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読書中 幸福の文法 合田正人

読書中 ほんじつ休ませて戴きます さかもとけんきち

★★★★ 陛下をお救いなさいまし 岡本嗣郎
「終戦のエンペラー」という映画を観た。映画自体はまあまあだったが、そこに描かれている歴史に興味を持った。つまり、ハリウッド流の虚構を取り除いた歴史そのものを知りたかった。で、この本に行き着いた。マッカーサーの側近、日本通のフェラーズ准将と、恵泉女学院の創始者、アメリカ留学の経験もあるキリスト教徒、河合道の二人を中心に、天皇の戦争責任について書かれている。文献や聞き取り調査で、二人の生涯が綿密に客観的に描かれ、実に力作である。
ハーンが説く日本の宗教、彼が国教と表現するものは祖先崇拝であった。それは神道の起源であるが、そもそもは自然への崇拝であった。太陽、月、海、山、木、草あらゆる霊妙な自然の営みに対する敬心が自然崇拝となって日本人の宗教を形成した。自然崇拝から出発した祖先崇拝における神について、さらにハーンは述べる。/日本の神という言葉は、神性という欧米の近代的な考え方に一致するような観念は何も含んでいない。「上に立つもの」「より高いもの」という表現を用いた方がより近いかもしれない。人は死によって神秘的な力を獲得し、「上に立つもの」「より高いもの」 つまり神になる。(p.50)
天皇制の存続は戦争放棄条項と引き替えだった。不戦・平和主義の宣言が象徴天皇制を可能にした。日本政府がこれを受け入れ、憲法改正草案要綱として正式に発表したのは三月六日だった。/フェラーズが元首相・米内光政を総司令部に呼び、ひそかに「東条に戟争の全責任を負わせよ」と指示した日である。(p.275)
河井という明治十年生まれの一人の女性の意識を通して見るとき、天皇という存在は、意識の底にはりついた堅牢な岩盤なのである。たとえ臣民教育を省き、そこに欧米近代自由主義思想に基づくキリスト教教育をそっくり置き換えてみても、天皇に対する尊崇と愛着は揺るがない。土着の伝統的思考の強勒さを見る思いだ。それがその時代における国民精神すなわち時代の風潮と呼ぶものなのだろう。(p.288)

★★ いつやるか?今でしょ! 林修
この種の本は普通読まないのですが、たまたま本屋で手に取り、開いたページに、目指せ! 柳原可奈子さん!! (p.37) という文字が見え、ちょっと興味を持った。表情カアップのスローガンとして著者が使った表現で、彼女の表情が素晴らしいという訳です。表情力を磨くにはどうするか、他人が見ている自分が本当の自分である、ということを自覚し、録音録画で確認する、著者は、自分の授業、出演したテレビ番組、を録画し反省するのだそうです。これはなかなかやれることではないでしょう。で、全部を読んでみました。全体としては、若者に対する人生訓、のようなもので、年寄りにはいささか鼻につくものです。若者にもそう感じる人がいるかもしれません。
学校の勉強って、そんなに社会生活とかけ離れているのでしょうか?(p.16)
修辞疑問文。私もそう思う。勉強の嫌いな人間、勉強の出来ない人間のエクスキューズ。
少なくとも5年後の自分の姿を想像することから逆算して、今日という日を生きる意識を持つべきなのです。(p.89)
歳を取ってもこれは必要だと思いました。反省!

★★★ 日本の食はどう変わってきたか 原田信男
食を中心にした日本の歴史。歴史の中に食が浮き上がる、あるいは、食の視点で歴史を見る、とても興味深い内容でした。サブタイトルが、神の食事から魚肉ソーセージまで。第1章、神々の食事。第2章、精進料理の成立と懐石料理。第3章、ソバとウドンの展開。第4章、ブドウとブドウ酒の登場。第5章、文明開化と肉食・洋食。第6章、戦間期の食文化。第7章、魚肉ソーセージの出現。外からの影響を受けながら、日本の食文化は独特の発展を遂げてきた、ということがよく判りました。今は圧倒的に西洋の食物が入ってきてるように見えますが、根本的な部分では日本的なものが残っているのではないでしょうか。これまで通り、日々の食事を有り難く頂くことを続けましょう。
明治四(一八七一)年の天皇の肉食再開宣言は、なによりも西洋料理に不可欠なウシ・ヒツジを念頭においたものであった。それゆえ文明開化後には、単なる肉食ではなく、あくまでも西洋を彷彿(ほうふつ)とさせる牛肉食が人気を呼んだのだと考えられる。これまで見てきたように、牛肉は初めから西洋料理として普及したのではなかった。やはり伝統的な鍋料理として、人々に親しまれたのは、新たな食習慣志向の限界を示すものといえよう。むしろ明治国家は、肉食を奨励しょうとしたというより、西洋料理の受容を図りたかったにすぎない。(p.163〜p.164)
大正一二(一九二三)年の関東大震災は、従来の食文化のあり方を一変させる事件でもあった。それは震災後の東京に立て直された飲食店のスタイルで、いわゆる専門にこだわらない大衆飲食店が急増して、一軒の店で和・洋・中などの日常料理を出すところも珍しくなくなった。またデパートの食堂も大衆化が進んで、そこでの料理を多くの人々が楽しむようになった。さらに関西料理の進出が著しく、料理や味覚が平準化していく傾向がみられたことも大きな変化であった (p.179)

★★★★ 恋しくて 村上春樹 編訳
Ten Selected Love Stories と副題にあるように、アメリカを中心に、カナダ・スイス・ロシア、そして自作を含めた、10編のラブストーリー集です。なかなかに面白い作品が集められています。それぞれの始めにチョット作者紹介、最後に1ページ弱の解説付きです。そこに恋愛甘苦度というものがついていて、★五つが甘苦に分けてあり(★が半分になっている場合あり)、面白い試みだと思いました。自作の著者紹介には、翻訳が主な仕事のように書かれ、最後に、時に小説も書く。(p.328) となっています。
今年のノーベル文学賞を取った、アリス・マンローの作品も入っていて、いずれも甲乙付けがたい名作だと思います。個人的には、村上春樹の「恋するザムザ」に一番感動しました。タイトルから分かるように、カフカの「変身」を下敷きにしています。うまい使い方です。ただ、厳密に比較考証する必要はないでしょう。
以下は「モントリオールの恋人」から
未来を誰かと分かち合うというのは要するに、反復をより巧妙にこなしていかなくてはならないことを意味している。もしそれができなければ、未来を誰かと分かち合うのは、あまり愉快なこととは言えなくなる。(p.279)
以下二つは「恋するザムザ」から
彼は金属製のポットを手に取り、白い陶器のカップにコーヒーを注いだ。コーヒーのきっとした強い香りは彼に何かを思い出させた。直接的な記憶ではない。あくまで間接的な、いくつかの段階をくぐり抜けてきた記憶だ。今こうして経験していることを、記憶として未来から覗いているような、そんな奇妙な時間の二重性がそこにはあった。経験と記憶とが閉じたサイクルの中で循環し、行き来しているみたいだ。(p.339)
世界そのものがこうして壊れかけているっていうのに、壊れた錠前なんぞを気にする人がいて、それをまた律儀に修理しに来る人間がいる。考えてみればけったいなもんだよ。そう思うだろ? でもさ、それでいいのかもしれない。意外にそれが正解なのかもしれないね。たとえ世界が今まさに壊れかけていても、そういうものごとの細かいあり方をそのままこつこつと律儀に維持していくことで、人間はなんとか正気を保っているのかもしれない (p.360〜p.361)

★★ ベストオブ蕎麦 麺'sCLUB編
1990年出版の本である。誰かが雑誌で推奨していたので読んでみました。というより、眺めてみました。蕎麦の写真を原寸で掲載しています。A3に近い大判です。150杯あります。
四万一千軒ある蕎麦屋の九割は町場のフツーの機械打ち店と立ち食い店で、残る四千余軒が手打ち店ということになるのだが、機械を全く使わぬ純手打ち店は、たったの一割、毎日粉を挽くのは、その四百軒のうち、わずか一割〜一割五分にすぎない。(p.6)
「ああでもないこうでもない蕎麦のウンチク傑作選」、というコラムがあり、本当に傑作です。一例:
《昔から「そば」はつゆに三分の一ほどつけるのが江戸では通(つう)だといわれて来た。そばはそばそのものよりも「つゆ」の方か値段が高くつく。そこで「つゆ」は三分の一つけるのが通だと、そば屋の方から宣伝した。いわば商略にのせたのである。江戸の小咄に、死ぬ時「ああ、一度でよいからたっぷりつゆをつけてそばを喰いたかった」という話がある。これはつまり江戸ッ子=東京ッ子の見え坊なところ、痩せがまん、負け惜しみの内実をさらけだしたもので、そばつゆをたっぷりつけると江戸ッ子でないという、先入観にとらわれた悲しい話である》 宮本又次『関東と関西』青蛙房 '66年 (p.11)
食べてみたい、そして、行けそうな蕎麦屋が幾つかあり、チェックしました。昔の本なので、閉店したと思われる所もあります。が、今も残っているところは名店と言うことでしょう。是非訪れようと思います。出石:甚兵衛、松江:松本そば店、熊本:肥後蕎麦大石本店。対馬の鯛洲家、まだ存在しているのでしょうか。広島の豊平、達磨雪花山房の橋邦弘名人、がはじめた、山梨永坂の翁、も機会があれば行きたいと思います。

★★ びっくり節約生活!一家6人+1月7万円 大庭聡恵
ある日の停電をきっかけに始めた節約生活ですが、「これがなくても暮らせるのでは!?」「捨てる前に何かに使えるのでは!?」などと考えていくうちに、どんどんエスカレートしていきました。工夫する生活はクセになる楽しさです。主婦の可能性って、無限大だと思います。/そして、気がつけば、物はどんどん少なく、生活はシンプルになり、家族は皆、手先が器用に、足腰は強く、風邪もほとんど引かない丈夫な体になっていました。/「足るを知る」という言葉が、いつも頭をよぎります。物や情報があふれかえっている現代ですが、持ちすぎの生活は、私にはかえって苦しかった。手放せるものを選んで手放すたびに、何らかの発見があり、家族の結びつきも強まっていったように思います。(p.143)
「おわりに」にこう書いてあります。著者は今現在主婦、元漫画家、で、この本はマンガです。目次には、1章―手始めにガスやめました、2章―冷蔵庫やめました、3章―クーラーもストーブもやめました、4章―車、テレビ・・・いろいろやめました、5章―日々の節約テクニック、となっています。これだけで驚愕です。面白く描いてあり、楽しそうに見える生活ですが、実際にやるのはどうでしょう。私には無理です。

★★★ ブラック企業 今野晴貴
内定切りや派遣切りが問題になっている一方で、入社したばかりの社員に対しては容赦のないいじめ、パワーハラスメントが吹き荒れた。彼らは誰にも問題とはわからない方法で、すなわち「自己都合退職」という形で、ひっそりと解雇されていたのである。それ以前からも存在した、辞めさせる手法としての鬱病化が、新卒の、しかも入社1年に満たない社員に対して大々的に用いられるようになったのは、明らかに新しいできごとだった。(略)社会の側は、これを若者が会社をすぐ辞めてしまう問題、として取り上げた。つまり、「自己都合」という形式を額面通りにとって、若者のほうがわがままになった、としたのだ。(p.114)
日本型雇用の特徴として「終身雇用」と「年功賃金」を思いつく方は多いことだろう。しかし、実はこれらと「対」の関係にある巨大な企業の命令権限こそが、それら以上に重大な、日本型雇用の特徴なのである。(p.183)
政府や学者の基本的な思考枠組みは、「若者の意識の変化」で雇用問題を捉えるという傾向にある。若年非正規雇用や失業の問題を「フリーター」や「ニート」問題へと矮小化してきたことがその現れである。そして、ブラック企業間題に対しても、彼らは同じように「若者の意識」さえ改善させれば、解決する問題だと考えている。(p.220)
今の若者は、とは言えない状況がよく判りました。ユニクロでものを買うのを躊躇します。材料工賃が安いだけでなく、販売の人件費も抑えているのですね。安ければいいと思っていると、めぐりめぐって社会全体がおかしくなってしまうでしょう。もう既に狂っているのかもしれません。非正規雇用の増加、格差拡大、未婚、少子化、税収不足、財政破綻、二極化の進行、等々。何処かで悪循環を止めなければ日本滅亡となるのでしょう。

★★★ 夢を売る男 百田尚樹
今回は自費出版、に毛が生えたような本作りで儲ける話。自然、出版物批判も出て来る。作家が同じことばかり書いていてはいけないが、かといって新しいことばかりに挑戦するのもいいかがなものか、という所で以下の会話:
「かといって、元テレビ屋の百田何某(なにがし)みたいに、毎日、全然違うメニューを出すような作家も問題だがな。前に食ったラーメンが美味(うま)かったから、また来てみたらカレー屋になつているような店に顧客がつくはずもない。しかも次に来てみれば、たこ焼き屋になってる始末だからな――」「馬鹿ですね」「まあ、直(じき)に消える作家だ。とにかく、後世に残る作家というのは、常に新しい読者を生み出す小説が書ける作家だ。ある世代の人たちに熱狂的に受け入れられても、その世代が消えたらお終(しま)いだ」 (p,206)
人の欲望を暴き出した面白いストーリーです。著者は直に消える作家ではないでしょう。

★★★ 東大のディープな日本史 相沢理
次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受倹した多くのものが、これと同じよぅな答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え、(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を5行【筆者注:一五〇字】以内で記せ。(以下略)(83年度第1問)/いかがでしょうか。これが本当に大学人試なのかと目を疑った方もいらっしやるのではないでしょうか。なんと受験生の答案にダメ出しして、もう一度出題したのです。(p.3〜p.4)
冒頭にあげてある例です。既にこのシリーズ(?)の本を二冊読んでいても、衝撃的な問題です。今回も楽しく、そしてとても勉強になる内容でした。歴史は面白い、このように一部を取り出して考えても、いやそれだからこそかもしれませんが、興味を引かれます。歴史全体を見直したくなりました。最後に気になったこと、「おわりに」に書いてある以下のことは何か違うと感じます。
「君が代」強制は<踏み絵>でも何でもない、公の場で「君が代」を歌うという外面的な行為と切り分けられることで、内面的な<思想・良心の自由>はむしろ守られるということを、反対派の人も賛成派の人も理解すべきでしょう。(p.268)

★★ 在中日本人の108人がそれでも私たちが中国に住む理由
在中日本人108人プロジェクト【編】
2012年9月の反日デモ激化から1年―。
今も現地に住み続ける日本人たちが語った、
中国の現実、中国人の本音、そして日中関係の行方。
戦後最悪ともいわれる日中関係のなか、
彼らはいったいどんなふうに中国を見てきたか。
マスメディアの報道だけでは知ることのできない、
108人の中国在住日本人の証言。

この本の宣伝文句。一年でこの本を作った人たちの熱意は凄い。そして、それは伝わる。しかし、中国という国の不可解さはなくならない。社会主義市場経済とはなんなのか。中国の報道官と北朝鮮の女性アナウンサーが重なる。国としての未熟で品位に欠ける。この本で中国人個々人の素晴らしさを聞いても、それが国全体としてみたときには意味をなさない。草の根の取り組みは大切だろうが、問題の解決は見えない。
領土問題でこれだけ論争が起こつているのだから、双方にはそれなりの根拠があることぐらいは通常の教育を受けた人なら誰でも感じるはずだ。中国の若者は、日本が主張している内容ぐらいその気になればわかるはずなのに、みんな判で押したように「日本が違法に占拠した。日本は侵略の歴史を反省していない」と答えるのだ。彼らは相手方の意見の存在すら許容できなくなるほど洗脳されてしまったのかと悲しくなる。(p.112)
この本にはこのような指摘は少ない。悪いことは書きたくなかったのか。いまだ戦争責任を言い募り、抗日ドラマを放送し続けるのは、国民の目を外に向けさせるためではないか。
蛇足。もともと私は、資本主義よりも社会主義の方が優れていると思っていまいした。いまの日本は、中国よりも社会主義的ではないでしょうか。

★★★ 東大のディープな日本史2 相沢理
東大のディープな日本史、という本が面白そう、というので図書館に予約、ついでにその時点で発行されていた、「2」と、「世界史」も追加、すると、最初に来たのが、「世界史」、次のこの「2」、最初のもの以外はあまり人気がないということでしょうか。「世界史」同様、この本もなかなか面白いものです。受験対策という高校の日本史の授業にはない知的な刺激、井上清「日本の歴史」を読んだとき(浪人時代)の目から鱗が一枚落ちた感じ、を味わえました。歴史は楽しく、役にも立つ、ということが実感できます。
「律令における税は庸調」と習ってきて、「日本は稲作の国」というイメージがあると、律令税制の中心は租であるように思えてしまいますが、実際のところ主財源とはされていませんでした。(p.67)
蓮如の布教によって北陸の農村に浸透した一向宗(浄土真宗)では、人間を「煩悩にとらわれ自力では善を積むことのできない悪人(凡夫[ぽんぷ])」と捉えます。これなどは、「人間は生まれながらにして罪(原罪)を背負っており、善をなす自由を欠く」とするキリスト教の考え方に通じるものです。/あるいは、戦前の代表的なキリスト看である内村鑑三[うちむらかんぞう]は、「清廉潔白な武士道の根づく日本こそキリスト教の博愛(アガペー)の精神にふさわしい」と説きました。/宗教アレルギーを持つ現代人は多いですが、もともと日本人には宗教的素養がちゃんと備わっていて、キリスト教とも親和性があるのです。でなければ、一五四九(天文[てんぷん]18)年にザビエルが来日してからわずか40年ほどでキリシタンの信者が20万人に達した(推計)という事実を説明することはできません。そして、だからこそ時の権力はキリシタンに脅威を感じていたと考えられます。(p.132〜p.133)
改憲論者も護憲論者も、日本国憲法が<民主的>であるとしたまま思考が停止していて、<民主的>にするのは運用であるということをごつそり見失っている点では共犯的です。(p.247)

長生きは三百文の得 大滝秀治
大滝秀治写文集、とあるように、半分以上を谷古宇正彦の写真が占めています。写真の説明を最後にまとめているのが、ちょっと手間です。文はインタビューをまとめたとのこと。量的にも少なく、すぐ読めました。自叙伝的内容で、当然演劇の話が多く語られています。最後に詳細な年譜があり、著者の一生がよく判るでしょうが、読み通すにはかなりの忍耐が必要でしょう。
ぼくらの職業ってのは、台本をもらって、その本を読み込むというか、俗な言菓で言えば詮索(せんさく)すること。/そこに登場する人物、たとえば、自分がもらった役を詮索することが職業・商売でもあるわけですからね。/根掘り葉掘り、それが深けれは深いほど、的確であれは的確であるほど、捨てられる材料が多くなってくるわけでね。/最終的に残るのは、自分であるけれども、役のなかの自分ってのは自分ではないわけでね。そのあたりが役者のいちばん難しいところでもあるかな。(p.183)

★★★ 55歳からのハローライフ 村上龍
タイトルからイメージできる通りの作品です。中編が五つ、どれも秀作です。どちらかというと順風満帆な人生を送ってこなかった人が主人公で、巧みな展開で、光の見える方へという終わり方、村上龍も歳を取りました(私のイメージの中で)。平凡な人生の中の驚き、といったものを期待していたのですが、まあ、そんなものは小説にはならないのでしょう。とはいえ、充分楽しませて貰いました。
風景に、人間の形をした暗い穴が空いたような不吉な気分になった。(p.246)
いい表現、でも立て続けに出て来るのは・・・・・
からだにボビーの形をした空洞ができたような、これまでの人生で味わったことのない虚(むな)しさの中にいた。(p.252) ボビーは愛犬の名前。

★★★ 望郷 湊かなえ
望郷を通奏低音にした、短編集。すべての作品の舞台は、白綱島という架空の場所、だが、モデルになっている所は明らか、だが、そんなことは問題ではない。この本は、これまで読んだ著者の作品の中で最高傑作ではないか。過去と現在が絡み合い、縺れた糸が解れ、思わぬ真実が現れる。特に、最初の「みかんの花」は素晴らしく、意外性が積み重なる。最後の「光の航路」が唯一率直すぎる作品だが、逆にこれこそが著者の才能の表れかもしれない、と思ったりした。

★★ 間抜けの構造 ビートたけし
「生と死」というよくわからない始まりと終わりがあって、人生というのはその"間"でしかない。人間というのは、一生、"間"のことしかわからなくて、その"間"がどうやって生じるか、ということは絶対にわからないようになつている。だからこそ、その"間"を大事にしようぜ、という。/特に今の時代は、どんどん"問"がなくなっちゃってギスギスしている。本当は間があったほうが豊かになるのに。みんな履歴書に空欄をつくらないように、人生の"問"を必死で埋めようとしている。それでイケイケな社会ならいいけど、バブルはとっくにはじけた。高度経済成長なんてもう来やしない。人口も減る。そんな日本なんだから、もう一回、"問"というものを見直して、生き方を考えてもいいんじゃないのかと思うけどね。そんなところが結論なんじゃないかな。/間延びしないうちに、この辺で終わりとするか。(p.186〜p.187)
上に引用した所がこの本の終わりです。全体にこんな調子で、執筆したのではなく、喋ったことをまとめたという感じになってます。はじめは間の抜けた人、つまり、間抜けの具体例で、面白いといえばまあ面白い話です。その後、漫才の間、落語の間、テレビの間、スポーツ・芸術の間、映画の間、日本人の間、人生の間、と続きます。独自の論考を期待していたのですが、独特ではあっても、何か上っ面を撫でたという印象です。文体(喋り方)方と同じで、気軽に楽しく読むものなのでしょう。
"間"が悪い人というのは、話をしている途中で息を吸っちゃう。息継ぎが下手なの。自分の頭の中で、「この話のどこで息継ぎをするか」を考えていない。(p.88)
討論が上手くなる方法はまだあって、ちょっと長めにしゃべりたいと思ったら、「私の言いたいことは二つあるんですよ」とやる。「三つあります」というと、「おまえ三つもしやべるのか!」となるから、二つがいい。(p.91)
この二つ、使えそう。
ギチギチに説明するばかりで"間"のない映画は作りたくない。それは観ている方の想像力を限定してしまう。そういう映画があつてもいいとは思うけど、それを観たいやつはハリウッド映画だけ観とけばいいのであつてさ。(p.132)
日本語というのは、強弱のアクセントがなくて、高低のニュアンスだけなんだってね。ひとつひとつの言葉に強弱がないからリズムが生まれにくい。(略)じゃあどうやってリズムをつけるかというと、強弱がないなら、どこかで"間"を置いて区切るかしかないわけ。それによって、日本語のリズムは変わってくる。/それを昔の日本人は直感的に考えたんじゃないかな。そのひとつの典型が「古池や蛙飛び込む 水の音」。つまり「五・七・五」なんだけど、このあたりは理にかなっている。(p.148〜p.149)

★★★ 昨日までの世界(下) ジャレド・ダイアモンド
下巻は、生きていく上での危険、宗教、言語、健康、に関してである。目新しことを言っている訳ではないが、丁寧に論理を展開し、主張が明確に伝わり、自然に納得してしまう。納得させられる。宗教、言語については特に素晴らしい内容だと思った。結論として著者が言いたいことは下に引用したが、それよりも、文章が持っている惹き付ける力に感動した。「文明崩壊」という著書もあるようで、読んでみようと思う。
われわれ現代社会の人間が、傾向として、何が危険であるかの評価が正しくできないのはなぜだろうか。それは、われわれが、衝撃的ではあるが稀にしか起きないような事件や、死亡者の多い事件を大々的に取り上げるテレビなどのマスメディアから、ほとんどの情報を間接的に得ているせいなのだろうか。伝統的社会の人々が正しく評価できるのは、みずからの体験や、親族や近隣の人々の体験からじかに学んでいるせいなのだろうか。われわれは、何が危険であるかについて、いま以上に、現実的に考えることができるようになるのだろうか。(p.135)
アンドロメダ星人:客観的に地球人類を見る人:アンドロメダ星人たちは、人間のあいだに数千種類の宗教が存在し、それぞれの宗教の信者のほとんどが、自分の信じる宗教以外の宗教はすべて正しくないと信じていることは、すべてが正しくないということを示唆している、と思っている。(p.142)
伝統的社会の特徴を取り入れるには、社会全体として行動を起こすことが必要になる。評価されるべき「昨日までの世界」の特徴を取り入れるには、個人と社会の双方の決断が必要だとして、われわれには何ができるのであろうか?/食事や食習慣はわれわれの生活を向上させるために、個人として実行できる範時にある。伝統的社会のニューギニア人が脳卒中や糖尿病、心臓発作で死ぬことはほぼないという驚くべき事実を再考してほしい。(p.357) 以下に書いてある食に関する具体的なことは、現在よく言われていることである。
その他に、社会全体の変化を待たずに、個人あるいは夫婦ができることは、伝統的社会のように、子どもをバイリンガルやマルチリンガルに育てることである。(p.358)
その他に個人的にできることは、われわれの生活様式に潜む危険を現実的に見極め、ニューギニア式の「建設的なパラノイア」を取捨選択して取り入れることである。(p.359) 建設的パラノイアとは:一回あたりのリスクは低いが、生活のなかで頻度の高い行為に対して用心深く対応すること (p.15)
読者の多くが属する社会は、人類の文化的多様性からみればそのごく一部にすぎない。そのごく一部の社会が世界を支配するにいたったのは、すべてにおいて優れていたからではなく、いくつかの特定の理由のおかげである。生産性が高く、栽培しやすい野生植物や飼育しやすい野生動物が存在する地域にいあわせたおかげで、早くから農業を発展させることができ、そのおかげで技術的にも、政治的にも、軍事的にも優位に立てたからである。しかし、こうした際立った強みがあったにもかかわらず、現代工業化社会は、子育てや高齢者の処遇、紛争解決、非感染性疾患の回避、その他の社会問題に対する優れた取り組みを確立させることはできなかった。数千も存在する伝統的社会は、こうした問題に対して、さまざまで広範囲にわたる対応をつくりあげている。私は、そうした伝統的社会のひとつであるニューギニアで過ごした年月によって、人生の展望を豊かなものへと変えることができた。読者個人と現代社会全体が、私と同じように、広範囲におよぶ伝統的社会の人類の経験から、おおいに享受できるものをみつけ、取り入れてくれることを願っている。(p.362〜p.363) この辺りの記述、「銃・病原菌・鉄」を思い出させます。

★★ 「磯野家」の幸福 おかのきんや
サザエさんをネタに、人生の知恵を語る本。まず一般論があり、次にサザエさん、版権の関係か残念ながらマンガはなく、文章での描写、その後「幸福のヒント」と称する解説のパートがあり、最後にまとめの言葉。
例えば、上を見ず、下を見ず、/原寸大の幸せを味わいましょう (p.65)
もう一つ、、「面白きこともなき世を面白く、すみなすものは心なりけり」と辞世の旬を詠んだのは、幕末の志士、高杉晋作ですが、磯野家の場合、さらに<笑い>を付け加えているのです。
面白きことがある世を、/より面白くすみなすものは笑いなりけり
(p.120)
サザエさんの時代、昭和への憧憬、この本に書かれているのは、その頃の価値観と言えるでしょう。これは今でも大切なものです。しかし、男と女の会話の違いについての記述は、よく言われることではありますが、男から見ても、さらに恐らく女から見ても、同意できない部分があると思います。全体としてはなるほどが多いのですが、このような点がいくつかあるのが少し気になりました。
<出船>というのは、昔から伝わる、履物の揃え方の呼び方です。/つま先が戸口向きなら、出港していく船にたとえて<出船>と呼びます。逆に、つま先が上がり口向きなら、港に入る船にたとえて<入船>と呼びます。(p.28〜p.29)
この言葉、初めて聞きました。入船の方が履きやすい人がいること、出船に脱ぐ場合も、相手にお尻を向けるのは失礼になること(横向きで脱ぎ、手で揃える)、勉強になりました。

★★ 猫のしっぽカエルの手 春・夏編 ベニシア・スタンリー・スミス
人間が植物を見て、身近な動物の姿を連想し、あだ名のような名前を与えてきた例は、世界各地にあります。/例えば、「カエデ」。葉の形がカエルの手に似ていることから、古くから「蛙手(かえるて)」と呼ばれてきました。また、沼地に生えるガマの穂は、まさに「猫のしっぼ」のよう。英語では、「キャットテール」と呼ばれています。/世界各地で数限りなく見付かる愛らしい名前。それは昔の人たちが、植物に寄り添って暮らしてきた証です。今を生きる私たちも、昔の人たちがそうであったように、人間と植物の杵を大切にしていきたい。そして、まず親しみの気持ちを込めて、植物に呼びかけたい……そんな想いがこのタイトルとなりました。(p.100)
本の最後に書いてあるこの文が、タイトルに込めた著者の思いです。今年初めにたまたま見た「ベニシアと仲間たち展」、に触発されて読み始めた彼女の本、これで図書館にある五冊すべてです。DVD付だったのでとても印象に残りました。彼女の生き方、そして彼女の仲間たちの生き方、大いに学ぶことがありました。春編に登場する、パンを焼いている八十歳代の人、とても美味しそうなのですが、一般には販売していないようです、残念。
生き方、暮らし方は、ひとりひとりが創り出す芸術作品です。(p.40)
今の暮らしにどう活かすか、新しい使い道を考えさえすれば、
そういう古いものに、新しい命を吹き込むことができるのです。
(p.44)

★★★ 爪と目 藤野可織
あなたの容姿は、取り立ててすぐれたものではなかった。多少愛橋があるといった程度だったが、男性の気を惹くにはあなたの持っているだけのものでじゅうぶんだったし、なによりもじゆうぶんだということをあなた自身がよく知っていた。あなたには、男性が自分に向けるほんのほのかな性的関心も、鋭敏に感知する才能があった。しかもそれを、取りこぼさずに拾い集める才能もあった。植木にたかる羽虫を一匹一匹指先で潰すようなものだった。あなたは手に入らないものを強く求めることはせず、手に入るものを淡々と、ただ、手に入るままに得ては手放した。決して面倒くさがらず、また決して無駄な暴走をすることもなかった。それがあなたの恋愛だった。(p.16〜p.17)
あなたの母親は、一瞬あなたを憎んだ。そしてこれまでに、何度も娘に激しい憎しみを抱いた瞬間があったことを思い出した。あなたがティッシュの箱を差し出し、あなたの母親は鼻をかんだ。せめて、負け惜しみを言いたかった。/「あんたはいつも他人事みたいに。そうやって、いつも自分だけ傷つかないのよね」/そのことばには、「だからきっとこれからもだいじょうぶ」という励ましと、「でもこれからはそうはいかない」という警告の両方が含まれていた。そしてあなたの母親は、その両方を望んでいた。娘がなにごともなく幸せに暮らしていくことを望み、同時に、つまずき、疲れ、失敗することを望んでいた。あなたはティッシュの箱を引っ込め、くずかどを差し出した。(p.23〜p.24)
この文章に痺れました。女性にしかかけない文ではないでしょうか。最近の芥川賞受賞作です。直木賞ともども早くに図書館で予約できたので読んでみました。殺人の匂いを漂わせ、それがずっと引きずられ、しかし淡々と物語は進んでいきます。うまい作品で楽しめました。ただ、終わりの性急さがちょっと残念です。
しょう子さんが忘れていること、ちびっこ広場、という二作品も収録されています。前者はちょっと気負いすぎ、という感じ。後者は女性らしい作品で、佳作、他二作とは違って穏やかです。

★★★★ 永山則夫 堀川惠子
サブタイトル:封印された鑑定記録 永山則夫に対して行われた二度目の精神鑑定、それはあまりに最初の鑑定と、そして、検察の意図するものと違っていたので、さらに、世間が求めるものともかけ離れていたので、取り上げられなかった、と言っていいようだ。その鑑定記録の基となった、医師と永山の会話が録音されていた、ということをこの本の著者が発見し、そのテープを聴き、さらに取材をしてこの本が生まれた。力作である。私の永山に関する知識は多くはない。一番影響を受けたのは、新藤兼人監督の映画、裸の十九歳、である。つまり、虚構である。この本は永山則夫の一生を丹念に追いかけている。その凄まじい生涯は、両親や祖父母を含め、驚愕である。彼があの犯罪へと流れていったのがよく見えた。勿論、それだからと言って、彼の罪がいささかとも軽減される訳ではない。ただ。我々は学ばなければいけない。母親の大切さ、人が集団に所属することの重要さ、中立公平な価値判断の必要性。この著者の他の本も読んでみようと思う。
子どもは、妊娠中は母の温かさに包まれ、まさに母親と一心同体である。それが産声をあげて生まれてきた時、それまで包んでくれた母親と引き離されて非常に不安になる。だから母の胸にしがみつく。一、二年しがみついていると別離の不安感が少し解消され、恐る恐る母の下を離れて一歩、踏み出す。しかし、すぐ不安になって母の下へと戻ってくる。そこでまたしっかり抱っこしてもらい、甘えて安心し、さらに一歩踏み出して、戻り、それを繰り返しながら子どもは自立し、成長していくと言われる。人間が母親的な愛情を基盤にして、そこから自立していくことを考えると、「甘え」と「自立」はセットである。自分が愛されて初めて愛されることの喜びを知り、やがて相手のことも愛することが出来るようになってゆく。その根っことも言える愛情の基盤が無ければ、子どもは順調には成長していけなくなってしまうということは、石川医師の恩師、土居健郎はじめ多くの専門家が指摘しているところである。(p.131)
『カラマーゾフの兄弟』に登場する四人の兄弟の関係は、驚くほど永山家の兄弟のそれと似ている。事実、その小説のストーリーは、永山の兄弟たちの身に起きる悲劇をも予兆しているかのようだ。(p.210)
永山は、この本の最初の巻しか読んでいなかった。つまり、著者の意図を理解していなかった。
永山は、愛の求め方を知らなかった。その短い人生の中で、他者から彼に注がれた愛情は、あまりに乏しかった。(p.284)


★★★★ 原田正純の遺言【対話集】 朝日新聞西部本社編
水俣病をはじめ公害が引き起こした病気に長年取り組んだ医師の対談集。被害の記憶や教訓などを後の世代に伝えたいという思いをもち、自らの死を意識してから死の直前までの半年間、15人の人と対話をした。水俣病が中心だが、三井三池の炭塵爆発・CO中毒、カネミ油症、土呂久砒素公害の話も出て来る。一応知っているつもりだったが、問題の捉え方、その本質、など大いに心に突き刺さった。人は、というより、企業や権力者は、価値観・倫理観といったものが狂っているとしか思えない。恐らく今もそうだろう。そうでなければ、今の世の中、過去の経験に学ぼうとしない世の中は存在しないはずだ。我々一人一人が考え行動しなければならない。
水俣病の場合は、電気化学から石油化学へ切り替わるときに、ああいう事件が起こつたし、三池の場合も、石炭エネルギーから石油エネルギーへ切り替えるというときに、炭塵爆発事故が起こっている。人類の歴史の中で、技術の大きな変換点というのは何かが起こる可能性がある。それが起こつたときに、しわ寄せが来るのは、庶民ですね。技術というのは本来、プラスの面があれば、それに対して必ずマイナスの面がある。ところが、原子力発電だって、いいところだけを宣伝して、ネガティブなことを言わない。技術のマイナス面を無視して、華々しいプラスの面だけを宣伝してきたのが、日本の近代の歴史ではないかと思うんです。(p.93) 発言者原田
水俣病にせよ、三井三池のCO中毒にせよ、カネミ油症にせよ、土呂久にせよ、なぜ九州に集中するんだろうかというところを、原田先生は「植民地を失ったわが国の資本が戦後、九州を代替地として高度成長を支える基盤としたとみるのは、根拠のないことではない」と書いておられる。九州は日本の中では辺境だし、その中でもさらに辺境の水俣であったり、五島であったり、土呂久というところに公害、健康被害が押し寄せるというところを、原田先生はしっかり見抜いて、そこに関わっていかれたんですね。(p.124〜p.125) 発言者川原:記録作家
<富樫:民事訴訟法の専門家>福島の原発事故をみても、東京電力は、いまだにチッソと同じことをやっているんですね、大量の放射性物質を海に流して。海に入ると、汚染物質は大量の海水で薄められる。宇井純さんから聞いたんですけど、宇井さんが東大工学部の学生のころは、「海に捨てれば薄められる。それが排水処理の基本だった」と。当時の教科書に堂々と、そういうことが書いてあるのを見せられました。――<原田>「希釈・拡散」ね。――<富樫>希釈・拡散理論の誤りは、いくら薄められても毒性物質、危険物質は絶対になくならないという点です。しかも、一方で生物蓄積の理論というのがあって、いったん生物に取り込まれると、食物連鎖を介して、それが何千倍、何万倍と濃縮されていく事実が明らかになってきたわけで。その点からいっても、希釈・拡散の理論は完全に破綻したと思っていました。だけど、東電はいまだに同じことをやって、セシウムがじわじわと汚染を惹き起こしているわけですね。(p.200)
ぼくは「水俣病が起こつたから、差別が起こつた」と思っていたんですよ。しかし、カナダの先住民のところだとか、それから、ブラジルの労働者のところだとか、いろんな公害現場をうろうろしたんですけども、公害が起こると差別が起こるんじゃなくて、「もともと差別のあるところに公害問題は押しっけられるんだな」ということを実感しましたよ。(p.259) 発言者原田

★★★ ホテルローヤル 桜木紫乃
最新の直木賞受賞作。ホテルローヤルというラブホテルに絡んだ七つの短編集(一つだけホテルローヤルが出て来ませんが)。芥川賞っぽい(と勝手に私が思う)作品もありますが、どれもなかなかに楽しくワクワク読ませるものになっています。時間の順序がうまくずらしてあって、読み進むにつれて自然にホテルローヤルの姿が浮かび上がってくるのです。一編が終わると次が読みたくなり、すぐに読了。人物や状況の設定に不自然さを感じる所もありましたが、まあそういうことがあるので面白いのかとも思いました。

★★★ ファッションフード、あります。 畑中三応子
まずファッションフードとは何かの定義が述べられます・
現代の日本では食べ物まで「新しい」という価値観が支配し、激しいはやりすたりを繰り返している。料理編集者として食の流行現象を実地で観察し、楽しんでもきた私は、このようにファッションとして消費されるようになった流行の、特に外来の食べ物を、節操なく新しいものを求めてきた日本文化への皮肉と愛をこめて「ファッションフード」と名づけようと思う。(p.4)
すべての食べ物には、情報が含まれている。私たちはモノとしての食べ物だけではなく、情報も一緒に食べているのだが、空腹の時代は情報には頓着せず量の確保に比重が置かれた。量が確保されると、食べ物のモノとしての質、おもに栄養が問題にされた。そして栄養が達成された次には、本格的に情報が追求される段階がはじまる。(略)食の情報化時代とは、ハラだけでなくアタマでモノを食べる時代。と同時に、モノとしての食べ物から情報だけが分離し、食の情報そのものがファッションとして享受される時代である。(p.7〜p.8)
サブタイトルは、はやりの食べ物クロニクル1970−2010、です。江戸時代から1970年までの前史を含め、次から次へとはやりの食べ物が登場します。ある程度流行を追ってきたという自覚は持っている私ですが、流行り廃りは激しく、知らないことがたくさんありました。また、今も存在しているものが意外に昔からあったものだったり、外国製だと思っていたものが日本製だったり、色々な発見もありました。ほとんどが自らの人生と重なっているので、昔のことを思い出しながら、情報を食べているということを成る程と思いつつ、楽しく読みました。

★★ ビールは、本当は体にいいんです! 戸部廣康
分かりやすく書いてあるので、楽しく読め、かなり理解したような気になっているが、実際のところどのくらい自分のものになっているのか疑わしい。何故かというと、専門的な言葉がたくさん出て来て、そのほとんどが初めて聞くといった具合なのだ。ただ、懐かしいものもあり、この本ではATPと表記されていることが多い、アデノシン三リン酸、は昔一生懸命覚えたので、スラスラと読めた。ただ単に音としてではあるが。さて、内容について、ビールが体にいいとは断言できない、と書かれてはいないが、結論はそうではないか。その可能性は高いが、完全に証明されてはいないということだろう。もう一点面白かったのは、理科系の研究のやり方である。文系の私が漠然と想像していたものとは違っていた。先行している研究を調べるということが、思ったよりも重要であるようだ。それも色んな所が研究しているので、とても大変そうに思われる。逆に、当事者にはそれが面白いのかもしれない。
キリンホールディングスは「イソフムロンは、抗酸化、抗糖化、抗動脈硬化作用を有する」という報告をしています。赤ワインよりもアルコール濃度の低いビールに、強い抗酸化作用があるという事実は、もう少し世の中に知られてもいいことだ (p.128)
ビールを美味しく飲む、それでいいのではないか。

★★★ 世界が認めたニッポンの居眠り ブリギッテ・シテーガ
ヒバリだろうとナイチンゲールだろうと、昼寝だろうと夜間睡眠だろうと、長眠だろうと短眠だろうと、「いつも」だろうと「眠りたくなったときだけ」だろうと、プライベートだろうと人前だろうと――眠りは生物学的に条件付けられているだけでなく、社会的・文化的に習得するものでもある。/今から、自分が実践できる自分にぴつたりの眠り方を見つけてみよう。それがどんな眠り方だろうと、その眠り方のよりどころとなる根拠を、あなたは本書の中で見つけることができる。(p.243)
上に引用したものが本文の最後である。確かに、この本はその根拠を縷々説明している。逆に言うと、何かを押し付けてはいない。それには、ある意味、読者の勝手な要求ではあるが、物足りなさを感じる。タイトルから想像するのとは違い、日本のことだけではなく、世界の多様な眠りについての考察があり、勉強になった。著者の言うとおり、自分でいろいろ考えてみよう。
睡眠は、余暇の楽しみを味わう際にはその犠牲になるが、その一方で、それ自体が大事な愉楽ないしは「最高の至福」なのである。このように睡眠にはあいまいさが付き物なのだ。(p.114)
日本人が居眠りの習慣を身につけた(あるいはその習慣を続けている)のは周囲が非常に安全だからではなく、日本史上長期にわたり、住民の大多数にとってこの種の表面的な睡眠をとる方が、たとえば夜間に八時間ほど深く眠るより安全だったからではないか、という説を立てることもできるだろう。(p.146)
平時の演習中に、その部隊は『(中略)全然睡眠を取らず(中略)。兵士たちはみな歩哨勤務や巡視の部署に配属された』。《どうして一部のものに睡眠を取らせないのですか》と私は尋ねた。すると大尉は、《とんでもない、その必要はありません。あいつらは教えなくとも眠ることは知っています。必要なことは眠らない訓練をすることです》と言った (p.229〜p.230)

中断 ミレナへの手紙 フランツ・カフカ
「変身」を書いた、カフカの書簡集。書簡体の小説を読んだことはあるが、書簡集を読むのは初めて(だと思う)。書評が読んでみようと思わせるものだったし、学生時代カフカが好きだったし、挑戦した。
1919年の秋、婚約者のいるカフカは、人妻のミレナと知り合った。ミレナがカフカの作品をチェコ語に翻訳しようとしていたのだ。その後は何もなく、翌年4月にカフカが療養に行って文通が始まる。カフカがミレナに出した手紙だけが残っている。だから、カフカの手紙を読んで、ミレナが何を書いたのかを想像しなければならない。これはなかなかに面白い作業である。物凄い量の手紙を書いている。1日に何通も書いていることもある。そして、7月になるとき、再会、4日を共に過ごす。当然この間、手紙はない。どの様に過ごしたかは、その後の手紙から想像するしかない。何とも奇妙な読書である。
7月17日の手紙まで読んだ。338ページのうち、129ページ。図書館への返却期限が来てしまった。

★★★ 東大のディープな世界史 祝田秀全
東大世界史の入試問題を解説するという体裁の本。タイトルの枕詞に、「歴史が面白くなる」という言葉がついていて、試験問題の解説と言うだけでなく、歴史のダイナミズムを伝えようとする意図が見え、かなり成功している。まず、問題に驚く。解ける解けないではなく、このような形の出題が新鮮である。相当昔からのようだが、全く知らなかった。入学試験として良いのか悪いのかの判断は出来ないが、このように本になったものを読むのは面白い。高校時代習ったことが思い出され、また勉強したくなった。しないだろうが。
以下に一問引用してみる。ページ数を見て貰えば判るが、問題と解答の間に丁寧な解説がある。

 つぎにかかげる8つの事項は、すべて、ある同一の世紀に関係している。それは何世紀か。また、その世紀における、これらの事項が関係する地域の発展の特徴を論述せよ。そのさい、この世紀に見られるそうした特徴が、それ以後の発展に対してどのような歴史的影響を与えたかという点に、とりわけ留意すること。解答では、下記の諸事項に、随意の順序で、かならず1回は言及し、言及箇所を下線で明示せよ。
 解答は、まず問われている世紀を明記し、さらに21行以内(700字ていど)で記入せよ。数字、括弧、句読点も、それぞれ1字に数える。
キリスト教の国教化  フン族の西方移動  コンスタンティノープル遷都  コロヌスの土地緊縛令  西ゴート族
キリスト教徒大迫害  ニケーア公会議  ドミナートゥス  【1978年度・第3間】
  (p.46)

紀元4世紀
 4世紀のローマ帝国は、ドミナートゥスと呼ばれる専制君主政治のもとで進展した。この体制を導入したのは、「3世紀の危機」を収拾したディオクレティアヌス帝であった。ササン朝ペルシアに対抗して領土防衛にも尽力し、また、自らの権威を高めるために、皇帝崇拝を強化した。しかし、社会不安を背景に伸張したキリスト教がこれを拒否したため、キリスト教徒大迫害を行った。
 キリスト教が民族と階級を超越する世界宗教に発展すると、次代のコンスタンティヌス帝は、迫害よりも懐柔が得策と考え、ミラノ勅令でキリスト教を公認した。その保護下で開かれたニケーア公会議では、イエスを神の子とするアタナシウスの説が正統とされ、教義の統一が図られた。また、東方の重要性をふまえ、コンスタティノープル遷都を行うとともに、ソリドゥス金貨を創設して地中海の国際交易網の安定も図った。さらにラティフンディアに代わって、無産市民や解放奴隷に農地を貸与する小作制が帝国西部に広がると、コロヌスの土地緊縛令を制定した。
 ところが4世紀後半、フン族の西方移動がゲルマニアに到達すると、西ゴート族を先頭にゲルマン人のローマ領侵入が始まった。加えて、キリスト教側では教義をめぐつて混乱が続いたことから、4世紀末、テオドシウス帝はキリスト教の国教化を行うとともに、帝国を東西に分割して事態の悪化に対処した。その後のヨーロッパ世界の成立を見ると、フランク王国が教皇との提携関係によって「西口−マの復活Lという形式をとったことや農奴制による農業経済の発達は、4世紀の口ーマの影響を受けるものであった。一方、東口−マでは皇帝教皇主義が確立され、ノミスマのもとで貨幣経済が発展した。  
(p.64〜p.65)

★★ 東大生に最も向かない職業 春風亭昇吉
タイトルが云わんとしている職業は、著者名から判るように、落語家、です。ご丁寧にサブタイトルもあって、僕はなぜ落語家になったのか、です。東大から落語家、に興味を引かれ読みましたが、何故「東大生に最も向かない」のか、「なぜ落語家になったのか」については、なるほどという答えはありません。ただ、この著者の生き方は凄いと思います。東大卒ということをどう使うか、その方針がまだ決まっていないようです。東大卒がいない環境では、難しいことなのでしょう。今後の活躍に注目しようと思います。

★★★ (株)貧困大国アメリカ 堤未果
ルポ貧困大国アメリカ、ルポ貧困大国アメリカU、に続く第三弾、前二作と重なるところも多少あるが、さらに衝撃的内容である。はじめの方、食の問題が取り上げられているが、農業や畜産業は、思っていた以上に工業になっているようだ。安全性は二の次、いずれそのツケが出て来るだろう。恐ろしいことだ。また、民営化の行き過ぎには、驚くばかりである。さらにマスコミの機能停止、救いようがない世の中になっている。そして、そういったことが、見事に隠され、実態は中国や北朝鮮と変わらないのではないかと思ってしまう。ただ、この本に書いてあることがすべて事実だという確証を持っている訳ではない。もっと勉強しなくてはいけない、と考えるが・・・・・
自由貿易という発想そのものが、多国籍企業と法治国家の力関係を逆転させる性質を持っている。多国籍企業の目的は株主利益であって、それを生み出す地域やそこに住む人々に対しての責任はないからだ。そのため多くの場合、勝ち組は多国籍企業、労働者は負け組になる。(p.157)
二〇〇五年二一月。人口一〇万人、全米初の「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」が誕生する。/政府ではなく民間企業が運営する自治体。/PPP(Public Private Partner)と呼ばれるこの新しい手法は、アトランタ周辺の富裕層の間で爆発的な人気を呼んだ。/雇われ市長一人、議員七人、市職員七人。余分な税金を低所得層の福祉その他に取られずに、最も効率よく自分たちのためだけに使えるのだ。(p.200)
サンディ・スプリングスが象徴するものは、株主至上主義が拡大する市場社会における、商品化した自治体の姿に他ならない。そこで重視されるのは効率とコストパフォーマンスによる質の高いサービスだ。そこにはもはや「公共」という概念は、存在しない。(p.203)
貧困は「結果」だ。/現象だけでなくその根幹にある原因を探っていくと、いまのアメリカの実体経済が、世界各地で起きている事象の縮図であることが分かる。/経済界に後押しされたアメリカ政府が自国民にしていることは、TPPなどの国際条約を通して、次は日本や世界各国にやってくるだろう。(p.272)

★★ 人民元は覇権を握るか 中條誠一
近年、ユーロ圏の財政・金融危機が取り沙汰される一方で、国際通貨であるドルの脆弱性もささやかれている。依然ドルの影響力が大きいアジア圏では、経済成長いちじるしい中国の人民元が、今後、基軸通貨として擡頭(たいとう)してくるだろう。しかし人民元の覇権は、日本経済を衰退させる危惧があるのみならず、アジア諸国の安定成長を阻害しかねない。日本の通貨戦略はどうあるべきか。アジア経済の今後を占う。
表紙裏のこの言葉、そして、サブタイトルの「アジア共通通貨の実現性」、がこの本の内容を表している。門外漢の私にも判るように書いてあるが、他の考え方もあるのではという疑問も残る。さらに、中国側から見たら、(将来の)負け犬の遠吠えなのではないか。他のアジア諸国はどう考えているのか知りたい。
日頃読まない類の本なので、なるほどという知識を得た。国際金融のトリレンマ:
@国際的な資本移動の自由化(資本取引の自由化)/A為替レートの安定性(固定相場制)/B金融政策の自立性(独自の金融政策)/の三つを同時に実現することはできず、どうしても、三つのうち一つはあきらめなければならないというト
リレンマ
(p.72)
どこかの特定国の通貨を中心とした固定相場制の場合には、その性格上どうしても特定国が王様の地位につき、他の国々はその意向に従わなければならない。だから、王様に徳がなく、自己本位の行動をしたならば、他の人々は混乱に巻き込まれ、不幸になってしまう。節度ある経済運営をせず、自国本位の経済政策を指向するアメリカを基軸通貨国に頂く現行の国際通貨体制の不安定性も、そこにある。(p.141)
遠い将来を見据えた立派な論考に、株取引の知識とはかなり視点の違いを感じ、短期的な儲けを追求していていいのかと、この先そう長く生きないであろう私でも、少し反省しました。

★★★ 未来は言葉でつくられる 細田高広
世界で最初に鉄道が走った場所は、人の頭の中だったはずなのです。(p.36)
人は言葉で思考する。だから、未来を考えるのは言葉を使ってである。未来を創り出す言葉を著者はビジョナリーワードとよぶ。当然のごとく出て来るこの言葉、すぐ説明がなされます。
ビジョンとは「見えるもの」ではなく、「見たいもの」。「未来予測」ではなく「未来意思」。アラン・ケイの言葉を借りれば「未来を予測するのではなく、つくりだす人」こそが、ビジョナリーと言えるでしょう。/そして本書は、そんな未来を発明した人々の、未来を発明した言葉に注目します。/パーソナル・コンピューターが開発される前に、「パーソナル・コンピューター」という言葉が生まれていました。ポケットに入るラジオが完成する前に、「ポケットに入るラジオ」という言葉が発明されていました。実体のない未来を示す言葉は、ときに馬鹿にされ、ときに物議を醸し、それでも人を熱狂させ、仲間を駆り立てました。ビジョナリーな人を、ビジョナリーと言わしめたものは言葉であるはずなのです。/想像の中の未来を鮮やかに言い当てる。変革の行方を指し示す。そうやって、未来の骨格となる言葉を本書では「ビジョナリーワード」と呼びます。(p.38)
この本はビジネス書です。なので、未来といっても、その関係、30の実例が示されます。時代、組織、賞品・サービス。このパートを読むだけでも充分に興味深いものです。特に、貧困は、博物館へ。や、美容を新しいアートにする。というビジョナリーワードは興味を引きました。
次に、ビジョナリーワードの作り方が述べられます。技術論というよりは、思考や発想に関することになります。現状を疑う未来を探る言葉をつくる呼び名を変えるひっくり返す喩えるずらす反対を組み合わせる、<これはテクニックです>)、計画をつくるバックキャスティング)。
バックキャスティングでは、たとえば五〇年後にあるべき地球の暮らしを思い描きます。それを実現するために、四〇年後、三〇年後、何をしているべきかを考え、最終的に来年の計画に落とし込む。こうすることで、前提にとらわれない合意形成を可能にします。(p.253〜p.255)
普段読まない類の本ですが、新鮮な楽しい時間を過ごすことが出来ました。

★★★★ 輸血医ドニの人体実験 ホリー・タッカー
1667年、ドニという医師が行った輸血を中心に、当時の社会を描いた力作。文学的な表現もあるが、膨大な史料を調べてほぼ事実を書いているようだ。社会の動きもよく判り、当時の輸血のことも、今考えると恐ろしいことではあるが、一応理解出来た。このような無謀とも言える試みが、今の医学の発展に繋がったと言えるのか。
一七世紀のフランスの上流社会では、科学は社会的地位を示すショーや見せ物以外の何物でもなかった。(p.96)
最後に、著者の関心は現代へと向かう。17世紀の輸血に対して、現代のES細胞研究。
現代、あるいは少し前の時代に科学的に創り出された動物と人間のキメラによって、社会は必然的に、種の一貫性、モラル上のタブー、人間と動物の尊厳、「生まれつき」とは何かといった問題に取り組まざるを得なくなつた。そして何といっても、私たちは何よりも悩ましい問いに対する答を見つけるように求められている――「人間」であるとはどういうことか? という問いだ。(p.248)
科学の発展は人を幸せにするのか。著者の考えは、以下の最後の部分に書かれている。
一七世紀の人々は、後の世代にとって輸血が重要な治療法となるとわかっても、やはり輸血実験を中止しただろうか。血液の研究が一世紀以上もの間歴史の片隅に追いやられたりせずに、前進することを許されていたら、どれだけ多くの命が救われたか――あるいは失われたか――わからない。人はどの時代においても――特に「科学革命」の時代は現代と同様に――人間の身体は、心は、魂は、私たちがこうあってほしいと思うのと同じ姿をしているのかという、議論に立ち向かわざるを得ない。私の最大の希望は、今から何十年も何百年も先に歴史学者が現代の私たちについて語るとき、私たちがそのような問題について充分に熟慮し、勇敢な好奇心をもって取り組んだと言ってもらいたいということだ。(p.249)
この本にはいろいろ考えさせられた。まだ充分に消化し切れていない。

★★★ アダムとイブ 岡田温司
聖書に登場する、アダムとイブの物語についての本。聖書以外に、様々な外典、注釈や解釈、文学作品や美術作品にも言及される。第T章 人間の創造、第U章 エデンの園、第V章 原罪と追放、第W章 エデンの東、という構成で、興味深い分析がなされ、惹き付けられました。人は時代の制約を受けながらも、努力をし、進化(といえるかどうか?)してきたのだと感じました。美術作品が特に面白いのですが、ほとんどモノクロで小さいのが残念です。
すべてを創造した後、神は人間にこう命じる。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這(は)う生き物をすべて支配せよ」(1.28)。つまり、神は最初から人間に自然を支配する権利を与えているのだ。そしてそれこそ、西洋の自然観の根底にあるものだ。ことによると、これこそが原罪なのではないか。なぜなら、科学技術の発展は自然の破壊と表裏一体だったからである。/科学技術は、人間が自然をコントロールし支配する有効な手段とみなされてきた。しかもそれによって、失われた楽園をふたたび取り戻すことができる、と期待もされていたのである。原罪以後、自然はカオスの状態へと陥ってしまった。その自然にもういちど秩序と調和を取り戻すのか科学の任務であるとされる(ところか事態がそう甘くはなかったことは、その後の歴史が証明している)。(p.132〜p.133)

★★ 温泉失格 飯塚玲児
サブタイトルが、『旅行読売』元編集長が明かす源泉かけ流しとこの国の温泉文化の真偽、である。
断っておきたいが、僕は、源泉かけ流し温泉のすべてを否定する気はまったくない。後述する通り、安全安心、清潔な温泉管理をしている施設であれば、源泉100%かけ流しは、大きな魅力であるとも思う。僕が否定したいのは「源泉かけ流しであれば絶対に安全で清潔である」という妄信と、「循環、加水、加温はみじんも認めない」という温泉の楽しみを狭める考え方である。(p.52)
上の引用に、この本のすべてが要約されていると思う。で、結局、温泉だけのことを考えると、何がいいのか余計に判らなくなった。一番驚いたのが、加水がどの程度されているのか表示されないということだ。極端な話、湯舟にコップいっぱいの温泉しか入っていなくても、加水と言えるようだ。
ただ、この本にも書いてあるが、我々が温泉を楽しむのは、泉質だけではない。と考えると、徒にお湯のことだけを取り上げなくてもいいような気もする。
とはいえ、温泉が気持ちよく、清潔で安全であれば申し分ない。法律の整備、評論家たちの意見の食い違いの調整、などを行い、最低限の統一基準を作ることが必要だろう。

★★★ 昨日までの世界(上) ジャレド・ダイアモンド
二・三年前に読んだ素晴らしい本、『銃・病原菌・鉄』、の著者の新刊、期待大。
昨日までの世界とは、伝統的社会のことで、著者は以下のように定義して、この本の目的を書いている。
伝統的社会とは、人口が疎密で、数十人から数千人の小集団で構成される、狩猟採集や農耕や牧畜を生業(なリわい)とする古今の社会で、なおかつ西洋化された大規模な工業化社会との接触による変化が限定的にしか現れていない社会のことである。本書は、現代の工業化社会、つまり西洋社会と伝統的社会の違いを浮き彫りにし、そこから判明する叡知(えいち)をどのようにわれわれの人生や生活に取り入れ、さらに社会全体に影響を与える政策に反映させるかについて解説するものだ。(p.3)
上巻は主に、国や社会の境界や交易、紛争や戦争、子育て、高齢者への対応、について書かれている。
やろうと思えば何でも自給自足できる伝統的社会ですら、人々は自給自足の生活は選択しないものであり、自力で獲得できたり、製作できたりするものでも、物によっては交易を通じて入手することを好むのである。(p.103)
以下は戦争関連の死亡率についてである。ちょっと驚いた。
二〇世紀の一〇〇年間の日本の数値はどうかというと、ドイツやロシアよりはるかに低い。日本には、第二次世界大戦中に広島と長崎にふたつの原子爆弾が投下されている。多くの大都市が空襲され、焼夷弾や爆弾の被害にあっている。外地では、砲撃や飢餓、自決、溺死によって、第二次世界大戦中に多数の日本兵が戦死している。これらの戦死者に、一九〇四年から一九〇五年の日露戦争での戦死者や一九三〇年代の中国侵攻での戦死者を加えると、相当数の日本人が戦争で亡くなっているが、それでも戦争関連の死亡率は二〇世紀の一〇〇年間の平均で年間〇・〇三パーセントにすぎず、したがってドイツやロシアよりはるかに低いのである。(p.242〜P.243)
子育てや少子高齢化社会に関しては、伝統的社会に学ぶとこがありそうだ。
現代という時代は、人類史上かつてないほどに、人が長生きするようになり、高齢者の健康状態が向上し、高齢者を養うだけのゆとりを社会が持てるようになった時代である。しかし、その半面、現代という時代は、高齢者が社会に提供可能だった伝統的価値の大半が失われ、健康なのに哀れな老後を過ごす高齢者が多くなってしまった時代である。(p.400〜p.401)
結構難しいことが書いてあるのに、読みやすい。著者の書き方がいいのか、訳者がうまいのか。下巻が楽しみ。

★★ 100円のコーラを1000円で売る方法B 永井孝尚
第3巻は、イノベーションとリスクへの挑戦、がテーマとのこと。いずれにしても、私がよく知らない世界のことで、楽しく読ませて頂きました。お馴染みの登場人物が、相変わらずカリカチュアライズされすぎの感はありますが、内容でグイグイ引っ張っていきます。成る程と思うことが多々ありました。
日本全体がオーバーシューティングの状況に陥って、イノベーションが起こせなくなっていることが根本的な問題なの。失敗を恐れず、みずからリスクを取って新しいことに取り組まなければ、イノベーションなんて起こせないのよ。評論家みたいに言いたいことだけ言って、行動しない。守りに入って、新しいことにチャレンジしない。目の前の仕事をひたすらこなすだけで精いっぱい。それでは未来は開けない。私たち一人ひとりがこのことをきちんと自覚しないかぎり、イノベーションのジレンマから抜け出せない (p.103)

★★★ 人口減少社会という希望 広井良典
著者が、このタイトルの小文を新聞に書いているのを読みました。高校時代に習った政経の時から、資本主義は常に拡大再生産を必要とする、ということが腑に落ちず、現状維持でも、さらには縮小でもいいのではないかと思っていたので、その新聞の小文に成る程と思い、この本を手にした訳です。これからの日本、人口が減るのは間違いなく、その時どうするか、この本はなかなか示唆に富んでいます。
人間の歴史を「拡大・成長」と「定常化」という視点でながめ返すと、そこに3つの大きなサイクルを見出すことができる。@人類誕生(約20万年前)から狩猟・採集時代、A約1万年前の農耕の成立以降、B約200〜300年前以降の産業化(工業化)時代の3つで、これは人口の増加と定常化のサイクルとも重なる。/そして、いささか議論を急いで私自身の仮説を記すならば、それぞれの段階の前半期″が「物質的生産の量的拡大」の時代だったとすれば、それぞれの後半期″は「内的・文化的な発展」と呼べるものが前面に出る時代だったと言えるものと思われる。(p.25)

 (p.27)

「遺伝情報→脳情報(→文字情報)→デジタル情報」という形で、情報とコミュニケーションの何重かの外部化″を行ってきたのが人間ということになる。(p.64)
日本人のアイデンティティということで、それを『古事記』などの日本神話にそくして論じるような作業は、一見するときわめてナショナリスティックで国粋主義的″な試みになるようにも思える。ところが、ある意味で逆説的とも言えることだが、おもしろいことに、そのようにして『古事記』神話などに示される日本ないし日本人の源流″をたどればたどるほど、それは見事に「反転」する。/つまり、そこに開けてくるのはそもそも「日本」あるいは「日本人」という存在自体が中国やアジアに向かって大きく「開かれた」ものであり、つまり日本あるいは日本人というアイデンティティそのものが中国やアジアをその内に含むもの、あるいはその境界″自体が連続的なものであるという事実なのである。『古事記』の日本神話のような、ある意味で日本社会の核″にあると思われてきた存在そのものが、中国や東南アジアと深く関わり、そこに源流をもっているということは、アイデンティティの根幹に関わるものと言えるだろう。(p.176〜p.177)
次第にタイトルから離れていき、広範な難しい議論が続きます。理解するのにかなりの労力を必要としました。いえ、理解出来なかった部分も多々あると思います。300ページ弱の本には盛りだくさん過ぎる内容です。

★★★ 高校入試 湊かなえ
相変わらずの書き方です。今作は、視点の数が多すぎ、視点の変化が早すぎ、今読んでいるのが誰の視点なのか、判らなくなります。最初に人物相関図があるので、何度もそれを見ました。結局、人物造形がうまくできていないのが、読みにくい原因ではないかと思います。「白ゆき姫殺人事件」と同様、ネット(掲示板)を取り入れたことは、成功しているとは言えないのではないでしょうか。うまくこなれていない感じです。それでありながら、読ませるところは、ストリーテリングの才能があるのでしょう。
パソコンに掲示板が表示された。画面をスクロールさせるくらいなら、私でもできる。一文ずつ目を通していくが、どれもこれも、自分の意思を相手に伝えようとしているのではなく、他者を貶(けな)せれば何でもいい、泥を投げつけているような文章ばかりだ。/「ここに文章を書く連中は、誰に読ませようとしているのかね」/「広く言えば、世間。自分の感じることに対して、賛同者や意見を求めているんじゃないでしょうか」/「それにしては、主義主張のないくだらない文章ばかりだな」/入試をぷっつぶしたい、とは思っているのだろうが、なぜなのか、どういう結論に持っていきたいのか、どこにも書いでいない。それゆえ、覚悟がまったく感じとれない。(p.318)

★★ 南予写真NANYO 南予ARTプロジェクト
二人の写真家、浅田政志・澁谷征司、の作品。
愛媛県は、魚の養殖生産額日本一で、その南予の養殖魚を、愛育フィッシュ、と呼ぶそうです。<養殖×ART>というユニークな地域振興プロジェクトとして、この写真集が出来ました。宣伝というよりは、情報発信というスタンスでしょう。一人の作品を見て真ん中まで来ると、ひっくり返して又最初からページを繰るという、ダブル表紙になっています。浅田の方は、生活の記録といった趣です。澁谷のパートは、海と魚が主になっています。共に生活に密着したもので、二人の南予に対する共感が感じられます。

天職 秋元康・鈴木おさむ
結局この本は何が言いたいのかよく分からなかった。下にも書いたが、対談は似たもの同士がやることがほとんどで、この二人の場合はそれが極端である。お互いが納得しても、読んでる方は?となる。まあ、私がテレビをほとんど見ないということが二人の話す内容が理解出来ない、共感出来ない理由かもしれない。

★★ 橋下徹現象と部落差別 宮崎学+小林健治
週刊朝日が起こした橋下徹に対しての差別事件、どんなことか判らなかったので、この本の存在を知り、宮崎学のファンでもあるので、読んでみた。対談はどうしても同じような意見の持ち主が行うので、緊張感に欠ける面がある。そして、繰り返しも多くなる。仕方のないことだろうが。
宮崎学ぶが書く、はじめに――半橋下の橋下擁護の弁、はいきなり「俺は橋下徹が嫌いだ。」で始まる。橋下の思想は危険だが、この事件はひどい差別なので擁護する、ということだ。それは兎も角、著者達の意見は判りやすい。事件の全体像も見えた。しかし、差別事件はスッと心に落ちない。自分でもよく判らないのだが、理論的にも、心情的にも、何かが引っ掛かっているような感じである。それが何であるか、究明しようと思っている。
差別に対する糾弾(きゅうだん)、差別からの自力救済としての糾弾権は、もともと近代が健在なときには、個人にとっての人権を具体的場面で擁護するための手段として生きていたわけだ。ところが、いまでは、人権が、個別の個人にとってのものではなく客観的なものとして、具体的な場面としてではなく抽象的な理念としてしかとらえられなくなってしまっているわけだ。そのために、個別的で具体的な人権としての糾弾が、そういう客観的で抽象的な人権によって否定されてしまう、ということになっているのではないか、と思っている。/だから、私は、もともと「相互扶助」と「差別糾弾」をこそ存在意義にしていた部落解放同盟は、抽象的・一般的に「人権」を語り、そういうものとしての人権を守れといっていてはダメなんだ、といいつづけてきたわけだ。(p.197〜p.198)
差別行為がおこなわれたときに、法的に裁判に訴えて法廷で決着をつけるという、差別問題の解決にはあまりなじまないやりかたではなくて、権利が侵害されたときに、法律上の手続きによらないで、直接みずからのカで権利を守り実現する自力救済行為というやりかた――「糾弾(きゅうだん)」というのは、そうした自力救済行為として認められているという判決があることは前にいったが――、そういう闘いかたを選んでこそ、差別をめぐる係争(けいそう)の解決ができる、ということが示されたということにほかならないわけだ。その意味では、今回の『週刊朝日』「ハシシタ」事件は、差別問題における糾弾という行為の正当性と有効性が、あらためて明らかにされた事件だったといえると思う。(p.230)
これまでの部落解放運動は、部落住民が地域で団結して闘うという運動形態がとられてきたわけですが、いま、宮崎さんがいわれたような状況のもとでは、部落から出て行った部落出身者に対する差別がおこなわれたときに、それとどう闘うか、闘いをどう組織するか、ということが重要になってきていると思います。/そうした部落出身者は、今回の橋下のように、突然、出自を暴露されて差別に直面するという可能性があるわけです。けれども、そのとき、彼のように、一人で闘えるだけの地位や能力をもっていればいいが、そうでないときにどうするのか。部落解放同盟は、そのときに支援し、聞いを組織することができるような体制をつくる必要があります。(p.233)

★★★ 白ゆき姫殺人事件 湊かなえ
一人物の視点からの事件描写を重ねてゆく、いつもの手法で書かれています。ただ、この本はちょっと工夫があり、最後に、「しぐれ谷OL殺害事件」関連資料、というものがついています。ツイッター、雑誌記事、新聞記事からなり、本当に関連資料という体裁です。これは実に効果的で、全体として、人の噂話の恐ろしさ、ネット空間の無責任、マスコミの厚顔、雑誌のいい加減さ、が見事に表現されています。とても面白く一気に読んだのですが、読後に考えると、こんな社会はこの先大丈夫なのか、とても心配です。

★★ 猫のしっぽカエルの手 英国里帰り編 ベニシア・スタンリー・スミス
里帰り、とあるので、ベニシアさんが英国に行ったのだと思っていました。心の里帰り、英国時代の回想、でした。今までの本のように、詩のようなエッセイではなく、絵も写真もない、様々な出来事でいっぱいの読み応えのある自伝です。色々辛いこともあったようですが、我々凡人から見ると、裕福であるが故の悩みが多いように感じます。ただ、そこから今のベニシアさんに至ったのは相当な努力があったのでしょう。そのあたり、少しは書いていますが、もっと聞きたいと思い居ます。このシリーズにはDVDがついているのですが、この英国編だけ貸出不可です。館内閲覧は可、頼んでみようかな。

★★★★ 東京プリズン 赤坂真理
441ページの長編。二ヶ月程前、図書館で借り興味深く読んでいましたが、旅行などが重なり、途中で読破を断念、再度申込みをしての再挑戦です。今回はすんなり読めました。
高校からアメリカに留学した女の子の話、母親との関係が絡み、留学時とその三十年後が交錯し、さらに時代は広がり、太平洋戦争・天皇・日本史・アメリカ史・日本国憲法・東日本大震災、なども組み込まれ、主人公の意識の中で変形・膨張し、不思議な世界を浮遊します。好みが分かれると思いますが、私は好きです。
最初の方で高校生の主人公はハンティングに行きます。
ヘラジカの肉が私に入って消化されながら、あるいは私がそれの中に入って溶かされながら、最後に残った生命の力でヘラジカは夢を見、同じ夢を私に見させた。/いや夢はいまや彼の生命そのもので、それが私に食われ味わわれていた。私たちは、ひとつとなったはじまりのときに立ち返った。はじまりのとき、そして最期のとき。弾丸は頭蓋骨(ずがいこつ)の後ろに冷たく、世界の種子のように埋まっている。(p.50)
この体験が彼女の死生観に大きな影響を与えました。
すでに長生きの部類に入るこの人とともに在って、人はどんなに長く生きても人生に時間が足りたと思うことはないのだろうと、はじめてわかる。(p.74)
彼女は自我の崩壊の危機に直面しているようなのですが、冷静です。視点が今にあるのでしょう、読んでいる方にも安心感があります。
夢を反芻する。今度はなぜか俯瞰の視点で想起される。けれどやはり、「私」の姿を見ることが、私にはできない。なのに記述はできていく。これは、言葉でだけ可能な世界だ。視覚的に思い浮かべることができない世界を、言葉では記述できてしまうのはなぜだろう?/言葉はもしかして、不在というものを表すためのものなのではないだろうか?(p.231)
最後の方は、天皇に戦争責任はある、という高校でのディベートが中心にストーリー展開します。このあたり、少し具体的過ぎて、幻想的な流れが切れたように感じました。
人は、役割を演じるか否かによらず、すでに世界に遍在する言葉を媒介できるにすぎないのではないだろうか。そして<私>の本体とは、行為する私ではなくそれを見る透明な意識のほうなのでは。そう感じたとき私は、不思議なことにかつてなく自分の言葉に確信を持てた。(p.431)
エンディングは、30年後の今であって欲しかったのですが、高校のディベート会場。今の問題にももっと突っ込んで欲しかったと思うのは、欲張りでしょうか。

★★ マルクスが日本に生まれていたら 出光佐三
昭和四十一年発行の本。先日読んだ、百田尚樹「海賊とよばれた男」、の参考文献にあげられている。出光佐三がこのようなタイトルの本を書いていた、ということに興味を引かれ、読もうと思った。
彼が書いたのではなく、社長室の人が質問をし、それに答えるという形である。社内従業員用資料として作成されたものを、要望が多かったので公刊したとのこと。
内容は、タイトルから想像したこととはちょっと違っていた。タイトルと同じ文言が数回出て来る。
もしぼくが西欧に生まれてマルクスと同じように育ったならば、マルクスと同じように、物を中心として対立闘争する道を歩いたかもしれぬ。反対に、マルクスが日本に生まれて、ぽくと同じような育ち方をして、同じような学校へ行ったりしておったならば、また、ぼくと同じような道を歩いたかもしれぬと思うんだ。(p.53)
マルクスの場合、唯物論と階級闘争とは不可分のようだ。しかし、ここでもしマルクスが日本に生まれて、日本の仲良く助け合っていくという平和の実体を体験していたならば、はたして唯物論などを唱えたであろうか。出光が、金の奴隷になっている金持の姿とたたかいつつ「人の世界」の道を歩いて、唯物論にはならなかったように、マルクスも資本家の搾取とたたかいながらも「人の世界」の道を歩いて、唯物論には走らなかっただろうと思うんだ。かりに唯物論を唱え、階級闘争の道を歩んだとしても、それは資本家との闘いの手段として利用するにとどまったんじゃないのか。そして資本家が覚醒したのちは、対立闘争の唯物論は捨ててしまって、人類全体の平和・福祉を考える日本の和の道に入ったんじゃないか。ぼくにはそう思われて仕方がないね。(p.111)
資本家も覚醒した今日において、もしマルクスが日本に生まれていたとしたら、対立闘争にはもう終止符を打って和の道に入ることに努力したんじゃないか。そして階級の利益を超越して、全人類の平和と福祉の道に入ったことと思う。だから今日のマルクス主義者たちは、和の道のあり方を研究して、プロレタリアートのことだけを考えずに全人類の平和・福祉の道を選ぶことが、マルクスの霊に応える所以じゃないかね。(p.129)
マルクスは対立闘争の国に生まれ、対立闘争を前提として資本家とたたかい、その結果、現在では資本家も目をさましたのだから、現在のマルクス主義者たちはもう対立闘争の考えはやめて、日本の和の道のあり方をとり上げたらどうかと思うね。/マルクスが日本に生まれて今日生きておったならば、頭の鋭いマルクスのことだから、きっとそうするだろうとぼくは思う。ことに核爆発の出来た今日では、もう対立闘争の道を歩いていると、人類は全滅するだけだからね。(p.154〜p.155)
同じようなものを引用したが、これだけ読むとこの本が判ると言ってもそう間違いではないだろう。日本は外国と違い、互譲互助和の精神で、人を尊重する。この元々の日本の心を取り戻すことが大切、ということだ。質問にこたえる形なので、繰り返しが多く、質問はとても工夫されているが、答えは同じ方向へ繰り返される。
南方の天然産物に恵まれている民族が人間としての進歩がないのは、食べ物に苦労しないということが禍いしてはいないか。国内でも千乗県とか静岡県などは、気候・天然産物に恵まれているために、人間が働かず、のんびりしてしまって、人間として優れた人が出ないと言われている。反対に東北の気候・天然産物に恵まれない所には人材が輩出している。(p.39) この発言、ちょっとヤバいのでは。
ぼくは人間のあり方には、対立闘争の「物の世界」の西欧のあり方と、出光のようにお互い.に仲良く暮らしていくという「人の世界」の日本のあり方との二つがあると思う。現在の日本はこの中間にあって、外面は「物の国」に塗りつぶされているが、芯には日本人の民族精神が.涜れている。日本人であるから、この外国色は取り去りやすいんだ。(p.124)
幕府のごとき濁りはあったにしても、日本の歴史の中心を流れているものは、無防備の皇室を中心とした澄み切った流れであり、国民も無防備で平和に仲良く暮らしたということだ。この中心を見なければ、幕府だけを見ていると、日本も征服の西欧と同じということになる。
(p.162)
我欲・利己の祖先からはじまった外国は、物を中心として対立闘争が起こっているが、日本のように無欲・無私の祖先からはじまったところには、互譲互助・義理人情・恩を知るというようなことが起こっている。ことに維新前においては、金の奴隷になるどころか、金を卑しむ気風さえあった。こうして日本と外国とでは、全然正反対のことが起こっている。(p.173)
「海賊とよばれた男」を読んだ時と同様、今の出光は佐三が言うとおりの会社なのか、個々の社員はどう考えているのか、知りたいと思う。

★★★ 私はコーヒーで世界を変えることにした。 川島良彰
コーヒー焙煎卸商の家に生まれ、小学生の頃からコーヒー屋になると決めた著者の、五十数年にわたる自叙伝。まさにコーヒー漬けの生活、のようです。これだけ一途に信念を持って邁進できるということに畏敬の念を抱きます。移り気な私には思いも寄らないことで、まあだから、今の私があるのでしょう。
全く知りませんでしたが、著者はかなり有名な人のようです。珈琲好きを自認する私ですが、知らないことが沢山書いてありました。飲んでみたいと思ったコーヒーもあります。特に、ブルボンポワントゥ。そして、グラン・クリュ・カフェ、次回東京に行った時に、是非。

★★ アメリカが劣化した本当の理由 コリンP.A.ジョーンズ
結論は、アメリカの憲法、ということのようだ。もともと、その憲法は、それぞれ独立した州が一つの国となる時の条約機構、として出来たものだった。そこから生じる様々な問題が取り上げられているが、理解するのに苦労する程複雑怪奇なことになっている。ただ、これはこの著者の視点であり、書かれてあることすべてが正しいのかどうか、にわかに信じ難い面もある。いつか時間のある時に、関連書籍を読んでみたいと思う。
著者は日本の大学でも教鞭を執った人、この本は英語で書いたのか、日本語なのか、訳者の記載がないので、恐らく後者なのだろう。内容的にも、随所に日本との対比がなされていて、日本人向けであることは間違いない。
刑の重罰傾向が進んでいるアメリカでは、刑務所の囚人を最低賃金の一割にも満たない時給で働かせることが多くなった。これを、現在増加中の privatte prison(私企業に運用される刑務所)と組み合わせてみよう。そこには、多くの黒人が自由を失うとともに、企業にとって貸出可能な収益性のある「資産」に返還される制度が出来上がっていると言っても過言ではない。このような低コスト労働の恩恵を受けることにより、グローバライゼーションの中で競争力の維持を図っているアメリカの製造業者もあるという。いわば、現存する奴隷制である。(p.193)
すべてを雲の上にいる政治家、官僚、裁判官に任せっばなしにしてしまうと、彼らも様々な対策や決定を"他人事"として処理するので、結果として自由が束縛されるのは任せた方の市民だけになる。日本の場合、その弊害は官僚国家型の法律制度に表れているだろう。一方アメリカの場合、これまで本書で説明してきたように、それは建前上"限定的"であっても実質上は無限に近い連邦政府の権限と、最終決定権が国民ではなく裁判官にある訴訟大国の現状に表れると思う。/法律は他人事であってはならない。法律とは他人ではなく、まず自分自身と家族や友達や同僚を束縛するものになるという覚悟を持たなければならない。これこそ、本当の民主主義だと思う。(p.252)

★★ 猫のしっぽカエルの手 秋・冬編 ベニシア・スタンリー・スミス
エッセイ集、ですが、英語の原文が掲載されていて、旦那の撮った写真も沢山、読むだけなら時間はかかりません。DVDが付いてます。90分近いものが二枚。NHKで放送されたものの抜粋です。楽しく観ました。
Springtime is like the beauty of a young girl.
Summer has the rich beauty of vibrant womanhood.
Auyumn has the faded soft beauty of the older middle−aged woman.
And winter has the beauty of a wise silver-haired lady.
In each age, women are beautiful.
 (p.13)
文明社会の草創期、/北半球の長い冬は寒くて暗いものでした。/
日一日と夜が長くなるこの時期、/古代の人々はやがて太陽が/永遠に消えてしまうのではないかと恐れました。/
そこで冬至の時期になると、/オークの幹で燃え盛るたき火をして、/太陽への敬意を表しました。/このお祭りはユールと呼ばれました。
冬は、機織りや手仕事に/勤しむ季節でした。
(p.68)

★★★ 図説世界史を変えた50の動物 エリック・シャリーン
タイトル通り、の本。ただ、図説、とわざわざ付けている割には、そんなに多い訳ではない。内容はなかなかに興味深い。面倒ではあるが、50の動物を書いてみる。すべてカタカナなのだが、読みにくいので一部漢字にする。蚊、蜜蜂、ミンククジラ、アメリカ野牛、アクキ貝、カイコ、牛、ラクダ、狼、犬、山羊、ビーバー、鰊、鳩、鯉、貝殻虫、ショウジョウ蠅、ロバ、馬、ハヤブサ、猫、ニシマダラ(魚類)、鶏、ダーウィンフィンチ(鳥類)、白頭鷲、蛭、イグアノドン、ラマ、象、ミミズ、ミドリゲンセイ(昆虫)、七面鳥、コブラ、兎、羊、チンパンジー、ライオン、シラミ、アザラシ、真珠貝、コウモリ、トナカイ、ドードー(鳥類)、ネズミ、タマオシコガネ(昆虫)、砂漠バッタ、住血吸虫、豚、ノミ、人。世界史とは、人間を中心にしたのもでもあるが、地球という視点でも捉えてある。だから、真打ちは人間だ。
神によって天地創造の6日目に創られエデンの園に置かれたにせよ、250万年かけて進化したにせよ、現代人は25万年前に地球を占有し、その後24万年間、流浪の狩猟採集生活を送りながら地上をくまなく探査した。あちらこちらへ移動し、獲物の大型草食動物の群れを追い、自分たちで育てた植物を収穫した。しかし1万年ほど前、ひとりの男性か女性が革新的なアイデアを思いつく。きっとその人物は立ち上がり、とても美しい景色を指さしてこう言ったはずだ。「四六時中移動している生活にはもう飽きた! ここに落ち着いたらどうだろう?」。ある社会科学者たちの見解によると、人類にとって物事がおかしくなりはじめたのはこのときだったらしい(とはいえ、私たちの祖先がおかした初めての過ちは、木から下りたことだという考え方もある)。(p.212)
進化とは? 人は何を求めて生きてきたのか? こんな青臭い疑問を今更ながら持ってしまった。
今から1万年前の新石器時代革命、すなわち農耕の広まり以来、人類が成功してきた秘密は、知識と技術によって自然環境をコントロールしてきた点にある。人間は入植した環境に適応せず、環境をみずからに合うように変えた。そしていまや人類はみずからの遺伝子コードを解読している。私たちは進化の次の段階にのりだし、病、老い、もしかしたら死そのものをこの世から消すことになるのかもしれない。(p.216〜p.217)

★★ 輝天炎上 海堂尊
「螺鈿迷宮」の続編、「ケルベロスの肖像」のアナーザーストーリー、とでも言ったらいいのでしょうか。楽しく読ませる力を持った作品ですが、海堂ワールドに親しんでいるものにとっては、視点を変えるとこうなるのか、という新鮮さとともに、当然ながら既視感があって、ワクワク感には欠けます。記憶力の衰えた私には、新しい事実が述べられているのかどうかも判らないところがありました。初めて海堂ワールドに接した人はどう感じるのでしょう。昔からの読者としては、新たなテーマ、新たな展開、を期待します。

★★ 100円のコーラを100円で売る方法 永井孝尚
昨年、この本の続編が出た時読んでみようと思い、図書館に予約、続編(2)は一週間ぐらいで手元に、この本は8ヶ月もかかりました。あまり手に取らない分野の本ですが、物語仕立てになっていて、楽しく読めます。ストーリー自体は誇張の多い単純なものですが、この本はマーケッティングについて伝えるのが目的なので、気にする必要もないでしょう。門外漢の私にも成る程と思うところが多々あり、勉強になりました。
「顧客中心主義」はもともと日本に深く根付いていました。そして、「顧客が言うことは何でも引き受ける」という日本人の勤勉さは、1950年代から1980年代の高度成長期を通じて、製造業を中心に世界最高の品質を生み出し、無類の強さを発揮しました。しかし、それは同時に国内の過当競争を生み出し、その後の失われた20年を通じて、多くの業界で顧客の要望を何でも引き受けることで同業他社との差別化ポイントを失わせ、「高品質なのに低収益」というアイロニカルな矛盾を生み出しています。/まさに日本全体が、本書で描いた「カスタマー・マイオピア」の状況に陥っているのです。/本書のテーマは顧客中心主義への回帰。そしてお伝えしたかったことは、顧客中心主義とは、「顧客が言うことは何でも引き受ける」ということではなく、「顧客の課題に対して、自社ならではの価値を徹底的に考え、提供する」ということです。(p.206〜p.207)

★★ 大往生したけりゃ医療とかかわるな 中村仁一
全面的にと言うことではありませんが、かなりのことに共感できました。サブタイトルが、「自然死」のすすめ、です。ここにすべてが言い表されていると思います。人は死ぬものである、ならば、自然に死ぬのが一番、現状は、死を回避し、無理矢理生かされ、それによって苦しめられている、確かにそうだと思います。繁殖を終えて生きものとしての賞味期限の切れた、という言い方がしばしば登場します。人間は寿命を持った生物だと言うことを肝に銘じなければいけません。
「自分の死」を考えるのは、「死に方」を考えるのではなく、死ぬまでの「生き方」を考えようということなのです。/すなわち、いのちの有限性を自覚することで、「今、こんな生き方をしているが、これでいいのか」と現在までの生活の点検や生き方のチェックをし、もし「いいとはいえない」というのなら、軌道修正を、その都度していこうということなのです。(p.148)

★★★★ 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹
私、村上春樹のファンです。当然彼の作品が好きです。中でもこの作品は凄くいいと思います。文章も構成も展開もすべてが、独得の春樹ワールドを感じさせながら、自然によどみなく流れていきます。どちらに流れてもいい分岐点でも、それを意識させない程何時の間にか先に進んでいるのです。だから、終わり方が素晴らしいと思います。最近小説をもう一度読もうという気になったことがないのですが、この本はしばらくして再読しようと考えています。
失われてしまったいくつもの可能性と、もう戻ってくることのない時間。(p.343)
すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ (p.370)

★★★ 古事記はいかに読まれてきたか 齋藤英喜
もしこの本を、高校の時、或いは、大学に入ってすぐぐらいに読んでいたら、私は国文学か国史学を専攻したかもしれない。それ程に学問の面白さを実感した。今の視点と当時の視点、客観と主観、事実と空想、といったことを上手く融合させ論が進んでゆく。惹き付けられました。
当時(本居宣長の時代)の京都の人びとにとって、内裏のなかに入って宮廷行事を見物することは、普通に行われていることだったのだ。(p.22) へー、そうだったのか!
「物のあはれを知る」は、『源氏物語』のキャッチ・フレーズとして知られているが、じつはこの言葉は『源氏物語』そのものには出てこない。日野龍夫の研究によれば、「物のあはれを知る」という表現が頻繁に使われるのは、宣長が生きた近世都市社会で受容された歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じようるり)、戯作本(げさくぼん)などの当世文化、世俗文化の世界であったのだ。(p.46)
宣長が『古事記』を通して語った「皇国の古人の真心」という言説は、たんなる古代回帰というよりも、それが当代の世俗文化とリンクすることをあらためて知る必要があろう。さらにそこには人情のこまやかさ、あわれを尊ぶ姿勢などを「和国」の優れたところと語る、「通俗文化」と「民族感覚」との繋がりを忘れてはならないだろう。(p.47)
宣長が『古事記』を通して描き出した「古語」は平安時代の仮名散文をイメージしたものであった。そして平安王朝のイメージは、近世の都市民衆の感性とフィットする「天皇」の居住する京都の空間に繋がっていた。したがって、宣長が見出した「古語のまゝ」としての『古事記』とは、徳川体制の中で多数の諸藩ごとに分断されている人びとを、あらたに結びつける「ヤマトコトバ」の神話として機能したのである。宣長が、『古事記』という本は天武天皇が直接自ら口で語った「古語」に由来すると「勅語の旧辞」を読み解いたとき、そこに現出してくる天皇の聖なる語りのままの『古事記』とは、近世の天皇空間とクロスする「近世神話」として立ち上がってくるわけだ。(p.219)
『古事記』の受容・注釈・研究の歴史とは、その時代の最先端の「知」によって、『古事記』という神話を読み替え、作り替え、あたらしい神話を創造していく実践の過程であった、と。『古事記』はつねにその時代の、もっともラディカルな思想・知とは無縁ではありえなかったのだ。それは「神話」というものが、その時代の危機を意味づけ、それを乗り越えていくときの、人びとにとっての欠かせない「武器」としてありつづけたからだ。/二十一世紀の『古事記』。それは「神話知」とでも呼べるような、あらたな知の世界を切り開いてくれる可能態として、いま、ここにある。(p.224)
いまからでも遅くはない。この年になって、色々とやりたいことが増えていきます。

★★ 常識を疑うことから始めよう ひすいこたろう+石井しおり
まえがき、に以下のように書いてあります。
この本は、あなたを縛っている「思い込み」をほどいていく名言とエピソードをプレゼントします。(p.16)
まさにこの通りで、様々な人の名言とそれに関するエピソードで、我々の常識を打ち砕き、新しい考え方を提案します。例えば、EPISODE 10 ゴッホの絵の秘密――環境が良くないから100%の力を発揮できないと思っているあなたへ、では:
「美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを探すのだ」
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(画家)出典「ゴッホの手紙」/ヴァン・ゴッホ/岩波文庫
(p.88)
という名言の引用とともに、以下のような記述があります。
ゴッホの絵が人々の心を打つのは、美しい景色を探して描いたからじやない。/ひとつひとつ出会った景色の中に、彼なりの美しさを見いだしていたからです。/環境に左右されるんじゃない。視点なんです。(p.89)
このようなEPISODEが24コ、それぞれになかなかいいことを書いています。ただ、私のような年寄りには手遅れか、と思わないでもありませんが、いえいえ、まだ人生短くはない、前を向いて歩きましょう。

★★★ 死刑と正義 森炎
2010年末、この著者の、『あなたが裁く!「罪と罰」から「1Q84」まで』、という本を読みました。タイトルから判るように、エンタテイメント性を持たせた面白いものでした。それに対してこの本、娯楽性なしで、死刑について論じたものです。しばしば哲学に言及し、少し理解しにくいところもあります。法律的な考え方が理解しにくいのかもしれません。
これまで、職業裁判官制度のもとでは、すべての殺人事件に共通する一元的な死刑の基準が求められてきた。そこでは統一性と形式論理性が重んじられ、被害者の数などの形式的定量的な要素が重視されていた。これは、一面では裁かれる側の公平性を担保するためであり、一面では個々の裁判官の価値判断を排除するためである。職業裁判官は、国民による選挙の洗礼も受けていなければ、国民世論や国会に対して責任を負う看でもない。本来的に非民主主義的な存在であり、所詮は司法官僚である。だから、価値判断にわたる裁量はできるだけ抑えられなければならない。民主主義国家においては当然のことであり、職業裁判官サイドもこれを自覚して、できるかぎり個人の価値観を排した形式的な死刑基準を自ら構築してきた。(p.14)
理解できないというよりは、共感できないというべきかもしれません。
わが国の裁判実務では、事実上の終身刑とも言われる特殊な判決の仕方が存在する。それは、仮釈放を許すべきではないという条件をつけて無期懲役の判決を下すという手法である。仮釈放がない無期懲役というのは、結局、終身刑と同じことになる。(p.32)
これは知りませんでした。世間一般にも知られていないのではないでしょうか。
人間の「自由意志」や「自由な決定」がある限り刑事責任を認めることができるとともに、反面では、「自由意志」や「自由な決定」がないところには、刑事責任は絶対に成立し得ないことになる。そして、この「自由−責任」の絶対的基本構造から、裁判と刑法のさまざまな基本原則が導かれてくる。(p.178)
日本の死刑は、生まれ変わって死んでいくことこそが最高の償いだという考え方でおこなわれている。生まれ変わって「良い人」になつて死んでいくことに、むしろ、購罪としての意味を認めている。(p.235)
「人は、殺人者から自分の命の安全を保障されるためには、自分が殺人者になった場合には命を奪われることを承知しなければならない。われわれは殺人者の犠牲にならないために、もし自分が人を殺した場合には死刑になることに同意している」と、ルソーはその社会契約の考え方を主張した。(p.236)
私、死刑を単純に肯定していましたが、考慮しなければいけないことが色々あることに気付かされました。

abさんご 黒田夏子
75歳で芥川賞ということで、どんなものだろうと興味津々読んでみました。1960年代作の短編三つ、普通に縦書きで右から(四七ページ)、芥川賞受賞作は、横書きで左から(78ページ)、左右からの作品がぶつかったところに、あとがき、ならぬ、「なかがき」、が配置されています。
最初の「毬」という作品は、1963年読売短編小説賞に入選。以下は終わる直前の一節。
私は本当は、タミエがその強い酸味と芳香とに感動してしまって、もう一度取って返し、男の立ち去ったあとの果樹の根本に、真白な毬を――タミエにとってほんとうに欲しかった大切なものの方を――こつそり置いて去るという風に書きたかったのだが、タミエはそんなことをしなかったのだから仕方がない。(p.15)
ポロッと作者が顔を出します。私が学生の頃、このように書く立場も作品の中に組み込むことが流行って(?)いました。しかし、そのような作品はもっとさりげなく上手くやっていたと思います。
「タミエの花」、「虹」、の二作品は同人誌に発表されたもののようです。「虹」は面白い作品でした。
その後印刷された作品はないようで、「abさんご」になります。これはひどく読みにくい作品です。途中で放棄することのない私が、何度も止めようと思いました。半分ぐらい読んで、著者の言わんとすることが見えてきました。再読すればもっと判るだろうと思われますが、その気力は湧きません。以下の引用を見て貰えば判ると思います。
言いたかったのが,どれをほしいとかほしくないとかではなく,いまえらびたくない,えらべるはずがない,えらぶ気になってからえらびたい,えらぶ自由をいっしゅん見せかけだけちらつかせられるようなのではなく,決めない自由,保留の自由,やりなおせる自由,やりなおせるつぎの機会の時期やじょうけんの情報がほしいということだったとさとるまでに,とりかえしのつかない千ものえらびのばめんがさしつけられては消えた.(p.50)
じぶんとよりも安穏な日常かと還暦者をまかせて出てきた者は,そのいれかわり熱望者と二十ねんにわたって半にちいじょう同席したことがなく,それもきれぎれに間遠にだったためもあって,つどじっさいのいちいちではあきれさせられたにもかかわらず,どこかでじぶんが学生で家事がかりが三十すぎだったころの有用度をなぞらえつづけていたところがあった.(p.74〜p.75)
私、横書きでもいいと思いますが、「,」と「.」には嫌悪感を催します。横書きの検定教科書がこうなっています。そのくせ、文科省の文章はこうなっていません。日本語は、「、」と「。」でしょう。

★★★ はやわかり広島県 ひろぎん経済研究所
定価630円、と書いてあります。広銀のセミナーで貰いました。図書館の本ではない、返さなくていい、なので、読み掛けて放置していました。面白くない訳ではありません。いえ、なかなかに興味深い内容です。歴史、現状、未来の三章からなっています。歴史は、全体の中の広島という観点からで、とても勉強になりました。
「とうかさん」とは、円隆寺(えんりゅうじ)(広島市)に祭られる稲荷大明神(とうかだいみょうじん)のことで、1619年に浅野長晟(あさのながあきら)が端午の節句に勝利祈願を行ったのが始まりと言われています。(p.50)
広島市の市内電車は1912年に開通し、乗合馬車に代わって主要交通機関となりました。その際、城濠(しろぼり)を埋立てた上に、線路が敷かれ、景観が大きく変貌したといわれています。(p.52)
首都高速を思い出しました。安易な方法で建設し、景観を台無しにするのですね。
現状を見る第二章では、様々な統計(2010年のものですが)を使って分析しています。ほとんどの項目で広島県は10位ぐらいでした。国際比較もあって、下のことにはちょっと驚きました。
国際比較すると、広島県の県内総生産は約1,165億ドル(注)となり、ニュージーランド(1,174億ドル)やスロバキア(874億ドル)とほぼ同じレベルとなっています。(注)1ドルを92.80円として換算した。(p.77)
因みに、ニュージーランドの人口は、440万人ぐらいです。
県内観光地訪問者数の一位は、もちろん宮島、約340万人、何と二位が、鞆の浦、約240万人、です。三位、平和資料館、約140万人、これはちょっとさびしいですね。(p.101)
などなど、こんな具合で、面白い本でした。

★★★★ 一四一七年、その一冊がすべてを変えた スティーブン・グリーンブラット
「その一冊」とは、ルクレティウスの『物の本質について』、一四一七年という年はにポッジョ・ブラッチョリーニというブックハンターが千年以上埋もれていたその本を見つけ出した年です。著者のスティーブン・グリーンブラットは本来はシェイクスピア学者で、この本はピューリッツァー賞ノンフィクション部門の受賞作だそうです。ポッジョの生涯はもちろん、紀元前のエピクロス、ルクレティウスからの壮大な思想史を描き出しています。しばしば、「・・・はずだ。」という言い方が出てくるのですが、非常に説得力があります。何百年も前のことなのに、その光景が浮かぶようです。
ひじょうに多くの男女――男性だけでなく女性の写字生がいた記録が残っている――が紙の上に屈みこみ、インク壷、定規、葦を断ち割った固いペンを手に生涯を送り、本の需要を満たした。一五世紀に可動活字が発明されると、生産規模は急拡大したが、古代世界において、本はとくに貴重な商品ではなかった。訓練を積んだ奴隷が原本を音読し、部屋いっぱいの訓練を積んだ筆写人が大量の文書を生産することができたのだ。何世紀にもわたって、何万という本、何十万という写本が作られ、売られていた。(p.110〜p.111)
それぞれの時代についてのこのような指摘が随所にあり、そうだったのかと感心しました。
四世紀の終わり近く、歴史家のアンミアヌス・マルケリヌスは、ローマ人がほとんどまじめな読書をしなくなってしまったことを嘆いている。アンミアヌスは蛮族の襲来や、キリスト教の狂信については嘆いていない。これらのことは、彼が衝撃を受けた現象の背景のどこかで起こつていたはずだ。だが、帝国がゆっくりと崩壊していく過程でアンミアヌスが気づいたのは、文化的なよりどころの喪失と、くだらない熱狂への堕落だった。(p.120)
現代の日本のことか?
無題の六巻に分かれているこの詩は、強烈な叙情的な美の瞬間や、宗教、喜び、死についての哲学的思索や、物質界、人間社会の発展、性の危険性と快楽、病気の本質などに関する複雑な理論などを一つに結びつけている。言葉づかいはたいてい難しく不可解で、構文は複雑、全体に知的野心が驚くほどみなぎつている。(p.227)
『物の本質について』は全十一章の第八章に、その内容が詳しく書かれています。
ルクレティウスがもたらした疫病の一つの簡潔な名前――彼の詩がふたたび読まれはじめたとき、たびたび向けられた非難の言葉――は、無神論である。だが、じつはルクレティウスは無神論者ではなかった。神々は存在すると信じていた。しかし、神々は神々であるがゆえに、人間や人間のすることにはまったく関心がない、とも信じていた。神はまさに神であるがゆえに、永遠の生命と平和を享受し、その生命と平和が苦悩や不安によって損なわれることはなく、人間の行為など神にとってはどうでもよいことだ、とルクレティウスは思っていた。(p.228)
現代から、そして、非キリスト教徒から見ると、驚くことではないと思うが、紀元前、十四・五世紀となると、物凄いことでしょう。中世キリスト教世界でなぜこの本が抹殺されなかったか、既に時代が変化していたのか。
神の摂理の否定と死後の世界の否定はルクレティウスの詩全体を支える二本柱だった。トマス・モアはそのときすぐに想像の世界でエピクロス主義を受けいれ――ポッジョが一世紀前に『物の本質について』を発見して以来、最も持続的で知的な受けいれ方だった――そして注意深くその心臓を切り取った。ユートピアのすべての市民は快楽を追求するよう奨励される。しかし、魂が肉体とともに滅びると考える者や、宇宙が偶然に支配されていると信じる者は、捕らえられ、奴隷にされる、とモアは書いている。(p.287)
巻末に詳細な参考文献と註があり、この本を読んで感じた、曰く言い難い安定感のようなものが裏打ちされたように思いました。兎に角、読む者を惹き付け、読後に満足感を与える素晴らしい本です。

★★ 新世代日本酒が旨い かざまりんぺい
先日、とある飲み会にこの著者が来ていた。この本を持ってきていて、一冊(だけ!)抽選でプレゼント、残念ながらハズレ。特に惹かれるものがあった訳ではないが、図書館にあったので、そして誰も予約していなかったので、読んでみた。入門書のような書き方で、知っていることが多かったが、なぜかスイスイと読み進むことが出来た。知識の確認になったし、知らない「新世代日本酒」も幾つかあり、是非飲みたいと思った。
日本酒は「造り手の考えや個性、そして技によって味に差が出る」と言われています。また、原材料の米や水、麹や使用する酵母、さらに製造方法・製造技術によって、たとえば1000蔵あれば1000蔵それぞれ違う味になります(この違う味が、「日本酒の奥の深い世界」に入り込む魅力の一つにもなっていますし、また入りにくくしている一因でもあります)。/それぞれが個性ある味なのですが、その味の基本には共通する特徴があるのです。「ほのかな香りが立ち、淡い甘さでフレッシュ、フルーティー。雑味が少なく、きれいな酸ときれいな味わい」――。このような味に核のある酒が、「歴史上最高の味」になっていると評価されている日本酒なのです。甘いだけでない、辛いだけでもない、ただ淡麗ですっきりというだけでもない、現代のさまざまな料理とも相性のよい酒に造られている、日本酒のことです。これからご紹介する「新世代日本酒」が、まさにこの酒なのです。/いま、こういった素晴らしい日本酒がある、ということは、これから日本酒を飲もうと思っている人たちにとっては、最高の時代に遭遇しているとも言えるのです。/ただし、「歴史上最高の味」というのは、すべての日本酒に言えることではありません。日本酒を造っている蔵が約1500もあるのですから、当然そうではない日本酒もあるわけです。また、価格が高いお酒がおいしいわけでもありません。価格が安くても、丁寧な造りをしていて、おいしい日本酒もあります。/ところで、大量に流通している、パック入りの日本酒や大手酒造会社が造るカップ酒までもが「歴史上最高の味」になったわけではありません。先にも言いましたように、パック入りの酒やこのタイプのカップ酒は、あくまで経済性を重視して造られ、日本酒ベテランの好みに味付けされている酒ですから、この評価にはあたらない日本酒です。(p.29〜p.30)
何度か「日本酒ベテラン」という言い方が出てくるのですが、どういう意味なのでしょう。

★★★ 海賊とよばれた男(下) 百田尚樹
読ませる本でした。それは、主人公の魅力のためです。出光の創始者、出光佐三をモデルにした、歴史経済小説、と書いてあります。創作、想像と思われる部分もありますが、恐らく骨組みのほとんどは事実なのでしょう。その意味で、この話を小説にする必要があったかどうか、少し疑問に思いました。小説にしては、人物造形がパターン化していて、現実に存在する人間と思える登場人物があまりいないのです。それでも、ストーリーの面白さがその欠点を充分補っています。巻末の参考文献の中から、小説の主人公・国岡鐵造ではなく、実在の出光佐三についての本を読んでみようと思いました。

★★★ 100万回生きたねこ 佐野洋子
絵本です。先日、この本と著者、そしてその読者、を取り上げた映画を観ました。いい映画です。で、本そのものを読んでみようと思ったのです。映画でほぼ全てが紹介されているのですが、通読するとその良さが判ります。特に、「人生なんて無意味だ」という本を読んだ後では、心地よくメッセージが伝わります。子供にはこの様な本を読ませるべきです。

★★★ 現場紀信 篠山紀信
この写真集は、土木・建築雑誌の連載をもとに構成されています。13の現場が撮影され、今話題の、東急渋谷駅地下化、東京スカイツリー、日経に詳細が報道された、マッカーサー道路、JR東北縦貫線、など私に馴染みのあるものもありました。知っている現場が数枚の写真に切り取られ、その的確さには驚きます。知らないところは、その不思議さ、美しさに感動しました。特に、羽田空港D滑走路、桟橋部分を支えるステンレス製の柱列、荘厳です。最後に、現場と言えるかどうか、東日本大震災、の写真があります。以下はそのコメントです。
だが人間は時として、思い上がる。自然なんて人間の智と力でどんなにも手なずけることができるんだと。/自然の力を侮ってはいけない。自然が振り放った一瞥(いちべつ)は、人工物は無論、自然自らも破壊してしまう。そしてその後に自然はまた新しい自然を創造する。
東京という都市も、自覚症状がない癌細胞のように、休むことなくじわじわと増殖し続けている。それは悪いことではない。都市が生きている証拠だから。/だが死なない人間がいないように、癌細胞の増殖の極(はて)は都市の終焉(しゅうえん)だ。/自然はまた牙を剥いて人間に襲いかかり、全てを奪い去る。そのとき人はまた一からやり直すことはできるのだろうか。/でもそれは人間という生きものがそのとき存在していればの話だが。

人と自然を捕らえた、感動する写真集です。

人生なんて無意味だ ヤンネ・テラー
訳者あとがきに:
本書には表面的にはかなり強烈な印象を与える描写がありますが、題材はきわめて深刻で、現代社会に生きる少年少女の間に潜在するニヒリズムを明るみに出し議論の対象にしています。それが評価されて、この作品はデンマーク文化省の児童文学賞を2001年に獲得しました。/人生経験の乏しい青少年に、人生の無意味さについて語ったりしていいものか、だいたいそんな若者に人生の価値について云々(うんぬん)することができるものなのか、人生に対する希望を失わせてしまっていいのだろうか、などと悲観的かつ批判的な声が出版当時から聞かれていました。けれども、小説を与えられた読者である青少年たちはきわめて冷静に本の主題を受け止め、議論を通じて自らニヒリズムを克服してきています。暗い話から、健全にも明るいメッセージを読み取っているのです。(p.201)
と書いてあります。私には全くそうとは思えません。人生は無意味だと悟った男の子を説得(?)するために級友たちが意味の山を作るという話です。その意味の山に積まれるものが、最初は意味というよりは価値であり、次第にひどいものになっていきます。残酷で、醜悪で、そして、無意味です。醜いものを提示することに私は寛容です。ただし、そこから正反対ものが浮かび上がらなければなりません。この本にはそれがありません。

★★★ 日本の地下水が危ない 橋下淳司
日本人は水をタダだと思っている、とはよく言われることである。だから、あまり水のことを考えない。しかし、それではいけないと心底この本を読んで反省した。まず驚いたのは中国のこと、大気汚染だけではなく、水質汚染もかなりひどいようだ。そして、水のことでも近隣諸国に多大な迷惑を掛けている、一例ではあるが、メコン川の上流は中国で、そこにやたらダムを造り、ラオス、ベトナムに大きな影響が出ているとのこと。
本題の地下水。川の水は公の水なのに、地下水はどちらかというと、私の水になっているようだ。これは大きな問題。もう一つの問題は、地下水は減る一方で増えていないと言うこと。地下水涵養の役割を果たす大きなものの一つは田圃で、その田圃が減っている。何か悪い循環になっているようです。
灌漑用水は川の水だ。川の水は国交省が管理する「公の水」であり、水利権でがんじがらめになっている。一方、地下水は「私の水」と解釈されたり、「公共の水」と解釈されたりする。水が田んぼを通過するだけなのに、国の管理という呪縛から解放される。熊本では地下水は「公共水」とされている。熊本地域の水という意味だ。田んぼという装置は、「国の水」を「熊本の水」に変える役割を担っている。それも自動的に。そして管理をしている農家にはその対価は支払われない。この不思議な現象に多くの人がもっと驚いていいだろう。/減反政策によって田んぼの面積が減るということは、地下水が減るということだ。(p.152〜p.153)
著者は、様々な問題点を指摘しながら、色々な提案をしている。政治家は、利権を求めたり、企業の方を向いたりしないで、手遅れになら無いうちに、真剣に地下水問題に取り組まなければいけない。

★★★ 神さまのカルテ3 夏川草介
地域医療に奮闘する医者の話。著者もまさにその医者である。漱石を崇拝し、文体の漱石調、ではないような気もするが、まあ面白い、そして魅力的な文と言える。苛酷な内容もあるが、その文章が創り出すホンワカとした雰囲気で安心して読める。特に主人公の奥さん、こんな人物が存在するとは思えないが、とても魅力的である。このような中でも、日本の医療について、問題点の指摘や提言のようなものがなされ、素人としては成る程と感心するばかりだ。過去二冊とは違った終わり方で、続きが楽しみである。
2、で冬の美ヶ原の魅力に圧倒された。行こうと思いつつまだ果たせない。この3では、そんなに有名なところではないが、松本周辺の案内的な要素もあり、行ってみたいと思うところがあった。特に、鹿教湯温泉。又、日本酒の紹介も以前より多く、福源、信濃錦、などを飲みたいと思った。
もとより不自由の大地に理不尽の柱を立て、憂鬱と圧迫の屋根をかけたものが、人生という掘立小屋である。わずか三十年の営みでは、まだまだ住み慣れた住居にはなりえないのだろう。せめて不惑に至るころには、この重苦しい屋根くらいは、風通しのよいものに掛け替えたいものである。(p.45)
長年積み上げてきた風情を、突然現れた利便が殴り倒すのは、どの町も同じであるとは思いつつ、未来をおもんばかって憂慮を禁じ得ない。/利便とは時間を測定する働きであり、風情とは時間の測定をやめる働きである。/両者の両立はできぬ以上、どこかでバランスを取らなければならないのに、利便にばかり突き進むのが今の世の中だ。いずれこの世は物差しばかりが敷き詰められた、まことに四角い世界へと変ずることであろう。(p.288)

★★★ 海賊とよばれた男(上) 百田尚樹
「永遠の0」を読み、感動、「錨を上げよ」では、驚嘆、だろうか、そして今作、かなり期待したが、半分読んだ現在は、感想保留、というところ。非常にわかりやすい話で、人物の色分けがハッキリしていて、その点で深みに欠ける。とはいっても、グイグイと読ませる力はあり、400ページ近い本を厭かずに読むことが出来る。下に期待。

★★ 続・悩む力 姜尚中
「続」の方が、説得力があり、わかりやすく、成る程と思うことが多かった。東日本大震災をはさんだ四年の隔たり、著者の変化というよりも私の変化かもしれないと思いました。
経済的な交換関係は、個人が孤立していても人と人とを結びつけるメカニズムとして、きわめて重要な意味をもっています。アダム・スミスは、「見えざる手」という言葉を使って、そうした孤立した個人の利己心が、市場のメカニズムを通じて人と人とを結びつけることを明らかにしました。もっとも、スミスは、やらずぶったくりの利己心のぶつかりあいを、経済的な交換関係として想定したわけではありません。むしろ、逆に安定した交換関係の成立には行為者の間の信頼関係が重要だと考えていました。/スミス的な世界は、『諸国民の富』だけでなく、『道徳感情論』によっても成り立っていたわけです。スミス的な世界が、一つの理想型でありフィクションであったとしても、資本主義の初期の段階にはそうした雛形(ひながた)が現実のなかに多分に見いだせたはずです。(p.83〜p.84) 社会主義が消滅した今、資本主義が唯一のものになってしまった、ということなのか。
すでにウィリアム・ジェイムズは、一九世紀末、「多くの人々にあっては、『科学』はまぎれもなく宗教の位置を占めつつある」と指摘し、そのような場においては、「『自然の法則』」が、「崇拝さるべき」ものとなつている(『宗教的経験の諸相』)と述べています。つまり、科学が神のような存在になっているということです。(p.120〜p.121) なんらかの宗教は必要?
人間が制御できることもあります。というよりも、人間が制御しなければならないことがあるといったほうがいいでしょう。/それは、この世に存在するもののうちでも、社会の範疇(はんちゅう)に属するものです。人が人為的に作ったもの、たとえば、会社や地域共同体、国家などです。産業、制度、政治、科学技術などももちろんそうです。こういうものは人間が作りあげたのですから、それをよく知っているのは人間であり、責任をもって管理していかなければなりません。/ところが、おかしなことに、ここで私たちはときどき二重の間違いをおかすのです。「自然は制御可能」だと思い、「社会は変えられない」と考えるのです。(p.168) ウム!
いまの私たちの市場経済は、ある意味では慢性的に失業を作り出すことによって作動しているのです。/もっとはつきりいえば、市場経済は、社会が崩壊しない程度にまで失業率を高めるほうが富が極大化する、とすらいえるようなメカニズムになっています。そこまで露骨に私たちの資本主義は変容し、逸脱してしまったのです。/そして他方では、失業は社会の問題ではなく、あくまでもその人の能力の問題だということに帰してしまう考えが有力です。(p.182〜p.183)
人間の真価は、創造、経験、態度、だと著者は言います。その態度・・・
私たちの人生は、ほかならぬその人生から発せられる問いに一つ一つ応答していくことであり、幸福というのは、それに答え終わったときの結果にすぎないのです。ですから、幸福は人生の目的ではないし、目的として求めることもできないのです。つまり、幸せをつかむために何かをやる、という考え自体が本来的に成り立たないのです。(中略) しかし、幸福は求めて得られるものではないというのは、努力しても無駄なのだというニヒリズムでは、もちろんありません。/よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。恐れる必要もなくひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。いまが苦しくてたまらなくて、つまらない人生だと思えても、いよいよ人生が終焉(しゅうえん)する一秒前まで、よい人生に転じる可能性があること。何もアクティブなことができなくても、何も創造できなくても、いまそこにいるだけで、あなたは十分あなたらしいということ。だからくたくたになるまで自分を探す必要などないということ。そして、心が命じることを淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだということ……。/そのような「態度」 ではないでしょうか。(p.212〜p.213)
自分探し、変なことです。


★★ ベニシアの京都里山日記 ベニシア・スタンリー・スミス
ベニシアさんの本、二冊目。前回も思ったのですが、凄く面白いという訳ではなく、読んでいて心が洗われるような感じです。寝る前に少しずつ読むようにしました。心に響いた言葉:

笑顔は、様々な扉を開いてくれる。
自分の幸せを感じられる人のみ、
人にも幸せをもたらすことができる。
(p.93)

心にいっぱいになったものが、言葉になって出る。(p.115)

まだ何冊か、彼女の本を読んでみようと思います。

★★★ 花の山岳写真 宮誠而
宮 誠而 写真全集 T
花の山岳写真、とは、前景にアップの花、背後に山、がある写真です。その花がどこに咲いているかが判るということになります。これは非常に難しことでしょう。解説に、花のこと、撮影場所のこと、どの様に撮影したかが書いてあり、予想以上に困難なことが判りました。どの写真も感動的に美しいのですが、特に最初のカラー写真、ウルップソウと朝焼けの杓子岳、は素晴らしい作品です。手前に紫のウルップソウ、背景に赤いごつごつとした山、その向こうにたなびく白い雲海。圧倒的に見るものを引き込みます。シコタンソウと能登半島、という作品、左半分に、シコタンソウを中心に、イワベンケイ、タカネツメクサ、ミヤマダイコンソウなどが密生し、右側には山、その奧の方に能登半島が写っています。解説には、「この場所は人が一人やっと通れるような馬ノ背のピーク。三脚の一本の足は直下 100m の絶壁上の小さな窪みにかかるだけで、手元が狂えばカメラは谷底というスリリングな撮影であった。」、とあります。
この写真全集、全七巻のようです。巨木二巻と桜は見ました。残り三巻、図書館が購入することを期待。

★★ 東京散歩 フロラン・シャヴエ
著者がどういう人なのかはわかりません。ガールフレンドが日本に滞在するので、一緒に来ただけです。特にすることもないので、自転車で東京をウロチョロし、ビルやら人やらシールやら、色んなものを色鉛筆でスケッチしました。なにか目的があったという訳でもないように思われます。2006年のことです。フランスに帰ってどの様な経過を辿ったのかはわかりませんが、そのスケッチが本になりました。2009年のことです。評判になり、それが伝わり、翻訳され日本で出版されました。昨年末のことです。驚く程詳細なスケッチです。それに小さな文字でコメントが書いてあります(仏語版もそうなのでしょうか)。読みにくいのですが、面白いのです。批判のような、アイロニーのような、でもトゲはなく、ホンワリとしています。軽い気持ちで眺めるのにいい本です。

★★ 落語の履歴書 山本進
落語の成り立ちがわかりやすく書いてあります。その点はいいのですが、人物のことになると、話がこんがらがってきます。歌舞伎などと同じで、初代、とか、二代目・・・・、とか言われても、私には区別が付きません。三遊亭圓生、と聞けば、思い出す顔がひとつあり、その人が何代目かは知らない、という具合に、知っている人と知らない人がごちゃごちゃになりました。まあ、私の勉強不足なのでしょう。
落語の演目を、落し話と人情話、その落し話に、音曲話と地話が含まれ、人情話に、芝居話と怪談話が含まれる、とする分類は判りやすかった。この二大分類の軽重の変化が、それぞれ時代を映しているようで興味深い。

★★ 日本夜景遺産 丸々もとお・丸田あつし
奥付によると、「丸々もとお」は夜景評論家・夜景プロデューサー/(社)夜景観光コンベンションビューロー代表理事、「丸田あつし」は夜景フォトグラファー、そして二人は実の兄弟とのこと。また、本の初めには、「日本夜景遺産」の企画意図、活動目的、認定基準、認定プロセス、御賛同各位のリスト、活動主体である一般社団法人夜景観光コンベンション・ビューロー、などについて仰々しく書いてあります。果たして実態は如何に。
さらに、以下のような夜景の分類:
「日本夜景遺産」の分類
1.「自然夜景遺産」
山上や高台の公国など、自然の中で鑑賞できる夜景。
2.「施設型夜景遺産」
展望台、タワー等、高層施設に形成された展望施設から鑑賞できる夜景。
3.「ライトアップ夜景遺産」
その土地のシンボル、ランドマークとして機能し、夜間鑑賞用としても人工的な照明で照らし出された夜景。
4.「歴史文化夜景遺産」
夜祭、送り火等、伝統的文化による夜の景観を創出する。
ここまで大袈裟にする必要があるのか、疑問に思いました。
さて肝心の夜景写真、ほとんどは文句なくキレイです。A4ほどの本、大きい程いいとは思いますが、必要最低限でしょうか。左右広げて4ページのワイド版になるのが一つ、長崎稲佐山の夜景、私が子供の頃感動したものですが、今はさらに一段と素晴らしくなっているようです。旅行に行ってもそこで夜景を見るということはなかなか出来るものではありません。ということで、有り難い写真集でした。

★★ 玉村警部補の災難 海堂尊
この本には、「東京都二十三区内外殺人事件」、「青空迷宮」、「四兆七千億分の一の憂鬱」、「エナメルの証言」、の四作品が入っている。著者創作の中心人物、田口公平、そして、タイトルに含まれる、玉村警部補、この二人は全てに登場するが、狂言回しという役割で、主人公は、これまた海堂作品でのお馴染み、デジタル・ハウンドドッグこと、加納達也警視正である。これらの人物が絡むと、コミカルな要素が増えるような気がする。医学的な内容が含まれ、成る程と思わせることが多く、現状に対する提言とともに、読ませる作品である。特に最後の「エナメルの証言」、いいですね。この本の最後に、桜宮市年表、というものがあり、この四作品を含めた主要作品が時系列に並べてある。一時期、壮大な海堂ワールドを解明したいと思ったが、その時この様なものがあったら大いに助けになっただろう。

★★★ 母性 湊かなえ
六章+終章。六つの章はそれぞれ、母性について(ほとんどが短い)、母の手記、娘の回想、意味不明の詩のような短文、で構成されている。この最後のパートは読み進むうちに、リルケの詩だろうと想像は付くが、それでも意味不明なことには変わりない。最初のパートも全体との関わりが見えないが、章ごとに繋がっていて、徐々に判るだろうと思われる。果たして、終章は、母性について、だけで、全てが明らかにされる。相変わらず巧みな仕掛けでである。男には理解しづらい部分もあるが、それが女性(母性)なのだろう。充分に楽しめる本でした。

★★ 吉本隆明という「共同幻想」 呉智英
著者の本は、論語についての本と仏教についての本を読んだ。なかなか面白い本だった。で、この本には吉本隆明の名があったので読んでみようと思った。吉本隆明は私の学生時代に流行ったのであるが、実は読んだことがないのだ。なぜか、多分であるが、当時私は日本の思想も文学も無視していたのだと思う。なので、今更ながら、吉本隆明について知ろうと思ったのだ。しかし、この目的には役に立たなかった。著者は吉本隆明を徹底的に批判しているのだ。既に過去の人だと思うのだが、何か個人的な恨みでもあったのだろうか。とはいっても、興味深い分析があったり、独特の切り込みがあったり、ためになることも多々ありました。
安保闘争で得をするのは、実は社会党・共産党だけではない。安保闘争が適度なものである限り、政府自民党も得をする。アメリカに対する圧力になるからである。まさに「対米従属」から日本資本主義が自立し「膨脹と強化」しょうとする推力エンジンになる。我々も反米運動を取り締まってはいるんですが、抑えきれなくなるかもしれませんよ、そうなるとどなたが困りますかね。こういう外交カードである。/何かに似ているだろう。韓国の「反日」である。外国のことだとかえって政治なるものの本質がよく見える。/韓国ではしばしば反日運動が起きる。慰安婦問題、戦時徴用問題などが何度も蒸し返される。歴史的事実としてははとんど根拠のないような事例が多数なのだが、それでも「反日愛国主義」の運動が起きる。事実の争いではなく心情の争いだからである。それを巧みに利用してきたのが歴代大統領であった。国内の不満をそらし、国論を一致させ、日本との外交力ードに使うのである。(p.108〜p.109) 中国も同じですね。
『自立の思想的拠点』を一読して驚愕したことは、吉本隆明という思想家は、知識人の大衆からの自立ではなく、大衆の知識人からの自立を唱えていたことである。私は書名を見て正反対に誤解していたのであった。(p.112〜p.113) 私もこの本の書名を誤解していました。大衆の知識人からの自立、これは考えてみなければ。
吉本隆明が言うような「政治の理想のイメージ」である大衆の時代、素人の時代が完成したら、どうなるか。/例えば、医療。「国家貫通」の原理が実現したら、医者という、大衆にあらざる知識人も死滅するのか。大衆がボタン五つ押せば病気は治るのか。(p.129) 批判のテンションが上がると、この様な調子になる。この引用の後、延々と子供のような批判が続く。他にもこの様な批判がいくつもある。
無知による反原発、偽善による反原発、しかし、それを扇動し、鼓舞し、束ねた政治は勝利する。この政治について、私は必ずしも楽観的にはなれない。無知と偽善に足をすくわれる可能性もある。しかし、無知と偽善を巧みに束ねる可能性もある。政治の論理は、無知であろうと、偽善であろうと、冷厳に貫徹される。ここまで見てきたように、吉本隆明は政治というものを、市民主義者たちと同じく、根本的に誤解している。政治は、善い人が、善い人を相手に、善いことをするものだ、と思っている。政治は善いことをしなければならない。しかし、善い人が、善い人を相手に、善い政治をするかどうかは分からない。善くない人が、無知や偽善を束ねて、善い政治をすることもある。悲しいことに、腹立たしいことに、この地上においてはしばしばそうである。この悲しみを癒し、この腹立ちを掬い取るのが、大衆神学である。大衆の原像を繰り込んだ善い人が、大衆の原像そのものの善い人を相手に、善い政治をする。最終的には、大衆がボタン五つ押してすべてが決まる歴史の終わりが来る。大衆神学は、苦しみ、悩む人を、そのように慰撫する。司祭は吉本である。/だが、そんな神学を我々は信じることができるだろうか。そんなものは幻想ではないのか。然り、吉本大衆神学は幻想であった。一九六〇年から四半世紀はどのインテリつぼい青年たちの幻想であった。そして、吉本隆明白身の幻想でもあった。吉本自身と信者たちがともに「共同幻想」を見たのである。(p.214〜p.215) これが結論のようです。

★★★ ベニシアの京都里山暮らし ベニシア・スタンリー・スミス
先日行った、ベニシアと仲間たち展(こちら)、で初めてベニシアのことを知り、その会場で読んだエッセイに惹かれて読んでみました。タイトル通りの京都大原での生活、そして、そこでの想いが綴られています。斬新なことが書いてある訳ではなく、普段は気付かないちょっとしたこと、でも言われてみると成る程と思うことが述べられていて、心が綺麗になるような感じです。読み進むうちに少しずつ、彼女が大原に住むに至った経緯、彼女の過去の生活などが明かされ、読み終わった時には彼女の人生が明らかになります。辛いこともあったようですが、今彼女は羨ましいような素晴らしい日々を過ごしているようです。他の本も読んでみようと思います。
風邪で学校を休み、寝ている時間が無駄であると私は思いません。目に見えなくても、子供の体と心はその時多くのことを体験しているのですから。現代医薬品に頼りすぎる生活を送っていると、抵抗力をつけるせっかくのチャンスを逃してしまうのではないでしょうか。(p.52)
大原に住むようになり、考えさせられたことのひとつに水の問題があります。我が家の生活廃水は、パイプを通って家の前の小川に流れ込んでいます。その小川は高野川に繋がり、やがて鴨川となります。鴨川は桂川、淀川となって大阪湾に流れ込みます。つまり、私たちが使ったシャンプーや食器、衣服を洗った石けんの泡、食べ物のかすや油等を含んだ水はそのまま川に流れ込んでいるのです。私はその事実に気付き胸が痛みました。夏になると鴨川に入って遊んでいる小さな子供たちがたくさんいますし、河口の大阪湾まで川は長い旅を続けています。(p.94)

★★★ 広島ルール 都市生活研究プロジェクト
広島だけではないのでしょうが、地方都市についての本が増えているようです。となると、読みたくなります。十五六年前でしょうか、ビジネスマンのための日経都市シリーズ「広島」、という本を読みました。記憶が薄れていますが、真面目な内容だったと思います。最近のものは、面白可笑しく書かれていて、内容には嘘が散見されました(「広島学」/「これでいいのか広島県広島市」)。これに対し、「あなたの知らない広島県の歴史」、これはまともな本です。そして、この「広島ルール」。ちゃんと取材し、面白く書こうという意図が見え見えのところもありますが、なかなか楽しく読める本になっています。
一定年齢層から上の広島人が口をそろえて言うのは、「本通から専門店が減ったねえ」。書店を例に挙げれば、110年以上続いた広島積善舘、大正15年創業の金正堂が閉店した(外商は両店とも継続)。モダンな広島を象徴する洋菓子屋・洋食屋「衆望(しゅうぼう)」がなくなったのを寂しく思う広島人も多い。(p.33)
衆望、忘れていました。父がお気に入りのお店でした。(外商は両店とも継続)、よく調べています。
この三浦氏(当時難しいといわれていた軟水による改良醸造法を完成。しかも、この改良醸造法を文書にまとめて広く公開)といい、冷凍パンの特許技術をすぐに公開したアンデルセンの高木氏といい、いい選手を他球団に提供してしまったりするカープといい(……コレはシャレにならん!)、広島人って太っ腹!? いや、ちょっと不器用な商売下手のようで、純粋な職人魂の持ち主が多いのか。もっといえば、今やIT業界では常識のフリー(シェア)ビジネスの先駆け的存在だったりして……。(p.68)
アンデルセンの技術公開、知りませんでした。
アストラムラインで一番低い本通駅が11.4メートルに対し、終点の広域公園前は117.7メートル。冬ならば結構な気温差がある。(p.75)
標高差があるとは思っていましたが、こんなに大きい差だとは知りませんでした。ただ、本通駅は地下なのか地上なのか? 他にも、ユニクロの一号店は1984年広島に出来た、広島初の洋菓子店は1923年のボストン、など、へーと言うことがあり、楽しく読みました。

★★★ アメリカに潰された政治家たち 孫崎享
アメリカと仲良くする政権は長く続くが、そうでないと短命に終わる、つまり、アメリカに潰される。これがこの本の言わんとする所です。こういう話を聞いたことはありますが、この著者の主張なのでしょうか、それとも、多くの人が思っていることなのでしょうか。読むと納得できる所は多々あります。が、全面的に信じることも出来ません。潰された代表として、岸信介、田中角栄、小沢一郎(鳩山由紀夫)、について詳しく書かれています。
安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、読売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞七社共同宣言」を出すと、運動は急速に萎んでいったのです。(p.13)
60年安保に関しては、よく知らないのですが、このあたりの記述には説得力があります。
「在日米軍基地の見直し」と「中国との関係改善」は、日本にとって踏んではいけない、アメリカの虎の尾″です。(p.109)
日本は、北方領土でロシアと、竹島で韓国と、尖閣諸島で中国と、領有権を争っています。どれも解決が極めて難しい問題ですが、偶然そうなったわけではないのです。なかでも北方領土の領有権問題は、日本とソ連の間で紛争が起きるように、アメリカが仕込んだ火種だと言えます。(p.168)
著者は外務省で働き、大使や国際情報局長、防衛大学校教授、という経歴の持ち主です。
世間ではよく「55年体制」という言葉が使われますが、60年安保闘争を経て確立された「60年体制」というのは、政治家だけではなくて、官僚や経済界、マスメディアなども含めて、アメリカの意向を忖度(そんたく)することで築き上げられた世界でした。しかし、この戦後体制はあらゆる局面でほころびが出てきています。アメリカ自身が、日本人の変化に気づかず、対処法を間違えてうろたえているのです。
民意が変われば政治が変わる
本書では、60年体制が構築された結果、対米自主派の政治家が失脚させられてきた歴史を眺めてきました。彼らは日本が本当の意味での独立を果たすために戦い、「在日米軍の削減」と「対中関係の改善」という2つの虎の尾″を踏み、アメリカの怒りを買いました。そして、同胞の手によって罠にはめられて失脚し、対米追随路線の政治家に首をすげ替えられてきました。/しかし、もはやこのシステムは日本国民の目の前に白日の下にさらされ、崩壊しつつあるのです。
(p.204〜p.205)
最後に、●特別付録● アメリカと戦った12人の政治家、があり、彼らの略歴が掲載されています。その12人は、鳩山一郎 石橋湛山 重光葵 芦田均 岸信介 佐藤栄作 田中角栄 竹下登 梶山静六 橋本龍太郎 小沢一郎 鳩山由紀夫 です。え、と思う人物もいますが、この本を読むとある程度納得できます。

★★ 韓国が漢字を復活できない理由 豊田有恒
この本を読んで思いだしたことがあります。高校時代の国語の先生が、当用漢字はいる漢字だから、その制限に関係なく、多くの漢字を勉強しなさい、と言われたのです。当時なぜかこの言葉に感銘し、今でも覚えています。当用漢字という決められたものへの反逆、が格好いいと思ったもかも知れません。その後様々な勉強をし、言葉の教育は難しいと感じました。歴史教育と同様、その国のその時の権力が良くも悪くも介入する面が多いようです。言葉を無理に変えることは文化の否定につながるのではないでしょうか。この本は韓国の場合です。
一九四五年八月十五日、韓国で言う光復(クワンボク)の日から、すでに六七年、その間、韓国の漢字政策は、朝令暮改、試行錯誤の連続だった。(p.50)
結局、なぜ、漢字を復活できないかといえば、もし漢字を復活すれば、韓国で使われている漢語のほとんどが、本家の中国起源ではなく、日本起源であることが、ばれてしまうからである。(p.67)
以上がこの本が言わんとする所でする。知らなかったことがたくさんあり、あるほどと思ったが、主張にバイアスがかかっていると感じることもありました。
日本人は、韓国人を日本人にしようとしたのである。別な文化を持つ隣りの異民族を、同化しようとしたのだから、独善といえば独善だが、少なくとも善意ではあったのだ。(p.180)
善意などという言葉で片付けてもいいのだろうか。
漢字・仮名混じり文が、日本人の高い教養と民度に、おおいに貢献している。このことを、日本人は、気づいていないが、世界に誇っていい事実である。あまりにも日常的なことなので、日本人は、しごく当然と思っているのだが、世界の他の国々では、これほど高い教養は、簡単には手に入らない。(p.199)
たしかに漢字の習得には、時間と努力が必要である。つまり、イニシャルコストがかかるわけだ。しかし、いったん覚えてしまえば、高度な知識と教養が、簡単に手に入る。つまり、ランニングコストが安く済むことになる。(p.201)
日本語礼賛、確かにそういう面はあるのでしょう。だから、漢字を廃止した韓国は、となります。

★★★★ 瀬戸内旅情 緑川洋一
日本の美 現代日本写真全集 第十一巻 昭和五十四年三月の出版です。
6.入陽(いりひ)の海、8.白魚をとる舟、が作家本人も出演する、ますや味噌のテレビCMに使われていました。昔何度も見た(見せられた)ので目に焼き付いています。何度も見たからではなく、その写真が強烈だったためかもしれません。ますや味噌のHPを覗くと、まだ見ることが出来ます。瀬戸の夕暮れ時を、多重露出やフィルターを使った写真です。著者のイメージ通りなのでそうです。美しい光景で、心が動かされます。写実的なものも含めて45枚の写真が掲載され、24.広島の原爆ドーム、という作品も印象的です。ドームが暗赤色で、ちょっと見えている空が、青、暗いような明るいような青です。見事です。
桑原甲子雄の解説、瀬戸内海の関する、寺山修司の詩、虫明亜呂無、藤原弘達のエッセイも素晴らしい。

★★★★☆ 人体 失敗の進化史 遠藤秀紀
ここ数年間に読んだ本の中で、桁違いに面白い本です。一部の器官に限った話ですが、そもそもの生物としての発生から、幾多の生き物を経由して人類に至るまで、コンパクトに判りやすく纏めてあります。
先に、私たちヒトの耳小骨が祖先の動物の顎関節の一部だという話を進めてみた。キヌタ骨とツチ骨には、方形骨と関節骨なる祖先の顎関節が、設計変更を受けて無期限で貸し出されていた訳だ。かくある顎関節要素は、さらに四億年前までさかのぼれば、鰓弓に関連するパーツだった可能性が高い。ということは、鰓の一部が顎となり、またその顎の一部が耳の奥の骨の部品に化けているではないか。つまり、耳小骨の歴史をたどると、基本体制で呼吸器官、顎をもつ魚の段階で咀嚼器官、最後に哺乳類として発展する際に感覚器官と、五億年ほどの間に、三つの機能を渡り歩いたことになる。/もちろん、鰓弓の発生や中耳の進化史には、どんどん異論も生まれてきている。この先も検討が続けられると、解釈に大きな変更が生じるかもしれない。しかし、鰓や顎や耳の歩んできた道は、相当に手の込んだ設計変更を繰り返した、脊椎動物の迷いの跡であるということは、確かだと考えられる。(p.79)
その他、心臓、骨、手足、臍、肺、脳、そして、人間にはないが、翼、などなど、興味深い内容に溢れています。以下は、なぜ月経があるのか、についての一部です。
ホモ・サピエンスの女性たるもの、大人になったが最後、死ぬまでのほとんどの時間を、子供の妊娠と授乳に費やしていた可能性が高い。一回あたりに時間のかかる妊娠と泌乳を、数回だが、確実に成し遂げる。それが動物としてのヒトの女性の、典型的生涯だったのである。/乳母要らず[哺乳瓶のこと]は、この生涯設計を確実に遮断してしまった。泌乳期間を短縮し、女性の生涯における排卵と月経の機会を一気に増やしたのである。乳母要らずの登場で、出産と泌乳に明け暮れるはずのホモ・サピエンスの女性は、この生理学的設計から脱却することになる。そうして起こつたのは、排卵と月経の頻繁化である。(p.194)
本のタイトル、「失敗」の意味は:
ヒト科は、二本足で立ってからたかが数百万年の時間しか経ていない。にもかかわらず、ヒトは、二次大戦から冷戦にかけて、ボタン一つで種を完全に滅ばすだけの核兵器を作り出してしまった。一九世紀以降、ヒトは快適な生活や物質的幸福を求めて、地球環境を不可逆的ともいえるほど破壊してきた。自然を汚染し、温暖化やオゾン層破壊といった、とても局所的とは思われないほどの、破壊的な産業活動を継続してきた。/たかが五〇〇万年で、ここまで自分たちが暮らす土台を揺るがせた乱暴者≠ヘ、やはりヒト科ただ一群である。何千万年、何億年と生き続ける生物群がいるなかで、人類が短期間に見せた賢いがゆえの愚かさは、このグループが動物としては明らかな失敗作であることを意味しているといえるだろう。(p.217〜p.218)
著者は最後に学問の行く末を案じている。
行政改革の中で、学問が社会へ貢献する姿として、国をあげて誘導されてしまったのは、動物やヒトの身体の歴史に数多の遺体から迫るというような、いわばお金にならない純粋な研究ではない。一九九〇年代以降に、日本という国が目指した学問の姿は、すぐにお金を生み、すぐに国際競争力となって対価を生み出すような、科学的好奇心というよりは、現実的な技術開発だったのである。もちろんその背景には、結局、その研究がいくらのお金を動かし、いくつの特許を獲得し、投じた税金に対してどれほど物質的に国を富ませたかという、実に浅薄な評価″が伴い、いつの間にか、そうした物差しを志向しない研究テーマも研究者も、世の隅っこに追いやられるようになってしまっている。(p.236)
このあたりの主張に全て同意は出来ないが、これだけ面白い研究が行われているということは、人類の大いなる英知だと思う。絶やしてはいけないだろう。

★★★ ヤクザと日本 宮崎学
ヤクザは日本社会の底辺から、時代に必要なものとして生まれ、権力側もうまく利用した。その行動原理は、義理と人情。しかし、時代が移り、今は変な状況になっている。著者の主張には納得させられることが多い。きれい事、建前、が大きな声で言われる社会は、住みやすいとは言えないのではないか。
全体権力としての支配権力を模倣しながら、それを部分社会における社会的権力として形成し、そこにおいて場合によっては全体権力に反抗するものとして機能させる、というのがヤクザの特質なのである。(p.27))
当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼(めがね)組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港のヤクザとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。(p.54) 今小泉組は?
確かに、第二次世界大戦と敗戦により社会は変わった。しかし、それは社会の表層あるいは公式の部分の変化であって、深層あるいは非公式の部分においてはあまり変わっていなかったのではないか。それに比べれば、高度成長の時代を通じて起こった社会の深層、非公式部分の変化は非常に大きかった。(p.61) 現在振り返ると、確かにこの時代の変化は大きかったと感じる。そして、今も。
炭鉱や港湾、山中の土木工事の飯場などに見られた労働組織の関係は、近代的大工場を含めた日本全体あらゆる労働現場にあった労働組織の関係を凝縮したものだった。そして、ヤクザの親分・子分関係は、それをさらに凝縮したものだったのだ。ヤクザの組織は、一般社会とは全然別のところから生まれたものなのではなく、むしろ、それを純化したものだったのである。(p.95)
ベネディクトは、「義理を返す」という点において、あれほど厳しく要求する日本の道徳が、個人の欲望や快楽について、それを充足させることを罪悪と考えず、「人情」として許していることに驚く。「日本人は自己の欲望の満足を罪悪とは考えない」のであり、「快楽は追求され尊重される」のだ。この、ある意味では無制限に許されている快楽の追求(人情)と、いかなるものを犠牲にしても恩に対してはお返しをしなければならない報恩の義務(義理)とは、いかなる関係をもって倫理の体系をなしているのだろうか。これがベネディクトの問題意識なのである。(p.187)
さまざまな義理論のなかで、大きな流れとしてあるのは、ひとつは、義理をその基層・古層であるムラの農民倫理からとらえる見方、その表層・新層であるイエの武士倫理からとらえる見方、このふたつの見方の区別と連関であり、もうひとつは、義理を「好意の交換」としての互酬からとらえる見方、社会規範として働く契約からとらえる見方、このふたつの見方の区別と連関である。これらの区別と連関のなかで、ムラの農民倫理は互酬と、イエの武士倫理は契約と対応している。(p.188) 義理とは何か、人情とは何か?
「義理とは何かという問題であるが、これはもともと自然発生的に人情が存する親子や同胞の間柄とちがって、いわば人為的に人情が持ちこまれた関係が義理であると定義してよいようである。すなわち義理の関係といわれるものは、親戚付き合いにせよ、師弟の間にせよ、友人付き合いにせよ、はたまた隣近所の付き合いにせよ、すべてそこで人情を経験することが公認されている場所である。……義理はいわば器で、その中身は人情であると考与られる」 (p.197) 精神医学者、土居健郎『「甘え」の構造』からの引用
「義理と人情」「顔と腹」の文化にのっとりながら、「権利と義務」「契約と交渉」の社会関係をつくりあげようとしても、そこにできあがるのは単に「義理と人情」「顔と腹」を近代のことばで粉飾したものにすぎないのである。実際に、近代日本においては、そのようなものとして「近代的関係」と称されるものがつくられてきたのだ。(p.212)
最近、吉本興業の芸人と山口組との関係が、いまさらのように取り沙汰されているが、もともと吉本に限らず芸人の側はヤクザなしには活動できなかったので、密接な関係があるのは当たり前だったのだ。同じ「家」に住んでいた者、「仲間」という関係と考えたほうがわかりやすい。(p.239〜p.240)

★★★★ きのうの神さま 西川美和
1983年のほたる、ありの行列、ノミの愛情、ディア・ドクター、満月の代弁者、の五編が入った短編集。本のタイトルを含め、その意味が、そういうことかな、ぐらいにしか判らないものがほとんど。「ディア・ドクター」は著者が作った映画とは別物、登場人物の一人を膨らませたのかもしれない。最初の一編を除き、医者に関わったストーリーである。最後の「謝辞」にかいてあったが、相当取材をしたようだ。2009年上期の直木賞の候補にもなったとのこと、知らなかった。映画「ゆれる」を自ら小説にし、2006年三島由紀夫賞の候補になった、ということも知らなかった。先日読んだ「その日東京駅五時二十五分発」に感嘆し、この本も読んだのだが、作家としての才能は映画監督としての才能にも勝るとも劣らないと思う。映画も本も次作を期待。

★★ 境遇(絵本付特別版) 湊かなえ
いつものように図書館で予約、去年の10月末のことでした。で、借りたのが先日、12月下旬、一年と二ヶ月ぐらいかかったということになります。いえ、図書館を非難するつもりは毛頭ありません。予約が集中していない絵本付特別版はどうかと、ご親切に電話を貰いました。これで手元に来るのがすこしは早くなったと思います。湊かなえは凄い人気だということが改めて判りました。
なかなか面白い展開で、グイグイと惹きつけられ、すぐに読めました。相変わらずうまいと思います。ただ今作は、視点の変え方が、ご都合主義的になっている所が見られます。特に最後の「それから」という3ページ、まるで小説とは思えない箇条書き、無かった方がいいでしょう。