人が頷(うなず)くということがないと、境界線にはなれない。神社仏閣とか「入り口の石」があるところって、やっぱり「お、ここだ」という身体実感が共有された場所のはずなんです。どうしてそういう境界線感覚を感じるかというと、そういうことはこれから科学的な調査でだんだんわかると思うんですけれど、地磁気が違うとか、活断層があるとか、地下水脈があるとか、地質の形成期が違うとか、そういう地球物理学的な差異がたぷんそこにはあるんだと思います。それを身体的な直感で感じ取って、そこに線を引く。それによって異界とは区別された「人間が住む、人間だけの世界」という観念を立ち上げる。そういうことが長い歴史の中で繰り返されて、土地が霊的に分節されるということが可能になる。あの船岡山は、地質学的にはただの石の山なんですけれど、あきらかにパワースポットなんですよ。あそこに行くと、何かちょっと気持ちの中に透明なものがスッと入ってくる。その透明感って、たぶん人間が生きる力を高めるために不可欠な経験なんだと思う。この透明感が霊的トポスには共通してありますね。(p.234~p.235) 内田
三日目は奈良。それ程行ったことはないのにビリビリと感じることが多い。奈良はそういう土地なのかもしれない。
重ね塗りから生まれるハイブリッドつて面白いですよね。各民族それぞれのトーテムがあったりしますでしょ。トーテムというのは、その民族のシンボルになる動物のことです。たとえば、モンゴル民族は自分たちをオオカミの子孫だと考える。はかにもヘビやサルの子孫だと考える民族もある。だから、そういった人たちが一緒に国をつくるために融合していくと、トーテムも融合していく。
(p.259)
内田 結界って、スクリーニング機能なんですよね。神社、お寺、学校も、だいたい門とか鳥居とかがある。あれが霊的バリアーとして働いている。ある種の人はそこをうまく通り抜けられないから。結界はそこを通り抜けるときに、いまの自分とは別のものにならないと通り抜けさせてもらえない。それが厭だという人は結界の中には入れない。結界って、そういう機能なんですよ。自分のままでいたい人間はそこに入れない。「なんかやだな」で前を素通りしちゃう。塀とか垣根とか門とか水路とか、何かがあって区切られているとき、そこを越えるときには、かがみ込んだり、服装を整えたり、背筋を伸ばしたり、合掌したり、手を洗ったり、口を漱(ゆす)いだり、何かしなくちゃいけない。それが厭だという人は入れないんです。オレはオレのままでいたいという人間は、結界を越えることができない。(p.262~p.263)
最後にまとめ。
さて、今回で大阪、京都、奈良と三つの聖地を巡りました。思い返してみますと、いかがでしたか。それぞれやっぱり三者三様のような感じがしますが。
内田 大阪がいちばん霊的にはダメでしたね(笑)。大阪は本来、霊的なセンターであり、それが都市としての力を賦活していたはずでしたけれど、世俗の力によって本来の霊的エネルギーが枯渇している。大阪ほ閉塞感があるとか沈滞しているっていわれますけど、でもそれは霊的な力が弱ってるんですよ。だから、さらに世俗的な方向で都市計画を立てて、箱物つくったり、カジノを建てようとしたら、霊的な力はますます衰えていくでしょうね。
それに比べて京都は、霊的なポテンシャルを近代化した都市の中でも高めに維持することに成功していますね。奈良は、さらに霊的なエネルギーが生き残っている。(p.309~p.310)
日本人て、一九四五年に国土が焦土になったところから出発して、そこからの復興という文脈で風景を考えていますよね。でも、ほんとうはそうじやないんだと思う。空襲を受けなかったら、現代日本の風景だって、まったく別のものになっていたと思うんです。東京だって、江戸時代からある建物と戦前の建物と現代建築がブレンドされたいい味の都市になっていたと思うし。だから、奈良を見ると、戦争がなかったときの日本の風景について想像できるんです。そこに古代からの連続性を感じられる。(p.312)) 内田
京都・奈良にまた行きたいと思う。見る目、感じる気配、がこれまでとは変わるのではないか。

★★★★ 聖地巡礼 Returns 内田樹×釈徹宗
著者二人が中心となって聖地を巡るシリーズの一つ。今回はキリシタンをテーマに長崎を訪れ、最後に少し京都・大阪にも行っている。ほとんどが私にとって土地勘のある場所なので、読んでいてムードがよく伝わった。だが、私には霊的なものが備わっていない(と思う)ので、その点では今ひとつリアルに感じることが出来ない部分がある。内田樹は久し振り、相変わらず言っていることが心に突き刺さる。以下に引用したものは、本筋からは離れるものもあるが、説得力のある言説だと思った。引用はしなかったが、クリスチャンがプロテスタントより柔軟性を持っている、キリシタンは言葉の違いだけでなく信仰の中味も日本独自のキリスト教、隠れキリシタンが明治になって現れたことが西洋に衝撃を与えたこと、などが特に印象に残った。
やはりキリスト教という体系は、その前提となっているユダヤ教に比べると、内面を問うタイプの宗教であるからです。ユダヤ教が〝どう行為したか〟という「行為重視型」の宗教であるのに対して、キリスト教は〝信仰のあり様を問う〟といった「内面重視型」なんですね。だから、隠れキリシタンも成り立つわけです。たとえば、隠れムスリムなんて成り立ちません。日常生活の行為すべてにイスラムのスタイルがありますから、隠れるわけにはいかないです。そういえば浄土真宗にも「隠れ念仏」がありましたね。実は浄土真宗も内面を問うタイプなので、似たところがあります。よく似ていると昔から言われてきました。キリシタンの宣教師も、来日して浄土真宗を見て、「なんてプロテスタントに似ているんだ」などと言っています。キリスト教にしても、浄土真宗にしても、弱者の宗教という面があります。弱者が苦難の人生を生きるための手立て、それは「信じる」です。「信じる」という態度は、人間のあらゆる感情やパフォーマンスの中で最も強いものだと思います。そのあたりに弱者の宗教を読み解くカギがあります。(p.17~p.18)
内田 長崎はこれからキリシタンの遺跡を世界遺産に登録して観光客を誘敦しようとしているわけですよね。バスチャン屋敷に世界中のカトリック信者が参拝に来るようなったらいいですね。
 そうですね。長崎にはいい温泉もありますし、内田先生には長崎応援隊としてがんばっていただかないと。
内田 応援したいですね。それにカトリックは世界中に信者が十億人いますからね。
(p.177)
邪悪さというのは、どこからか「スケールの問題」になるんです。人間が制御できないものは人間世界に持ち込んではいけない。人間の物語に回収できないんですから。人間の身体を破壊するために設計された武器と、都市や文明を破壊する目的で設計された武器は本質的に違うものです。殉教は人間が人間を殺しているので、殺した人間と殺された人間にフォーカスすればその出来事の意味を考究することができる。でも、五二〇メートル上空で爆発させて十万人を一瞬で焼き殺す出来事にほもう人間が関与してない。だから人間的なスケールでの救いの余地がない。(p.201) 内田
家康には信長や秀吉のような中央集権志向がないんです。だから、徳川時代二五〇年間、ほとんど日本社会は変化していない。人口も二六〇〇万人から二七〇〇万人の間で、ほとんど増減がなかった。際立った施策は、森林保護なんです。戦国時代まではじゃんじゃん山の木を伐採して、築城や製鉄に使っていた。特に製鉄は大量の木材を消費した。そのせいで、戦国末期には日本の山は次々と禿げ山になっていった。その森林の保護を徳川政権が行った。ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』によると、人類史上で、文明による自然破壊を政治権力が介入して停止させた事例は徳川時代の日本だけだそうです。尾張藩では「木一本で首一つ」と言われたそうですから。それだけでも、徳川幕府がかなり特異な社会観に基づく統治システムであることがわかると思います。(p.234) 内田
豊臣秀吉はグローパリストの成長論者だったし、徳川家康は定常経済論者だった。立場がまったく違う二人が、それにもかかわらず「キリスト教はダメ」という点では一致した。だとすれば、それは政策レベルの判断ではなく、文化のレベル、霊性のレベルにおいての判断だったんじゃないかと思います。(p.242~p.243) 内田
成熟って、自分の未熟さを受け入れるってことだと思うんです。自分の幼児性をだましだまし自分という文脈に収め、何とか社会的人格に仕上げようとするのが成熟で。未熟さを断罪して抑圧するのは、結果的に未熟さを野放しにするんじゃないかと思うんです。(p.257) 内田
隠れキリシタンって特殊な形態ではあるわけですけれど、一子相伝で道統を伝えるという意味では、武道や芸道における師弟の道統伝承と構造的にはそれはど変わるわけじゃないと思うんです。自分が継承しなければ消滅してしまう貴重なものの伝承を託されたということほど人間に生きる力を与えるものはないですから。(p.289) 内田

★★ グローバリズム その先の悲劇に備えよ 中野剛志・柴山桂太
対談です。対談というものは、同じ考えをもった人が行うことが多く、読んでいて二人の違いが判りにくい。そして、反対意見がないので、素人には書いてある意見の欠陥が(あるとすれば)見えてこない。それはそれとして、ここで述べてある考えには説得力がある。基本的に、私もグローバリズムには胡散臭さを感じている。更に、規制緩和にも。この本にはこの先どうすればいいのか、という指針のようなものは明確には示されていない。ないのだろう。経済問題は事前に実験が出来ない。ぶっつけ本番の実行あるのみ。だからこそ、この著者とは違った考えも聞いてみたい。
製造業の復活ができずに、歴代の大統領は、政権の途中で金融のほうに走つて、金融バブルを引き起こして失敗してきた。金融業重視への転換が、レーガン政権ではブラック・マンデーに、クリントン政権ではITバブルに、ジョージ・W・ブッシュ政権ではリーマン・ショックにつながったわけです。なぜ金融でごまかすかというと、短い期間で簡単に成果が出るというのが理由の一つです。そして、先ほども触れたように、そもそもウォール街の金融層が政治を支配しているからというのが、理由の二つめ。金融化によって国が弱るというのは、まさに第一次グローバル化の時代のイギリスで起きたことです。イギリス経済は、もとより金融街の「シティ」が支配するような構造にあり、金融支配だった。したがって金本位制のほうがいい、自由貿易がいいという方向で進んだ結果、国内の製造業が弱ってしまって、覇権国だった大英帝国が凋落(ちょうらく)することになつた。(p.65)
冷戦時代からすでに、日米同盟はソ連を封じ込めるものであるとともに、日本を封じ込めるためにあったわけです。アメリカが守ってやるから、君たちは軍事大国になるなよと、くぎを刺す役割も持っていたことは、見逃せません。そう考えると、冷戦が崩壊して、「二重の封じ込め」のうち、ソ連を封じ込めるという意義がなくなつたにもかかわらず、日米同盟が維持されたのは、日本を封じ込めるというもう一方の目的がまだ生きているからだと理解できます。実際、一九九〇年に在日米軍の司令官が言っていたのですが、日米同盟というのは「瓶のふた」である、つまり日本が軍事大国化して、大きくならないようにふたを閉めているんだというんですね。この状況を歓迎しているのが、実は中国です。中国は二〇〇〇年代から軍事大国化しよぅとしていて、年率二桁で軍事費を伸ばし続けてきた。そんななかで、日本は米軍がいる限り封じ込められて強くなれないわけですから、これは中国にとって非常に都合がいい。(p.149)
本来の資本主義の原動力とは何かと考えると、「家族動機」、すなわち自分の家族のために遺産を残そうという動機なのではないか、とシュンペーターは言います。そうすると家族のため、子を守るためだから、当然、自分の寿命以上に長期を考えて行動するわけです。そうした、次世代の共同体のために、というのが資本主義のイノベーションの原動力だった。ところが、オーナー経営者がいるうちは共同体的な経営になるけれど、オーナー経営者がいなくなると、企業も官僚組織化していく。したがって資本主義は死に絶えて、社会主義の時代がくると。つまり完全に官僚制化された経済の世界がくる、というのがシュンペーターの考えたことでした。どうしてそうなるかというと、資本主義の本質は創造的破壊なので、資本主義の前提にある共同体的なもの、つまり、資本主義の基盤であるはずの共同体をみずから壊すんだというのですね。だからオーナー的なものとか、家族的なもの、ブルジョワ階級の家族的なものを資本主義は破壊するので、結局、資本主義は自分の成長の源泉をみずから締め殺して官僚制化して社会主義になる。そういう文脈において彼は「創造的破壊」と言ったんです。破壊されるのは資本主義で、創造されるのは社会主義だとね。ところが、何か勘違いした竹中平蔵氏とかあの辺の人たちが「創造的破壊」とかなんとか言って、規制緩和して既得権益をぶっ壊したら新しいものが生まれて経済が成長しました、なんていう軽薄な話にしてしまった。(p.190~p.191)
以上の引用の発言者は中野
柴山 シュペングラーは文明の没落を、古代の地中海世界をモデルに考えていました。あれほど文化的に豊かだったオリエント世界が、最後はローマ帝国に統一される。「バクス・ロマーナ(ローマによる平和)」の下で経済生活という点では立派な文明だったかもしれないけど、文化の創造性という点では前の時代に比べると見るべきものに乏しい、というわけです。
中野 文化から文明へ。

柴山 テクノロジーの分野では進化するんだけど、画一的で面白みのない文明になってしまった。それでローマ帝国は、最終的には蛮族と宗教によって滅んだわけですね。このテーマってヨーロッパでは、歴史家のエドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』を書いた一八世紀からありますよね。この時代は、近代の政治経済システムの立ち上がり期に重なります。文化が、ある均一化された文明に移行した段階で、その根本になる文化が衰退し、いずれは政治も経済も没落に向かう。そういう感覚が、その後の歴史哲学に流れ込んでいる。それで言えば、現代というのは文明史上、何度目かのまさにそういう時代なのでしょう。これは別に古代や中世がすばらしいと言っているわけでなくて、グローバル化によって我々が何を失っているか、それを確認したかったので出した話なのですが。(p.210~p.211)

★★ エマは星の夢を見る 高浜寛
エマ・メゾンヌーヴと言う女性が、ミシュランの調査員になるところからほぼ一人前になるまでを描いた漫画。実際の物語だと書いてあるが、どうなのか? ミシュラン広島版が出る頃、出没した調査員について様々な噂が流れ、エマのような調査員とは違っているように思われることが多々あった。フランスと日本(広島)の違いかもしれない。ともあれ、大筋ではこの本に書いてあるように、厳しい採用基準があり、厳格な訓練を経て調査員になるのだろう。ある程度実態を垣間見たような気がした。しかし、しつこいようだが、広島を調査したのはレベルの違う人たちではなかったのか。そもそも、一回出版してその後のフォローもなく終わりというのは、無責任だ。
上の文は10月10日に書いた。11日に、ミシュラン広島版が(愛媛と一緒に)来春発売、と言うことを知った。

★★ 宝くじで1億円当たった人の末路 鈴木信行
末路、広辞苑によると、①(力の衰えた)一生涯の最後。晩年。②転じて、物事の衰えたすえ。なれのはて。
この本の末路は少々おかしい。晩年でもないし、なれのはてでもない場合が多い。そしてタイトル、注目を集め売らんかなの姿勢が丸見え。まあそこそこ面白かったので許そう。
どの様な末路が書いてあるのか、目次を引用してみよう。第1章やらかした人の末路。宝くじで1億円当たった人の末路/事故物件を借りちゃった人の末路/キラキラネームの人の末路。第2章孤独な人の末路。「友達ゼロ」の人の末路/子供を作らなかった人の末路/教育費貧乏な家庭の末路/賃貸派の末路。第3章逃げた人の末路。自分を探し続けた人(バックパッカー)の末路/留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路/「疲れた。海辺の町でのんびり暮らしたい」と思った人の末路。第4章変わった人の末路。電車で「中ほど」まで進まない人の末路/「グロい漫画」が好きな人の末路/外国人観光客が嫌いな人の末路。第5章怠惰な人の末路。癖で首をポキポキ鳴らし続けた人の末路/8時間以上寝る人の末路/いつも不機嫌そうな上司の末路/体が硬い人の末路。第6章時代遅れな企業の末路。禁煙にしない店の末路/日本一顧客思いのクリーニング店の末路/リモコン発見器の末路。第7章仕事人間の末路。ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路/ワイシャツの下に何を着るか悩む人の末路2/男の末路/アジアの路上生活障害者の末路
著者(日経ビジネス副編集長)がその道の専門家の話を聞くという形を取っているので読みやすい。もとは日経ビジネスのインタビュー記事だったようです。それぞれに著者の結論と解説があり、希望のある書き方がしてあります。まあ軽い読み物で楽しめばいいのでしょう。
「日経ビジネス」は、過去幾度もこの残業問題を取り上げ、既に一つの結論にたどり着いています。それは、「日本人の残業が減らないのは、家に帰りたくないから」です。(p.242~p.243)
家に帰りたくない理由は、残業すれば出世する日本の仕組みにある、と著者は言っています。
メスが「妊娠して子孫を残す役割」を持つとすれば、オスの任務は「外敵から家族を守ること」 です。だからいつも縄張りを意識するし、周囲を警戒している。慎重ですから、環境が変わるとまずは状況の確認を最優先して、なかなか新しい行動に移ろうとしません。一方で、メスはそうではなく、〝守られている″という前提で行動します。だから、環境が変化しても、当初から積極的で思い切った行動をする(p.325)
女性は男性と逆に、人類誕生以来、延々と家庭を守り続けてきた。原始の時代、獲物を捕獲したいと思った女性もいたかもしれないが、子供をお腹に抱えていたり、男性が作った制度などに縛られたりして、それが許されなかった。その制限が消え始めたのは、産業革命が起こり、民主主義が誕生して以降の、人類史的には「つい最近」のことです。そう考えると、現代女性に、元気とやる気があるのも当たり前のこととも言えます。――なるほど。600万年分の思いが今、爆発している女性と、同じ年月分の疲れが出ている男性。だとすれば、草食化もやむを得ませんね。(p.327)

★★★ 人口と日本経済 吉川洋
副題:長寿、イノベーション、経済成長
第1章 経済学は人口をいかに考えてきたか
マルサスは、あくまでも関税によって国内農業を保護するべきだと主張した。そうしたマルサスの主張の背後にあった考えは、次のようなものだ。なるはど工業製品を輸出して農産物を輸入すれば、「一時的に」国内で消費できる食料を増やすことができる。しかし、規模を拡大しても生産性があまり落ちない工業と違って、土地の潤沢な「新世界」においてすら、新しい土地が開拓されていくにつれて農業の生産性は次第に低下する。その結果、農産物の価格は工業製品の価格に比べて上昇していく。一般に、生産性が低いモノやサービスの価格ほ、生産性が高いモノの価格に比べて高くなる。例えば、多くの家電製品の価格が低下していくのに対して、理髪店などサービスの価格は相対的に上昇していく。イギリスが工業製品を輸出する一方、農産物を輸入するなら、やがて農産物価格の上昇にょり次第に不利な「交易条件」で貿易.せざるをえなくなる。交易条件とは、ある国が輸出財を1単位外国に渡したとき、交換にどれだけの輸入財を手に入れることができるかを表す交換比率である。具体的には、輸出財価格を輸入財価格で割った輸出入財の価格比にはかならない。イギリスの場合には工業製品価格/農産物価格が「交易条件」である。マルサスは、これが長期的にイギリスにとって不利化すると考えた。したがって、農産物の輸入は人口問題の根本的な解決策にならない。実は21世紀日本経済の長期停滞においても、交易条件の悪化が一役買っているのである。(p.29~p.30)
第3章で論じるのは、この世のすべての生物が、指数関数的な高い増加率をもつ結果として経験することになる「生存闘争」である。これは、マルサスの原理を動物界と植物界の全体に適用した議論である。どの生物種でも、生き残れる以上の数の子どもが生まれてくる。しかもその結果として、生存闘争が繰り返し起こる。(ダーウィン『種の起源(上)』渡辺政隆訳)ダーウィンは、有名な自然淘汰(natural selection)のインスピレーションを、マルサスの『人口論』から得たのである。(p.34)
第2章 人口減少と日本経済
AI、ITは人間の「頭脳」を代替する点で旧来の機械とは違う。しかし、ブルドーザーがそれまでは人間の「筋力」に頼るしかなかった仕事を代替したのと、本質的にどこか異なるのだろうか。もう一つ忘れてはならないことは、AI、ITによってつくり出されるモノやサービスを消費するのは人間ということだ。消費する人間がそうしたモノやサービスを購買する。当たり前のことだがモノやサービスを買う人は、購買を可能にするだけの所得を得ていなければならない。すでに述べたとおり、歴史を振り返ると、伝統的に人間がやっていた仕事の多くは機械によって代替されてきた。しかしその結果、人間は「お払い箱」になったのではなく、むしろ労働生産性が上がり、賃金ほ上昇してきた。つまり、人々は機械のおかげで豊かになってきたのである。(p.87)
第3章 長寿という果実
1900年(明治33年)といえば、夏目漱石がロンドンに留学した頃だが、その当時の平均寿命は、アメリカ47歳、イギリス45歳、日本43歳であった。日本の平均寿命は英米に比べて若干短いが、今日の先進国グループと赤道直下のアフリカ諸国のような違いはなく、ほぼ同じ水準にあったと言える。これは、考えてみると不思議なこととも言えるのである。というのは、今日の世界の国々の平均寿命の違いを見れば分かるように、平均寿命は1人当たりの所得水準と高い相関関係を持っているからだ。つまり、豊かな国では平均寿命は長く、逆に貧しい国では短い。(p.107)
この頃の日本の所得水準は英米に比べて遙かに低かった。では何故?
有力な説明は、日本では英米に比べて工業化、都市化がはるかに遅れたからだというものである。これも一見すると不思議に思われるかもしれない。(略)今日、われわれは、ともすると「進んだ都市と遅れた農村」というイメージを抱きやすいが、実は19世紀末、こと人々の健康という点からすると、都市は農村に比べてはるかにリスクの高い危険な場所だったのである。医学の未発達、公衆衛生の不備により多くの伝染病が「死に至る病」であった時代、人々が密集する都市は健康を保ち長生きするのにはきわめて不利な場所だった。(p.108)
第4章 人間にとって経済とは何か
エンゲルの法則を成り立たせているのは、「食料に対する需要は飽和する」という事実なのである。(p.156)
ロバートソンは、大不況の原因として真っ先に「需要の飽和」(the gluttability of wanta)を挙げた。そして、これこそが 「最も根本的であるにもかかわらず、最も分析が難しく、しかも最も解決が難しい」問題だと述べた。需要の飽和が数多くの財・サービスに及べば、経済は大不況に陥る。それを克服するためには、「絶えず新しい欲望を刺激し続けるしかない」。皮肉屋であったロバートソンは、これに続けてやや斜めに構えたスタイルで次のように言う。「実際、この不道徳(immoral)な方法をコツコツと実践した国が、大不況という病を延期することに成功した国なのである」。あえて大不況を「解決する」とは言わず、「延期する」とロバートソンが言っているのは、新しい欲望を刺激し続けても、結局のところ経済は「需要の飽和」に勝てず、最後は大不況に陥らざるをえない、と考えていたということなのだろうか。(p.157)
著者は最初の「はしがき」で、本書はあくまでも経済と人口の関係についてのエッセイである。と述べている。まさにその通りで読みやすく興味を引く内容であった。

★★★ ゼロからわかるキリスト教 佐藤優
本書は新潮講座「一からわかる宗教」第一期(2015年1月~3月)の講義を活字化したもの。著者は元外務相の分析官。ロシア外交のエキスパートで、鈴木宗男に連座し失職。そのことを書いた「国家の罠外務省のラスプーチンと呼ばれ」は面白い本だった。同志社大学神学部の出身で、この本を読んでそのあたりのことがよく判った。博識多才な人で、その活動は広範囲にわたる。どうやったらそんなことが出来るのか、いたく感心するばかりである。この本(講義)の内容は、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」の解説である。附録にその全文が載せてある。だから、とても難しい。講義(話し言葉)なので読みやすい、が、理解は一筋縄ではいかない。マルクス執筆時のドイツがどの様な状況だったのか判っていないのが大きな問題のように感じた。まあ、私の理解力が衰えているのが根本的なことではあろう。
人間というのは抽象的な存在じゃない。物質的な存在であるけれども、同時に社会的存在である、つてことですね。例えば今われわれはここで日本語で話をして、それで物事を理解している。厳密にお互いどこまでコミュニケーションができているかというのは、これまたコミュニケーション論ですごく難しい問題になるけれども。ただ、言語というのは、私的言語というのは存在しないからね。自分の中で独語的に何かをやりとりしている時でも、必ず複数の自分が存在すると想定して、言語になっているわけだから。そうすると、言語によって何かを考えるという作業をしている以上、そこには必ず社会があるわけ。複数性があるのだから。ということは、純粋な主観って存在しないんだよね。主観というのは、常に共同主観なんだ。あるいは人間と人間の間にある主観だから、間主観なんだな。このへんのところから現象学へとマルクスをつなげていくことも可能なわけです。(p.64~p.65)
以下は、ハーバーマスの主張について。
いま、脳科学にせよ、あるいは動物行動学にせよ、そういった自然主義的なものが影響力を持っているのはヨーロッパと北米だけじやないかと。それ以外のところでは、伝統的で、宗教的な、いわゆる原理主義みたいなものが力を持っている。そして、彼らは自然主義的な考え方、いわゆる近代科学的な考え方、つまり合理性であるとか啓蒙であるというものを、全部否定してかかってくる。やがて、この流れがヨーロッパにとって脅威になることを見抜いていますよね。これ、翻訳が出たのは二〇一四年だけど、書かれたのは二〇〇五年です。二〇〇一年の九・一一によって、「これは大変なことが起きる」とハーバーマスは気づいたわけです。自然主義と宗教という二つの方向が全く交わらないでいると、そのうち大爆発を起こすぞと。(p.136)
ルターはたしかに帰依からの屈従を克服したが、それは確信からの屈従を代わりに持ってきたからであった。彼は権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を挽回したからであった。彼は僧侶を俗人らしくしたが、それは俗人を僧侶らしくしたからであった。彼は外形的な宗教心から人間を解放したが、それは宗教心を人間に内在的にしたからであった。彼は体を鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった。けれども、プロテスタンティズムは課題の真の解決ではなかったにしても、課題の真の提出であった。(p.181)
真に社会を変え、「生きていて苦しい」状況から脱するためには「急ぎつつ、待つ」という姿勢を取ることが重要と思う。社会を変えるチャンスは外部からやってくる。その機会を取り逃がしてはならない。そのためには、常に緊張して、全身で時代の徴(しるし)を受け止めなくてはならない。このことを私はキリスト教神学の研究を通じて学び取った。(p.202)

★★★★ 錆と人間 ジョナサン・ウォルドマン
ビール缶から戦艦まで、がサブタイトル。二段組み、350ページほどの大書である。
古いオンボロ船、という前書きのようなもので、自らヨットを買った経験を語ることからこの本は始まる。
船乗りの人生で最良の日は、船を買った日を除けば、船を売る日だ (p.7)
建造30年の船は錆だらけだった。
序章、蔓延する脅威――錆という敵、では様々な錆の害を取り上げる。
第1章、手のかかる貴婦人――自由の女神と錆、では、自由の女神像で行われた錆との戦いが記述されている。錆が発見された経緯、修復の取り組み、が詳細に記述され、興味深く読み応えがある。
第2章は、腐った鉄――錆と人間の歴史。9ページの章だが、うまく纏めてある。
錆ができる仕組みを説明することができなかった大プリニウスは、これを形而上学的に解釈し、慈悲深き自然が、鉄の力に限界を設けるために錆という罰を与え、死すべき運命に最も激しく抗うものこそを、世界の何よりも死する定めとしたのだと考えた。(p.50)
現在では、腐食しない金属はほんの数種類であることがわかっている。タンタル、ニオブ、イリジウム、そしてオスミウムだ。それ以外の金属はすべて、程度の差こそあれ酸素に反応を起こす。大気や水に触れるだけで自動的に反応するものもあるし、アルミニウム、クロム、ニッケル、チタンなど、薄い酸化皮膜を外側に形成して酸素に抵抗するものもある。腐食しにくい金属の多くは、ギリシャの神々や王たちの名前を戴いている――そんな素晴らしいものを作れるのはおよそそういった存在だけだからだ。とは言え、ほとんどの金属はとうの昔に酸素の餌食になつている――そしてそのことが、地球上に、裸で存在する金属がごくわずかである理由でもある(地表に岩石が十分にできるまで、何十億年もの間地球上に酸素が蓄積しなかったのも同じ理由だ)。宇宙に存在する物質の四分の三は金属であり、自然は明らかに、そのほとんどを忌み嫌っているのだ。(p.52)
第3章、錆びない鉄――ステンレス鋼の発明。これまでの章もそうであったが、ここからは特に、一人の人物に焦点が当てられ話題の記載が行われる。この章はステンレスの発明者の伝記の様相を呈している。面白い読み物である。
第4章、缶詰の科学――錆と環境ホルモン。ここの内容は興味深い。初めて知ることが沢山。缶には多くに科学技術が詰め込まれている、まあ何でもそうなのだが。とても為になった。
第5章、インディアナ・ジェーン――錆の美。錆が広がる閉鎖された製鋼所の写真を撮る女性の話。
第6章、国防総省の錆び大使。この本に登場する人物はかなり風変わりな人が多いが、この章の中心人物はピカイチ。防食ビデオの撮影風景を縦糸に、主役の過去の活躍を折り込んでいく。
第7章、亜鉛めっきの街。この章はわずか10ページだが、亜鉛メッキはもっと普及すべきものに思われた。
第8章、錆と戦う男たち。この章もわずか14ページ。男たち、と複数形になっているように、防食技術者の仕事とその変わり者たちを描いている。
第9章、錆び探知ロボット――パイプラインと錆び。68ページにわたる最長の章。パイプラインの維持管理の大変さ、想像したことも無かった。北極海のブルドーベイからブルックス山脈とアラスカ山脈を越えアンカレッジの東、プリンス・ウイリアム湾のバルディーズまで1300キロに及ぶ、トランス・アラスカ・パイプラインでの話しである。ピグと呼ばれるパイプラインの中を走らせるもので、清掃し、点検をする。不良箇所があれば人が修理する。極寒のアラスカ。原油の生産量、つまり、パイプラインを流れる量が維持管理に影響する、などなど、知らないことばかり。様々な技術、そこで働く人々、のおかげで我々の生活が維持されている。有り難いことです。
第10章、防錆商品。13ページ。
第11章、防食工学の未来。12ページ。
以下は、訳者あとがき、の一部、本書の内容をうまく纏めていると思う。
錆びた構造物というのは、もちろん自然のものではないし、かと言って人工物でもなく、その中間にある。人間が造った反自然的なものと、それを無に帰そうとする力――それはつまり酸化という自然現象なのだが――の両方がなければ存在しないものであって、そこに独特の美しさがあるのだという。だが錆を見て美しいと思う人は少数派だ。錆というのは普通、汚いものであり、そこにあってはいけないものだ。美しいか美しくないかはさておき、錆を見たことがない人、何かが錆びたのを見て「イヤだな」と思ったことがない人はいないだろう。物が錆びる、という、ごく普通に日常生活の中で見かける現象が、実はどれほどの威力をもって私たちの生活を脅かすことがあるか、いや、実際に脅かしているか、そしてそれに対抗するために昔も今も人間がどれほど知恵を絞り、その「自然の脅威」に対抗しようとしているのかを、さまざまな立場の人間を通して教えてくれるのが本書である。原書のタイトル『RUST:The Longest War(錆:史上最長の戦い)』が示す通り、人間が「非」自然な人工建造物を造り続ける限り、それを「無」に帰そうとする酸化という自然の力との戦いが止むことは決してない。(p.351~p.352)

★★★★ サピエンス全史(下) ユヴァル・ノア・ハラリ
認知革命、農業革命、を経て、人類は人類は統一へと向かい、大勢が協力できるようになった。そして、科学革命となる。自らが無知であることを自覚したことがその原動力になった。なるほど。今人類は発展の極みにいるように見えるが、著者はそれに疑問を呈している。更にこの先の進展の問題点にも言及しながら、科学の進歩を予測する。それは人を幸せにするのか。過去と今を比べる時、明るい未来は浮かんでこない。
たくさん引用しました。論の流れとは密接に関係していないものもありますが、とても面白いと思います。
一神教は秩序を説明できるが、悪に当惑してしまう。二元論は悪を説明できるが、秩序に悩んでしまう。この謎を論理的に解決する方法が一つだけある。全宇宙を創造した単一の全能の絶対神がいて、その神は悪である、と主張するのだ。だが、そんな信念を抱く気になつた人は、史上一人もいない。(p.24)
じつのところ一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教徒は一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。(p.26)
ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか? ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。(p.29)
過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として措かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。(p.32)
科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。/イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝続は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。(p.59~p.60)
ヨーロッパがようやく軍事的、政治的、経済的、文化的発展の重要地域になったのは、一五世紀末のことだった。一五〇〇年から一七五〇年までの間に、ヨーロッパ西部は勢いをつけ、「外界」、つまり南北のアメリカ大陸と諸大洋の征服者になった。だがそのときでさえヨーロッパはアジアの列強には及ばなかった。ヨーロッパ人がアメリカを征服し、海上での覇権を得ることができたのは、主としてアジアの国々がそれらに興味をほとんど持っていなかったからだ。近代前期は地中海地方のオスマン帝国、ペルシアのサファヴィー帝国、インドのムガル帝国、中国の明朝と清朝の黄金時代だった。それらの国々は領土を大幅に拡げ、かつてなかったほどの人口増加と経済成長を遂げた。一七七五年にアジアは世界経済の八割を担っていた。インドと中国の経済を合わせただけでも全世界の生産量の三分の二を占めていた。それに比べると、ヨーロッパ経済は赤子のようなものだった。(p.95)
もし自分が貧しければ、相手の製品やサービスを購入できないから相手もやはり貧しくなる。自分が裕福ならば、相手から何かを買うことができるから相手も裕福になる。スミスは富と道徳は矛盾するという従来の考え方を否定し、金持ちに対して天国の門を開いた。裕福であることは道徳的だというのだ。スミスの描いた物語の中では、人は隣人の財産を奪い取るのではなく、パイ全体を大きくすることによって豊かになる。そしてパイが大きくなれば、誰もが恩恵を被る。したがって、社会の中で最も有用で慈悲深い人間は金持ちだということになる。全員の利益のために経済成長の歯車を回すのは彼らだからだ。だがこれはすべて、金持ちが自分の得た利益を非生産的な活動に浪費するのではなく、工場を新設し、新たに従業員を雇うために使えば、の話だ。そのためスミスは念仏でも唱えるように、「利益が拡大したら、地主や織屋はさらに働き手を雇う」という原則を繰り返し述べた。(p.136)
今日、地球上の大陸には七〇億近くものサビュンスが暮らしている。全員を巨大な秤(はかり)に載せたとしたら、その総重量はおよそ三億トンにもなる。もし乳牛やブタ、ヒツジ、ニワトリなど、人類が農場で飼育している家畜を、さらに巨大な秤にすべて載せたとしたら、その重量は約七億トンになるだろう。対照的に、ヤマアラシやペンギンからゾウやクジラまで、残存する大型の野生動物の総重量は、一億トンに満たない。(p.182)
第二次大戦中、BBCニュースは、ナチス占領下のヨーロッパに向けて放送されていた。番組冒頭では必ず、正時を告げるビッグベン〔訳註 イギリスの国会議事堂時計塔の大時鐘〕の鐘の音が生中継された――自由を告げる魔法の響きだ。独創性に富んだドイツの物理学者たちは、聞こえてくる鐘の昔の微妙な違いに基づいて、ロンドンの天候を突き止める方法を発見した。この情報は、ドイツ空軍にとってきわめで貴重な支援になった。イギリスの諜報機関はこの事実を把握すると、この有名な時報を生放送から、毎回同じ録音の放送に切り替えた。(p.187)
設定温度が二五度の空調システムもあれば、二〇度のものもある。人間の幸福度調節システムの設定も、一人ひとり異なる。幸福度に一~一〇の段階があるとすると、陽気な生化学システムを生まれ持ち、その気分がレベル六~一〇の間で揺れ動き、時とともにレベル八に落ち着く人もいる。こうした人は、人を疎外する大都会で暮らしていても、株式市場の暴落で一文無しになつても、糖尿病の診断を受けても、十分に幸せでいられる。一方、運悪く陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人もいて、その気分はレベル三~七の問を揺れ動き、レベル五に落ち着く。このような不幸な人は、緊密なコミユニティの支援を受けていても、宝くじで何百万ドルも手に入れても、オリンピック選手のように健康であっても、気分は沈んだままだ。実際、こうしたふさぎ込みがちな人は、午前中に五〇〇〇万ドルを手に入れ、昼時にエイズと癌の治療法を発見し、午後にはイスラエルとパレスティナの和平を実現した上、夕刻には長年生き別れになっていた子供と再会したとしても、レベル七以上の幸福感を味わうことができない。その人の脳はそもそも、何が起こつても心が浮き立つようにはできていないのだ。(p.227~p.228)

★★ 広島はすごい 安西巧
著者は日本経済新聞広島支局長。2015年春に着任、それまで広島とは直接関係なし。つまり、広島在住一年でこの本を書いたことになる。それくらい今の広島には魅力があると著者は言う。
第1章はカープのことである。広島の人間にとっては知っている話し。次の二章は歴史的なこと、まあよく言われること。次からは産業について。第4章 アンデルセンとカルビー/職人肌の経営者たち。第5章 戦艦大和とジェットエンジン/産業集積都市・呉の実力。第6章 1番ピンを狙え!/「弱者」マツダのモノ造り戦略。そして最後の第7章 ニッチを磨き続ける/「媚びない」広島人たち。最終章は何が書いてあるかタイトルだけでは想像つかないが、酒都西条や熊野筆、ゆめタウンやダイソー、といった広島の産業について。
地方創生がうたわれる昨今、独自の取り組みに着手し、東京とは異なる魅力を磨いている都市は増えているが、その中でも広島の魅力と独自性は際立っているように感じる。広島人の気質や広島の風土をあえてキャッチフレーズ風に言うなら「群れない、媚びない、靡(なび)かない」。言い換えると、強いものに付和雷同せず、自分の持ち味を自力で徹底して磨く「独立不羈の精神」と言えるだろう。群れず、媚びず、強いモノに靡かず、独立不羈の精神で自分の強みを磨いていくことは、そのまま日本が国際社会の中で追究していくべき態度と重なる。やや大げさに言えば、広島の強みを考えることは、これからの日本の進むべき道を考える糧になるのだ。(p.7)
この様に褒めてることが多い。褒めすぎだと思う。書いてあることにウソはないのだろうが、いいことばかりのハズはなく、さらに前に進むためにはどうするのかの指摘がもっと欲しかった。

★★★ ルポ税金地獄 朝日新聞経済部
以下は、あとがきの一節。
驚くべき現実が見えてきた。八%への増税後に増えている消費税の滞納。住人が地方税を滞納した場合、差し押さえを急ぐ自治体がある一方、救済の手をさしのべる自治体もある現実。税金が安い国に移り住もうという富裕層をターゲットにした「出国税」の導入を前に、日本を脱出した投資家。再分配どころか、豊かな人がせっせと節税し、貧しい人は負担に苦しむという現実が、目の前にあった。(p.252~p.253)
ここにこの本に書かれていることが要約されている。もう一つ印象に残ったのが、複雑怪奇な税制が、補助金と同じような働きをし、企業に有利に働いているということ。一般庶民には税の仕組みが判らず、いいように取られているということ。こんな調子では、明るい未来はない、という気持ちになった。
じつは多くの鑑定士が、公示地価と自治体の関係をこう明かしているのだ。「地方の不動産鑑定士は公共の仕事がほとんどです。自治体にとって固定資産税は貴重な財源なので、税収を確保するために公示地価を高く維持したい。公共の仕事がしたい鑑定士は自治体のそんな意向を察知して、高い評価を維持してしまうのです」 (p.140)
個別の商品にかかる税金は、その商品の売れ行きに影響するので、業界は政治に積極的に働きかける。多くの人が使う商品、高額な商品ほど税収も大きくなるので、関係する省庁の間でも綱引きがある。税制を巡る攻防では、政官業を巻き込んだ神経戦が続くが、ユーザーの目線は置き去りにされがちだ。(p.171~p.172)
我々はどうしたらいいのか。自民党一党独裁をなんとかしなければいけないのでは。

★★★★ サピエンス全史(上) ユヴァル・ノア・ハラリ
第1部認知革命、第2部農業革命、ともに難しい内容を判りやすく丁寧に解説していて、興味深い。これまでの説に流されることなく、奇を衒うこともなく、真摯な取り組みになっている。第3部人類の統一が下巻に続き、最後の第4部科学革命に繋がる。上巻で印象に残ったところの一部を以下に引用。
言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、一七八九年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、協力するという能力に関して、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。(p.50)
ホモ属は食物連鎖の中ほどに位置を占め、ごく最近までそこにしっかりと収まっていた。人類は数百万年にわたって、小さな生き物を狩り、採集できるものは何でも採集する一方、大きな捕食者に追われてきた。四〇万年前になってようやく、人類のいくつかの種が日常的に大きな獲物を狩り始め、ホモ・サピエンスの台頭に伴い、過去一〇万年間に初めて、人類は食物連鎖の頂点へと飛躍したのだった。中位から頂点へのそのような華々しい跳躍は、重大な結果をもたらした。(略)人類はあっという間に頂点に上り詰めたので、生態系は順応する暇がなかった。そのうえ、人類自身も順応しそこなった。地球に君臨する捕食者の大半は、堂々たる生き物だ。何百万年にも及ぶ支配のおかげで、彼らは自信に満ちている。それに比べると、サピエンスはむしろ、政情不安定な弱小国の独裁者のようなものだ。私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。多数の死傷者を出す戦争から生態系の大惨事に至るまで、歴史上の多くの災難は、このあまりに性急な飛躍の産物なのだ。(p.24)
人類全体としては、今日のほうが古代の集団よりもはるかに多くを知っている。だが個人のレベルでは、古代の狩猟採集民は、知識と技能の点で歴史上最も優れていたのだ。(p.70)
狩猟採集民の拡がりに伴う絶滅の第一波に続いて、農耕民の拡がりに伴う絶滅の第二波が起こつた。この絶滅の波は、今日の産業活動が引き起こしている絶滅の第三波を理解する上で、貴重な視点を与えてくれる。私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サビュンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。(p.100)
人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。では、それは誰の責任だったのか?王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サビュンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サビュンスがそれらに家畜化されたのだ。(p.107)
既知の人間社会のすべてでこの上ない重要性を持ってきたヒエラルキーが一つある。性別のヒエラルキーだ。人はどこでも自分たちを男女に区分してきた。そして、少なくとも農業革命以降はほとんどどこでも、男性が良い目を見てきた。/(略)/多くの社会では、女性は男性(父親か夫か兄弟の場合が最も多かった)の財産にすぎなかった。強姦は多くの法制度では、財産侵害に該当した。つまり、被害者は強姦された女性ではなく、その女性を所有している男性だった。(p.183~p.184)
中世の文化が騎士道とキリスト教との折り合いをつけられなかったのとちょうど同じように、現代の世界は、自由と平等との折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する二つの音が同時に演奏されたときに楽曲が嫌でも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。(p.205)
紀元前一〇〇〇年紀に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、その信奉者たちは初めて、一組の法則に支配された単一の集団として全世界と全人類を想像することができた。誰もが「私たち」になった。いや、少なくともそうなる可能性があった。「彼ら」はもはや存在しなかった。真っ先に登場した普遍的秩序は経済的なもので、貨幣という秩序だった。第二の普遍的秩序は政治的なもので、帝国という秩序だった。第三の普遍的秩序は宗教的で、仏教やキリスト教、イスラム教といった普遍的宗教の秩序だった。(p.213)
哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。(p.230)

★★★ 空想サンドウィチュリー 池田浩明・西山逸成
京都のパン屋、ル・プチメックのオーナーシェフ、西山逸成と、パンラボ主宰、朝日新聞デジタルに「このパンがすごい!」を書いている、池田浩明が企画したサンドウィッチ屋の記録。
まえがき、の最初にに池田浩明が、「本書は、一応、レシピ本である。」と書いている。
プロローグ ダンボールで屋台を作る、に始まり、第1章本屋から、4月の魚、子供の日、戦場、京町家、海の家、駅弁、暴れん坊将軍、熱帯植物園、小麦畑、おせち料理、まで全11章。いろんな場所でそこに合ったサンドウィッチを作り、ダンボールの屋台で販売するのだ。といっても一般に公開されるのではない。この本に記録され、公にされた。
あとがき、に西山逸成が以下のように書いている。
お弁当の内容も頭を痛めたけれど、遠方へのロケもかなり大変だった。その中でも特に忘れられないのは、夏にお題が〝海の家″と言われた時のこと。ぼくはバーベキューをメインにしたサンドイッチを作り、池田さんは小道具にビーチボールや氷旗を用意されていた。きっと池田さんもぼくもロケ地の砂浜には水着のお姉さんが大勢いて…なんてことを想像し、浮かれながら気合が入っていたんだと思う。ところが「ここです」と連れて行かれた場所は、確かに砂浜ではあるけれどビーチと呼ぶには程遠く、そこにあるのは台風直撃による恐ろしくなるほどの強風と大波、悪天候だけだった。水着のお姉さんどころか、船越英一郎さんがサスペンスドラマの撮影でもされている方が違和感のないような場所で、せっかく用意したビーチボールは撮影前に強風で飛ばされ紛失し、雨風に弱いダンボール製のスタンドは折れて破損、氷旗はシュールにたなびいていた。足掛け4年にも渡る企画なので、こういったドタバタ劇の思い出は枚挙にいとまがない。お弁当の製作に時間が足りなかったり、あまりにも突飛な池田さんのお題に意識が遠のきそうになることも度々あったけれど、いつもロケが終わり帰路につく頃には〝やって良かった。勉強になった。″と思えるやりがいのある企画だった。この企画を池田さんから最初に打診された際、「どうせやるなら、もしも本当に書籍化されたときに〝専門書のコーナーに並ばないような本″にしましょう。それなら、ぼくたちらしくておもしろそうです。」とぼくは返事をしていた。もしもこの企画が「売れそうなレシピ本を」といった依頼だったなら、きっと今なら家庭で電子レンジなどを使用し短時間で簡単に作れるレシピを考えたと思うんだけれど、そもそもそんな依頼ならぼくはお断りしていたに違いない。ここに掲載してあるレシピは、毎回計量をしながら作りはしたけれど、正直に書くと読者がレシピ本として本当に使われたり再現されるといったことを全く想定せずに、ぼくはメニューやレシピを考えてきた。「この〝空想サンドイッチエリー″は、何のジャンルになるんですか?」とガイドワークスの慶徳さんに訊いたところ、「一応、レシピ本です。」と言われたけれど、ぼくとしては、読者の方々に〝大人がバカなことをしているなあ″と呆れながら絵本のように見て楽しんでもらえると幸いに思う。(p.81)
言葉では説明できないので、無許可で写真を転載、お許しあれ。上に書かれている第6章海の家。

これが屋台です。

この時のサンドウィッチ、実に旨そうです。
レシピは全く読まず、それでも充分楽しませて貰いました。

★★★ 箸はすごい エドワード・ワン
著者は上海生まれ、本書は英語で書かれている。原題は、Chopsticks : A Cultural and Culinary History 、箸:文化と料理の歴史。日本語タイトルは漠然としていて内容を表していない。箸という食事道具を中心に歴史を記述している。文学にも造詣が深いようで、様々な引用がなされ楽しく読むことが出来、大きな歴史の勉強にもなった。
ハーグァード大学のサミュエル・ハンティントン教授(一九二七~二〇〇八)は、一九九六年に『文明の衝突』というベストセラーを世に出した。彼は、世界には、西欧のユダヤ・キリスト教文明、東アジアの儒教文明、中東のイスラム文明という三つの主要な文明があるとした。もしこの三つで世界を分けることができるなら、これは宗教的な伝統による区分であるとともに、政治機構の違い(ハンティントンはこの点が最も重要だと考えた)でもあるが、面白いことにこれは食文化や食習慣の区分であるとも言える。ハンティントンは、この点には顧慮していない。本書の「はじめに」でも触れたように、一九七〇年代には日本の食物史研究者である一色八郎が主張し、一九八〇年代になるとアメリカの歴史家リン・ホワイトも同調しているが、世界の食文化も三分割される。①手食派。②フォーク・ナイフ・スプーン派。③箸派。一色によると、①は世界人口の約四割を占め、南アジア、東南アジア、中近東、アフリカなどの人びとだ。②はおよそ三割で、ヨーロッパ、北南米の住民。③も約三割で、中国、日本、朝鮮半島、ベトナムなどが該当する。これらは画然と分離されていて、一色は主食の違いに基づくものだとしている。つまり肉が主体であるかどうか、あるいは穀物か地下塊茎(ちかこんけい)であるかによっても異なってくる。食材の準備段階から食事の礼儀、食卓のマナーにも違いが出てくる。地理的・人口動態的な観点からの見方として、一色とホワイト、ハンティントンの見解は共通している。(p.105~p.106)
箸に絡む所作表現には、苦難や不安の気持ちはまったく込められていない。箸が登場するときは、何かを祝う幸せなときに限られる。そのような気持ちを表すため、「箸で何かを叩く」という意味の「投箸」ということばが作られた。叩く何かは、皿でも卓でもいい。だがこれは異常なことで、「箸で音を立てること」は礼儀に反する。だが投箸のポイントは音を立てることで、音楽の素養があればリズムを取る。つまり投箸は感きわまって、心ここにあらずという状態になった場合に限られる。(p.197)
中国語の「生」と「調理された=熱」は二つの対立概念で、古代中国では文明発展レベルの違いを評する際にも比喩的に用いられた。つまり成熟した社会は「調理されて」おり、文明化された社会の周辺に取り残された粗野な社会は「生」の状態だ。<略>中国史では伝統的に北部が文明の中心で、アジア大陸のほぼ真んなかに当たる。その中心部と対称的な周辺部を対比させる場合にも、「生」と「調理済み」を使う。つまり、文明の成熟度を比べる際にも、「生」で食べるか「調理して」食べるかの対立概念があり、この対語が適用される。(p.246~p.247)

★★ なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか 阿古真理
パンを中心に日本の歴史をふり返る、という野心作、初めはそう思った。文章も上手く引き込まれる。しかし、次第に冗長になり、最後のまとめには物足りなさを感じる。個人的体験を前面に出しすぎだろう。
私は自分のことを根っからのパン好きだと思っていたが、この本を読んで、パン好きにさせられたのかもしれないと思うようになった。まあ、今現在パンが大好きなことには間違いはないので、そんなことはどうでもいいのだろう。もっとパンについて、パンそのものについて、勉強しよう。勿論美味しく食べるために。
この地域(関西)でパンが比較的たやすく受け入れられた要因は、食事文化にあると思う。関東では朝にご飯を炊いて、味噌汁とともに炊きたてで食べる習慣があったのに対し、関西ではご飯を昼に炊いて、朝は残りご飯を食べてきた。もともと朝食を簡単に済ませる文化だったから、料理しないで済む食事のパンをたやすく受け入れたのではないだろうか。(p.231)
これは正しいのか?

★★★ 日本の不思議な建物101 加藤純 (写真)傍島利浩
タイトル通り、不思議な建物を紹介する本。「ざわざわ」、「飛び出しすぎ!」、「カラフル」、「うねうね」、「ガタガタ」、「ふわふわ」、「●、■、▲」、パキパキ」、「そびえる」、「エクストリーム」、という分類がなされている。
例えば、「うねうね」のはじめに、以下の説明がある。
海に生じる波のようにうねり、風を受ける布のようにたなびく曲面。直線やフラットな面で構成されるのが当たり前の現代建築のなかにあっては、曲面が取り入れられた建物は異質で斬新な雰囲気となる。ひと昔前のようにガラスなど一部のパーツに曲面が入るだけでなく、構造躯体にも3次元曲面が取り入れられると効東は倍増。工事現場での苦労は数倍増。建造物の曲面は、汗と涙の結晶体でもある。(p.40)
そこでまず紹介されるのが、黒川紀章最後の作品、国立新美術館。確かに「うねうね」です。その他どれも凄い建物です。実際に見たいと思うようになります。それは説明が判りにくいからでもあります。建物の写真はほとんど一枚だけ、見える部分や見えない部分も文章で多少説明してあるのですが、残念ながら、全体像が浮かんできません。建物の数を減らして写真を増やした方がよかったのではないでしょうか。もうひとつ、この本に取り上げられている建物はほとんどが首都圏、地方には不思議な建物がないのか、恐らくは探す努力がなされなかったのではないか。
日本の建物について残念に思ったこと。ひとつは、建物単体は素晴らしいのですが、周りとの調和していないように思われること。全体としての都市計画がないのでは。これとも絡んで、建物の周りの電柱・電線が無粋なこと。何とかなりませんかね。

★★★★ 騎士団長殺し 第2部 遷(うつ)ろうメタファー編 村上春樹
村上春樹はやはり上手い巧いと思います。表現が巧みで、物語の世界に引き込まれます。ただ、第1部が彼らしくないなあと思っていたのですが、第2部になると、村上春樹ワールドが全開、心地よくその世界に浸りました。その意味するところ、などなど、考えなければならないかもしれませんが、そんな小難しいことは専門家に任せて、一般読者は楽しめばいいのだと思います。その意味で素晴らしい小説です。過去、第2部が終わった時、続きが欲しいと思ったことがありました。今回も多少その気持ちもありますが、一応過不足ない終わり方ではないでしょうか。
私は前から気になっていたことを尋ねてみた。「イデアにはエネルギー源みたいなものは必要とされないのですか?」「そいつがむずかしいところだ」と騎士団長はいかにもむずかしそうな顔をして言った。「どのような成り立ちのものであれ、ものが生まれ、そして存在し続けるためには、なんらかのエネルギーが必要とされる。それが宇宙の一般的な原則である」「つまりイデアにもエネルギー源はなくてはならない、ということですか。一般的な原則に従って?」/「そのとおり。宇宙の原則に例外はあらない。しかるにイデアの優位な点は、もともと姿かたちを持っておらないことだ。イデアは他者に認識されることによって初めてイデアとして成立し、それなりの形状を身につけもする。その形状はもちろん便宜的な借り物にすぎないわけだが」「つまり他者による認識のないところにイデアは存在し得ない」騎士団長は右手の人差し指を空中にあげ、片目をつぶった。「そこから諸君はどのように類推をおこなうかね?」私は類推をおこなった。少し時間はかかったが、騎士団長は我慢強く待っていた。「ぼくが思うに」と私は言った。「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在している」 (p.118~p.119)
「知ってのとおり、人間界は時間と空間と蓋然性(がいぜんせい)という三つの要素で規定されておる。イデアたるものは、その三つの要素のどれからも自立したものでなくてはならない。であるから、あたしがそれらに関与することは能(あた)わないのだ」 (p.256)

★★★★ 騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編 村上春樹
久し振りの村上春樹です。相変わらず巧いと思います。章(パート)のタイトルが秀逸です。表現が素晴らしく、展開が緻密で、ストーリーには意外性があり、メタファーが深く、全体として調和が取れています。第2部が楽しみ。
私はウィーンの街に翩翻(へんぽん)と翻る赤と黒のハーケンクロイツの旗と、その通りを歩いて行く若き日の雨田具彦の姿を想像した。季節はなぜか冬だ。彼は厚いコートを着て、マフラーを首に巻き、ハンチングを深くかぶっている。顔は見えない。市街電車が降り始めたみぞれの中を、角を曲がってやってくる。彼は歩きながら、沈黙をそのままかたちにしたような白い息を空中に吐いている。市民たちは温かいカフェの中でラム入りコーヒーを飲んでいる。(p.83)
私が言葉を選んでいるあいだ、まわりに沈黙が降りた。時間の流れる音が聴き取れそうなほどの沈黙だった。山の上では時間はとてもゆっくりと流れていた。(p.295)

★★★ キャスターという仕事 国谷裕子
23年の長きにわたり、クローズアップ現代というテレビ番組のキャスターを務めた著者の、自らの経歴と番組をふり返っての思いを書いた本。番組は何度も見ていて、凄い人だと思っていた。キャスターになるまで、そしてなってからの様々な努力、苦闘、反省を読み、ますます凄い人だと思った。物事のとらえ方、言葉への感受性、自己分析、などが特に優れていたと感じる。番組スタッフも優秀だったのだろうが、彼女の番組への貢献は多大なものがあるだろう。これからもその能力を生かして色々な形で活躍されることを期待します。
数年前、「ねじれ国会」という言葉がメディアで頻繁に使われていた。衆参両院で多数派を形成する政党が、それぞれ別の政党となっている状態をさす。その衆参の「ねじれ」によって、法案の成立に時間がかかったり、成立が滞る事態が生じていた。しかし、この「ねじれ」の事態も選挙の結果の民意であることに変わりはない。問題なのは、「ねじれ」という言葉が、やはりある文脈のなかに置かれれば、この事態がなにか正常ではない事態、是正すべき事態を意味する言葉として流通してしまうということなのだ。そしてその「ねじれ」状態のなかで行われた参議院選挙も、「ねじれ」状態を解消することが正常化すること、つまり衆議院と同じ政党が多数派になることが「正常」であるとの見方を流通させることにつながったとは言えないのだろうか。これはある意味、投票誘導行為にもなりかねない。(p.102~p.103)
経済学者の内田義彦さんに「聞と聴」というエッセイがある(『生きること 学ぶこと』藤原書店に収録)。英語に置き換えると、「ヒア」と「リッスン」となる。その内田さんのエッセイのなかに、「肝要なのは聞こえてくるように、聴くこと」とある。ヒアできるようにリッスンすること。また「聴に徹しながら聞こえてくるのを待つ」ともある。リッスンしながらヒアできるのを待つ、ということになる。つまり内田さんは、相手の話の細部にまで耳を傾け、注意深く丁寧に聴く、リッスンする力は大事だが、その人全体が発するメッセージを丁寧に聞く力、ヒアする力を見失ってはならないと言っているのだ。(p.128)
時代の勢いに乗って伝えていくことば、時代に向き合うメディアとして当然のことだったかもしれないが、結果としてあまりに、社会の空気に同調しすぎていたのではなかったのか。〔略〕多くの視聴者を得れば、報道番組はその時々の社会の空気に影響されやすくなる。人々の関心に応え、共感を代弁するような方向に進むことで、時代が向かおうとする方向に対しては、立ち止まる力が弱まる傾向がある。時代の空気に逆行して物事を伝えるのは、難しいことだったのだろうか。(p.207)

★★ 日本人なら知っておきたい日本文学 蛇蔵&海野凪子
蛇蔵=漫画家、海野凪子=日本語教師、この二人のコンビで『日本人の知らない日本語』という本を読みました。好評のようで、4まで出ています。結構面白かったので、この本も読んでみました。この本もそこそこ面白いのですが、日本文学というよりは、日本の歴史という感じでした。「ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典」というサブタイトルが付いています。取り上げられているのは、清少納言(枕草子)、紫式部(紫式部日記)、藤原道長(御堂関白記)、安倍晴明(大鏡)、源頼光(今昔物語)、菅原孝標女(更級日記)、鴨長明(方丈記)、兼好(徒然草)、ヤマトタケル(古事記)。これらの本、文学、の解説というよりは、人物描写が主で、それはそれなりに楽しく読みました。

★★★ 「ネジザウルス」の逆襲 髙崎充弘
ネジザウルスとは、プライヤー(ペンチやニッパーのようなもの)のこと、工具です。工具は年間一万丁売れれば大ヒットと言われる中、10年以上にわたって年間16万丁以上のペースで売れ続けているそうです。その会社の社長が、工具のこと、会社のこと、自分のこと、などを書いています。日頃読まない種類の本、日頃読まない内容の本、だからこそ面白く読めたと思います。特に特許に関することは成る程と思いました。
ご承知のとおり、特許制度というのは将来、公開させることを前提に、一定の期間、排他的な独占権を認めることで、発明を奨励するものです。アイデアを社会の共有財産として提供してくれるのなら、しばらくの間は独占して権利を行使してもいいですよ、という約束ごとですから、その考案は公開されるのが原則です。ちなみに、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、パテントとは「公開する」という意味のラテン語が語源だそうです。しかしながら、そうした制度にそぐわないアイデアもあるはずです。営業秘密(ノウハウ)として隠しておくはうがふさわしいものもある。アイデアの性質や状況に応じて、権利化すべきかどうかを使い分けるのです。(p.173~p.174)

★★ 一日のおわりに読むと気持ちがゆったりする50の物語 西沢泰生
物語、というと、作られたお話と思いますが、この本に書かれているのは実際にあったことです。それぞれ10の話がある5つの章からなっています。明かりをともす章、心が「ほっ」とリラックスする話。ぽかぽか温まる章、「ふふっ」と思わず微笑む話。のんびりくつろぐ章、気持ちが「スーッ」と軽くなる話。空気が澄んでくる章、人と人の間に、何かが生まれる話。よい眠りにつく章、じわっと、今の幸せを感じる話。タイトル通り、気持ちがゆったりするお話が並んでいます。
松井の5打席連続敬遠についてのテレビ番組に関してのコメント。
いつの世も、一番恥ずかしいのは、正義の味方のような顔をして、当事者をなじる部外者です。(p.177)
エイズ患者に対する偏見をなくすことを狙った南アフリカのCM
ベッドに腰かけるひとりの黒人女性。エイズ患者にしては健康そうで、身体もふくよかです。その女性がベッドに横たわると「1日目」というテロップが出ます。その後、ベッドに横になつた女性の姿を1日ずつとらえた定点カメラの映像が続き、テロップの日数が増えていくごとに、女性はどんどんやせていき、衰弱していきます。CMを観ている私は、「もしかすると、このCM、90日目にこの女性が死んでしまうという、日本では考えられない内容なのでは……」と思って、少しハラハラしていました。
やがて……。90日目の映像。すっかりやせ細ってベッドに横たわる女性の横には、看護師らしき人がいます。水を飲む患者の女性。その次の映像に私は思わず、「あっ」と声をあげてしまいました。なんと、患者の黒人女性は、□の中から薬を取り出すのです。「薬を飲む」 のではありません。くり返しますが、口の中から薬を「取り出す」 のです。口から取り出した薬を看護師に手渡す女性。薬を受け取った看護師は立ち上がると、うしろ歩きでベッドから離れていく……。そうです。今まで見てきた90日間の映像は、すべて「フィルムの逆回し」だったのです!時系列ではなく、時間をさかのぼつていたわけです。つまり、薬を口から取り出した、やせ細った姿は 「90日前の彼女」。CMの最初にべツドに腰かけていた健康そうな姿こそが 「現在の彼女」 だったのです!(p.185~p.186)
このCM、凄い。エイズはよくなる病気だということが伝わります。

★★★ 心に刺青をするように 吉増剛造
書評を見て、昔愛読した吉増剛造、そして含蓄のあるタイトル、読み始めた。最初、文章が心に入らず、放置。暫くして読む本がなくなり再度手に取ると、なんと、スルスルとカラダが受け入れる。この本は、「機」という雑誌に、2001年2月から2008年1月にわたった連載全80回をまとめたもの。各回は短めの文章と、写真からなっている。文は詩人らしいキレのいい、複文のようでありながら、実は単文の重なりという感じの、リズムのある魅力的なもの。引用しようと思ったが、部分的に抜き出すのは無理だと諦めた。写真は二重三重にかさねたものが多く、一見なんなのか判らない。しかし、ジックリ眺めていると、文章と相まって、なかなか趣がある。久し振りに詩的な時間を過ごしました。

★★★★ もうひとつの京都 アレックス・カー
著者はアメリカ出身の東洋文化研究者、日本とタイを拠点として活動している。早くから祖谷に古民家を購入し居住、今も拠点の一つになっているようだ。京都の町屋を改修して宿にしたりということもやっていた。庵といって、そうとは知らず、私も二度ほど泊まったことがある(trip温泉の2015年4月、2016年6月に宿の記載あり)。
この本は、日本文化(比較)論でとても興味深い。九章からなり、門、塀、真行草、床、畳、額、襖、屏風、焔魔堂、という切り口で論が展開される。日本人が当たり前と思っていることを独自の視点で捉え、成る程と思わせる。アジアの国々を直に見ていることが説得力を増していると思う。特に、真行草の章は面白い。真行草とは、真(階)書、行書、草書、に因んで日本が生み出した世界観のことで、アジアとの比較で日本がより理解できたように感じた。
西洋では花はテーブルの真ん中に飾り、どの方向からでも見えるようにします。一方、日本の生け花は、枝や花には正面があるとされているので、一番美しい姿を見せるために、床の間や祭壇などの特定の場所に置かれ、正面から鑑賞されます。全体の形はもちろんのこと、花のひとつひとつ、葉の一枚一枚にも「正面」があると考えられているので、それぞれの向きに気を使います。禅寺の庭にも同じことが言えると思います。(p.81)
日本文化の多くは中国伝来のものと言われていますが、家屋のルーツは明らかに東南アジアにあると思います。(p.120)
この直後に具体例、例えば、屋根の千木、屋根の形(上に向かって広がる)、高床、靴を脱いで床に座る、など。
日本人は部屋に入ると本能的に上座がどこかを判断して席に座るようです。会社が床の間のない部屋や窓のない会議室を作ったとしても、上座をすぐに見つけます。ですから、ビジネスマンがみな同じような背広を着ていても、座っている場所によって、役職や上下関係がはっきりと分かるのです。京都を訪れる観光客にとって、畳の部屋は水平にしか見えないかもしれませんが、昔の人の目には、この床は怖いほど傾斜しているように映り、入り口から床の間までの距離はとんでもない急勾配に見えたのではないでしょうか。(p.134)
私たちは電話をしたり、Eメールをしたりして駆けずり回る日常の中で、「ドリームタイム(下の引用参照)」のことを考える余裕がなくなっています。しかし閻魔堂に足を運ぶことによって、別次元の現実との出合いがあります。それは地獄の炎のような目で睨まれ、真っ赤な口で「お前は人生で何をしてきたんだ!」と怒鳴られることです。こんなことは、京都のような歴史的な町でしか経験できません。(p.322) 
ドリームタイムとは:アボリジニ-の言い伝えにある神話的な時間で、情報や時間にとらわれず、自分らしい生き方をする時間のこと。彼らの芸術はドリームタイムから生まれていると信じられている。(p.323)

★★ 読まずに死ねない哲学名著50冊 平原卓
過激なタイトルではあるが要は、哲学名著50冊、である。普通の生活をしている普通の人間はこの50冊の本を一生を使っても読むことは出来ないだろう。だから、この本を見て、面白そうなものを読めばいい、ということか。50冊の本、名前だけ知っているものがかなりあります。その50冊を書いた哲学者34人の方はほとんど聞いたことのある名前です。しかし、その人物や本について、高校生程度の知識、あるいは、忘却してそれ以下の知識しかありません。そんな人間がこの本を読んで何になるのか。でも、読みたいと思ったのです。図書館で借りて返却期限までに読めず、一旦返してまた借りての繰り返しでした。読んでいる時は結構面白かったのですが、読み終わって何が残っているのか、はなはだ心許ないことです。学生時代にかぶれた実存主義、構造主義、懐かしく、再挑戦しようかと思ったりもしました。悲しき熱帯、昔読んだような気もするのですが、再読してみようかな。以上、本当に単なる感想でした。
セネカの議論も、基本的にはこうした時間の混同に対して向けられている。「人生そのものが短いと考えるのは間違っている。人生は、私たちの使い方次第で、短くなつたり長くなつたりする。それゆえ人生を浪費せず有効に使うのが大事だ。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである」 (p.76~p.77)
私たちは普段、時間は未来から現在を経て過去へと過ぎていく"流れ"としてイメージしている。だが、アウグステイヌスからすれば、時間は現在に相関して、自分の魂に位置づけられるものだ。すなわち、現在から見た過去は「記憶」、現在についての現在は「直観」、未来についての現在は「期待」であるという。(p.86)
アクィナスにとって、神は一切の被造物から切り離され、雲の上から絶対的な命令を下すような冷酷な存在ではない。最高善である神は、被造物に存在=善を分有させ、それによって存在=善のネットワークをつくり出す。これが神と被造物の類似関係であり、世界そのものの姿である。「存在のアナロギア」説によってアクィナスが言わんとしているのは、要するに、存在そのものが悪であるような被造物はありえないということだ。人間は神ではないので、完全によき存在となることはない。しかし、神の被造物として存在している以上、人間は誰もがよき存在である。時に人間は悪に陥るが、それは善を欠くかぎりであり、存在そのものが悪であるわけではない。アクィナスはこうした主張で正統と異端の対立を調停し、キリスト教の教えを一本化することで、本当に人びとに伝わり、共有されうる信仰の体系を打ち立てようとしたのだ。(p.94)
キルケゴールは絶望には二つの方向性があると語る。一方は、現実から目をそむけて理想を追い求めることであり、もう一方は、理想を忘れ現実にどっぷりつかることである。イメージとしていえば、前者は現実世界で努力せず単に夢想すること、後者は理想をあざ笑い世間的な成功にしか関心をもたないことだ。(p.213)
私たちは普段、身のまわりの世界を、物理的なモノからなる世界だと考えている。これに対してハイデガーは、世界は気遣いを中心として編み上げられている価値の秩序であると考えたのだ。世界は最初から客観的な意味をもつものとして存在しているわけではない。私たち人間にとっての世界とは、第一に、私の関心や欲望に相関して意味を現すような「道具」を通じて、自分の生き方を選択する可能性の場所である。これは認識論としても、また実存論としても、きわめて画期的な洞察だといっていい。(p.340)
自由は公的空間への参加のうちにある。それゆえ各人が一個の市民として、統治に参加できるシステムを設立できなければ、自由の創設が成功したとはいえない。政治の専門職業化という流れは、人びとから統治に携わる機会とともに、市民感覚をも奪ってしまうとアーレントは指摘するのだ。(p.423)
哲学とは、常識を徹底的に吟味し、問題点を取り出し、それを解決することで、それまでの常識をより普遍的なものに編み変えていく営みである。力強い思考によって、原理を鍛え上げ、それを一般の市民感覚によって試し抜くことが、現代社会の問題に取り組むにあたって、哲学に求められている第一の課題なのだ。(p.445)
どこから始めればいいのか。そして、どのように考えればいいのか。この間いに対し、哲学は一つの答えをもっている。いかなる前提も置かず、最初から考えなおすこと。"真の″世界観が存在するという前提を取り払い、いかなる生、いかなる社会が「よい」といえるかについて考えること。あらかじめ答えが用意されているわけではない開かれた言語ゲームのなかで、誰もが共有できるスタート地点から、ともに言葉を交わし、原理についての共通了解をつくり出していくこと。(p.459)

★★★ シブいビル 鈴木伸子
タイトルに、高度成長期生まれ・東京のビルガイド、という言葉が添えられています。正にその通りで、豊富な写真と共に、様々なビルの魅力が語られ、東京好きで味のある建物に興味のあるの私にはピッタリの本です。訪れてみたいと思ったビルはたくさんありますが、特に以下のもの。名前は聞いたことはあるが、実態を知らなかった、東京交通会館。初めて知った、中野ブロードウェイ、コマツビル。有名ではあるがいったことはない、ソニービル、パレスサイドビル、新宿駅西口。などなど。いつ東京に行けるか判りませんが、その時には訪れたいと思います。

★★★ トランプ王国 金成隆一
著者は朝日新聞ニューヨーク特派員、「おわりに」で次のように書いている:本書の特徴は、日本人の記者がトランプ支持者らと1年にわたってとことんつきあった点にあると思う。
今一般に、アメリカは失業率が低くなり、非農業部門雇用者数が増え、景気がいいとされる。ニューヨークダウは最高値を更新し、政策金利を上げはじめている。しかし、この本に書いてあることは全く違う。アメリカで潤っているのは、限られた人たち、都市部居住者、つまり、日本でもよく報道される所である。多くの一般庶民は不満を抱いている。その不満をすくい上げたのがトランプ、という訳だ。成る程と思った。
1940年生まれの世代が親より裕福になる確率は約92%だった。かなりの確率で当時は夢が実現していたことになる。しかし、調査が注目を集めたのは、この確率の着実な低下を示したからだ。確率は50年生まれで約79%、60年生まれで約62%、70年生まれで約61%、80年生まれになると約50%に落ちた。今の30代半ばの世代で、親より豊かになれるのは半分ということになる(親と子の30歳時点での課税前の物価調整済みの世帯収入を比較)。さらに興味深いのは社会的な地位の上昇の地域別の比較だ。80年代に全米で生まれた人のうち、親の所得は下位20%だったが、自身の所得は上位20%になった割合を地域別に分析すると、南部やラストベルトで低いことが判明した。AP通信は「階層間の上昇(の確率)はミシガンやインディアナなどラストベルトで低かった。いずれもトランプ勝利を支えた州だ」と伝えた。(p.212)
元世界銀行エコノミスト、ブランコ・ミラノピッチが作成した通称「象グラフ」。地球上の人々を所得の多い順に右から、低い順に左から並べる。100分割して、1988年から2008年までのそれぞれの実質所得の上昇率をグラフに落とし線で結んだ。すると右を向いて鼻を上げた象のような形になったというわけだ。一番上昇率が大きかったのは、所得を最高で8剖ほど増やした象の背中あたりの人々(A部分)。ここには中国やインドなど新興国の中流階級が多く含まれる。次に大きく増やしたのは、一番右端、つまり世界の超富裕層で、彼らも6割はど増やした(C部分)。アメリカ大統領選の文脈で最も注目されたのは、象の鼻が地面に垂れているBの部分だ。ここの10人に7人は先進国の中流以下の人々だ。グローバル化で新興国の労働者(A部分)との国境を超えた競争にさらされ、20年間で所得がほとんど増えなかったといえそうだ。/もちろん、このグラフが示しているのは上昇率であり、所得の絶対額ではない。所得の額面だけを比べれば、今でも先進国の中流の方が新興国の中流よりも稼ぎは多いが、伸び率では差が付いた。グローバル化で所得が増えた「勝者」は、新興国の中流と世界の富裕層であり、「敗者」は先進国の中流以下とグラフの左端、象のしっぼに位置する貧困層であることを示した。トランプがすくい取ったのは、アメリカのB部分の不満だった。イギリスEU離脱を支持した人々も同じ位置づけとされている。(p.245~p.246)


トランプを支持した人たちの期待は裏切られるのではないか。公約は実現できないのではないか。その時アメリカは、世界はどうなるのか。早くも綻びが見え始めているような気がする。

★★★ 言ってはいけない 橘玲
まず、本書「あとがき」最後部分の引用。
2015年1月7日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など12名が犠牲になつた。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しょうとした過去の反省によるものだと思っていたのだが、〝リベラル″を自称するひとたちの考えはちがうらしい。ちなみに私は、不愉快なものにこそ語るべき価値があると考えている。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。(p.248)
ここにあるように、本書「言ってはいけない」は読者を引き付けるためのタイトルで、内容は言うべきことだと言えるでしょう。様々な格差は現実に存在し、それをどう言い繕っても、根本的なところは変わることはない。男女の差は歴然としていて、男女平等とは何なのか、私には判らない。でも、男女の違いは判る、その違いは差別ではないだろう。しかし、それを差別だという人がいて、公には否定できないところがある。だから、「言ってはいけない」となる。考えると厭になってくる。
美形の男性は並みの容姿の男性より4%収入が多い。女性の場合、美貌のプレミアムは8%だからその半分で、男性はイケメンでも経済効果はそれほど期待できない。これは常識の範囲内だろう。
驚くのは容姿の劣る男性の場合で、平均的な男性に比べてなんと13%も収入が少ないのだ。女性の場合は4%だから、醜さへのペナルティは3倍以上にもなる。なぜこれほどまでに男性は容姿で差別されるのだろうか。この疑問に対してハマーメッシュは、母集団の違いを指摘する。成人男性の8割以上が仕事に就くのに対し、アメリカでも就業する女性は7割程度だ。これは専業主婦になる女性がいるからで、経済学的な観点からは、彼女たちが労働市場を忌避するのは期待できる賃金が少ないからにちがいない。美貌による賃金格差がある以上、働かない選択をした女性の不美人度は高い(美人のほうが働く意欲が強い)はずで、母集団から容姿の劣る女性が抜けたことで男性との差が生じたのだ。(p.140~p.141)
この後、男が差別されるのは、暴力的な外見だと言っている。
格差社会の頂点にいる富豪たちが多くの妻を持てるようになれば、恋愛・結婚市場の過当競争が緩和され、婚括ヒエラルキーの下層で苦しんでいる女性たちにもパートナーを獲得するチャンスが広がるだろう。一夫多妻は女性の人権を蹂躙(じゆうりん)する前近代的な許しがたい制度だとされているが、「勝ち組」の男性が多くの女性を獲得することで損をするのは「負け組」の男性で、女性の厚生は全体として向上するはずなのだ。もっとも、この「改革案」が実現する可能性はほとんどないだろうが。(p.178)
子どもが親に似ているのは遺伝子を共有しているからだ。子どもの個性や能力は、子育て(家庭環境)ではなく、子どもの遺伝子と非共有環境の相互作用によってつくられていく。そしてこの過程に、親はほとんど影響を与えることができない。(p.215)
ヒトは社会的な生き物で、群れから排除されてしまえば生きていく術がない。古今東西、どんな社会でも「村八分」は死罪や流刑に次ぐ重罰とされた。これは子どもも同じで、「友だちの世界」から追放されることを極端に恐れる。勉強だけでなく、遊びでもファッションでも、子ども集団のルールが家庭でのしつけと衝突した場合、子どもが親のいうことをきくことはぜったいにない。どんな親もこのことは苦い経験として知っているだろうが、ハリスによってはじめてその理由が明らかになつた。子どもが親に反抗するのは、そうしなければ仲間はずれにされ、「死んで」しまうからなのだ。('p.226~p.227)
・・・左脳の役割・・・それは自己正当化、すなわち自分に都合のいいウソをでっちあげることだ。無意識が捏造(ねつぞう)した気分のいいウソは、「意識」というスクリーンに映し出される。意識は無意識が生み出す幻想なのだ。もっとも効果的に相手をダマす方法は、自分もそのウソを信じることだ。カルト宗教の教祖が信者を惹きつけるのは、自らが真っ先に「洗脳」されているからだ。社会的な動物であるヒトは上手にウソをつくために知性を極端に発達させ、ついには高度な自己欺臓の能力を身につけた。(p.245)
上では引用しなかったが、9.結婚相手選びとセックスにおける残酷な現実 10.女性はなぜエクスタシーで叫ぶのか? はとても面白い。一つだけ・・
霊長類のなかで、発情期にかかわらず交尾し、性行為をコミュニケーションの道具に使うのはヒトとボノボだけだ。そのボノボは、一夫一妻制のテナガザルや一夫多妻制のゴリラより進化的にはるかにヒトに近い。だとしたらなぜ、ヒトの性行動を考えるときにボノポを基準にしないのか。そして彼らは、こう宣言する。「ヒトの本性は一夫一妻制や一夫多妻制ではなく、(ボノボと同じ)乱婚である」 (p.189~p.190)
この前後で丁寧に説明してあります。興味のある方は本を読んで下さい。

★★ 日本国民であるために 瓦盛央
副題:民主主義を考える四つの問い
その四つは、「割り込みをするのは悪いことか」、「選挙で自分に投票するのは「ずるい」ことか」、「無関心ではないのに、政権にも、政権に反対する人にも賛成も反対もできないということは認められるか」、「過去の日本人の罪を現在の日本人は謝罪しなければならないのか」、それぞれが本書の四つの章に対応している、第一章 国家はなぜできたのか、第二章 民主主義とは何か、第三章 日本とはどんな国家なのか、第四章 日本国民であるために、である。細かく言葉の意味を考察し、定義し、丁寧に論理を組み立てていく。読んでいてウンザリするとか、判りにくいとかいうことはなく、結構楽しく読めた。が、結局何が言いたいのか、結論がなんなのか、今ひとつピンとこない。引用したい文章もない。
一つだけ。憲法九条と日米安保が今の日本の矛盾の根源、と著者は言う、さらに、片方だけを廃棄してもおかしなことになる、即効性のある解決策は両方を共に廃棄すること。これに関しては丁寧に説明がしてあり、成る程と思う。しかし、著者も認めているように実現不可能。ではどうするか、この後の結論が観念的で、理解力欠如の私にはよく判らない。

★★ 海を渡って 鶴崎燃
写真集です。日本と満洲・ミャンマー・ブラジルの間の海を渡って行った人、来た人を撮影しています。三部構成で、それぞれ上段が海を渡ってきた人、下段が海を渡っていった人の写真、B4版なので、写真大きさも充分です。第一部の上段は中国残留邦人の帰国後、下段は中国東北部に残る満州国の名残やそこで働く日本人。第二部の上段は在日ミャンマー難民の日本での生活、下段はタイ・ミャンマー国境にあるミャンマー人難民キャンプでの生活。第三部の上段は日系ブラジル人の日本での生活、下段は日系ブラジル移民のブラジルでの生活。上下の対比に関しては、第一部が成功しているとは言えませんが、第二部は見事に違いと類似を浮かび上がらせています。メラ難民キャンプは、30年ほど続いているそうで、よくテレビで見る難民キャンプとは違っています。高床式の住居で、山の斜面に立っています。雲に覆われた山を背景にした遠景は、そこでの生活を考えないと、私には美しいと思えました。これに対して、ミャンマー難民の日本での住居は様々な点で決して良いとは言えません。ブラジルに関しては報道でもよく取り上げられることが多いように思いますが、この写真集の写真は一枚でも歴史の深いところまで掘り下げています。色々考えさせられました。一番に思ったのは、日本人とは何なのか、ということです。

★★★ 人の樹 村田喜代子
植物が生物界の優位に立てるのは、動かなくていいからなのよ。動物たちは食物を求めて移動しなくてはならない。でもわたしたちは養分を求めて地上をさまよう必要はないの。太陽の光さえあれば一歩も移動しなくてすむ。自分の体内に、光合成の化学工場を一つ持っているわけよ。あとは少しの水があれば充分。(p.13)
あたしたちの曽祖母は、大昔からついこないだのことまで、何でも自分が見たようにしゃべるの。昔、釈尊っていう仏様が最初の説法をしたとき、口を清めるために、ニームの木の枝で房楊枝をこしらえて、それで歯を磨いたんだって。そしてその房楊枝の木はね、あたしの曽祖母の曽祖母の曽祖母の……曽祖母なんだって。(p.25)
このように、樹が語り手になって物語を紡ぎ出します、また、樹を主人公として人が語るものもあります。面白い趣向で、楽しく、興味深い、短編が18です。特に、「とむらいの木」、「弔い花」、は動物と植物を対比し、死について考えさせる佳作だと思います。著者の別の作品も読みたくなりました。

★★ その「おこだわり」、俺にもくれよ!! 清野とおる
1と2が出ていて、去年の7月図書館に予約したら、2は3ヶ月ぐらい、1は半年ぐらいかかりました。その為か、つまり、既に一冊読んでいたためか、面白さ、バカバカしさが感動的ではありません、特に前半。しかし、最後の方に結構楽しめました。特に、「さく男」、雪印の「さけるチーズ」をさく話です。マンガなのですが、写真があります。

これはすごい! やってみたくなりますが・・・
参考までにこの本で紹介されている「おこだわり人」は、ツナ缶の男、寝る男、アイスミルクの男、ポテトサラダの男、ベランダの男、白湯の男、帰る男、内ポケットの男、さく男、コンソメパンチの男。こうやってふり返ると、それぞれなかなか面白かったと思われてきます? 星三つ?

★★★ 人間晩年図巻1990-94年 関川夏央
読む順番が逆になったが、人間晩年図巻1995ー99、の一ヶ月ぐらい前に出版されたもの、図書館ではこちらの方が人気だったので、手元に来るのがかなり遅くなった。以下は「あとがき」にあるもの。
山田風太郎先生に『人間臨終図巻』という著作がある。古今東西九百余人の死に方を書いた、静かに劇的な本だ。山田先生は一九八〇年代なかばに筆をおかれたが、それ以降に死んだ人は書かれずに気の毒ではないか、というのが最初の発想であった。しかし時は移った。人の死に方の情報が寡少またはゼロになったのは「個人情報」の壁がはりめぐらされたためだ。ならば、平均余命といっしょに著しく長さを増した「晩年」を中心にすえるのは?一九八〇年代後半から現在までの約三十年間の死者は、私たちの同時代人である。彼らの晩年をえがくなら、それはすなわち意外な角度から「現代史」を記述することになるのでは?(p.267)
これがこの本のことを言い尽くしていると思う。『人間臨終図巻』に比べ、記載が長く、ちょっとした伝記を読んでいるようである。関連人物への言及も多く、以下の引用は江青についてのものだが、毛沢東をはじめ周りの人物にも記載が及ぶ。最後の引用は、タイトルからして、中上健次/永山則夫、になっている。人の繋がりは不思議なものです。
中華人民共和国成立以来、「反右派闘争」「大躍進」「文化大革命」と、暴力的・破壊的・自殺行為的な大衆政治運動を扇動し主導してきたのは毛沢東である。彼は江青ら「四人組」の活動を許容し、ときに指嗾(しそう)して利用した。そう考えるなら「四人組」の実態は「五人組」で、その実質的首魁は毛沢東であった。時は流れ、現代中国大衆はこぞつて拝金主義に走っている。極端な格差と党幹部腐敗への大衆的不満、および少数民族迫害に対する国際的非難を、中国共産党政府は帝国主義的膨張政策と民族主義の鼓吹によってそらそうとする。「革命」も「共産主義」も遠い過去の悪い夢であるはずなのに、いまだ天安門には毛沢東の巨大な肖像が掲げられている。大衆的「反日」運動では、江青の言葉「革命無罪」が「愛国無罪」といいかえて叫ばれる。中国は変わらない。中国政治の本質は大衆運動であり、江青はその病症の最先端を体現した女性にほかならなかった。(p.43~p.44)
『無知の涙』を読んだ中上健次は、「ここまで虐げられた人間がいたのか」と強い衝撃を受けた。また「永山」という姓は中上の故郷、紀州新宮の被差別部落がある地名とおなじで、やがてそれを「路地」と命名しながら自らの小説世界の核とすることになる彼は深い因縁を感じた。さらに永山則夫が六八年十一月から逮捕の直前まで、歌舞伎町のジャズ喫茶「ビレッジ・バンガード」でボーイをしていたと知り、偶然に驚いた。「ビレッジ・バンガード」は、中上が入り浸っていた「ジャズ・ビレッジ」から通りひとつ隔てた場所にあり、そこでの永山は真面目な早番のボーイだった。永山も中上も当時は知らずにいたが、「ビレッジ・バンガード」で遅番のボーイとして働いていたのが北野武(ビートたけし)であった。(p.125)
様々な死に方があり、つまり、様々な生き方があり、身につまされました。

★★ 私景 祝島 山田イサオ
モノクロの写真集。著者は1956年岩国市生まれ、ヒロシマ・祝島を永遠のテーマとしている。祝島とは30数年の付き合い、上関原発の反対運動とほぼ重なる。しかし、この本は2015年9月の出版で、反原発の写真は一枚だけ、それも犬が「絶対反対」のはちまきをしているもの。他は全て、島の穏やかな人々や物静かな景色を写している。島は2016年末現在、人口401人、高齢化率75.7%、だが、95頁の中には10枚ぐらいの子供や若者の写って写真もある。とはいえ、モノクロということもあり、石積みの練り塀が特徴の景色は哀愁が漂っている。今瀬戸内海にはこのような島が増えているそうだ。未来が明るいとはとても言えそうにない。

★★★★ 人間臨終図巻上巻 山田風太郎
先ずは小林一茶の記述全文。
小林一茶(一七六三~一八二七)
十五歳で江戸に奉公に出され、四十九歳で故郷信州柏原(かしわばら)に帰って来た一茶は、俳句の世界から外に出れば、金銭的にも性欲にも、エゴイズムと強欲の化身(けしん)であった。古郷(ふるさと)やよるもさはるも茨(ばら)の花と詠(よ)みながら、三十五年間彼が故郷を捨てていたあいだ働きつづけた腹ちがいの弟の財産を半分とりあげ、文化十一年、五十二ではじめて妻を迎えると、常人には彼の露悪癖の現われではないかと疑われるような記録を残す。その文化十三年一月の日記。「十五(日)晴。三交。十六 晴。三交。十七 晴。夜三交。十八 晴。夜三交。十九 晴。三交。廿 晴。三交。廿一 晴。四交」半生の苦労のために彼は四十歳で白髪になり、五十歳までに歯はすべて抜け落ち、結婚後も、癰(よう)、瘧(おこり)、仙気(せんき)、疥癬(かいせん)などを相ついで患いながらこの獅子奮迅ぶりである。雀の子そこのけそこのけ一茶が通る。あかん坊は次々に生まれたが、次々に死んだ。長男発育不良二十八日、長女痘瘡(とうそう)一年二カ月、次男母親の背で窒息死九十六日、三男栄養失調一年九カ月。そして妻は疲労困憊(こんぱい)のためか、癪(しゃく)と精神神経症を起して三十七歳で死んだ。一茶は六十歳になっていた。すでに彼は五十七歳の秋、千曲川沿いの雪道でころび、そのひょうしに中風を発していちじ半身不随、言語障害を起している。夜の雪しんしん耳は蝉の声高血圧のために、彼は耳鳴り症状に悩まされていたのである。それなのに彼は六十二歳で再婚し、離婚し、そのあと善光寺の門人の家でまた中風を起した。彼みずから書く。「ふと舌廻らぬやまいの起りて、みな手まねして湯水を乞いつつ、さながら?(おし)のありさまなり」にもかかわらず、彼は六十三で三度目の妻を迎える。翌文政十年九月、不自由の身体を駕籠(かご)に託してあちこち菊見に出かけ、十一月八日に帰宅したが、十九日から気分が悪くなり、その日の午後五時ごろに亡くなった。三度目の発作を起したのである。そのとき妻は懐胎中で、一茶としては五人目の子供は、彼の死後に生まれた。大変な中風人間である。柏原の野山にはすでに雪が深かったろう。これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺 (p.409~p410)

1986年に発行された本。扉の次の頁に:この門を入る者一切の望みを捨てよ――ダンテ『神曲・地獄篇』――
この本には人の死に際が書かれている。上巻は、十五歳――六十四歳で死んだ人々、つまり死んだ時の年齢順でまとめてある。取り上げられている人々は、洋の東西を問わず、時代も紀元前まで遡るものもある。アレキサンダー大王(没年BC323)、アリストテレス(BC322)、秦の始皇帝(BC210)、司馬遷(BC86)、クレオパトラ(BC30)。その後10世紀までは、キリスト(28)、ネロ(68)、諸葛孔明(234)、玄奘三蔵(664)、楊貴妃(756)、李白(762)、杜甫(770)、空海(835)、菅原道真(903)。一人の記述は、長くて3ページ、短いものは数行。これが二段組み425ページなのだから、一体何人が取り上げられているのか、400人は超えているだろう。。タイトル通り、臨終の時が書かれているのだが、どんなに短い文章でも、その人の生涯がパッと見えるようだ。素晴らしい文章の力。著者は結局、臨終の時を描きながら、如何に生きるかを説いている、と感じる。

同じ夜に何千人死のうと、人はただひとりで死んでゆく。――山田風太郎―― (p.52)
人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る。――山田風太郎―― (p.71)
生が終って死がはじまるのではない。生が終われば死もまた終ってしまうのである。――寺山修司―― (p.189)

十七日の葬式は、彼の遺言により、一切宗教的儀式を排するために、「告別式」という形で行われた。これが日本における「告別式」の始まりである。然るに、すべてをあいまい化してしまう日本人は、やがて「告別式」のほかにも依然二重の手間をかけて「葬式」は行い、兆民の考えた「告別式」と別の形態のものにしてしまった。兆民は墓さえ作らせなかった。「霊魂なるものは火なり。肉体は薪なり。薪尽きて火滅す。かくのごときのみ」――中江兆民―― (p.261~p.262)
東条英機がいなくても太平洋戦争は起ったろう。しかしヒトラーという存在がなかったら、太平洋戦争は起らなかったにちがいない。これほど全日本人の運命に――子々孫々にわたって――激甚な影響を与えた異国人はほかにない。いや、日本人にもいない。(p.292)
九月にはいると右耳が聞こえなくなり、十月にはまったくの聾者になった。そして聾者のスメタナは、その十一月に名曲「わが祖国」の「モルダウ」に着手し、完成した。つまり彼自身はこの曲を自分の耳で聴くことは出来なかったのである。(p.341~p.342)
<川上宗薫>葬式の喪主は、三十歳の妻と四十歳の娘の二人が勤めた。(p.381)
斎藤道三の記述は20行ほどであるが、波乱に満ちた生涯を実にきちんと書いている。(p.382~p.383)
<ヘミングウエイ>なお、彼の父クレアレンスも一九二八年鬱病でピストル自殺をし、彼の弟レスターも一九八二年同病で猟銃自殺をした。(p.393)
<伊藤整>人は死に臨んで、多くはおのれの「事業」を一片でもあとに残そうとあがく。それがあとに残る保証はまったくないのに。――これを業(ごう)という。(p.421)

この本は去年の9月に読み始めました。古い本なので次の予約がないのをいいことに、返さなければならないものを先に読んで、後回しになり、結局四カ月間継続して借り続けました。下巻は、これから予約している本が続々来そうなので、そのあとになるかな。

★★ ある臨床心理学者の自己治癒的がん体験記 山中寛
副題:余命一年の宣告から六年を経過して
カバーの裏に以下の紹介があります。
「ステージⅣの告知から6年,私は「がん」とともに生きた」
◆本書は,スポーツカサンセラーとしてオリンピックにまで帯同した経験を持つ著者(臨床心理学者)が,みずからの壮絶ながん体験を告白。自己治癒のためのがんとのつき合い方を公開したものである。
◆まず,告知から手術をへて,西洋医学的標準治療からバイオ・サイコ・ソーシャル・スピリチュアルなホリスティック医療へと移行していく過程が詳しく語られる。そして著者は,臨床心理学者として自己の主体的努力を志向し,漸進性弛緩法,動作法,リラクセーション,自律訓練法,イメージ療法などさまざまなアプローチによって自己治療的な方法論を実践している。そして,この自己治療的体験が,生理学的にも心理学的にも著者の肉体に功を奏したのである。
◆こころとからだの調和を図ることによって,がんに対する不安や恐怖を取り除き,新しい自分を見いだすための希望の書。

思っていた内容と少し違っていました。心の持ち方が体に影響する、ならば納得できるのですが、病気が治る(悪化しない)、には胡散臭さを感じるのです。著者も癌になる前はそうだったと言っているので、そして、実際に生き存えているので、その様なことが起こるのかな、とも思いもします。人の心と体は分離できない、も確かでしょう。ということは・・・ もう少し考えてみましょう。
参考までに本書の目次を以下に挙げておきます。
第一章 私の臨床心理学観
 1 心理療法の目的
 2 ひとの存在次元と心理療法
 3 心身相関の捉え方
 4 心身一元現象を生きる
第二章 私のがん体験 ――ホリスティック医療を中心に――
 1 がん発見前の生活
 2 告知から手術まで
    がん発見 ――自己観察記録ノートをつけ始める――
    告知から手術前まで ――ー怒りと失望――
    手術から術後まで ――予期しなかったアレルギー反応――
 3 標準治療からホリスティック医療へ
 4 これまで実践してきたホリスティック医療
 5 ホリスティック医療の効果
第三章 "がん〟との付き合い方 ――不安・恐怖を中心に――
 1 自己観察法
 2 漸進性弛簾法 ――がん体験者からトップアスリートまで――
 3 自律訓練法
 4 イメージ法
 5 動作法
 6 スピリチュアル体験 ――九死に一生を得る体験――
第4章 がん体験によるこころの変容
 1 スピリチュアル体験がもたらす構えの変容
 2 心的構えによるがんの治療効果
 3 死の受容から生の躍動へ
 4 からだのスビリチェアリティ
 5 そして、祈る