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読書中 広島市今昔写真帖

読書中 民族の創出 平野雅享

読書中 結婚 橋本治

★★★★ 四畳半神話大系 森見登美彦
290ページ、二段組、であるがスンナリ面白く読めた。四畳半シリーズ(?)はこれが先に発表され、「四畳半王国見聞録」が後だったが、逆に読んだので、発表順に読んだ場合とかなり印象が違ったものになったと思う。つまり、二つの作品には共通するものはあるが、密接に繋がっている訳ではない。発表順に読んだ方が繋がりやすかったのではないか。この作品には四つの話が含まれる。第一話 四畳半恋ノ邪魔者 第二話 四畳半自虐的代理代理戦争 第三話 四畳半の甘い生活 最終話 八十日間四畳半一周。簡単に言うと、三回生になったばかりの大学生が二年間を振り返る話である。第一話でかなり鬱屈した生活が描かれ、多少希望の光が見えるか見えないかというところで終わる。第二話に進んで、アレッと思う。そして、成る程とこの本の仕掛けに気付く。話が四つある理由もわかる。判っていても読ませる力を持っている。繰り返しの変化が面白く、それによって骨格が浮かんでくる。特に最終話は素晴らしいと思う。小説が好きな人にはお勧め。
可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である (p.112)

★★★ 橋を見に行こう 平野暉雄
ビルの次は橋です。偶々この様な本が二つ並びました。ビルの歴史はそんなに古いものではありませんが、橋は大昔から人間にとってはなくてはならないものでした。ただ実用性だけではなく、それ自体が美しく、それを取り込んだ風景も素晴らしいものです。また、素人には判りませんが、橋を造るにはすごい技術が必要なようです。そのようなものを見に行きたいと思う場所がこの本にはたくさんあります。
因みに、この本に載っている広島県の橋は四つ(三つ半)。雄橋(おんばし)、帝釈川にある天然の石が橋のようになっているもの。縮景園の跨虹橋(ここうきょう)。因島大橋。多々羅大橋、橋の向こうは愛媛県。

★★ 超高層ビビル日本編 中谷幸司
「ビビル」で間違いありません。「ビル」と「びびる」(しりごみする)をかけてあるのでしょう。
ドバイ編の紹介を見て読みたくなり、図書館で探したら、これしかありませんでした。
ただただ、ビルの写真、です。ビル名、高さ、階数、竣工年、所在地、だけは書いてあります。スポーツクラブでバイクを漕ぎながら眺めました。何かエピソードか、著者の感想みたいなものがあればいいと思います。
ほとんどが惹き付けるものを持たない普通のビルです。外国に較べて高層建築の歴史がないということでしょうか。しかし、アジアの新興国には個性的なビルが結構あります。日本人の気質の問題なのでしょうか。
高層ビルの定義は曖昧ですが、著者は一応100メートル以上としています。圧倒的の東京に多く、大都市圏がほとんどです。因みに、我が広島は以下の13のビルが取り上げられています。アーバンビューグランドタワー、リーガロイヤルホテル広島、NTTドコモ中国大手町ビル、NHK広島放送センタービル、広島クリスタルプラザ、オリエンタルホテル広島、ANAクラウンプラザホテル広島、平和大通り電気ビル、広島イーストビル、A.Cityタワーズウエストタワー、A.Cityタワーズイーストタワー、グランドプリンスホテル広島、アーバンビュー渚ガーデン/タワーヴィレッジ2番館。
ビルの名称は圧倒的にカタカナが使われています。意味不明のものがあります。仕方のないことなのでしょうか。関西に漢字だけのビルが幾つかありました。

★★★ 神の島 沖ノ島 藤原新也・安部龍太郎
沖ノ島は玄界灘に浮かぶ、一般人は訪れることの出来ない島です。この本は、その島に行く機会を得た著者二人が書いたものです。まず、藤原新也が個人的な想いを書いた文、そして写真、面白いタイトルが付いています。漢字二文字とその説明になるような平仮名。例えば、絶壁:きょぜつ、結界:わかれみち、巨石:けしん。巨石がたくさんある島なので、同じ漢字の写真が数枚ありますが、添えられた平仮名が違っています。写真には興味深い島の風物は写っていますが、感動とまではいきませんでした。写真のあとに、安部龍太郎の「古代宗像一族の物語」が続きます。序一、宗像大社、序二、沖ノ島上陸記、は客観的な説明です。第一話 三韓征伐、第二話 磐井の反乱、第三話 白村江の戦い、第四話、壬申の乱、は宗像一族の者とこれらの有名な出来事を絡めて書いた歴史小説で、よく出来ています。最後に、海の男の心の支え、という部分があり、創作から現実に戻り、宗像一族賞賛で終わりです。

★★ 短編を七つ、書いた順 片岡義男
先日読んだ、ミッキーは谷中で六時三十分、よりも面白かった。といっても、作品に対して持った感想は同じ。せっかくですもの、固茹で卵と短編小説、花柄を脱がす、なぜ抱いてくれなかったの、エリザベス・リードを追憶する、ある編集部からの手紙、グラッパをかなりかけます、の七つの短編集。最後に二編が特によかったが、現実感があるようで、作品全体がフワフワとリアリティを失っていくような不思議な気持ちになりました。

★★ 左翼はなぜ衰退したか 及川智洋
奥付にある著者略歴。1966年、岩手県生まれ。1990年、東北大学法学部卒業、朝日新聞社に勤務。旭川支局、社会部、be編集部などで記者を務める。日本の近現代史、政治史に関心があり、現在、放送大学大学院で、第二次大戦後の日本に社会民主主義が板づかなかった理由について、民社党を題材に論文作成を進めている。まえがきには、本書は、主に若者向けの近現代史入門のつもりで書いた。稚拙(ちせつ)な内容であることは十分に自覚しているが、このようなテーマを正面から、理解しやすく書いた本になかなか出会えない。ならば自分で、というのが動機である。いわゆる学者・研究者の著作は「木を見て森を見ず」タイプのマニアックな労作が増えて、立派とは思うが歴史を僻撤(ふかん)して考えるにはあまり役立たないと感じることが多くなった。(p.4)
220頁ちょっと、大きい活字、平易な書き方、すんなり読むことが出来ました。左翼、右翼、という視点からの近現代史ですが、少々単純化しすぎている嫌いがあります。そして、こちらの意見も、あちらの主張も、ほとんどに言及し、著者の立場が明確になっていません。まあ、そのような本を意図したのでしょう。ただ、左翼が衰退した理由には結構説得力がありました。これからどうなるかは述べられていませんが、残念ながら、あまり明るい未来はないように思われます。この様な本には、見通しや処方箋が欲しいと思うのは欲張りでしょうか。
テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」の司会をしている評論家の田原総一朗(たはらそういちろう)によると、昔(1987〔昭和62〕年に番組開始)は出演者に右翼が見つからず困ったが、最近(2013年)は左翼がいなくなったそうだ。世相の移り変わりを不利と感じた左翼が出演を控え、勢いを失ったことが分かる。(p.15~p.16)
マルクス主義の本家本元、西ヨーロッパ諸国の左翼は、ソ連との関係に悩みつつ、マルクス主義を徐々に相対化して資本主義の枠内での左翼的な政策実現という方向に舵(かじ)を切っていった。日本はソ連と隣国とはいえ摩擦は少なく、左翼政党はそうした転換がついにできず、それは21世紀の衰退につながった。(p.148)
個人の人権にせよ平等にせよ、法律などの社会規範や常識とのバランスの上に成り立つのが当然で、20世紀の左翼はそれを絶対視しすぎていた。それが、右翼的な意見がいわば行き過ぎた左翼化へのブレーキとして台頭してくる土壌にもなった。(p.219)


★★★ インフェルノ(上) ダン・ブラウン
ダン・ブラウンが著す、ロバート・ラングドンが活躍する物語。私が読んだのは、「ダ・ヴィンチ・コード」、「ロスト・シンボル」、の二冊。この前にもう一冊あるらしい。今作も過去二冊と同じような構成。大都市が舞台(パリ・ワシントン・フィレンッツェ)、その都市の代表的な建造物や有名人がストーリーに絡む、主人公に女性が付きそう、波瀾万丈、ハラハラドキドキ、すぐにでも映画になりそう、まさに、アメリカ的、ハリウッド的お話です。事実かどうかが問題になることもありますが、小説なのでその辺はあまり考えず、楽しく読めばいいではないか、といい加減な私は思います。
例によって、図書館で借りて読んでいます。(上)がいい所で終わって、(下)が暫く来そうにありません。ストーリーを忘れてしまいそうです。

★★ 透明な迷宮 平野啓一郎
消えた蜜蜂、ハワイに捜しに来た男、透明な迷宮、family affair、火色の琥珀、Re:依田氏からの依頼、の六編からなる短編集。著者の作品は、日蝕、一月物語、ドーン、を読んだが、この本が一番期待外れ。短編には向いていないのではと思った。ただ、最後の、Re:依田氏からの依頼、はなかなか面白い。入り組んだ構成に魅力があり、ストーリーがうまく収束している。時間が主要テーマになっているようで、その解釈は凡庸のようでありながら、不思議と心に響く。姉妹もテーマになっているようで、表題作の、透明な迷宮、にも意味深な双子の姉妹が登場し、結構面白い。
引用部のボールド体は、本文では傍点。
時間は常に、まだか、丁度か、もうかの三つの姿をしている。/時間を過剰に意識するか、適度に意識するか、まるで意識しないか。/意識が散漫な時、時間は遅く、何かに没頭している時には速い。――内的な時間感覚の混乱を、私はしばらく、この単純な理屈で整理しょうとした。(p.185)
一人一人の人間が、自分の勝手なテンポで生きている。これは、自明だ。そして、そのテンポは、常に揺らいでいる。これもまた、自明だ。/だからこそ、社会はコミュニケーションのために時計を共有し、折々、時刻によって同期しなければならない。世界の持続の同一性を担保するために。それでどうにか成り立っているのは、その時間感覚の個体差が、結局、あまり大きくないという消極的な理由に過ぎない。/ところが、私の場合は、その差異の拡大に歯止めが利かなくなったのだった。(p.192)

★★★ 世界の文字を楽しむ小事典 町田和彦(編)
日本には、文字そのものを研究する学問分野はなく、大学にもそのためのコースはないそうです。この本の第1部は、多くの著者が専門分野の文字についてその知見を述べています。そのため、それぞれの記述は短いものが多く、物足りなさを感じる所もあります。まあ、詳しく書かれても理解することは困難でしょう。面白かったのは、権力と宗教が文字の使用に影響すること、今も中央アジアで、ラテン文字とロシアのキリル文字との間で揺れている国があるそうです。第2部は現在使われている44の文字の紹介です。日本語の文字、ハングル、ラテン文字、以外は形がどうなっているのかすら判りません。「一見するとかわいい坊主頭が並んでいるように見える文字。」(p.220) と形容されている、インド東部で使われているオリヤー文字というものがあります。「視力検査表の記号と見間違うほどである。」(p.247) と形容されている、ミャンマーで使われているビルマ文字というものもあります。恐らく日本の文字も外国人から見たら、これらに劣らずとても変なものでしょう。そして、日本語の特殊性を強く感じました。特に、母音(字)、子音(字)、の少なさです。この本に載っている文字で一番少ないのではないでしょうか。
サハラ砂漠の民トゥアレグが使うティフィナグ文字から北極圏の民イヌイットが使う音節文字に至るまで、地球上のあらゆる所に文字があり、これをインターネット上でも使えるものにしようという努力が行われています。これらの文字は活字印刷の時代には500年以上も、まったく置き去りにされてきた文字と言えますが、インターネットの時代には、はるかに楽観的な将来を期待できます。/下の地図はUDHR in Unicodeというサイトのトップページですが、この地図には約400の点があります。その一つ一つが言語に対応しており、それをクリックするとユニコードでデジタル化された世界人権宣言(UDHR)の翻訳文が閲覧できるというわけです。ぜひ、試しにどこかの点を選んでクリックしてみてください。http://unicode.org/udhr (p.214)
多くの言語で、ユニコードによるデジタル化が進み、文字の使用に大きな影響を与えているようです。引用最後のホームページは興味深い試みです。読むことは出来ませんが、文字の形を見るだけでも面白いと思います。

★★★ 四畳半王国見聞録 森見登美彦
著者の本はかなり読んだが、四畳半シリーズ(?)は初めて。何年かにわたって雑誌に発表されたものを集めて単行本化。それぞれが独立した短編としても読める。これまで読んだものとはすこし違っていると思う。大学生活への強烈なノスタルジーではないか。私はそう思う。どうしてもそういう読み方をしてしまった。京都ということがあるのだろう。固有名詞が気になり、ググってみた。意外に実在するものが多くチョット驚く。もう一度、客観的に(?)読みたいと思う。先に出ている、四畳半神話体系、も読んでみよう。
なぜ四畳半から出なければならないと考えていたのか。このように裏返してみれば、四畳半の内部に世界はある。街路樹の葉から落ちた一滴の水にも全宇宙が含まれてけるように。広い世界の中に愛すべき四畳半があるのではなく、愛すべき四畳半の中に世界がある。これこそ四畳半の秘密であり、世界の秘密だ。その秘密を知る者にとって、この世界は家の居間で過ごした神話的時代に俺が感じていた、あの不思議と冒険に充ちた小さな世界そのものになるのだ。(p.244)

★★ お菓子手帖 長野まゆみ
最初に、甘党の系譜、という10ページほどのパートがあり、著者の家系の甘党度が述べられる。この後は、菓子年譜、となり、著者が生まれたときからのお菓子にまつわる話が年齢ごとに進んでゆく。まず驚くのは、著者の記憶力の良さである。親を始め周りの人たちに聞いたのではあろうが、著者の半生が、お菓子のことだけではなく全般にわたって、見事に描かれる。出世作である「少年アリス」が完成に至る経緯は興味深い。読んでみたくなった。二十九歳までが書かれていて、最後に、賢治とお菓子、というパートがある。これは出色である。著者の感性の鋭さが窺われ、宮沢賢治も再読したくなった。

★★ 米国人一家、おいしい東京を食べ尽くす マシュー・アムスター=バートン
著者のマシュー・アムスター=バートンは、ウォール・ストリート・ジャーナル紙やシアトル・タイムズ紙に寄稿する米国シアトル在住のフードライター。2012年7月、マシューは妻のローリーと8歳の娘アイリスの3人でシアトルを飛び立ち、東京の中野に借りた外国人向け短期滞在型アパートを拠点にして、約1か月にわたって日本食を食べ歩いた。そのときの体験をまとめたのが本書である。(p.335~p.336)
上に引用した、訳者あとがき、がこの本を説明しています。付け加えると、父と娘は2年前6日間東京に来ていたそうです。つまり、娘が6歳の時です。驚きました。さらに、2013年の年末にも来日しています。
内容は予想出来る範囲のもので、一年ぐらい前に出た、「英国一家、日本を食べる」の方が日本人が読んで面白いと思います。著者が、日本語版あとがき、で述べています。
僕は東京に1か月滞在し、短くて愚かしい本を書いて、人知れず帰国しようと考えていた。正直に言うと、本書を読んでくれるのは英語を話す少数の外国人ぐらいだろうと思っていた。まさか日本の人が本書を読んでくれるようになるとは予想もしていなかった。(p.331)
「英国一家、日本を食べる」の二匹目のドジョウということでしょう。

★★★ フォルトゥナの瞳 百田尚樹
私は右傾の思想を持ってはいないのに、気に入った作家が右翼的思想を持っていることが多々あります。この作家も、数冊楽しく読んだ後、その思想を知り、でもまあそれはそれと考え、この本も読みました。相変わらず惹き付けられる内容です。それに、毎作傾向が違っています。今作は特殊な能力を持った男の話です。
「俺たちは言うなれば、フォルトゥナの瞳を持っているんだ」/「フォルトゥナってなんですか」/「ローマ神話に出てくる球に乗った運命の女神だ。人間の運命が見える」 (p.191)
主人公は、死ぬ運命にある人間の体が透き通って見えるのです。で、様々なドラマが生まれます。ぐんぐん読ませます。そして、読み進むにつれ、結末が見えてきます。でも、それでいいのです。予測させるように書き、読んでいる方も安心してドラマの終結へと向かいます。納得して、ホッとして、虚構空間から退出、楽しめる本です。

★★ ミッキーは谷中で六時三十分 片岡義男
表題作を含む、7つの短編集。著者の作品名をいくつか知ってはいるが、読むのは初めて。独特の浮遊感を持っていると思う。文章の浮遊感、登場人物の浮遊感、作品そのものの浮遊感、リアリティがなさそうで、それでいて、何処かに着地するという妙な感覚。読後は不思議な世界を彷徨った気持ちになりました。
飲み下したその瞬間、バーボンのホグスヘッドで熟成されたスコッチの香りが全身にいきわたり、と同時に、ほとんど常に漠然と感じている不安のようなものが、拡散されていたあらゆるところからいっきに一点へと集まり、鋭い針先のようになり、それが自分に突き刺さることによって、不安が消えるような感覚を彼女は好んだ。不安は消えるのではなく、自分だけのものとして、その所在が自分の内部に明確になるのだ。(p.124~p.125) 『酔いざめの三軒茶屋』
「おたがいさまよ」という短い返答を西野は受けとめた。字面に託された意味だけではなく、その周囲に、あるいは裏面に、字面の意味を大きく逸脱した陰影のようなものがあり、そこに自分は反応しているのか、と彼は考えた。(p.168) 『タリーズで座っていよう』

★★★ りんごかもしれない ヨシタケシンスケ
絵本です。まあ子供用でしょう。しかし、何かに(忘れてしまいました)、大人が読んでも充分面白い、と書いてありました。確かにその通りです。主人公の子どもが、学校から帰ってきて、机の上に一個のりんごを見つけ、ここから物語が始まります。もしかしたらこれはりんごではないのかもしれない、と思うところから想像が膨らんでいくのです。その展開は楽しく、驚きや感動が続きます。可愛い絵の方が主役かもしれません。そして、結末が素晴らしい。子どもには勿論、大人にもお勧めです。

★★★ ロマ 生きている炎 ロナルド・リー
この訳書は今年4月の出版だが、原書は1971年の刊行、出版社が「くたばれジプシー」とタイトルを替えた。2009年、元々のタイトルに戻して再版。ジプシーとはロマの蔑称、初めて知りました。ユダヤ人がそうであったように、民族の国家がなく、世界のあちこちに散らばっている。著者は民族の為に活動をしてきた人です。四五十年前のことですが、厳しい状況が、恐らく今もそう変わってはいない状況が、伝わってきます。
これはわたしの物語、カナダ生まれのロムの体験談である。わたし自身と妻の名をのぞけば、ほかの登場人物の人名はすべて仮名である。物語は現実に起きた出来事に類似しているが、部分的にフィクション化もされている。しかし、激情、悲惨さと酒落はわたし自身の生活の一部であり、わたしが生まれた国で一人前の人間として承認され、平等の権利を獲得するためのわたしの闘いの一部が描写されている。本書はこれら二つの目標が到達できなかった敗者の物語である。(p.3)
敗者の物語、とあるように、華々しい活動の描写はなく、語られる著者と周りの人たちの生活は激しいものですが、筆致は抑えられたものです。そこには世にある差別に共通するものがあり、心に響きます。
スラム街へ追いやられ、そこで自らの文化と自尊心が破壊されていくほかの少数民族と同じように、ジプシーもじょじょに同化していくことになるでしょう。この世に存在するというそれだけの理由で、社会が重要だと認める価値観の否定につながるジプシーは脅威だと見なされています。ジプシーがジプシーのままで生きつづけることを許してはならない、ジプシーが白人社会の一員として生きることを許可する前提条件は、あらゆる『黒ん坊』の場合と同じように、徹底した思想改造でなければならない、そのように考えられています。(p.159~p.160)
残念なのは、誤植の多いこと。ワープロの変換ミス、と思われます。

★★★ 身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編 養老孟司
この著者の本は何冊か読んだが、あまり心を動かされなかった。しかし、この本は違った。いや、私が変わったのかもしれない。歳をとったということかもしれない。まあ、何れにせよ、この、ヨーロッパの墓巡りの本が面白い。墓に関する考察も勿論興味深いのだが、その他諸々の話に惹き付けられるものが多い。以下、色々引用したが、もっと紹介したい文章がたくさんあった。
まず第一に、一人称の死体は存在しない。自分の死体というのは「ない」。自分の死体が生じたときには、それを見る自分がいない。これは一種の論理矛盾で、この矛盾は哲学的にも解けていないと思う。すなわち自己言及の矛盾の一つである。次に、二人称はなかなか死体にならない。その人だとわかる部分が残存する限り、それはその人そのものなのである。自分の親の死体を指して「死体」と表現する人はいない。さらにいえば、それこそサルだって、自分の子どもの死体をしばらく抱き歩いたりする。現代人は死を「客観的事実」と思うのが普通である。しかし脳死をめぐる議論が沸騰したように、死ほかならずしも客観的事実ではない。だからこそ、どこかの時点で「死」だと、法律なり慣習なりで定めなければならないのである。とくに親しかった人にとって、死者は年月を経ていわばゆっくりと死んでいく。そう考えれば、いわゆる「死体」は三人称、つまり赤の他人でしかありえないのである。(p.14) と言っておきながら、最後の方に・・
死者は直接にほ二人称だというのが私の結論である。しかし人には想像力がある。二人称の死、つまり親しい人と自分との関係を、まったく関係のない赤の他人どうしの関係に投影する。そういうことができる。その意味で、無名者たちの墓に仔むと、さまざまな想いが湧いてくる。(p.148) 納得できる結論ではあると思います。
ある言葉や概念がないのは、その社会にそういうこと自体が存在しないからだ、というのが常識であろう。でも逆に考えると、あまりに当然のことは、言葉にしないのである。フランス革命の「自由・平等・博愛」についてすでに述べたことがあるが、フランス社会にそれが欠けている、あるいは欠けがちだからこそ、わざわざ大声でいう。そうに違いないと私は思う。世間のお役に立つのが当然。そういう社会では、わざわざヴォランティアなどと、いうまでもなかった。そう考えたっていいはずである。(p.47) 当然のことを言葉にしないのは、日本人の特技?
メメント・モリを表現するいちばんふつうの図柄は、美女の背景に骸骨を描くものである。九相詩が若い女性であるのも、同じことであろう。洋の東西を問わず、人の考えることはここでは似ている。エロスとタナトスである。(p.58) フロイトは偉い、ということになるのかな。
その場の会話は一次情報で、それを「典型的」と評するのは、二次情報である。二次情報化すると、その場に居合わせても、一次情報が記憶から消えてしまう。風景の報告に「いい景色だった」というようなもので、報告にならない。(p.69) 報告にならない報告、自らを省みて反省。
ユダヤ人とはヨーロッパの骨肉の一部で、ただし他者としてのヨーロッパである。世界のあちこちにユダヤ人が住んでいるというのは問題ではない。問題はヨーロッパ人の「内なるユダヤ人」で、それは現在の中国人にとっての「内なる日本人」に近いのだと、私は勝手に思う。古田博司によれば、毛沢東以来の現在の北京政府は「かつて帝国主義日本に勝利した」ことをもって、その正統性の根拠としている。その帝国主義日本ほもう消えてしまった。したがってこの北京政府の正統性は「内なる日本」にならざるを待ない。それが現代中国の「反日」が外から見ればメチャメチャに見える理由であろう。(p.77~p.78) この解釈はどうなのか、特に後半。
通説に従えば、天才と呼ばれるような特異な能力の基礎には、認知的抑制の欠如があるという。聞き慣れない用語だと思うが、われわれの脳は日常きわめて多くの入力に曝されている。それを適当に濾過してしまう、つまりフィルターをかける働きが認知的抑制である。乱暴にいえば、不必要なノイズを除いてしまう。ふつうの人にとって、たいていの入力は生存にも金儲けにも関係がない。そういうものは要するに雑音だから、意識に上らないように抑制する。それが認知的抑制である。(p.118) このちょっと後に、天才と狂気は紙一重、という昔からの見方には一理ある、と書いてある。
〔欧州では〕墓にいるのは当人であり、生きている当人の連続といってもいい。日本ではその間を明確に切る。死者ほ別物なのである。だから告別式では塩を撒き、死者には戒名を贈る。「贈らなければいけない」のである。日本では生きている間は、いわば自然となだらかに移行する。「自然に親しむ」。ところが死んで残された身体は、なにか別なものに変わる。それを本人の継続と見なさず、断絶させる。だから火葬なのであろう。欧州の墓を見ていると、いわば生臭い。墓石に写真を貼り付けても違和感がない。それは墓があくまでも本人であることを意味している。(p.159) ヨーロッパでは土壌の関係で骨が溶けないで残る。なので墓が満員になる。特に、ユダヤ教は墓を動かしてはいけない。などなど、沢山知らないことがあって面白かった。ドイツ・オーストリア・チェコ編、とあるのは、この後、イタリア・ポルトガル・フランス、へ行くことになったとのこと。当然本になるのでしょう。その時は読むか?

★★★ 宵山万華鏡 森見登美彦
著者の本は実に楽しい。ファンタジーという範疇に入るのだろう。奇想天外なところに夢があり、読書でしか味わえない面白さに満ちている。今作は短編集、というより、密接に繋がった連作という所か。祇園祭の宵山に絡んだストーリーである。著者の作品はほとんどが京都を舞台にしているが、中でも宵山が取り上げられる回数が多い。一つ目の「宵山姉妹」、おとなしめであるが、二番目の「宵山金魚」でパワー全開、すると三番目の「宵山劇場」で「宵山金魚」のファンタジーを壊すという意外な展開、しかし、その後、「宵山回廊」、「宵山迷宮」、「宵山万華鏡」、と始めに登場した姉妹絡みの話が続き、グルグル回った時空が元に戻って大団円、ではなく、静かに終了。

★★★ 恐怖の環境テロリスト 佐々木正明
本の帯に、「反捕鯨」は序章に過ぎない! 日本を狙う黒い活動家の思想、組織、錬金術 「動物解放戦線」、「地球解放戦線」、SHAC、PeTA……最も危険な4団体 アカデミー賞映画「ザ・コーブ」の嘘 などと書いてあります。本を読むと、この激しい言葉が誇張でないことがわかります。「ザ・コーブ」の嘘については他で読んだことはありましたが、危険な4団体については全く知りませんでした。本当に危険だと、卑劣だと思います。憤りを感じます。宗教の原理主義も恐ろしいが、こちらの原理主義はもっとメチャクチャ。ひどいのは、動物実験をする製薬会社を攻撃するのに、従業員個人の家を徹底的に責めるというやり方、あるいは、取引先を標的にする方法、目的のためには手段を選ばないということです。日本は今のところ、シー・シェパードによる、捕鯨に対する攻撃に晒されているだけですが、対応をを間違えるととんでもないことになりそうです。

★★★★ 美術は地域をひらく 北川フラム
サブタイトル、大地の芸術祭10の思想。Concept 01:アートを道しるべに里山を巡る旅。Concept 02:他者の土地にものをつくる。Concept 03:人間は自然に内包される。Concept 04:アートは地域を発見する。Concept 05:あるものを活かし新しい価値をつくる。Concept 06:地域・世代・ジャンルを超えた協働。Concept 07:公共事業のアート化。Concept 08:ユニークな拠点施設。Concept 09:生活芸術。Concept 10:グローバル/ローカル。それぞれの思想を表現する作品が豊富な写真で紹介される。説明が写真と離れて読みにくいところもあるが、全体的にはコンパクトで理解しやすい。全267ページのうち、208ページがこの部分である。私の主観で言うと、三分の一が理解不能、三分の一が「そうなのか」、三分の一が「成る程、凄い」、だった。一番凄いと思ったのは、「脱皮する家」(p.90~p.92)、古民家の内側全体を彫刻刀の彫り込みで一皮剥いたのです。写真を見ると、見事に脱皮しています。
角質化し、平均化する人間の生理、情報に追いまくられ、その操作器官だけが偏重される世の習いに対して、美術は、一人ひとりの生理が発生期の酸素のように浮かびつつ消え、ゆらめきながら残していった精神の軌跡のように見える。すべてが効率と平均的なものをよしとして語られる社会にあって、美術だけが人と違うことがよしとされる栄光をもつことに留意しよう。(p.7)
私たちは社会構造によって規定されているが、それ以上に、土地、気象によって根底的に規定されているのだ。それこそが、イヴ誕生以来の人間というものなのであり、生理が私たち人間を動かしていることが分かってくるのだ。(p.8)
グローバリゼーションによって均一化した世界をかき混ぜてくれる。(p.114)
アートは赤ちゃんと似ている。面倒で、やっかいで、生産性がなく、放っておけば壊れてしまう。だから思わず周りの人たちが協力して支え、育てていくのではないか。(p.125)
「周りの人や自然環境と関わるさまざまな技術」、これが大地の芸術祭を貫く大きなテーマのひとつである。ものものしい理屈はいらない。「竹をどうやって道具にするのか」だけで十分だ。美術とは、そういうものだからだ。生活には美術のすべてが含まれており、日常に埋没しているのである。(p.190~p.191)
作品はいずれ植物に覆われ、自然の一部になっていく。(p.202)
作品紹介のあとに、ドキュメント編があり、越後妻有という地域の説明、大地の芸術祭、の始まりから第5回までの経緯、が書かれています。3年に一回なので、10数年の記録です。このパートもうまく纏めてあり、地域の歴史と現状、芸術祭のあり方がよく判りました。
明治政府の成立直後、1872年における戸籍簿上の人口は、全国で3311万825う人。うち現在の新潟県にあたる地域は145万6831人、東京府77万9361人の2倍近い人口を擁しており、それだけ高い食料生産力を持っでいたことがわかる。地方は産業育成のために、中央へ人とモノ(食料、自然資源)を供給し、経済成長の利益は都市や太平洋側の工業地常におけるさらなる資本形成のために分配された。こうして中央と地方の格差は広がり、越後妻有を含む日本海側は「裏日本」と化していった。(p.212)
日本の左翼は、農村で「革命」を指導しようとしたとき、地方ボスの支配する腐敗や不正という農村の構造的“悪”に対峙し、それと果敢に闘おうとした。しかし、こうした闘いがことごとく失敗したのは、それらが都市的・民主主義的な価値感に基づくもので結果的に集落の共同体的な価値観の否定となってしまったからではないか。それは住民(大衆)の共感を得ることはできない。「正義」は、日常の情けと脅しのなかに生きる生身の人間を動かすことはできないのだ。(p.226)
何時になるか判りませんが、越後妻有に行ってみようと思います。そして、これと連動している、瀬戸内国際芸術祭にも行ってみようと思います。

★★ ワカコ酒 新久千映
評判だということで読んでみました。久し振りのマンガ。26歳の女の子がお酒を飲むお話、ほとんど外で、一人です。お酒の種類はいろいろですが、銘柄に拘ることはありません。主眼は料理、そして、お酒と料理の相性、に関してです。特に蘊蓄を傾けることなく、ホンワカと楽しく飲みます。飲んで食べて、「ぷしゅー」という感嘆詞を発し、それが、「ぷしゅうー」、「ぷっしゅー」、「ぷしゅーん」、などと様々に変化、湯葉を食べたときは、「ぷしゅえー」、笑いました。擬音も面白く、「こぴこぴ」ービールを飲むとき、「こにこに」ー湯葉を食べるとき、など感じがよく出ていると思います。サラッと気楽に読んで何となく楽しめる本、続編を図書館に予約しました。

★★ 日本一の日本酒 小学館サライ
小学館の雑誌、サライの別冊、美味サライ、所謂、ムックです。普通ここには載せない類のものですが、全部を読んだので、記録しておいてもいいのかな、と思いました。難しげな話題はなく、日本酒についてのガチガチの話でもなく、周辺的な事柄も含め幅広く日本酒に関する事柄を紹介しています。私には、ぐい呑みの話が面白く、いいものが載せてありますが、高くて手が出ません。最後に、全国の代表的な銘柄があげられていますが、知らないものが沢山、生きているうちにいろいろ飲んでみたいと思います。

堕落のグルメ 友里征耶
二ヶ月弱前に、この著者の「グルメの真実」という本を読みました。その時にも書きましたが、何かでこの「堕落のグルメ」が誉めてあったので読もうとしたのですが、図書館の予約がいっぱい。で、書架にあった「グルメの真実」を読んでみました。スラスラ読める本でしたが、どうも読後感がよくない。この本の順番が来たとき、ちょっと悩みましたが、読むことにしました。これもスラスラ読めるのですが、結局同じ読後感です。これだけ判りきったような悪口を言い募り、結論は誰もが思う一般論、具体的な提案が欲しいところです。文句を言うために食べに行っているように感じます。著者はどう言うときに食べる幸せを感じるのでしょう。このことも書いた方がいいと思います。

★★★ アクアマリンの神殿 海堂尊
海堂尊の作品はしばしば既読感に襲われる。壮大な海堂ワールドの一部を取り出して作品が出来ているので、どうしてもそうなるのだろう。同じ内容を視点を変えて書くこともあるし、密接に繋がっている作品もある。これもいろいろと繋がりがあるが、一番は「モルフェウスの領域」との絡みだ。両作とも、コールドスリープ(凍眠)が大きな役割を果たしている。登場人物もかなり重なっている。勿論、この作品に限らず、単独で読んでも充分楽しめる。それに、今作は青春小説という面もある。歳をとるとこんな青臭い話も面白い。難しい医学の話、人の自我、生と死、などなど色んなテーマがてんこ盛り、でも、どんな読み方をしてもいいだろう。最後の方で、お馴染みの、田口公平、高階権太、が登場すると何故かホッとする。以下はこの本の最後の1行:
こうしてひとつの季節が終わりを告げ、新しい物語が唐突に始まる。(p.361)
主人公、佐々木アツシのその後は、「医学のタマゴ」にちょっと出て来る。では、どの様な物語が始まるのか。

★★★ 知の武装 手嶋龍一・佐藤優
副題、救国のインテリジェンス。両著者は結構好みで、その著作を何冊か読んでいる。ただし、その主張は、特に佐藤優の主張は、よく言えば一貫している、悪く言えば同じことの繰り返し、となる。とはいえ、分析対象が、この本風にいえば、インテリジェンスの対象が、その都度異なっているので、読む価値はあると思う。この本も最近の話題を取り上げていて、すべてに共感出来た訳ではないが、そして、穿ちすぎではないかと思う点もあったが、楽しく読むことが出来た。
手嶋 民間のかなり大事な交渉で、自社の社員に英語で折衝をやらせている経営者がいますが、危険極まりないですよね。外交の世界では決してそんなことはしません。外交官は英語で交渉しているはずとかなりの人が思っていますが、実はそんなことはしないんです。非公式な社交の場では英語で会話をしますが、正式な折衝では通訳を使うのが鉄則です。
佐藤 いまどき英語で自ら交渉をやっている会社は、オキュパイド・ジャパン、つまり占領下日本の発想から抜け出してない。重要な会談は、民間でも日本語を使うべきです。
(p.59)
佐藤 二十一世紀のいま、日本をはじめとする世界の主要なパワーである大国群は、「帝国」の形態をとらなければ生き抜いていけない、と私は言い続けてきました。戦後のヨーロッパを見てみましょう。EUという形で「帝国」への道を歩んできました。民族を構成単位にする「ネイション・ステート」じゃもう国益を維持できなくなっているんです。韓国はそれなりの経済パワーとして成長しました。しかし「帝国」にはなりようがない。「外部領域」を持っていないからです。(p.146~p.147)
手嶋 アメリカのインテリジェンスは、一見すると実にシステマティツクにして科学的に映ります。でも、その果てに9・11同時多発テロのような奇襲を許してしまった。断片的な情報は山のようにあったけれど、全体像が掴めなかったからです。(p.191)
手嶋 いま台湾海峡は、全地球規模の有事の可能性を秘めたただ一つの地域であり、米中というスーパー・パワーが軍事的に衝突する危険を孕んだ地域なのです。
佐藤 尖閣問題とは、台湾有事の一つの変形と考えるべきです。すでに他国が実効支配しているにもかかわらず、中国が強硬に領有権を主張する構図がそっくり同じだからです。東アジア政局における導火線は、尖閣諸島がある南西諸島から台湾にいたる線なんです。
(p.246)
佐藤 第三者の目から見れば、沖縄は内国植民地なわけですよ。でも従来の植民地の考えを払拭し、内国植民地をいかにして安定的に統合しておけるか。まさしく新しい帝国としての真価が問われているのです。
手嶋 いま中国は、台湾を中華人民共和国の密接不可分の一省だと主張し、その延長線上で尖閣諸島の領有権を声高に叫び、沖縄の分離独立を促しています。日本も、アメリカも、この地域が東アジア政局の要だと考えるなら、普天間基地の辺野古への移設を強行して沖縄の人々の心を本土の政府からいたずらに引き離すべきではないと思います。
佐藤 いまこそ台湾と沖縄が海洋を介して時に連携し、新しい安全保障のあり方を議論するという構図が、この上もなく重要ですね。それとともに、手嶋さんがおっしゃるよぅに、普天間飛行場の辺野古移設はあきらめるべきです。インテリジェンスは国家のために存在します。日本の国家統合を揺るがすような事態を、どのように現実的に避けるかということに、もっと知恵を絞らなくてはならないと思います。
(p.250~p.251)

★★★ 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎
以下の謎を、「地形」という視点で解き明かすという本。なるほどという解明もあるが、地形に拘らなくても判ると思われるものもある。専門家ではないので真偽の程は判らないが、本当なのかと疑うものまである。そんなこんなを含めて、読み物としてはとても面白い。歴史家の評価を聞いてみたい。
第1章関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか第2章なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか第3章なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか第4章元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か第5章半蔵門は本当に裏門だったのか第5章赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか第7章なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか第8章四七士はなぜ泉岳寺に埋葬されたか第9章なぜ家康は江戸入り直後に小名木川を造ったか第10章江戸100万人の飲み水をなぜ確保できたか第11章なぜ吉原遊郭は移転したのか第12章実質的な最後の「征夷大将軍」は誰か第13章なぜ江戸無血開城が実現したか第14章なぜ京都が都になったか第15章日本文明を生んだ奈良は、なぜ衰退したか第16章なぜ大阪には緑の空間が少ないか第17章脆弱な土地・福岡はなぜ巨大都市となったか第18章「二つの遷都」はなぜ行われたか
特に面白かったのは、半蔵門は本当に裏門だったのか、なぜ吉原遊郭は移転したのか、だった。最後に、最終章に絡み、邪馬台国が九州だと述べている。細かい説明がないのが残念である。
近代化の中にあっても「攘夷」は稲作民族日本人の集団性を強め富国強兵に役立つた。攘夷の旗の下、日本は清国、ロシアを破り、植民地化の危機を脱して世界最後の帝国にすべり込んだ。稲作民族の集団至上主義で日本は難局を次々とくぐり抜けた。その成功体験が日本人を国家主義へ導き、世界を相手に戦うまでに自身を追い込み大敗北を喫した。昭和の敗戦後、平和と民主主義を標榜(ひようぽう)する国になった。しかし、日本人の稲作共同体意識と「攘夷」意識は近代工業分野において欧米人に経済戦争を仕掛けた。そして、日本人は平和の仮面を被ったまま経済戦争で勝ち続けていった。稲作によって育んだ共同体至上主義は極めて強烈であり、自分たち稲作共同体以外を攘夷とする日本人の刷り込みは、思いのほか根深かったのだ。旧約聖書の農耕するカインが遊牧するアペルを殺す物語は、人類の農耕文明の覇権を予言していた。(p.260)

★★★ 知の逆転 吉成真由美
学問の常識を逆転させた叡智六人に、著者がインタビューし、翻訳編集したもの。
一人目は、ジャレド・ダイアモンド、二冊その著作を読んでいたので、判りやすかった。
二人目は、生成文法で有名な、ノーム・チョムスキー、著作そのものには触れていないが、学生時代に読んだ本でしばしば言及されていた。言語学についてと思っていたら、幅広い話題が取り上げられていた。
アメリカが考えているのは「核抑止」ではなく「核支配」です。本音を明かすべきだ。本気で「核抑止」を言うなら、イランの核武装準備を支援しなければならないのに、本音が「核支配」だからそうしない。「核支配」というのはたいへんな脅威です。(p.84)
垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと変わりません。何を探すべきか知っている必要がある。そのためには、理解あるいは解釈の枠組みというものをしっかり持っていなければならない。これを個人で獲得するのはたいへんです。機能している教育制度や組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。視点というものが形作られ発展していくためには、構造を持った社会が必要になります。(p.102)
わかっていることとしては、約五万年前、ごく小さなグループの人間が東アフリカを出て、急速に全世界に広がっていったということ。それ以来、知る限りにおいて、認識能力の進化は起こつていないのです。つまり、たとえばアフリカを出てから全く他の人種との接触のなかったパプア・ニューギニアやアマゾンの原住民の子供たちと、われわれの子供たちとは、認識能力に全く差がないということです。そういう原住民の子供をボストンに連れてきて育てれば、私の孫たちとなんら変わらないでしょう。種族間の遺伝的な差異は見つかりません。(p.120)
三人目は、脳神経科医の、オリバー・サックス。「レナードの朝」の著者。脳の話は面白いが、最終的に割り切れないところに、物足りなさとロマンを感じる、と言うのは変かな。
四人目が、マービン・ミンスキー、第四章のタイトルは、なぜ福島にロボットを送れなかったか。人工知能の専門家で、現在のロボット開発が間違った方向に行っていると警鐘を鳴らしている。
五人目は、トム・レイトン、数学者。ひょんなことから、アマカイ社を共同設立、インターネットの世界で大成功している。理論的なことは判らないが、高速化とセキュリティーの面で多大な貢献をしているようだ。この本の中で、一番興味深い章だった。一般人が判らないところで色々のことが起こっているようだ。
インターネットでいったいどのようなことが可能になるのか、われわれはちょうどその黎明(れいめい)期に立ち会っているのだと思います。(p.221) まだ黎明期だそうです。
最後六人目は、DNA二重らせん構造を発見した、ジェームズ・ワトソン。
本来、人はみなそれぞれ異なっているのに、同じだとみなさなければいけなくなってきている。同時に、あるもののほうが別のものよりもいいという言い方は避けて通るようになつてきてもいる。だから、どの花も全て同じように咲くんだと言う。ごまかしです。(p.274) この言葉、すごく共感します。
六人全員に言えることですが、世の中を動かすには優秀な人材が必要だと考えていると思われました。弱者切り捨てではなく、才能のある人間を伸ばさなければ行けない、と言うことでしょう。今民主主義は変な方に行っているのではないでしょうか。難しい問題ではあります。

★★★ 考証要集 大森洋平
時代考証の具体例を書いている本。アイウエオ順になっているので、辞書的に使うのが本当かもしれないが、普通に読んでも充分に面白い。著者はNHKの職員、先日「花子とアン」の脚本家、中園ミホが、NHKには歴史オタクの大森閣下という人が居て、脚本に色々面白いコメントをつけてくる、と言っていた。閣下なのだ。どんなものか、以下に幾つか引用してみる。
アメリカンコーヒー【あめりかんこーひー】米軍制度に詳しいミリタリー・ライターの菊月俊之氏によると、これは第二次大戦中、米国内でもさすがに物資が不足したために、コーヒー豆の節約法として考案された飲み方という(『月刊コンバットマガジン』二〇一一年)。戦前ドラマの喫茶店シーンで、ハイカラ紳士に「僕、アメリカン!」等と注文させないはうが無難。(p.37)
家族【かぞく】この言葉は漢語として無いわけではないが(上田秋成も随筆で使っている)、「ファミリー」の意味で定着するのは明治以降、民法の制定等による。時代劇では「一家」「身内」「親族」「親兄弟」「妻子春属(けんぞく)」等と言い換えないとおかしい。(p.70~p.71)
感動をありがとう・感動をもらった【かんどうをありがとう・かんどうをもらった】これは九〇年代以降に出てきた言い方で、それ以前の時代の台詞に使うのは不適切。「刑部(ぎょうぶ)殿、感動をかたじけない!」なんて石田三成に言わせたら馬鹿みたいである。そもそも感動は身の内から湧き出るのであつて、他人とやり取りするものではない。「元気・勇気をもらつた」も同様。軽薄な言葉遣いであるから、紳士淑女は実生活でも用いるべきでない。林真理子はこれらを「広告代理店やマネージメント会社がマニュアル化した、好感度アップのための、心が通っていない空疎な言葉」と批判している(『文嚢春秋』二〇一三年六月号)。(p.79~p.80) この後半部分に激しく同意する。高校球児が、感動を与えるような試合をしたい、などと言うのを聞くと、世の中狂ってきていると思う。
広島のお好み焼き【ひろしまのおこのみやき】広島育ちの芳野潔アナウンサーの談、「私が子供の頃(昭和四〇年代)には、店に行って『豚玉』と一言言えば、そばの入っていないお好み焼きが出てきました。しかし、三〇年の時を経て広島に行ってみると、そばが入っているものがスタンダードになつていて、そばを入れて欲しくないときには、『そば抜き』と言わなければならなくなつていました。その辺のことを、複数の店で質(ただ)したところ、広島風お好み焼きが全国区になつていく中で、関西風との違いを出すためにそうなつていったのではないか、という店員が多くいました」。昭和四〇年代までの広島が舞台のドラマにお好み焼きを出す時、注意すべき証言である。(p.264~p.265) これは本当だろうか。私は、昭和四〇年代はそば入りが普通だったと思う。それに、この根拠は、吉野アナ一人の証言、彼が「複数の店で質した」、という二点だのだ。さらに、そばがなくても関西風との違いは明白である。
ラーメン【らーめん】小柳輝一『絵で見る日本食物誌』(春秋社、一五七・一九八頁)によると、日清戦争の頃までは「南京ソバ」といい、それから「支那ソバ」になつた。チャルメラを吹く屋台の「支那ソバ屋」の登場は関東大震災後。「中華ソバ」という名称は昭和一三年以降という。太平洋戦争後に「ラーメン」が一般化した。また池波正太郎は、師の長谷川伸(一八八四~一九六三)が若い頃、横浜でラウメンを食べた話を書いている(『食卓の情景』新潮文庫、二三一頁。『むかしの味』新潮文庫、一四五頁)。長谷川はそのように発音したという。(p.316)
蘊蓄を垂れるのには大いに役に立つが、楽しく読んだだけでは膨大な量で記憶に残らない。

★★★ 憲法主義 内山奈月・南野森
内山奈月はAKB48のメンバー、この人気者(かどうか私はよく知らないのですが)に法学部の先生が講義をするという形の本。普通だったら読まない類のものだが、ある書評で誉めてあり、憲法のついての本はあまり手に取ることがないので、読んでみようと思った。サブタイトルの、条文には書かれていない本質、はちょっとオーバーかもしれないが、確かに丁寧に説明してあり、具体例が判りやすい。
1973年に最高裁判所の判決で、尊属殺重罰規定は平等に反する、憲法違反であるという判断になりました。これが日本で最初に法律を違憲とした判決です。(p.31)
興味をひかれたのは、この最高裁判所の違憲審査権についてである。これまでに違憲とされたのは10件、だけ。外国に較べて異常に少ないそうです。理由は、法律はほとんど官僚が作る、内閣法法制局がチェックする、から。
もう一つ、9条についてもなかなか面白かった。歴代政府の解釈は――9条1項の戦争放棄というのは、侵略戦争を放棄しただけで自衛のための戦争は放棄していない。9条2項の「前項の目的を達するため」戦力を持たないというのは、自衛のための戦力は持つではなく、戦力とは「自衛のための必要最小限度の実力を超えるもの」としているそうです。言葉の遊びという感無きにしも非ずですが、成る程と思ってしまいました。今話題の集団的自衛権についても解説があり、巷間言われていることの理由が論理的に述べられています。
AKBを引っ張り出さずに書いた方が読みやすかったのではないかと思います。が、それだと話題にならず、私も読まなかったでしょう。

★★★ キルギスの誘拐結婚 林典子
著者は写真家、本書も写真が主で、説明が添えられている。が、残念ながら、写真だけでは内容は伝わらない。誘拐結婚とは、中央アジアキルギスで行われている、男が女を奪って、自宅に連れ去り、男の親族の女たちが説得して結婚させるというものである。昔からあったが、強引なものは20世紀に入ってからだそうだ。現在違法とされてはいるが、家族間の問題、として犯罪として扱うことはほとんど無いという。キルギスの人口の7割を占めるクルグズ人、その女性の約3割が誘拐結婚をしていると推定されている。様々なケースがあり、どういうスタンスで報道するか、著者も悩んだようである。ここでは、13組が紹介されている。一人目、18歳、2012年、著者の最初の訪問時期に誘拐され、結婚を受け入れ、2014年、著者の二回目の訪問時、子どもが出来、一応幸せ(?)に暮らしている。二人目、20歳、徹底的に抵抗し、兄が助け出す。その後誘拐前からいた恋人と結婚。三人目、恋人がいた19歳、無理矢理結婚、レイプされ、その後なんとか自宅に帰るが、自殺。男は裁判で懲役6年。四人目、18歳、誘拐相手を気に入り結婚を承諾、しかし、家に行ってみると携帯も使えない牧草地、結局、協議の末離婚。五人目、22歳、女の親が反対しそうなので、誘拐を偽装して、まんまと結婚。6人目、22歳、抵抗したが最後には結婚を受け入れる。男はなんと高校教師。女も同じ学校で教えるようになる。2014年出産。この後の7組は、見開き2ページで簡単に紹介されているだけである。その最後の一組の説明。
イシク・クル州の80代の老夫婦。妻のトゥルスンは1954年9月、同じ村出身の夫エシュンに手を引かれて実家から連れ出され、抵抗せずに歩いて嫁入りした。「以前から何度も手紙をやり取りしていたし、お互い愛し合っていました。今のような暴力的な誘拐結婚は伝統ではありません。単なる流行です」 (p.130)
著者はもっと自分の主張を出した方がよかったのではないか。読者もその方が反応しやすい。

★★★ ユーミンの罪 酒井順子
この不思議なタイトル、そしてこの本の内容は、ちょっと長くなりますが、以下の部分がよく表しています。
ユーミンは女性達にとっての、パンドラの箱を開けてしまったのです。ユーミンという歌手が登場したことによって、成長し続ける日本に生きる女性達は、刹那の快楽を追求する楽しみを知りました。同時に、「刹那の快楽を積み重ねることによって、『永遠』を手に入れることができるかもしれない」とも夢想するようになったのです。日本の若い女性達にそのようなうっとりした気持ちを与えたのは、ユーミンの大きな罪です。刹那と永遠、両方を我が手に抱こうとした女性が大量に出現したことは、世の中にも少なくない変化を与えたのだと思う。今思えば、ユーミンが見せてくれた刹那の輝きと永遠とは、私達にとって手の届かない夢でした。しかしその時、それらはあまりにも甘く、魅力的に見えたのです。歌の世界に身を委ねることによって、私達は今よりももっと素敵な世界に飛んで行くことができましたし、未来もずっと「今よりもっと素敵な世界」が続いていくように思えたのですから。ユーミンに対しては、「いい夢を見させてもらった」という気持ちと、「あんな夢さえ見なければ」という気持ちとが入り交じる感覚を抱く人が多いのではないでしょうか。かく言う私も、その一人。ユーミンを聴かずにもっと自分の足元を見ていたら、違う人生もあったかもね、とも思います。しかし、自分の感情と生活が描くカーブと、ユーミンの曲が提示したカーブとがぴったり一致したと誤解することができた、若い頃。あのシンクロ感に伴うぞくぞくするような興奮は、今もユーミンの曲のイントロを聞くと湧き上るのであり、その感覚に軽く鳥肌を立てつつ、「これにはとても抗えなかった……」と、思うのです。 / 本書では、ユーミンが我々に遺した甘い傷の痕跡(こんせき)と、世の中に与えた影響とを検証します。デビューアルバム「ひこうき雲」から、一九九一年リリースの「DAWN PURPLE(ドーン パープル)」まで。ユーミンと世の中、どちらがミラーボールでどちらが光源なのかは定かではありませんが、キラキラと輝き続けた時代に、戻ってみたいと思います。(p.18~P.19)
ユーミンの歌を聴きながら読みました。何となく聴いていた歌が違ったものに思えてきます。そしてその時代が違った様相を帯びてきました。ほとんどが恋愛の話ですが、その時代を見事に映し出しています。こんな時代だったのだと思い起こし、女はこんなことを考えていたのだと少し驚きました。
ハンドルは男性が握っている。この歌における女性は、自主性は手に入れているけれど、男性が運転する車の助手席に乗っている。つまり、進む方向の決定権は、男性に委ねているわけです。ユーミンの歌には、車やドライブといったモチーフがよく使用されています。それらの歌は、どれも男性が運転し、女性が助手席に座るというスタイルを想像させる。(p.48)
これも女の戦略だったようです。助手席性という言葉で何度も言及されます。もう一つ印象的だった言葉が、短大生パーソナリティ、以下がそのことについて述べられている箇所です。
このアルバムが出た時代、短大へ進む女性はまだたくさんいました。短大を出た女性達は、難なく有名企業に就職したものです。彼女達は、企業にとっては花嫁要員でもありました。事務仕事のためのみならず、若手男性社員と結婚したら会社を辞めて家庭で支えてくれるような若くてきれいな女性を供給するため、企業は短大卒の女性を採用していたのです。その辺りは、企業の利害と短大生の利害は完全に一致していたのであり、彼女達は結婚と同時に惜しげも無く会社を辞めていきました。その後時代は変って、結婚程度のことで、せっかく就職した一流企業を辞める人はいなくなりました。また短大という業態も少子化等の影響で人気がなくなり、廃校になったり、女子大に転換したりするように。(p.208)
予想以上に面白い本でした。ユーミンの歌で辿る、1973年から1991年の歴史の一面、といえるでしょう。

★★★ 東京タクシードライバー 山田清機
タイトル通り、東京のタクシードライバーの聞き取り記録である。10話まであり、一話に二人登場するものがあるので、合計14人の人生ということになる(内一人は経営者なのでドライバーとは言えないが)。トラックからタクシーに替えた人は居たが、ほとんどは全く関係ない職業からの転身で、その契機は、人間関係の問題であったり、仕事の問題であったり、多様である。そしてタクシードライバーの今、穏やかな人生を送っていると思われるのは救いである。心動かされる14のドラマだった。
〔第八話に登場のタクシー会社経営者〕は、「タクシーの仕事はマニュアルではなく、心でやる仕事なのです」と言った。私には、工藤〔第八話に登場の郭の会社のタクシードライバー〕のような人間のことが本当には理解できないのかもしれない。最後に、残忍で倣慢な聞き方だとは思ったが……。「工藤さん、生きていてなにが楽しいですか」「自分が喜んでいると、それがお客様にも伝わって、お客様も喜んでくださるのかななんて。自己満足かもしれませんけれど、人間は人に喜んでもらうために、生きているのかななんて思います」「工藤さんの宝物ってなんですか」「バッヂ〔横浜高校時代に応援指導部で継続して頑張ったものに与えられる〕です。逆境でも、もがいているときでも、やっぱり、バッヂがあるんで」阿弥陀経の中に「雑色雉光」という言葉が出てくる。さまざまな色が、さまざまな色のまま、それぞれに光り輝く様を指す言葉だという。(p.192~p.193) この会社は京浜急行の雑色駅の近くにある。第八話のはじめで、雑色、に関する蘊蓄が述べられ、引用部分が最後になっている。この様な書き方が多く、第10話のあとに、長いあとがき、があり、著者の半生が書いてある。結局、15のすごいドラマを読むことになる。

★★★ センター現代文で分析力を鍛える 出口汪
私はこの様な本が好きである。国語や社会の入試問題を取り上げた本を何冊か読んだ。どの本もなかなか面白かった。入試の勉強が役に立たないという意見に私は与しない。知識を身につけ、思考力を鍛えることが出来る。だから、歳をとってもこの様な本を読むのだ。国語の場合、日頃読まない作家の本を読むことが出来るのもいい点である。それも、丁寧は解説付きなのだ。ただし、この本は解説が過剰だと思う。さらに、設問のまえに解説を置くのは如何なものか。
以下は、三浦哲郎の「メリー・ゴー・ラウンド」を使った問題の解説。
私小説は日本独自の小説の有り様だが、人間の真実を描くには、まず自己の恥部を凝視し、それをえぐり取ってこそ可能であるという主張は、それなりに説得力がある。作者の生々しい体験を描くのだから、当然説得力を持つ表現を獲得しやすい。だが、戦後、私小説があまりに大手を振るったため、想像力に富んだ様々な作品が、虚構の名の下に正当に評価されなかった嫌いがある。(p.135)
次は長い引用だが、栗原彬「かんけりの政治学」の解説。
この文章は1984年に発表されたものであるが、子どもの遊びを巡る状況はさらに変質し、私にはより深刻なものとなっているように思える。今や遊びは商品であり、音楽・ゲーム・マンガ・アニメなど、主に映像と音による刺激がもたらす快楽と化しているようだ。そして、商業主義は大量生産された娯楽商品を販売するために、ありとあらゆる場面において、子どもたちの欲望を刺激する。もはや子どもたちは自分の欲望をコントロールすることが困難になつている。今の子どもたちはお金がなければ遊べないのだ。さらにその遊びは自分で創造するものではなく、大人が作り上げたプログラムを何の疑問もなく受け入れるだけのものとなっている。実はセンター試験を始めとする、マークセンス方式こそがその象徴かもしれない。現実社会においては「答え」などどこにもなく、各自が自分で発見するしかないものなのだが、受験生は答えが間違いなくあると信じ、そのことに疑いを持つこともない。誰かが作った正しい選択肢を探し出すというゲームに興じているのだ。まさに「答え探し」を強制されているのが、今の受験生なのだ。そして、そこから管理社会のエリートが誕生し、彼らはこの社会の管理者(オニ)となつて、そこから逃げ出そうとするものを絶えず監視する。最近、ネットで成功した若者がその方法を情報商材として高く売りつけ、そこに多くの人々が群がるといった現象をよく耳にするが、その成功者が商品化した時点で、すでにその方法は過去のものとなっている。その方法では莫大な利益をあげることができなくなったから、その方法を商品化し、売り抜けようとするのだ。問題はそこに群がる人たちの方なのだ。つまり、彼らは成功者が正解を持っていると信じ込み、その方法を買いに行く。正解は誰かが与えてくれるものではないのに。「答え探し」の教育の犠牲者たちが大量生産されている。子どもたちは遊びを通して、すでに管理される側へと飼育されているのかもしれない。言うまでもなく、本書ではセンター試験を高く評価している。だが当のセンター試験の出題文を通して、その形式がもつ問題点にも気づかせてくれるのが面白い。(p.183~p.184)
最後は、菅野道夫「ファジイ理論の目指すもの」の一節。
言葉の<曖昧性>を間接的に物語っているのは、数学が自然言語を使用せず、人工言語を使っていることである。すなわち、数学世界の二値論理概念を自然言語で表すことが不可能だからである。別の言い方をすれば、数学世界は自然言語では分節化されないわけである。逆に、人間の意識世界を数学の人工言語で分節化できないのも当然である。(p.230)
12問、12名の人の文が取り上げられているが、岩井克人、資本主義と「人間」、が特に印象に残った。元の本を読んでみようと思う。

愚民文明の暴走 呉智英×適菜収
最初から長い引用になりますが・・・
 俺は普通選挙を止めて、選挙権を免許制にしたほうがいいという原稿をある雑誌に書いたんだ。普通選挙制度はポピュリズムの弊害について想定してないんだよね。権力の相互抑制の仕組み、三権分立みたいなものはあるけど、一番大事な主権について考えていない。
適菜 国民主権はもちろんフィクションです。それは建て前であり実際には選良、専門家やプロフェッショナル、職人が判断を下しでいるわけです。
 つまり代議制だね。
適菜 そうです。それと行政と司法も専門家の集団です。こうした常識が近代においでかなり薄れてきてしまった。その結果が、大衆社会の暴走です。たとえば参議院は「良識の府」と呼ばれています。参院議員に必要なのは良識です。それでは、選挙で良識を選べるのかという問題がある。多数決の根本にあるのは反知性主義でしょう。一人のソクラテスより二人の泥棒の意見を採用するのが多数決です。そうすると、多数決で良識を選ぶというのはかなりおかしな話になる。
(p.12~p.13)
要するにこれが結論のように思われます。そして以下のような言い方がたくさん出て来るのです。
適菜 マルクス主義という大きな物語が消滅した後、左翼の死に損ないが小さな物語に分散して、エコロジーや有機農法、陰謀論に行くんですね。(p.15)
左翼の死に損ない、という言い方、これではまともな論争は出来ないのではないでしょうか。主張が論理的ではないと思います。同じ主張の二人が対談をしているということです。
 「民主主義は一番悪くはないけど、セカンドワーストだ」という言い方をする人が多いでしょう。セカンドワーストとは最悪ではないけど、下から二番目ということだよね。強盗は許せないけど、詐欺なら仕方ないという話。
適菜 チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と言った。でも、正確には民主主義ではなくて議会主義だと思うんですが。
(p.192~p.193)
 民主主義はすべての構成員が同じように理性も自由意志も責任能力も持つという前提で、成り立っているが、実際はそうではない。だから代議制が採用されている。官僚制もそうだね。近代における官僚制は非常によくできていて、能力を持っている奴が、国家試験を通った上で、公務員になる。そこで選別が行われるから、少なくともセカンドワーストで済むという論理。実際そうなっているかは別だけど。国民一人ひとりが等価であるという前提においで近代国家が成り立っているわけで、そんなのフィクションなんだけどね。
適菜 だからフィクションの選択の問題なんですね。病んだフィクションを選ぶのか、健康的なフィクションを選ぶのかと。それはどれだけ正常な思考ができる人間がいるかにかかっている。
 成年被後見人、つまり禁治産者に選挙権を与えるという判決があった。法の整合性においては、禁治産者だけを国民から除外することばできない。だから禁治産者であろうと日本国国民であれば一票を持つ。
(p.194)
呉智英の本は論語や仏教に関するものを凄いと思いました。去年、吉本隆明に関するものを読み、ちょっとアレッと感じ、そしてこの本、ちょっと残念に思います。この本のタイトルを見て期待したのですが、表現方法、政治的思想には共感出来ません。

★★★★ 民間軍事会社の内幕 菅原出
2007年の「外注される戦争」を、2010年、加筆・訂正して改題、最終章を増補したもの。衝撃的な内容です。戦争が外注される、それを受けるところがPMC (Private Military Company) 民間軍事会社、その内実を詳細に書いています。
本来「国民に安全を提供する」というのは国家の仕事、もっとも重要な国家の責務である。そもそも国家が国家として国民の信頼を得ているのは、まずもって国民に安全を提供するというもっとも基本的なサービスを提供してくれる、と国民が信じているからである。しかし、民間の安全ビジネスが栄えるということは、国民が国家の提供する安全サービスだけでは安心できず、民間市場から安全サービスを買っているということを意味している。つまり「国家が国民に対して十分な安全を提供できなくなった」結果としての現象だといえるのである。(p.13)
警備保障会社が繁盛するのも警察が当てにならないから、この国内レベルの話を国際的にするとPMC、というのは短絡的すぎるかもしれないが、理解はしやすい。何でも民営化はどうかと思うが、この本を読むと、経済的な面でも、技術的な面でも、PMCは有効だと思える。とはいっても、戦争・紛争をなくすのが一番であろうが。
他の産業と同様、戦場の資本家にとっても労働力は少しでも安い第三世界から調達するのがトレンドになっている。戦闘活動を続ける米軍人たちの姿はテレビ等でも日にする機会が多いが、彼らのイラク駐留を可能にしているロジスティックス支援や、イラク治安回復の鍾を握るイラク治安機関の育成事業などの地味な仕事の多くは、PMCの戦場の仕事人たちが請け負っている。そこでは無数の元特殊部隊員が特殊技能を売り物にしてビジネスを展開し、国際貢献に価値を見出す元警察官がイラク人警官の育成に情熱を燃やす。また愛国心に駆られて米軍向けのトラックを運転するトラック野郎がいれば、貧しい一家の暮らしを少しでも楽にさせたいと願ってイラクに出稼ぎに行く若者が無数に存在する。「対テロ戦争」の舞台裏では、このように巨額の金が動き、国境を越えて人が動き、欲望、失望、使命感、達成感、挫折、恐怖、怒り、悲しみなど、ありとあらゆる感情や思いが渦のように人々を巻き込んでいるのである。(p.150~p.151)
今も中東の紛争地で捕虜になっている日本人がいるが、全く愚か者としかいいようがない。この様な紛争地では、複雑な要素が絡み合い、専門家ですら非常に危険だということが、今更ながらよく判った。
ブッシュ政権の末期にブラックウォーター社をめぐる数々のスキャンダルが続発したのは単なる偶然ではない。ブラックウォーター社は、ブッシュ政権が始めた対テロ戦争、「何でもあり」の戦争を象徴するような存在だったと言うこともできるだろう。ブラックウォーター社をめぐるスキャンダルは、ブッシュ政権時代の「何でもあり」の時代が終焉を迎え、オバマ政権の下で新たな時代に突入したことを物語るものだと考えることもできよう。しかし、オバマ政権下でもイラク、アフガニスタンでの戦争は続いている。新たなオバマの戦争で、PMCはどのような変化を遂げていくのだろうか。PMCは安全保障の世界の時代の変化を映す鏡なのかもしれない。(p.284)
世界はどうなっていくのだろうか。先日読んだ、「謎の独立国家ソマリランド」も紛争地の話だが、まだ希望が見えるような気がした。この本の内容は、たとえPMCの活動が功を奏したとしても、未来に明るさがない。

★★★★ 昨夜のカレー、明日のパン 木皿泉
8編の短編集です。時間の前後はありますが、繋がっています。主人公は、テツコとギフ、ほとんどカタカナ表記です。テツコは徹子、ギフは徹子の義父、寺川連太郎、という名前が一回だけ出て来たと思います。徹子の夫、ギフの息子・一樹が死んで二人だけの生活です。一番目の「ムムム」では、徹子に好意を持つ同僚の岩井が出て来ます。ムムムは隣家の女、最初と最後に言及されるだけ。二番目の「パワースポット」がムムム・小田宝の話です。一樹の幼なじみという繋がり。以下はその中の一節、痺れました。
布団の中で「悲しい」とつぶやいてみた。甘ったるい声だと思った。思いながら、前に交差点で「カズちゃん、死なないで」とつぶやいたことを思い出した。やっぱりなんだか違う。あの時と同じだ。そうではないのだ。「悲しい」とか「つらい」とか、そんなありきたりのコトバしか頭に浮かばない。タカラは、ぴったりのコトバを何とか探そうとしたが、そんなものが、この世にあるとは到底思えなかった。なので、コトバの方は諦めて、気持ちの方を幾重にも折り畳んで、小さく小さくした。ミクロの粒ぐらいにまでなったかなと思った時、突然、弥勤菩薩(みろくぽさつ)は五十六億七千万年後に助けにやってくるという、脈絡(みやくらく)のないコトバが頭に浮かんだ。そうか、「助けて」というコトバが、今の気持ちに一番近いんだと思った。でも、だからどうなんだと誰かに言われそうな気がしたとたん、思考はそこでストップしてしまい、そのまま眠りについた。(p.43~p.44)
三番目の「山ガール」は、ギフがテツコの同僚の山ガールと山に行く話。これだけを取り出してもいいし、他との繋がりもうまくできています。以下の文章を書ける感性には敬服しました。
山ガールは、待ち合わせのデパートの角で、建物に突き刺さるのではないかと思われるほど、角の先端に立っていた。「小川里子です」という声は、メールの文章と同じように、低くて律儀そうであった。「ギフさんですか?」「あっ、はい。あ、でもギフっていうのは」「あ、そうか、そうですよね。てつがずっとギフって呼んでるから、何か、あだ名みたいに思ってて。私まで、つい、すみません」「いやいや、じゃあギフで」「呼び捨ては、ちょっと」「テツコさんは、テツって呼ばれてるんでしょ?」「あっ、そーです。私、てつって言いました? そうです。てつです。私は、ひらがなのてつって感じで呼んでます」「ボクは、小川さんのこと、何て呼べばいいですか?」「そりやあ、何でも好きなように」「じゃあ、師匠で」「それは、漢字ですね」山ガールは宙をにらんで言った。「あ、いけませんか?」「いや、いいです。漢字で。十分です」そう言って、かしこまり、「では、師匠ってことで」と頭を下げた。とてもゆっくりとした、丁寧なお辞儀だった。(p.72~p.73)
四番目は「虎尾」、一樹の三歳下の従兄弟、の名前です。テツコの変化が描かれます。五番目は「魔法のカード」、岩井に関するエピソードです。六番目は「夕子」、ギフの妻、一樹の母の話。七番目は「男子会」、ギフと岩井が近づきます。最後は「一樹」、はっきりとは書いてありませんが、一樹とテツコの馴れ初め、でしょう。ここに、「昨夜のカレー」と「明日のパン」が出て来ます。テツコと岩井の未来も明確には書いてありません。しかし、全体を読むと、これは短編集ではなく、一つのまとまった作品で、過去も未来も見事に描かれていると思います。
木皿泉というのは、和泉努・妻鹿年季子(めがときこ)夫妻の共同ペンネームとのこと。「野ブタ。をプロデュース」などの脚本家で、これは初の小説だそうです。久し振りに面白い小説を読みました。

★★★ 安部公房とわたし 山口果林
特別に安部公房の、山口果林のファンでもないが、生物学者の福岡伸一が評価していた、ので読んでみた。作家と女優の、知られざる関係を覗き見る興味もあった。よくぞここまで隠し通せたものだと思う。結局、著者も含め秘密を知るものたちがそれぞれの理由で公になることを避けたということだろう。では何故、著者はこの本を書いたのか。きっと否定的な意見が出て来るだろう。私が気になったのは、載せてある写真が昔のものばかりということだ。若い頃の著者のヘアヌード写真まである。この本を書いたときの著者がどんな表情をしていたのか、見たかった。内容は、自分だけに関する部分が、遠慮したのか、駆け足になっていて消化不良という感じがするが、全体的に率直に書いているという印象を受けた。著者はそう思ってはいないようだが、かなりいい人生だったのではないか。以下に引用した最後の部分を読んで、著者がこれから自らの人生を納得する形にすることが出来るのではと思った。
二十年間、黙って背負い続けてきた肩の荷を下ろしてもいいかなと思えてきた。(略)知られていない安部公房像を書き残すべきかもしれない。山口果林の自分史を書く形なら、許されるかもしれないと思い始めた。それまでずっと、作家は、発表した作品だけが後世に残っていればよいと考えてきた。(略)私生活のエピソードを披露するなど決して喜んではもらえないだろう。それでもあえて、私自身のために踏み切った。いつまでも過去の亡霊に取りつかれていないで、自分の人生を取り戻しなさいと、ある人が言った。そうなりたいと心から願っている。二〇一三年は、安部公房没後二十年にあたる。私は、人生の後始末を考える年代に突入している。透明人間にされた自分の人生を再確認できれば、違う最終章を作れるかもしれないという淡い期待もある。(p.240~p.241)

★★★★ 謎の独立国家ソマリランド 高野秀行
ソマリアというと、「ブラックホークダウン」という映画、内戦が続き、悲惨な状態の難民が苦渋している、といった報道しか私には思い浮かばなかった。この本の著者は、そのソマリアの一角に十数年平和を維持している独立国があると知り、「謎」や「未知」が大好きなので、自分で確かめようと決意する。その顚末が書かれた500ページほどの本である。とても面白い本で、ぐんぐん引き込まれました。サブタイトルに、「そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」、とあるように、今ソマリアはこの三つの地方(国)に別れ、それぞれに違った様相を呈しているようです。以下長くなりますが、私が面白いと思ったところを引用します。興味があれば実際に本を読んで下さい。
氏族や人物名の列挙を目にしただけで本書を閉じてしまう可能性大だ。私は悩みに悩んだ末、便宜上、日本の歴史上の民族名をつけてみることにした。ソマリ地域の北部に住むイサック氏族は「イサック奥州藤原氏」、旧ソマリア時代に栄華を極めたダロッドを「ダロッド平氏」、その平氏ダロッドの政権を武力でひっくり返し、都を奪い返したハウィエを「ハウィエ源氏」としてみる。もちろん、日本の歴史とびったり整合するはずがないので、これはあくまで「符号」と考えていただきたい。こういうやり方は変な先入観を与えるというデメリットはあるものの、なんといっでも頭に入りやすい。メリットとデメリットを比べて、あえてこういう方法をとってみる。(p.143)
これは私にはとても役に立った。著者の意図通り、メリットがあるということだ。ダロッド平氏シアド・バーレ清盛という具合に呼び、すぐに繋がる。
「おもしろい!!」と私は感嘆してしまった。南部ソマリアは無政府状態だとか、内戦でめちゃくちゃになっているとか、そういうことばかりが報道されるが、反面、人々は政府なしでけっこうちゃんと暮らしを営んでいるのだ。「官から民へ」という小泉純一郎元首相のスローガンを思い出してしまう。アメリカの共和党同様、小泉元首相もできるだけ小さい政府を目指していた。ある意味ではその究極がモガディショだったとも言える。軍隊を含めて全部「民」に移行したのだから。「氏族は『民』とは言えないだろう」という意見があるかもしれないが、それを言うなら企業だって民とは言えないだろう。氏族のほうが企業よりよほど公共性が高い。完全民営化社会。それがモガディショだ。(p.351)
ソマリアは氏族社会だそうです。
なぜ、難民や重傷者の家族が笑顔を見せるのか。それはきっとホッとしているのだと思う。彼らは戦乱や飢饉から必死の思いで逃れてきた。難民キャンプにしても病院にしても、やっとたどりついた「安全地帯」なのだ。そして、私たちのようにカメラを構える外国人は「自分たちを助けでくれる人」と無意識的に認識するのだろう。だから、警戒心もなく、むしろ仲良くしたいという意思表示で微笑むのだろう。これが現場のリアリティである。ところがこんな写真や映像は日本では(そしておそらく欧米諸国でも)見ることができない。いつも見せられるのは、悲惨で可哀想な人たちばかりだ。理由は簡単で、そういうイメージを出さないと同情が集まらず、寄付金も集まらないからだろう。(p.359)
フリーな立場で現場を見た人が思ったこと、正しいのでしょう。
イスラム原理主義・過激派の思想は、「コーランの世界に戻れ」ということである。なぜ戻らなければいけないかというと、今の社会は堕落し、本来のイスラムから逸脱してしまっているからだ。その最大の元凶は、西欧文明なのだ。欧米が持ち込んだ酒、性の解放、カネとモノヘの妄執、宗教の否定にもつながる科学万能主義……。毛沢東の思想も同じだった。西欧文明は堕落している。本当の生活は農村にあると彼は言った。アル・シャバーブも、リーダーたちはアフガニスタンのアル・カイダで軍事・思想訓練を受けてきた「エリート」である。そして、支持者は質朴な農民主体。後には子供を兵士にするという道筋も同じだ。私たち日本人にも、「都会の生活は偽りでしかない。本当に人間らしい生活は田舎にある」と思う人たちはたくさんいる。私もときどきそういう思いに駆られる。マオイストは世界中の至るところにいるのだ。社会主義は瀕死だが、毛沢東主義はいまだに資本主義(市場経済主義)に対抗する最も強力なイデオロギーなのではないか。そして、たまたまイスラム圏にいるマオイストの過激派がタリバンやアル・シャバーブなのではないか。(p.288~p.389)
イスラムの考え方についても勉強になりました。マオイズムについてはどうなのか?
レイモンド・チャンドラーの小説に「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」というのがある。主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが「揉めごとは俺の稼業だ」とうそぶくのだが、モガディショの経済はその言葉どおりである。トラブルを起こせば起こすだけ、カネが外から送られてくる。誰も真剣にトラブルを止めようと思ぅはずがない。ブントランドが海賊を基幹産業としているのと同じで、モガディショはトラブル全般が基幹産業なのである。(p.392)
私が思うに、国際社会、もっと端的に言えば国連というのは、「高級な会員制クラブ」みたいなものではないか。人類普遍の理念に基づいた公平な組織と勘違いされでいることもあるが、実際には民主主義とも人権とも直接関係がない。なにしろ、このクラブは五人の理事の権限がひじょうに強く、理事の一人が反対すれば、どんな素晴らしい提案も却下されてしまう。そこからして反民主主義的だ。それに理事の一人である中国自体が人権や民主主義とは無縁だし、会員にも非民主主義国家がたくさんある。それはしょうがない。なんせ、第二次大戦の戦勝国によって任意に作られた会員制クラブなのだから。公平や正義を期すほうが無理である。 初期の段階では、このクラブにはわりと簡単に入会できた。ところが、最近ではメンバーも増えているし、入会がひじょうに難しい。入会基準もどんどん上がり、「国民の意思」とか「人権」とか「民主主義」とか、理事ですら果たしていない高い条件を突きつけられる。「うちは高級クラブなんですよ、人格が素晴らしく、仕事も成功している人じゃないと入会できませんよ」みたいな話だ。結局はそれも建前で、理事長のアメリカに気に入られるかどうかでほぼ全てが決まるが、あくまでそういう建前を掲げる。反面、いったん、入会すると基本的に終身会員なので、あとは破産しようが犯罪をおかそうが、退会させられることはめったにない。旧ソマリアのように、すでに会員本人が意識不明に陥り二十年経ってもそれを認めず、莫大なカネをつぎ込んで蘇生させようとしている。そして、いつまでも入会を許されない人は理事会の提出する建前に従い、愚直に背伸びを続ける。氏族の長老たちも、エガル政宗ら政治家たちも、民兵の元リーダーたちも、政府を批判するジャーナリストも、そして一般の民衆も。それこそがソマリランドを前人未踏のハイパー民主主義国家に至らしめた究極の原因に思えてならない。(p.478~p.479)
この最後の方の結論めいた部分、共感しました。

グルメの真実 友里征耶
何かで誉めてあったので、この著者の「堕落のグルメ」を読もうと思ったら、図書館の予約が多く、暫く待たなければいけません。で、この本が図書館の書棚にあったので、読んでみました。ひたすら悪口のオンパレード、たとえ真実だとしてもあまりいい気持ちではありません。それに、そんなこと知ってるよということも驚きの真実として書かれています。さらに問題なのは、それに対してどう対処するのかが、書いてないのです。いえ、「飲食業界からなめられない賢い客たれ」という終章もあるのですが、全く具体性に欠け、一般人ができる提案になっていません。当然、我々一人ひとりはすでに何らなの対処をしている訳で、このようなことで本を書き一般論を導き出すのが無謀な試みなのかもしれません。書き方で気になったことが一つ、「友里は・・・・」と、「私」ではなく「友里」を一人称で使っているのです。小さい女の子が自分のことを名前で呼ぶの連想し、とても変な感じがしました。さて、「堕落のグルメ」が来たらどうしましょう。

★★ くまモンの秘密 熊本県庁チームくまモン
二・三ヶ月前、熊本県知事が書いた「私がくまモンの上司です」という本を読みました。くまモンの本はもうこれでいいと思っていたのですが、読む本がなくなり、この本が図書館の書架にあったので、読んでみました。指令を出した人(県知事)ではなく、実際に動いた県職員が書いたものです。当然内容的に重なるところはありますが、具体的に細部まで書いてあるので、くまモンが実に周到に計画され、どの様にして世の中の注目を集めるようになったかが、前書よりもはるかによく判ります。逆に言うと、可愛いくまモンのイメージが崩れかねない危険をはらんでいるとも言えます。熊本県職員の皆さんの頑張りには敬意を表しますが、くまモンのためにはこの様な本は出版しない方がよかったような気がしないでもありません。

★★★ 有頂天家族 森見登美彦
森見登美彦を制覇しようとしているのではありません(その気がないこともない、可能性あり)。読む本がなくなり(図書館に予約している本が来ないのです)、書架に並んでいる中から選びました。
この著者の本なら楽しめるだろうと思ったのです。予想通り、いえ、予想以上に引き込まれるお話です。主人公は狸、登場人物のほとんどが狸、他には天狗、天狗になりかけている弁天、この設定で面白くない訳がありません。そして舞台は京都、相変わらずの固有名詞満載で、不思議なリアリティを醸し出します。京都に興味のない人には何の魅力もないでしょうが。というわけで、楽しい人生を求めている方には超オススメです。
世に蔓延する「悩みごと」は、大きく二つに分けることができる。一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。そして、両者は苦しむだけ損であるという点で変わりはない。努力すれば解決することであれば悩むより努力する方が得策であり、努力しても解決しないことであれば努力するだけ無駄なのだ。(p.62)
昨年も色々なことがあったが、とりあえずみんな生きており、とりあえず楽しくやってきた。今年も色々なことがあるだろうが、とりあえずみんなが生きており、とりあえず楽しければよいだろう。我々は狸である。狸は如何に生くべきか、と問われれば、つねに私は答える――面白く生きるほかに、何もすべきことはない。(p.356)

★★★ 聖なる怠け者の冒険 森見登美彦
久し振りの、森見ワールド。荒唐無稽、奇想天外、支離滅裂、といった世界ですが、京都の具体的な固有名詞が出て来て、妙にリアルな感じがします。すべてを調べた訳ではありませんが、ほとんどが実際に存在しているようです。この作品は、以前に読んだものより、ファンタジー度が低いように思いながら読みましたが、最後の方は満を持して大噴火、充分楽しむことができました。

★★ 歪んだ忌日 西村賢太
「形影相弔」という最初の短編は、私小説作家の面目躍如の作、作家として世に出るまでの赤裸々なストーリー(と思われる)。私には面白かった(一般受けはしないだろう)。二番目、「青痣」。この本には短編が六つ、どうも繋がっているようです。崩れそうだが明るい進行。一番長い、といっても30ページちょっと。三番目、「膣の復讐」、予想通り暗くなっていく。四番目、「感傷凌轢(りょうれき)」、悲惨になり、私小説の真骨頂。それにしても、難しい言葉を多用、その意図が分かりません。五番目、「跼蹐(きょくせき)の門」、時間的には一番古く、中学を卒業した直後の話。悲惨な内容にもかかわらず、スラスラと(私には)読むことが出来た。主人公(作者)が限度をわきまえているからか。最後、「歪んだ忌日」、著者の崇拝する「藤澤凊造」の話に戻る。これも安心して読める。全体的に楽しい読書ではないが、心の動きには共感出来るところが多い。

★★ 日本百名島の旅 加藤庸二
一度は行きたい100の島々、というサブタイトル。日本には、有人島が約430、無人島を含めると6800以上あるそうです。著者の主観的な選択なのでこの百名島が日本を代表するとは言えないと思いますが、100島もあるということはほぼ名の知れた島は含まれているのでしょう。この中で、私が上陸したことのある島が9つ、近くで見た島ということになると正確なところは判りませんが、10近くはあると思います。読んで行きたいと思った一番の島は石垣島、景色がきれい、食べ物が美味しそう、というのが理由です。意外だったのが、飛行機で行ける島が結構あるということ。20島、ヘリコプターが2島、あります。南西諸島に多いようです。橋が架かっている島が7つ。瀬戸内海に多く、ほとんど私が行ったことのある島でした。本の内容とは関係ないのですが、「島」を、「しま」と読むか、「じま」と読むか、「とう」と読むか、日本語は難しいですね。

★★★ なぜ八幡神社が日本で一番多いのか 島田裕巳
タイトルは、最近多い、売らんかな、の意図を持ったものだろう。内容は真面目なもので、日本の神社史、といったところか。神仏習合がどんなものか、漠然と判ったつもりになっていたが、理解が浅かったと反省。日本的な思考について成る程と思った(恐らく、まだ勉強不足でしょう)。
誰を神として祀ろうと、それは祀る側の自由で、どこかの許可を必要とするわけではない。その点で、日本の神の数はつねに増え続けていくわけで、今後も増えていくものと考えられる。(p.22)
出自から考えて、日本の神々は次の三つの種類に分けられる。第一の種類は、神話に根差した神々であり、具体的には『古事記』や『日本書紀』に登場する神々である。その総数が327柱に及ぶ <略> これは、数が固定されており、今後増えていくことはない。第二の種類は、記紀神話には登場せず、日本の歴史が進行していくなかで、新たに祀られるようになった神々である。それは、八幡神のように、渡来人が祀るようになった外来の神か、稲荷のように突然出現した神である。こうした神々は、外来の神や記紀神話にもとづく神と習合することもある。これについては増えていく可能性もあるが、現実には、そうしたことは起こりにくくなっている。第三の種類は、天神に典型的に見られるように、人を神として祀ったものである。そのなかには、天皇や軍人を祀ったものも含まれる。これについては、今後も増加が予想される。(p.26)
古代における祭祀は、神社の社殿のなかで営まれるものではなく、屋外に臨時の祭場を作って、そこで行われた。「天平勝宝八歳東大寺山堺四至図」は、8世紀中頃の春日大社で、そうした形で祭儀が行われていたことを伝えてくれている。これは、長い歴史をもつ古い神社に共通して言えることだが、その神社の社殿がいったいいつ建ったのか、それを明らかにすることは難しい。今の人間は、はるか大昔から社殿があるように考えているが、そうではない。むしろ、社殿を作らない方が伝統になっていた。そこに、寺院の建築物が影響を与え、それで神社でも社殿が建てられるようになったのであろう。仏教寺院では、そこに僧侶が生活し、儀式を営むだけではなく、修行を行ったり、学問の研鑽を行う。寺院は生活の場であり、建物を必要とする。ところが、神社の場合には、神主がそこで生活するわけではないし、修行も学問の研鑽も行われない。ただ、神に対する祭を行えばいいわけで、そのたびごとに斎場を設ければそれでかまわない。むしろ、古代においては、祭をするごとに斎場を設けるのが普通のやり方だった。(p.184)
八幡、天神、稲荷、伊勢、出雲、春日、熊野、祗園、諏訪、白山、住吉、について書かれているが、はじめの方は丁寧だが、だんだん簡略になり、終わりの方は物足りなさを感じた。なかなか面白いテーマなので、色々な本を読んでみようと思う。

★★★★ 里山資本主義 藻谷浩介・NHK広島取材班
NHKで放送された番組の書籍化。残念ながら放送は見逃してしまいました。
高校の政経の時間、資本主義について学んだときから、拡大再生産に疑問を持っていました。何故現状維持は、規模縮小は、いけないのか。いまだによく判りません。そして、社会主義が崩壊し、世界がグローバル化し、世の中は破滅に向かっているとしか思えません。この本は、こんなド素人の私にナルホドと思わせるものを持っています。
第一章で紹介されている取り組みは、地方のささやかなもので、素晴らしいが発展性があるのか、と感じました。しかし、読み進むにつれ、これは大きなうねりになるかも、という予感がします。無論、著者たちも書いているように、近い内に世の中が変わることはないでしょう。が、今のままでは危うい現状を、少しづつ軌道修正することは出来そうです。最終総括で述べられていることには疑問点もありますが、若い世代には頑張って欲しいと思います。
今から半世紀が過ぎる頃には、社会全体が抱くヴィジョン自体が大きく変わるし、社会に本当に必要なことも、それを担う主体も変わる。問題は、旧来型の企業や政治やマスコミや諸団体が、それを担ってきた中高年男性が、新しい時代に踏み出す勇気を持たないことだ。古いヴィジョンに縛られ、もはや必要性の乏しいことを惰性で続け、新しい担い手の活力を受け入れることもできないことだ。しかし年月はやがて、消えるべきものを消し去り、新しい時代をこの島国の上にも構築していく。結局未来は、若者の手の中にある。先に消え行く世代は誰も、それを否定し去ることができない。里山資本主義は、マネー資本主義の生む歪(ひず)みを補うサブシステムとして、そして非常時にはマネー資本主義に代わって表に立つバックアップシステムとして、日本とそして世界の脆弱(ぜいじゃく)性を補完し、人類の生き残る道を示していく。爽(さわ)やかな風の吹き抜ける未来は、もう、一度は忘れ去られた里山の麓(ふもと)から始まっている。(p.302~p.303)
域際収支、という言葉を知りました。この考え方、大切だと思います。

★★★ 私小説の生き方 秋山駿・富岡幸一郎[編]
志賀直哉「城崎にて」を読むために借りた本。ちょうど読む本がなくなっていたので他の作品も読んでみました。大昔、私小説にはまっていた時期があり、読んだことがあるものもあるのでしょうが、今となっては記憶にありません。このアンソロジーに取り上げられている中で、その頃好きだったのは、梅崎春生、島尾敏雄、でした。しかし、今回はあまり感動しませんでした。全18作の内よかったのは、太宰治「トカトントン」、尾崎一雄「暢気眼鏡」、三浦哲郎「忍ぶ川」、幸田文「黒い裾」、高井有一「北の河」、でした。特に前二者の「私」がもつ重層性が魅力的です。
以下の引用は、編者二人の対談。
富岡 (略)久米正雄という作家はかつて、「トルストイの『戦争と平和』などは偉大な作品だが、私という視点がないからつまらない」ということを言いましたが、これは作家の側の肉声として非常に面白いですね。
秋山 それが日本の近代小説の大きな流れですよ。そこまで突き詰めたわけですよ。
富岡 私小説には、日本人の日常の暮らしを細部まで押さえて書かれています。日常性をここまで書くのは小説でしかなかったんですね。
秋山 今日でもそれは同じで、普通の人間が普通に生活している日常を考えるのは小説しかないんですよ。私小説には<暮らし>がちゃんと書かれている。ところが、今日の日本の小説を読むと、その<暮らし>が抜け落ちている。私小説には書かれていた<暮らし>の見方や実質、内容がないんですよ。つい最近、私は、いま日本で善かれている文学動向を左右するような小説にほ「実生活が消えた」といったばかりです。
(p.303~p.304)


★★ サイエンスの発想法 上杉志成(もとなり)
京都大学人気講義、の枕詞。表紙には他に、化学と生物学が融合すればアイデアがどんどん湧いてくる、とも書いてあります。私、化学が苦手です。高校生の頃、物理は得意だったのですが、物質の色が出て来るあたりから化学がダメになりました。この本には化学式(構造式)がたくさん出て来ます。構造式にはそれ程拒否反応はなかったはずなのですが、今となっては理解不能、この部分は諦めました。本書の肝は、アイデアの出し方、と言っていいでしょう。この点に関しては成る程と思うことがありました。大学の講義なので若者が対象、年寄りには今更という気もします。
私たちは他の生き物を食べて、DNAのパーツを摂取しています。遺伝子を伝えるために、他の生き物の遺伝子を食べる。それをバラバラにして、自分の情報に並べ替えて遺伝子を伝えています。食べないと遺伝子は伝達できないから、私たちは本能的にこのパーツをこ美味しい」と感じてしまいます。いや、美味しいと感じる生き物だけが生き残ってきたのかもしれません。(p.110~p.111)
哲学者ヒユームが『人間本性論』で説いたように、どのような事象も、人間がどのように認識しているかということを基本にしています。私たちは人間を中心にして自然の研究をしているのです。人間が興味を持っている自然現象を解明し、生物学では人間が不思議に思っている生き物の現象を理解します。化学では、人間が興味を持つものだけを作っています。自然の研究と言いながら、実は人間の研究なのです。人間は何に興味を持っているのでしょう。自然科学は、半分、人間が何に興味を持っているかの研究でもあります。(p.280)

★★ 世界の絶景・秘境100 成美堂出版編集部
見開き2ページに大きな写真、次の2ページに1ページ分程度の写真と小さなもの4枚ぐらい、最後の2ページにいろいろな情報、という全6ページ構成が一つの紹介方法、情報には、その場所の説明の他、旅の目安(アメイジング度・難度・予算)、アクセス、ベストシーズン、旅のヒント、ツアー情報、モデルルート、があります。その他、中2ページを1ページに、懇切丁寧なモデルルートを小さいコラムにして最後の2ページを1ページに、全部で4ページという構成も多くあります。絶景・秘境の紹介という面と、旅行案内という側面も併せ持っているようです。この手の本で、ここまで訪問方法が詳しく書いてあるのは見たことがありません。
初めて見る絶景・秘境も多く、楽しめました。ダイヤモンドヘッドの航空写真があり、巨大なクレーターであることを初めて知りました。よく見る半島のように見えるものとは全く別物です。何カ所か行ってみたいと思うところはありますが、時間と金をかけてまで挑戦しようという気力はありません。写真で満足することにします。

★★ マコは生きた! 河野實
サブタイトル、ミコとの別れから50年。実は私、ミコとマコについては青山和子の歌でしか知りません。歌は嫌でも聞こえてきましたが、それ以上知ろうとも思いませんでした。では何故この本を読んだかというと、若い頃注目を浴びた人間がどの様な人生を送ったのかを覗いてみたいというゲスな興味からです。
ぼくは、すでに現役を終えた年金暮らしだが、多くの人は、ぼくが「愛と死をみつめて」のマコだと知ると、一様に驚く。「ちょっと夢が壊れるから、なにもいわないで」と、いったご婦人もいれば、「若くして名前が売れてしまい、その後の人生を生きにくくしたでしょうね」と、ワケ知り顔してうなずく人もいる。うなずく訳は「それみたことか」といわんばかりの内心なのだ。若くして、世に出る者は、世間から歓迎されない。まして、ぼくのケースのように、美貌の才媛が早世して、生き残った男は煮ても焼いても食えないような者では、八つ裂きにして蹴飛ばしたくなるような衝動にかられるのだろう。(p.132~p.133)
著者が自分のことを書いたのはこれが初めてではないようです。他にも本を出しているのですが、文章がちょっと変です。変換ミスの漢字も多く、編集者の責任でもあるのでしょう。内容は私の期待したことも書いてあるのですが、この種の本でよくあるように自慢話的なものがたくさんあります。総じて許容範囲ですが、考え方は私とはかなり違っています。
「地球誕生以来、単細胞の生命から複合細胞生命を経て、哺乳類、類人猿などを経由して、祖先、先祖の人たちからつなげてきた生命を、自分の一存で切ってしまってもよいのですか。随分身勝手ですね」子供を産まない人の親たちまでの世代の意見も集約して、問い詰めてみたくなる。問い詰めてみたところで、そういう人たちには馬耳東風であるが、いわずにおれない、湧き上がってくるなにかがある。国の形は、人口が決める。人口のバランスが決める。(p.48)
一番知りたかったのは、ミコとのことをどう吹っ切ったのか、だったのですが、言及なし。

★★★ 犬が私たちをパートナーに選んだわけ ジョン・ホーマンズ
原題は、What's a Dog For? (どうして犬は存在するのか?)、この方が内容をよく表している。犬学(?)の本と言えるだろう。犬学とは何か、どうも明確にはなっていないようで、この本もその為か焦点が定まっていないように感じる。そもそも学問的研究に値するのか、研究者には愛犬家が多くバイアスがかかっているのではないか、などの疑問があるようだ。前半は様々な学問の観点から書かれていて、難しい内容もあるが、遺伝や品種改良の話など、中々興味深かった。後半はアメリカにおける犬の現状が語られ、考えさせられる。犬は人間社会でどう扱われるべきなのか。純血種、殺処分、安楽死、など、日本ではどうなっているのだろう。犬にとって、未来は明るくないように思った。
家畜化は進化ではなく、まさしく退化にほかならない。それは進化本来のコースから外れること、頭脳の明晰さを失うこと、そして施しを受けるのを待つだけの無気力で知的能力が劣った動物の登場を意味した。つまりパラサイトである。(p.113)

★★★ セラピスト 最相葉月
著者の本は四冊目。「絶対音感」は面白かった、「青いバラ」にはさらに感動した、「ビヨンド・エジソン」はまあまあ、そしてこの本、期待していたが少し戸惑った。内容がストンと心に落ちない、心から共感出来ない。彼女のこれまでの本は客観的で論理的で読んで成る程と納得できた。しかし、この心理学、精神分析の世界は割り切れないことだらけである。この現実の世界がそうなのだから当然といえば当然ではある。昔フロイトを呼んだときに感じたことと似ている、これも当然だ。結局よく判らない。
甲南大学カウンセリングセンター学生相談室のカウンセラーへのインタビュー。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなつたのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張は高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」何に悩んでいるかわからないなら、学生たちはここで何を訴えるのですか。「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」 (p.283) そういえば、最近「むかつく」という言葉を聞かなくなりました。
河合によれば、発達障害は苦からあったけれども、サービス産業の多様化や、情報化社会におけるコミュニケーション形態の変化など、社会の第三次産業化に応じて不適応者としてはじき出され、可視化されてきたのではないかという。歴史的な発見や発明をした人物が発達障害だったのではないかとはよく指摘されるが、そんな天才でなくとも、昔の職人のように、人とのコミュニケーションがあまりうまくなくても自分の仕事に没頭し、人生をまっとうできた人たちは多くいた。特定のものへのこだわりや収集癖があっても、それが彼らの個性と見なされた。家族関係においても、それぞれの役割分担が明確だった時代には、その役割に徹すればよく、とりたてて主体性を発揮する必要も必然性もなかった。ところが、近代に入り、「主体の確立」が要請されるようになって、それに応えられない人たちが出てくるようになった。第二次産業化が、それに適応できない人たちを統合失調症としてはじき出し、第三次産業化が、溌達障害を生み出した。つまり「これまで物を相手にしていたらよかった人たちが、仕事で人を相手にすることによって破綻していった」(『発達障害への心理療法的アプローチ』)ことが、近年の発達障害増加の背景にあるのではないか。これが、河合の見立てである。(p.300~P.301)
最後の方で著者個人のことが出て来る。双極性障害Ⅱ型。私に下った診断である。(p.322) 以下に顚末が書かれるが、どの様な意図で自分のことを書いたのか、判らない。少なくとも、この本の内容を補強する方には行っていないように私には思われる。

★★★ 女のいない男たち 村上春樹
「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」、「独立器官」、「シエラザード」、「木野」、「女のいない男たち」、の六編からなる短編集。「まえがき」があり、そこでヘミングウエイの同名作との違いが書いてある。ヘミングウエイの方は女抜きの男で、こちらは女に去られた男とのこと。「ドライブ・マイ・カー」は寝取られ男の話、、「イエスタデイ」は幼なじみと恋人になれない男の話。以下はその幼なじみの女の子の描写。
「待ってるわ」と彼女は言って、すごく感じの良い微笑みを顔に浮かべた。僕の印象からすればそれは、本物であるにはいささか感じの良すぎる微笑だった。(p.91) もう一回この微笑みについて同じ表現があり・・
彼女は何かに弾かれたようにさっと顔を上げ、僕を見た。やがて微笑みが彼女の顔に広がっていった。とても穏やかに、必要なだけの時間をかけて。そしてそれは心からの自然な微笑みだった。(p.112~p.113) うまいですね。
「独立器官」はクールな男が恋煩いになって拒食症になる話。
すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だつた。どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音(こわね)ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなつていることだからだ。たからこそ嘘をつくことによって、彼女たちの美しい良心が痛んだり、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは――特殊な例外を別にすれば――まず起こらない。(p.164)
「シエラザード」はまさにシエラザードのように話をする女に世話をされている、状況不明の男の話、「木野」も寝取られ男の話だが、あっさり別れてバーを開き、客の不思議な女と・・・という話し。この二編、私が思う村上ワールド、面白い。
「女のいない男たち」だけが書き下ろし。さらに村上ワールドである。自死したと知らされた女に関する・・・とても短編には収まらない内容だと思う。これをもとに長編が生まれるか?

★★★★ 城の崎にて 志賀直哉
城の崎に行くので、読み直してみました。大いに心動かされました。年齢的なものがあるのでしょう。読むときの状況もあるのでしょう。死んでいてもおかしくない事故にあった作者、その目に映った蜂・鼠・イモリ、心に、理性に迫ってくるものがあります。生とは、死とは、考えさせられました。
それ[死ぬこと]は淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考だった。何時かはそうなる。それが何時か?――今迄ほそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。然し今は、それが本統に何時か知れないような気がして来た。(略)実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。然し妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた。(秋山駿・富岡幸一郎編「私小説の生き方」のp.22)

★★★ バンクシー パトリック・ポッター
正式タイトルは以下。
BANKSY:YOU ARE AN ACCEPTABLE LEVEL OF THREAT (If you are not, you would know about it)
君は安全基準値内だ(そうでないなら、安全基準について知ることになるだろう)
バンクシーは謎のグラフィティアーティスト、個人情報はほとんど知られていない。個人ではなく、グループだという説もある。グラフィティとは、スプレーなどを使い街の壁などに描かれたもの。落書きとも言える。この本は彼の作品を集めたもの。風刺がきいて実に面白い。もともとそこにあるもの―汚れ、シミ、模様、配管、など―を巧みに利用し、見る者を笑わせ、その世界に引き込む。驚くべき才能である。また、パトリック・ポッターという人物が解説を書いていて、これも読者を惹き付ける。ただ、素人には理解出来ない、所謂「おたく」的な内容も散見されるのが欠点。この人物も正体不明で、解説文を読んでいると、この人がバンクシー本人ではないかと思った。
まあ難しいことは抜きにして、バンクシーの作品は楽しくて考えさせられるところがあるアートだと思います。

★★★ 私がくまモンの上司です 樺島郁夫
著者は熊本県知事、まさにタイトル通りの人です。この手の本は自慢話になることが多く、この本にもその臭いが幾分感じられますが、嫌な感じはなく、それだけのことをやったのだろうと納得します。驚いたことが二つ。一つは、くまモンは周到に準備され、綿密な計画のもと、大胆な実行力で、人気が作られたということ、恐れ入りました。もう一つは、樺島知事の経歴。勉強嫌いで高卒後就職、 自動車販売店に一週間、農協に二年間。21歳の時派米農業研修生プログラムで二年間アメリカへ、いったん帰国後再渡米、大学を目指す。ネブラスカ大学農学部、ハーバード大学大学院、32歳で帰国、翌年筑波大学講師。17年後、東大教授。10年後、熊本県知事に、凄い、くまモンも凄いが知事はそれ以上。熊本県、注目!
皿を割れ。これは私が熊本県知事に就任してから、さまざまな機会を通じて県庁の職員に伝えている言葉です。「皿を割れ」は、韓国長城(チャンソン)郡の奇跡を成し遂げた、金興植(キム・ウンシュク)郡守(長官)の言葉です。アフラック日本の創業者で、親しい友人の大竹美喜(おおたけよしき)さんに教えてもらいました。「皿を割れ」という意味は、「たくさん皿を洗う人は、たくさん皿を割る。つまり、失敗を恐れずに、挑戟することが大切」ということです。「皿を洗わない人は、皿も割らない。皿を割ってもいいから、とにかくたくさん皿を洗おう」私はそう呼びかけています。たくさん皿を割った人は、それだけチャレンジしていることになります。県庁をあげてくまモンというキャラクターを売り出す、「くまモン革命」ともいえるいまだかつてないチャレンジもそのひとつです。(p.19~p.20)
何ごとも、賛成意見もあれば反対意見もあります。反対意見を恐れて何もしなかったり、すべてを平等に扱おうとして中途半端になってしまうようでは、大きな成果は得られません。皿を割るというリスクを恐れずに挑戦することが大切なのです。私を先頭に、県庁全体に挑戦する風土が根付きつつあるのも、くまモン効果かもしれません。(p.97) 最近思うのは、この反対意見が世の中の動きを止めているのではないかということ。民主主義は手間がかかります。
熊本県で生まれたくまモンは、わずか3年で、誰も想像できないほどの大きな成長を遂げました。しかし、これはまだまだ序の口です。私も県庁の職員も、大きな目標を持っています。それはくまモンをミッキーマウスのような、100年後も人々に愛されるキャラクタ一にすることです。(p.97) この本で物足りないのは、終わり方。大風呂敷を広げるぐらいでもよかったのでは。

★★★ 帰ってきたヒトラー(下) ティムール・ヴェルメシュ
設定の際どさとそこで展開される現代批判、なかなか痛快です。語り手があのヒトラーということを忘れてしまいそうになります。固有名詞がポンポン出て来て、ほとんどが実在の人物のようです。ドイツやヨーロッパの事情に詳しい人が読めば、もっと面白いでしょう。結末のつけ方も意味深です。奇想天外に終わるのも一つのやり方でしょうが、本当にあるかもしれないと思わせるのはかなりのテクニックだと思います。とっても面白いお話でした。

★★★ 帰ってきたヒトラー(上) ティムール・ヴェルメシュ
あのヒトラーが現代に蘇るという設定のお話。ドイツでヒトラーの小説を書こうと思い、実際に書くことはどういうことなのだろう。何か物議を醸すのではと考えたが、読むとその心配はないと判る。いや、何か言う人はいるかもしれないが、無視できる。周到に準備され、巧みに展開していって、笑いと共感と納得を得ることが出来る。風刺、揶揄、罵倒、といったスパイスが心地よい。果たしてどんな結末が待っているのか、楽しみ。

★★ おら、「あまちゃん」が大好きだ! (編集)大久保かおり
昨年度前半、「あまちゃん」にはまっていました。8月末に出版されたこの本のことを、10月に知って、図書館に予約、十数番目だったのですが、恐らく、希望者も増えず、図書館もこんな本を複数買うつもりもなく、先日やっと手元に届きました。今更とは思いましたが、去年を思い出しながら楽しく読みました。実に様々なことが書いてあります。物語の解説、多方面の人たちからの賛辞、ロケ地巡礼報告、などなど盛りだくさんです。特に面白かったのは、岩手県知事・達増拓也へのインタビュー、文芸評論家・坪内祐三と音楽評論家・湯浅学の対談です。
インターネットを活用して地域資源の付加価値をさらに高める「拡張現実」という手法です。「拡張現実」というのは、若手論客の宇野常寬氏が、最近よく使っている用語です。以前はインターネットというものは、仮想現実で<いま、ここ>から離れるものというイメージでした。しかし宇野氏は、「私たちは<いま、ここ>に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、そして多重化し、拡大することができる」(『リトル・ピープルの時代』幻冬舎刊)と言っています。これは、インターネットを使えば、<いま、ここ>である地域に潜りこんで、掘り下げ、それによって地域資源の価値を高めることができるということです。『あまちゃん』では、アキやユイの動画が観光協会のホームページに掲載され、地域がブレイクします。地元に深く「潜る」ことで、ウニや嘘泊などの地域産業、あるいは地方鉄道、お祭りなど、地元の魅力を掘り出し、それをネットで発信して、地域振興につなげるのです。(p.140) 達増知事の言葉
坪内 (略)クレージーは音楽バンドとしてやはり優れていた。
湯浅 すごくハイソだったしね。
坪内 だから、ドリフが出て来た時に、なんて野暮になっちゃったんだろうと思った。
湯浅 うん、そうなんだよ。『あまちゃん』て、1984年を一方の時代設定にしているけれど、むしろ60年代のクレージーキャッツ、『シャボン玉ホリデー』の匂いがある。あるいは谷啓とザ・スーパーマーケットとかね。今40代の人ってドリフの世代でしょ。そのドリフの病根みたいなのがあったと思うんだ。ずっとこう引っかかってるもんがあってさ、そこでなんかちょっと堰き止まってる感があったんだけどさ、ここにきてやっと溶け出した感じがする。
坪内 ドリフで堰き止まってしまっていた60年代のカツコよさが戻ってきた。
湯浅 『シャボン玉ホリデー』が終わるのって72年でしょ。ちょうど俺が高校に入った年なんだけど、すごく"終わっちゃった感〟があったのを覚えている。その後は、ずっとドリフなわけじやない。その忸怩(じくじ)たる思いが……
(p.150~p.151) この後もまだまだ面白いが、長くなるのでこの辺りで。

★★★ 英国一家、日本を食べる マイケル・ブース
著者紹介には、トラベルジャーナリスト、フードジャーナリスト、と書いてある。彼が、奥さん・二人の子供(6歳と4歳)と一緒に三ヶ月程度日本を食べ歩いた記録。フランスで知り合った日本人の話と辻静雄の本を頼りに日本を巡ったように書いてあるが、そして、日本でエミという案内者を得たにしても、何か他の特別な強力な繋がりがあったのではないかと邪推してしまう。把瑠都の尾上部屋に行ったり、SMAP×SMAPのスタジオでキムタクや慎吾と話をしたり、服部幸應と会い、銀座の壬生に招待されたり、京都の菊乃井で食事をし、翌日その主人(料理長)と話をしたり、少々のことでは出来そうにないことだ。余談だが、壬生については先日読んだ、辻芳樹(辻静雄の息子)が書いた「和食の知られざる世界」で知ったばかり、↓10項目ぐらい下↓。著者一家は、東京から北海道、京都・大阪・福岡、そして沖縄、最後は東京に戻り壬生の話になっている。日本人は笑えないジョークもあるが、全体的には観察も評価もまともである。残念なのは、当然ながら三ヶ月は短く、著者も再度日本を訪れたいと書いている。その時又この様な本を書いたら、もっと面白いものが出来るのではないだろうか。

★★★★ 飼い喰い 内澤旬子
世界各地の屠畜現場を取材し「世界屠畜紀行」なる本を書いた著者、自分で豚を飼ってみようと思い、その実行記録がこの本である。サブタイトルが、三匹の豚とわたし、となっている。タイトル通り、ペットとして可愛がるのではなく、飼って太らせ食べるのである。この発想が面白い、実行力がすごい。三種類の豚を飼うのだが、今こんな飼い方は普通しないので、様々な苦労がある。それと共に、現在の大規模養豚のことも書いてあり(実はこれこそを著者は言いたかったのかもしれない)、色々興味深かった。残念ながら要約できない。
ちなみに畜魂碑を建てるという文化を持つ国は、日本の他にない。いや、探しているのだが、いまだ見つからない。台湾の台北市北投地区の市場跡で畜魂碑を見つけたけれど、それは植民地支配時代に日本人が「無理矢理」建てたものだ。二〇〇五年に訪ねた時には、市場のあったところは公園となり、畜魂稗はバスケットコートの片隅でごみと雑草に埋もれていた。チャイニーズでこれだ。欧米人に畜霊(魂)碑について話すと信じられないとぼかりに笑われる。かわいそうだから鯨を食べるなと言うくせに。鯨なんか、最上級の戒名が付けられて葬られているところだってあるのだが。(p.3~p.4)
この町は漁港もあり、イルカがよく獲れたので、昔は魚屋にごく普通にイルカの肉が出回っていた。今もたまに売っているという。彼女たちに「イルカ食べるの?」と聞くと、「ああ、大根と煮るのよ」という答えが平然と返って来る。アメリカ人やオーストラリア人が聞いたら飛び上がるだろうに。周りの反応を聞けば聞くほど、結局は何がかわいそうで何がかわいそうでないか、何を食べて何を食べないかという基準のもとになるものが、わからなくなる。結構いい加減な、単なる習慣に基づいているだけにすぎないのではと思わされる。なのにほとんどの人は、それを絶対的な確固たるものだと思い込んでいる。時にはタブーであるかのように、騒ぐ。実に不思議だ。(p.140)
豚を飼って著者が知りたかったことの一つ、自分で飼った豚を食べるとどういう気持ちになるか・・・
いささか緊張しながら、タレをつけて柚子を絞りばくりと口に運んだ。噛みしめた瞬間、肉汁と脂が口腔に広がる。驚くはど軽くて甘い脂の味が、口から身体全体に伝わったその時、私の中に、胸に鼻をすりつけて甘えてきた三頭が現れた。彼らと戯れた時の、甘やかな気持がそのまま身体の中に沁み広がる。帰って来てくれた。夢も秀も伸も、殺して肉にして、それでこの世からいなくなったのではない。私のところに戻つて来てくれた。今、三頑は私の中にちゃんといる。これからもずっと一緒だ。たとえ肉が消化されて排便しょうが、私が死ぬまで私の中にずっと一緒にいてくれる。こんな奇妙な感覚に襲われるとは、私自身、ほんとうにほんとうに思いもしなかった。それなりに敬意は払ってはいても、ちゃんと信仰する宗教をあえて持とうとしなかった。そしてこの十数年、万の単位で屠畜されゆく家畜を眺めながら、私は彼らに対して、かわいそうという言葉を使うことを自分に禁じてきた。倫理でとらえる以前に、地球上の生命体の全てが他の生命体を取りこんで生存を図らねばならないようにできている以上、それはそうであるもの、前提としてとらえるべきだと思ってきた。(p.277)
人は、生物は、他の命を頂いて、生きている、のですね。超お薦めの本です。

★★★ 総括せよ!さらば革命的世代 産経新聞取材班
私はこの「革命的世代」に属する。この本にもあるように、「団塊の世代」、「全共闘世代」、と呼ばれることも多い。すごく人数が多くて、様々な不利益を被ったと思うが、世間の多くの人は以下のように思っているようだ。
全共闘世代のジャーナリストが、ことさら戦時中の出来事を悪く書く傾向があるが、ともすれば、そこには少し上の世代、親の世代への反発があるのかもしれない。今回も、全共闘世代からみればやや下の世代の声に「全共闘批判」が集中しているのは、そうした世代間闘争の歴史が繰り返しているからなのか。取材班も、「批判的な世代」に近いのかもしれないが、あえてそのことを明らかにしていることでご容赦願いたい。(p.124)
「全共闘世代が、世の中を悪くしたのではないか」彼らよりも下の世代にはこんな疑念が存在する。終身雇用などの戦後日本を支えたシステムは制度疲労を起こし、社会保障制度も限界が近づいている。その一方で、彼らは、そうした戦後の豊かさをすべて享受したうえで、いまだ社会の中枢に居座り、何一つ世の中を変えるわけでも、かつてのように革命を叫ぶわけでもなく、負の遺産だけを若い世代に押しつけて逃げ切ろうとしているかのように映るからだろう。取材のきっかけには、こうした疑念を持たれる全共闘世代の深層に迫りたいという思いがあった。(p.230)
このような本は何冊か読んだ。何故この世代を取り上げて一纏めにしようとするのか。これだけ多くの人がいれば、いや、多くなくても、人それぞれである。まずそこに無理があると思う。
この本を読みながら既読観に何度も襲われた。新聞の記事がもとになっているので、それを読んだのかもしれない。内容的に知っていることがあったためかもしれない。しかし、面白く読んだ。面白く読ませる力はあった。足りないのは、他の世代との比較だろう。それがあれば、我々に対する非難にも説得力があっただろう。
このような話題でよかった本は、小熊英二の「1986年」である。この本の参考文献に入っていないのは何故。

★★★★ 匠たちの名旅館 稲葉なおと
匠たち、とは、平田雅哉、吉村順三、村野藤吾、の三人です。最後にちょっと、浦辺鎮太郎、についても触れられているので、四人と言えるかもしれません。二年ぐらい前、広島市現代美術館の「村野藤吾≪広島世界平和記念聖堂≫を中心に」というミュージアムカレッジに参加したことがあり、彼についてだけはちょっと知っていました。他の人は知らなかったのですが、設計した建物の中には知っているもの、少しですが訪れたことのあるものがあります。内容はタイトル通り、匠たちが造った旅館、ホテルを見て廻りそれについて記述する、というものですが、それと共にそれぞれの人生を浮かび上がらせることに見事に成功しています。一つのことを極めた人の生涯は魅力的です。感動しました。引き込まれて、360ページぐらいの本を一気に読みました。書かれている宿に行ってみようと思います。大観荘、つるや、俵屋、文殊荘新館、佳水園、三養荘、旅館くらしき、・・・ 一つぐらいは行けるかな。

★★★ 詩とことば 荒川洋治
2004年に出た本。以前何かの時にチェックしていたもの。新しい読むべき本が手元にないので読んでみた。面白かった。私の青春時代、まず私に在った文学は詩だったのだ。昔が蘇ってきた。
詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。「白い屋根の家が……」の順序で知覚した人が、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。散文は、つくられたものなのである。(p.43)
個人が体験したことは、散文で人に伝えることができる。その点、散文はきわめて優秀なものである。だが散文は多くの人に伝わることを目的にするので、個人が感じたこと、思ったことを、捨ててしまうこともある。個別の感情や、体験がゆがめられる恐れがある。散文は、個人的なものをどこまでも擁護するわけにはいかない。その意味では冷たいものなのである。詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それがどんなにわかりにくいことばで表わされていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ。石原吉郎の詩は、そうした詩のことばの「思想」によって支えられ、生きつづけることができた。(p.117) 石原吉郎は好きだった。詩集は売らずに残してある。
自分の詩が読まれたいという気持ちは誰にもある。読まれることはたしかにうれしいこと。でもほんとうに詩は、読まれていいのだろうか。読まれることはむしろこわいことではないのか。読まれてしまったらおしまいではないか。自分のことばが、はだかにされたらこまるのではないのか。ぼくはうすっぺらの詩を書いているので、あまり人に読まれたくない。特に、きびしい目をもつ人には読まれたくない。乱雑な詩を書いて、人から文句もいわれずに、のんびり生きたいと望む。(p.136) 本音かどうかは判らないが、いい生き方だと思う。
いま、不思議というしかない、いろんな事件が起きる。この社会はどこかおかしいのではなかろうか。人間もおかしなものになったのではないかと感じている人は多い。もしそうだとしたら、いま好んで読まれているものがどういうものなのかを見る。すると、情報だけの本だつたり、明日役に立つだけの本だつたり、時流に合わせるものだったり、簡単なことばだけでつくられた散文だったりする。これ以上ストレスがほしくないので、簡単なものに吸い寄せられるのは人のさだめ。誰も非難できないが、このまま進むといっそう簡単な人間ができあがり、そのために、人はこわい思いをする。(p.148) この視点の先はどこに向いているのか。この後、詩の歴史について、『新体詩抄』以降の概略が述べられる。長すぎて全部を引用できないのが残念である。その一部:一九五〇年代後半から一九七〇年代はじめの、政治の季節のなかで、現代詩の動きはふたたび活発になる。(p.151~p.152) 私の青春時代である。
いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。こんなとき、詩は何をするものなのだろうか。そもそも詩は、何をするものなのだろうか。詩の根本が問われているのだ。だとしたら、ここからほんとうの詩の歴史がはじまるのかもしれない。(p.154)
他の「ことばのために」にシリーズ、加藤典洋「僕が批評家になったわけ」、関川夏央「おじさんはなぜ時代小説が好きか」、高橋源一郎「大人にはわからない日本文学史」、平田オリザ「演劇のことば」、荒川・加藤・関川・高橋・平田編「ことばの見本帖」、も読んでみよう。

★★★ 世界を動かすプレゼン力 ニック・バーリー
日本はこうしてオリンピックを勝ち取った! という冠がついています。
著者はオリンピック招致の戦略コンサルタント、ロンドン、リオ、東京、連続三都市の招致を成功させています。この本はまず、東京の最終プレゼンを分析・解説、次に、プレゼンを成功に導く戦略の説明、そして、東京が成功した理由、最後に、このプレゼンから日本が学ぶこと、という構成になっています。いずれも成る程と思うことが書いてありますが、特に最後の部分に説得力のある提言があります。
たいていのことは、一〇〇パーセント完璧である必要はない場合も多いのです。つまり、九六パーセントのものを九七パーセントにしようと多大なる時間と労力を傾けることは、必ずしも合理的ではありません。今回の仕事をしていて、完璧を目指しすぎるあまり、先に進まないというようなことがよくありました。(p.227)
日本人の完璧主義、についてであり、私自身についても当てはまり、反省! この後には、日本のメディアの身内に対する厳しさについての記述があり、それはそれでいいことでもあるが、海外メディアに利用され、不利になる、とか、効率を大切にするのに会議は非常に非効率である、といった鋭い指摘がなされています。これからの日本、著者の主張を真摯に受け止める必要があるでしょう。

★★★ 小山田浩子
穴、いたちなく、ゆきの宿、の三作が収められています。穴、素晴らしいと思いました。ストーリーテリングがうまく、文章表現が繊細です。いたちなく、イタチ無く? イタチ鳴く? の方がもっと素晴らしいと思いました。穴、の二ヶ月前に発表されたものです。日本の小説らしい、私小説らしいものでありながら、一般性、普遍性を感じさせます。ゆきの宿、は書き下ろしです。三作は繋がっています。夢を描くことによって小説空間が広がる、が私の考えです。著者はうまいのですが、最後の、ゆきの宿、の夢は今ひとつ、私にも予測できるものでした。でも、総合的に見ると、とても面白い作品です。工場、も読んでみようと思います。

★★ ラヴ・レター 小島信夫
書評で誉めてあったので読んでみました。若い頃、第三の新人と言われる作家の本を読みあさったことがあります。この作品はその時の印象とは全く違ったものです。著者の老年の作品だし、私も歳を取っています。
「厳島詣」、夢、すべて倒れんとする者、青ミドロ、ラヴ・レター、記憶、小さな講演のあと、浅き夢、ある話、と題された短編集です。一言で言うと、分かりません、でした。視点は変わる、人称は入り乱れる、などで、混乱します。そんな作品でも、こころに感じるものがあると、逆にとても引き込まれるのですが、残念ながらこの作品群にはありません。と思いながらも最後まで読みました。なにか読ませるものはあったのでしょう。

★★★ フード左翼とフード右翼 清水健朗
以前、この著者の「ラーメンと愛国」という本を読んだ。その時も感じたが、タイトルと内容が少し乖離している。この本の場合も、右翼左翼という言葉を使い必然性が見当たらない。しかし、前著同様、面白い分析が多い。素直に書いた方が判りやすかったのではないだろうか。
環境保護派にとっての敵は、環境破壊派であり、省エネ派の敵は浪費家で、テクノロジー懐疑派の敵はハイテク愛好家というのでは、政治的な対立相手としてはちょつとしっくりとこない。敵対するのはどれも共通して「経済発展」だろう。「経済発展」を犠牲にして「環境保護」を選ぶのか、「経済発展」を犠牲にしてエネルギー使用を抑制するのか、または「経済発展」を犠牲にしてテクノロジー優先ではない社会をつくるのかということになる。「競争」「効率」「発展」というものを押しとどめ、そうしたものがつくつた世界ではなくもっと身の丈に合ったシンプルで本質的な生活を送りたい。それが「フード左翼」のイデオロギーである。(p.81) 割と左翼という用語が機能している部分である。
マクロビにしてもスローフードにしても、科学的な部分と非科学的、スピリチュアルな領域とが混ざった世界観の下で信仰される料理方法である。(p.137) これは本当のような気もするし、断言できないところもありそう。
ウォール街に象徴される、アメリカの裕福な側の1パーセントがこのデモ<2011年のウォール街占拠デモ>における敵だったが、ここに参加したのは、世界で見ればもっとも「豊かな側の2パーセント」に入る人々なのだ。(p.147) この本でも言及されている、畑中三応子「ファッションフード、あります。」に書いてあったが、人はまず食物の量を求め、次の栄養・質を求め、最後に情報を求める、腹だけではなく、頭でも食べるようになる。現在、世界には様々な段階の人がいて、求めるものが違っている。私も情報を食っている、と反省。
単純に有機農法で従来と同じ収穫量の農業を営むには、必要な耕地は2倍になるという。(p.151) この方面からに指摘は初めて聞いた、確かにそうなのでしょう。

★★ 常若の思想 河合真如
サブタイトル、伊勢神宮と日本人。著者は、伊勢神宮の禰宜、神宮司庁広報室長。去年伊勢神宮に行ったからということもありますが、何よりもタイトルにひかれました。しかし、内容は思想と言うよりは、信念、信仰といった感じです。とはいえ、学ぶべきことはありました。日本人の自然に対する考え方、それが自然な形で信仰に繋がっていること、不思議なことに納得しします。
二十年に一度繰り返すことで、古と今と未来が永遠に繋がる式年遷宮。そこには常に若々しく美しく生き、その精神を子孫へ伝えたいと願う人々の想いも重なる。これを私は「常若の思想」と表現している。常若とは、衰えることなく瑞々しいエネルギーがあふれている状態をいう。古の精神と技術を守り伝えながら、永遠に連鎖させていくシステムをもつ神宮は、常若の聖地。永遠を確立する文明のモデルといっても過言ではない。そこに滅びの美などが介在する余地はない。(p.43)
二十年ごとに新造される宇治橋は、そのたびに一億人余の参拝者を渡しっづける。一五センチの厚い板も磨耗して、九センチほどになる。(p.112)
伊勢神宮に行く前に読むべきだったかもしれません。見方が変わっていたでしょう。

★★★ 至高の音楽 百田尚樹
著者は最近右よりの言動で注目されています。かなり作品を読みましたが、そんな感じは全く受けませんでした。必ずしも思想が作品に表れるという訳ではないのでしょう。黛敏郎を思い出しました。
この本もそのような思想性はなく、なかなかに面白いものです。初歩的な知識から、高度な内容をも含み、紹介されている曲を聴きたくなります。お薦めの演奏紹介もあり、貶すことなく良いところを挙げ、好感が持てます。
敢えて極論すれば、名曲は誰が演奏しても名曲なのだ。ましてCDで市販されているほどの演奏家なら、すべて超一流の演奏であると断言する。(p.146) このような内容は何度も出て来ます。まさしくそうなのでしょう。
最近御無沙汰だった曲を聴いてみようと思います。

★★★ 和食の知られざる世界 辻芳樹
面白く為になることも書いてあったが、別世界の話のような気がしてならなかった。著者の父親はあの辻調の創始者である。育った環境が違いすぎる。食べるものが我々一般人とはかけ離れているのだ。去年、「二郎は鮨の夢を見る」という映画を観て驚愕したが、著者はそのような店に、我々が一生行かないような店に、日常的に行っている。例えば、銀座壬生、完全会員制で、一般人が入り込むこと不可能、会員は毎月決められた日に行き、料金(三万円)は「月謝袋」に入れて渡す、まるで授業を受けるようだ。女将が有り難いお話をしてくれるそうだ。ネットで調べてみると、案の定賛否両論が渦巻いていた。もう一軒、京都の「草喰なかひがし」、美山荘の前当主の弟がやっていて、内容的にも料金的にも行ってみたいと思ったが、超予約が取りにくいらしい。このような店のことを書かれても、ただただひれ伏すしかない。
ニューヨークに進出した「一風堂」の話は興味深い。
ラーメン店での食事を、他のレストランのコースのようなものに変換しているということである。この店は、ラーメンを食べる前に、カウンター席で「食前酒」を飲み「前菜」を食べるような店のつくり方になっている。つまり、ラーメン屋ではあっても、欧米人の食事に欠かせない「流れ」をつくつているのだ。お客様は、「食前酒」や「オードブル」をカウンターで食べて、それからメインディッシュであるラーメンに向かう。(p.60) 5000円位払うらしい。
以下の指摘は成る程と思った。
「考えながら食べる」ことが大切だ。日頃から、考えながら食べる習慣をもっている人といない人とでは、長い間に絶望的なまでの違いがでてくる。高級店に行った場合、考えるテーマは無限だ。食材の状況、食材原価の予想、調理方法、味付け、サービスの状況、サービスのシステム、店内のテーブルの配置、お客様の動線、インテリア等々。ただ料理を口に運んで「美味しい、不味(まず)い」といっていても進歩はない。料理とは総合芸術だから、あらゆる観点から「考えながら」食べると、おのずと味覚に対する審美眼も備わってくる。(p.115) ただし、我々は高級店に行くことはあまりない、だから、考えるテーマもあまりない。だが、考えながら食べるという習慣は必要だと思う。味わいながら食べると言い換えてもいいだろう。

★★★★ アトミック・ボックス 池澤夏樹
これまでわたしが勝手に持っていた池澤夏樹に対するイメージとは違う作品でした。難しいテーマを含み、現代社会を鋭く抉っている、とも言えるでしょうが、全体的にはよくできた楽しめる作品です。450ページ超を、久し振りに快調な速度で読みました。気に掛かっていたことが、最後の数ページで言及され、見事に完結です。一番最後のエピソードは必要ないような気がしないでもありませんが。もう一つ言わせて貰えば、物わかりの言い人物が多い、のですが、まあ小説なのでよしとしましょう。

★★ 脳はこんなに悩ましい 池谷裕二・中村うさぎ
池谷裕二、6冊目。彼の本は面白い。半分は対談集で、読みやすいが、深みがないのが欠点ではある。この本もまさにその長所と欠点を持っている。中村うさぎというユニークなキャラクターで、面白さが増している一方で、焦点が定まらない傾向にある。が、読んでいて、人間は、人間の脳は、下にも引用したように、内部で完結しているものではないということを強く感じた。脳がそのように出来ているようだ。だから、悩ましい!
直感に導かれて、「心地いい」と感じる方向で作っていくと、自ずと「べき分布」に従ってしまう。ちょうど龍安寺の庭師のようにね。当の芸術家本人は、自分の「感性」に基いて作品を生み出していると信じているかもしれませんが、なにせ、その脳自体が自然の一部ですからね。脳の産物である芸術作品が自然のルールに従うのは当然といえば当然なのかも。(p.58) 脳も自然に属している!
「適者生存」は科学的讒言(ざんげん)。人類が後からこしらえた怪しげな理論武装に思えて仕方ありません。理由を後付けして、勝手に自己納得するのは簡単ですが、一種の逃避ですよね。思考停止。進化の経緯については、どんなに正しそうな仮説であっても、その正しさは永遠に証明できないものです。いや、そもそも「進化に意図があるかないか」という問いを立てること自体が、「進化」という巨大な怪物に比して、ちっぽけなヒトの脳による限定的な思考にすぎないわけです。(p.121) 脳の思考は限られている!
朝起きると、パソコンに向かってブログを書くんですよ。昨日あったことを書くんじゃなくて、今日やることを書く。しかも過去形で。<略> こう書くと、実際そのとおりになる気がしています。<略> そもそも「このくらいなら、できそうかな」という範囲で書いているのもありますが、わりと達成率は高いです。(p.137) これ面白そう!
一言で言えば、脳は身体の「入出力変換装置」として開発されたわけです。だから脳は「外部からの入力」と「外部への出力」によって活かされる。外部との接続をはがしちゃったら、脳としての意味を失ってしまいます。(p.152) そうなのでしょう、が、考えさせられました。
私は教育現場にいますから、「人の能力は均等」を前提として、教壇に立たねばなりません。しかし、最近思うのです。この理念はあまりにもロスが大きいと。いえ、「できない人に教えても無駄」といっているのではありません。労働的ロスではなく、精神的なロスです。平等に扱うということは、「できないのは努力が足りないからだ」「教え方が下手だから」となりますから、生徒側も教師側も余計なストレスを強いられます。(p.190) 意味深な文章です。
「見る」という行為は、脳に入るわずかな視覚情報をもとに「××だ」と思いこむ能力です。(p.204)
引用はすべて、池谷裕二の発言です。

★★★ アメリカで仏教を学ぶ 室謙二
観光地にある説明文には判りにくいものが多い。そんな時、外国人客のために書いてある英文が簡潔に要点を押さえていて納得することがよくある。この本を読みながらそんなことを思い出した。日本語と英語の違いかとも思ったが、この著者の日本語による仏教の説明は分かりやすい。日本の仏教関係者は、教えを広めようとしないし、我々一般人は、仏教(宗教)を学ぼうとしない。素晴らしい思想があるのに勿体ないことだと思った。私自身も、キリスト教にふらふら、仏教にふらふら、などなど、宗教にのめり込むよりはよかったのかも。
仏教は、まず生きているものの苦しさの自覚から始まる。そこから世界、宇宙と自分、自分たちを知ろうとするのだが、そのときの方法は座ること、メディテーションである。そして世界がどういうように、お互い同士関係をもち、作られているかを理解し、何ものも、関係ということなしに、それ自体では存在しないことを理解する。また、すべては時間とともに変わっていき、その瞬間瞬間以外のことはないことを理解する。(p.65)
仏教によれは、宇宙・世界は誰かが作ったものでもなく、「存在」するものとして受け入れるし、唯一絶対の価値(ひとつの神)などはない。世界・宇宙には、さまざまな価値が存在し、それは生まれもするし、変わりもするし、消えもする。(p.68)
他から独立した自分自身(separate self)ということはない。自分自身(self)は、自分自身以外の要素(non-self elements)によって形作られている。だから独立した存在と感じられ、思われている自分自身(自我)は、本当は完全な空[くう]なのです。(p.90~p.91)
仏教の最も興味深いことのひとつは、仏教の教えが仏教の教えそのものを相対化することにある。<略> 相対化を教えている教えも相対化されなければならないので、つまり絶対の教えはないという教えも、絶対化されてはならない(ということは、絶対的な教えが存在する、ということを絶対的に否定できない)。(p.105)
日本のお経というのは、意味は分からなくて当たり前ということになっています。これをどういう風にひっくり返すか? 本当にひっくり返して、すべての人が感動して聞けるような日本語、意味の分かるような日本語が作れるかというのが、これから一〇年、二〇年、三〇年、あるいは一〇〇年、二〇〇年における日本の仏教の問題だと思います。(p.171)
コレがポイントでしょう。

★★★ 男性論 ヤマザキマリ
大ヒットした映画、テロマエ・ロマエ、の原作マンガを書いた女性の本。下に書いた、伊藤比呂美の本と少しの間平行して読んだので、少し混同するところがあった。所謂日本的な女性とは違って、その考え方、スケール、行動力、など驚きです。テルマエ・ロマエの裏話みたいなところもあるが、圧倒的に面白いのは、彼女の生き様を書いている部分です。男性論はそのひとつの現れ方でしょう。当然ユニークさが現れています。
ハドリアヌスに始まり、プリニウス、フェデリーコ2世、ラファエロ、ジョブズ、安部公房、水木しげる、つげ義春など「ガロ」系漫画家、花森安治……。ここまでお話ししてきた、わたしの好きな男性たちは、こう並べてみると時代も国籍もばらばらです。抽象的でとりとめがなく見える。でもわたしのなかでは、一本ラインが通っています。ラファエロ、プリニウス、ジョブズ、安部公房には顕著ですが、人文系と理数系、ふたつの要素がひとりの人間のなかで共存していること。即物的で現実的な側面を持ちながら、いかにして空想・イマジネーションの部分も背負っていけるか。この二面性が魅力となって表れているひとに惹かれます。(p.159~p.160)
また、文明論的なところにも的確な指摘があります。
最近は、短期的な情報をいかに多く取り込めるかという情報量の多寡で、ひとの優劣がはかられることが多くなりました。確かにパッと入ってくる知識というのはありがたい。モバイルでなにもかもが検索できるなんて、便利至極です。けれども、想像力こそがもっと長いスパンで人を助けてくれるものになる。ひとつの価値基準しか持たず、それで満たされていたとしても、いざどこかで壁にぶち当たったときに、「ああ、これでは足りない!」と焦る瞬間がやってきます。そうしたときに、どう打って出るのか。未知の環境にどう対応するのか。そこで取り出すべきは、自分オリジナルの辞書なのです。様々な行動によって得た知識や経験に基づいた、想像力のよすがとなる辞書を作っておけば、それが思いがけない方向から自分を助け、新たな展開を生む軸を生み出してくれるはず。このことを最後にみなさんにメッセージして、本書を締めくくりたいと思います。(p.223~p.224)
実は、テルマエ・ロマエ、マンガも読んでないし、映画も観ていません。どちらか挑戦しようかと思っています。

★★★ 読み解き「般若心経」 伊藤比呂美
この本の表紙には、エッセイ+お経+現代語訳、とある。お経であって、般若心経だけではないのだ。様々な面白いお経が出て来る。しかし、興味深いのは、エッセイ部分である。全編を読むとほぼ彼女のこれまでの人生を垣間見ることが出来る。親が熊本にいて、彼女はカリフォルニア、行ったり来たりの生活がすさまじい。そのバイタリティーが凄い。その日々を、コミカルというか、シニカルというか、ちょっと突き放して描き、そこにピッタリのお経が挿入される。読者を惹き付けグイグイ読ませる本である。
母の周囲には、母よりもっと何もできなくなった老女たちが横たわつている。ときどき身動きして、何か叫ぶ。叫んでも、叫びっばなしである。うるさいねえ、と母が言う。隣の部屋にはさらに何もできなくなった、目は閉じっばなしの、口はあけつばなしの老人たちが、いろんな管につながれて、ぴくりともしないで横たわっている。/今どき、人は、こうして死に後れていく。母もいずれはああなるのだろう。(p.69) 的確な描写で私の母の病院を思い出しました。
(マーラーの大地の歌):もともとは、孟浩然(もうこうねん)の詩と王維(おうい)の詩をくみあわせたものだ。後半が王維である。つまり「永遠に」は王維のパートなのである。(中略)この詩が、何人もの、中国語のわかるもの、わからないものの手をとおして、グスタフ・マーラーに伝わった。それをマーラーがさんざん手を入れながら、声に変えた。マーラーの手元に来たときに、すでに漢字なんか消え失せていた。声だけになつていたのだ。(p.88~p.89) こんな繋がりがあったとは、知りませんでした。

★★ 僕たちはガンダムのジムである 常見陽平
ガンダムのジムとは何か?
ジムは地球連邦軍が開発した量産型モビルスーツである。型番はRGM-79だ。ガンダムの運用データを元にした地球連邦軍初の量産型である。性能は悪くはないが、突出して良いわけではない。なにしろ量産型なのだ。(p.5)
著者は、僕たちはガンダムのジムである、を連発している。しかし、読んでいて、著者がジムだとは到底思えない。この点がこの本の欠点である。でも、僕たち、と言わなければ、この本は成立しない。大いなるジレンマである。結局、この本は、私のようなおじさんに向けたものではなく、未来に可能性を秘めた若者に向けたものでしょう。とはいえ、それなりに得ることがある本ではありました。
ちょっと手を伸ばせば届きそうなモデルを登場させ、やはりちょつと手を伸ばせば届きそうなオシャレを提案する。みんな、それに踊らされていく……実に巧妙な煽りである。(p.144)
夢を叶えたい人には、ワタミの社長、渡遽美樹氏風に言うならば「夢を叶える期日を決める」ことも大事だと思うのだけれど、ウェブ編集者で友人の中川淳一郎が言うように「夢を諦める期日」も意識したい。一般的に若ければ若いほどやり直しは可能なのだから。(p.171)

★★★ スリジエセンター1991 海堂尊
この著者の本は面白い。文学としてどうかは別にして、読ませる力を持っている。この作品は、お馴染みの海堂ワールドに登場する面々の、若い頃の話である。「ブラックペアン1988」、「ブレイブメス1990」、と三部作をなしているようだ。後の病院長がまだ講師だったりして興味深い。ということが判らない人にも、きっと楽しく読めると思う。そこがこの著者の凄いところだと思う。

★★ 「昔はよかった」と言うけれど 大倉幸宏
序章は、道徳が崩壊した戦後の日本、となっていますが、その最後には、日本人の道徳心は終戦(一九四五年)を境に低下しはじめたのではなく、「もともと低かった」のです。それどころか、今日の日本人のほうが、昔の日本人に比べて道徳的に優れているとさえ言えるのです。その具体的な事柄について、次章以降で播(ひもと)いていきましょう。(p.12) とはや結論が書いてあります。以下、第1章駅や車内は傍若無人の見本市第2章公共の秩序を乱す人々第3章誇りなき職業人たちの犯罪第4章繰り返されてきた児童虐待第5章すでに失われていた敬老の美風第6章甘かったしつけと道徳教育、という具合に、延々「昔はよかった」に反する例が挙げられるのです。かなり食傷します。中には私自身が体験したこともありました。終章道徳の崩壊はいつはじまったのか? がありますが今更新味はありません。「昔はよかった」と主張するのもよくありませんが、様々な条件が違う昔の悪いところをあげつらうのもどうかと思います。

★★★ 紅白歌合戦と日本人 太田省一
なかなかの力作、だと思います。戦後の歌の歴史から、紅白の歴史から、見事に時代をよみがえらせました。特に歌詞の解釈は素晴らしく、豊富な資料を駆使して客観性を確保しています。描写が素晴らしく、私が見た紅白の場面がいきいきと思い出され、そのような解釈が出来るのかと驚き感心しました。私、音楽はメロディーの方を主に聴いていたようです。「安住の地」をキーワードにして論を展開させるのですが、少しそれに拘りすぎかもしれません。人は皆安住の地を求めている訳ではないと思います。実は私、いつ頃からか紅白を断片的にしか見ていません。なので、当然ながら、最後の方は今ひとつピンと来ませんでした。
日本人が豊かになつた時代にあって、いかなる歌が慰めとなるかは簡単にはわからない。終戦直後の貧しい時期であれば、人々が何を欲しているのかは、比較的はっきりしていた。しかし、もうそんな時代ではなくなつていた。それでも、いくら豊かな時代が到来しようと、「何かしら飢餓は存在している。この見えない飢餓にボールをぶっつけて、ああ、それそれ、といわせるのが歌」なのである。歌を作るとはつまり、「時代のなかで変装している心を探す作業」に他ならない。(p.143)
なかにし礼によれば、昭和が終わりを告げ、歌謡曲が終焉するとともに、「日本というコミュニティ」は崩壊していった。「紅白」の歴史に即して言えば、それはバーチャルな<日本>の崩壊であった。こうした事態に直面して「紅白」は、前述したように、キャラクターというコア・コンセプトを新たに発見することになる。そして、その中核となるのが、SMAPという存在なのであった。(p.318)
いかなるコミュニティであれ、そこに属するメンバーの記憶が共有され、継承されなければ、その存立は危うくなる。戦後日本人が記憶を共有し継承する上で、歌謡曲やフオーク、童謡といった歌が果たした役割はけっして小さくない。そして「紅白」は、そうした記憶を改めて確認する場でもあった。(p.332)
昨年私、朝ドラの「あまちゃん」に嵌りました。で、紅白を見ました。生ではなく、ビデオにとって見たいところだけですが。この紅白、著者はどう解釈するのでしょうか。そして、この本に影響され、これからは紅白を真面目に見て、著者のように考えてみようと思っています。今のところ。

★★ 幸福の文法 合田正人
サブタイトルが、「幸福論の系譜、わからないものの思想史」、です。タイトル自体、その意図が分かりにくいし、サブタイトルはいかにも内容の難しさを暗示しています。この本は、難解な哲学書です。意図的に難解にしているようにも思われます。哲学書とはそういうものでしょう。何故か久し振りにこの様な本を読みたくなりました。
「巧言令色鮮なし仁」と孔子は言った。禅では「不立文字」と言い、イエスは「文字は殺し、霊は活かす」と言った。偉大な哲学者のデカルトは「彼らが言うことを聞くな、行うことを見よ」と言い、ベルクソンは「能弁な人間」を嫌悪した。/しかし、まず行為と言語をそう簡単に切り離すことができるだろうか。単純に、何らかの仕方で言葉を伴わない行為はおそらくないし、話すことも書くことも立派な行為である。(p.17) 言葉を伴わない行為はない、ということを言うために、これだけ引用しなければならないのでしょうか。読むのに大変苦労しました。時間もかかりました。ですが、どのくらい理解出来たのか疑問です。
死の恐怖が無根拠であるのは、私があるとき死はなく、死があるとき私はないからだ (p.52) これいいですね。
これが「私」だと「私」に思わせている「習慣」の支配に抗わねばならない。これがアランのいう意志と行動である。(p.144) 幸福とは、意図的に行う新たな挑戦、に存する、のか。
フィツツジェラルドは「もちろん人生全体が崩壊の過程である」と言った。どのような生存もそれをまぬかれることはできない。けれども、そのほとんど感知できないがスリリングな闘い(ボレモス)の途上、途上としての、途上だからこその無為のなかにしか、「幸福」という「ユーモア」はありえない。(p.239) 幸福はユーモア、生物はいずれ無に帰する、ならば未完のユーモアもいいかもしれない。
私は最後に、私が最も愛する作家―彼は『ハッピー・デイズ』という作品を書いた―の言葉を掲げておきたい。「いいさ、失敗したら、またもっとうまくしくじればいいさ。」(ベケット『最悪のほうへ』) (p.240~p.241) この部分は本文の最後(この後に10ページを超える難解なあとがき)、こんな所でベケットに出会うとは思ってもいませんでした。サミュエル・ベケットは私が最も敬愛する作家でもあります。幸福論とは関係のない、幸不幸を超越した作家だと思います。

★★ ほんじつ休ませて戴きます さかもとけんきち
著者は大阪の古書店の店主、90歳。店を休むとき、ほんじつ休ませて戴きます、と書いた紙に、絵と短文を添え、話題になった、らしい。で、この本が出来た。そのポスターが多数収録されている。なるほどと感心するものもあれば、そうでないものもある。心動かされたのは、彼の人生を語っている部分である。波瀾万丈もあれば、淡々と生きた時季もあり、素晴らしい生き方だと思う。最後に奥さんへの思いを語るところがあるが、驚くほどの言葉・愛情で、日本人が、90歳の人が、これ程の表現をするのかと驚いた。4年ほど前に奥さんが亡くなり、現在一人で本屋を続けているそうです。
人間というものはね、さまざまな人と接することによってエネルギーをいただくんやと思う。そして、そのエネルギーを受け取れる限りは、生きられるんやと思いますね。(p.62)
女房は、この家の中におるんです。たとえば私が物を書いていて、やけに肩が凝ってしょうがないとき、そっと背中をなでてくれる感じがする。長い間、無神論だった私が言うんだから、これは間違いないですよ。確かに、女房の存在は感じるんです。今では、私が生きている限り、女房はいるのだと思うようになりました。夫婦の連帯感というのは、そういうことなんですね。女房はいつもそばにいる。そやから、お墓に水をかけに行ってもなんにも意味がないと私は感じています。(p.110)