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読書中 はやわかり広島県 ひろぎん経済研究所

読書中 境遇(絵本付特別版) 湊かなえ
いつものように図書館で予約、去年の10月末のことでした。で、借りたのが先日、12月下旬、一年と二ヶ月ぐらいかかったということです。いえ、図書館を非難するつもりは毛頭ありません。予約が集中していない絵本付特別版はどうかとご親切に連絡を貰いました。これで手元に来るのがすこしは早くなったと思います。湊かなえは凄い人気だということが改めて判りました。

★★★★ 歓喜の子(下) 天童荒太
最後まで惹き付けられ、少しも弛むことなく読み終えました。広がった話を見事に収束させ、素晴らしいラストです。最後の数ページ、主張が生の言葉になっているのがちょっと残念、もっと小説らしくと思ったが、要求しすぎかも知れない。ストーリーの中心は五人の家族、特に子供三人、兄弟と末娘、中心は長男で、その他様々な人物が出てくるが、書き方が丁寧で混乱することはない。この三人の生活する世界に加えて、長男の想像(創造)する地域紛争で混乱する世界や、娘に見えている死後の世界のようなもの、が絡んで融合し、どちらが現実か判らなくなる。どちらも現実なのかもしれない。今年最後にいい本を読みました。

★★★★ 歓喜の子(上) 天童荒太
久々に凄く面白い小説です。「悼む人」はイマイチだったが、これはあの「永遠の子」を彷彿とさせる。まだ(上)しか読んでいないが、期待大。

★★★ 街場の文体論 内田樹
相変わらずの内田節である。大学の講義を起こしたもので、難しい内容にしては読みやすい。これまた相変わらず、とても共感できる部分と、ついて行けない部分がある。肉体の重要性を強調している点には納得できる部分が多いのだが、そこに精神性が絡み、即物的な私はついて行けなくなってしまう。著者の話を理解するには、肉体を鍛える必要があるという気がしてきた。
「Dormitory(寄宿舎)」のアナグラム。これはよくできてますね。「Dirty Room(汚い部屋)」。/「Psychiatrist(精神科医)」これは「Sit, chat, pay, sir(座って、話して、金払って)」。すごい。/「Southern California(南カリフォルニア)」は「Hot sun, or life in a car(熱い太陽、あるいは車での生活)」。/「Slot machine(スロットマシン)」、これもいいなあ。「Cash lost in 'em(金はそこに吸い込まれる)」。(p.75)
日本はこのまま人口が減り続けます。これは断言できる。人口減が止まるしたら、それは「子どもを生み育てる喜びと達成感は、損得勘定できるものではない」というまっとうな知見が常識に再登録された場合だけですが、言い換えると、日本人の過半が「常識をわきまえた成熟した市民」になるということですが、これは残念ながらまるで現実性がありません。(p.189)
千里眼(せんりがん)とか未来予知とか空中浮揚(くうちゆうふよう)とか壁抜けとか、僕はそういうことができる人がいることを信じますけれど、はとんどの人は信じない。(p.208)
コンサートに行って全員で声を合わせて歌うとか、皆でおなじ振りをするとか、やっているでしょう。それは昔僕たちがデモでやったことと本質的には変わらない。他人と仮想的に同一化することは、ある広がりの中で自分をとらえることを可能にする。それによって自分はいったいこの世界において何なのか、どこで何をなすべきなのかがわかってくる。そういうふうに集団に機能的に統合されることで、自分自身のアイデンティティを基礎づけているんです。(p.233)
声に出して読む。あるいは「写経」するようにノートをとる。身体を使うと、脳の再組織化があきらかに加速される。身体を媒介させればさせるはど、理解は進む。(p.235)
外国語の学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方を、他の言語集団から学ぶことなんです。(p.244)
生成的でない言葉、出来合いの言葉は「クリシェ(cliche)」と呼ばれます。(p.249)
あらゆる「クリシェ」から自由な、無垢の言語を夢見るよりも、どうやって「クリシェ」と共生するか、どうやって常套句(じようとうく)という乾燥した、生気も滋味(じみ)もない言語を生成的に用いるか、それを考えたほうがいい。人間が老化を恐れて、不老長寿を願うのは愚かなことです。それよりは加齢も老化も引き受けて、その制限条件の中で、どうやったら生物としてのパフォーマンスが最大化できるか、それを工夫したはうがいい。(p.251)

★★★ 絶望の国の幸福な若者たち 古市憲寿
以前(2010年)、この著者の「希望難民ご一行様」という本を読んだ。ピースボート上船記、といったものでとても面白かった。この本は論文である。出典を示す注がたくさんついている。同じページの下にあるので、読むのには面倒はない。が、多すぎる。一般読者には必要はない。無視しようと思ったが、中には面白いものもある。例えば:
福沢諭吉『学問のすゝめ』。一冊の本として出版されたのは一八八〇年。ちなみに慶應義塾大学に入学すると、もれなくオリジナルバージョンの『福翁自伝』が全員にプレゼントされる。よくヤフーオークションに出品されている。(p.151)
ある時点までは、普通に仕事をするよりも募金活動のほうが多くのお金を集められる。しかし次第に募金を呼びかける団体も増え、募金によって集められる金額も減っていく。さしあたり、募金活動を呼びかけるよりも、マクドナルドでアルバイトした時給を自分で寄付したほうが高くなる時を募金損益分岐点と呼びたい。(p.192)
タイトルが実にいい。何かもう結論が出ているようだ。それでも読ませる。著者はまだ30前、価値観の違いを感じることもあるが、それでも説得力はある。そう、どこか荒さはあるのだが、それでも凄いと圧倒される。これから先どんな考察を発表するのか、楽しみである。
巨額な財政赤字が将来世代へ残されようとしている。国の借金は将来世代が払わなくてはならない。それは、年老いた祖父が、孫のクレジットカードを勝手に使っている「ワシワシ詐欺」のようなものだと主張する人もいる。(p.14)
人はどんな時に「今は不幸だ」「今は生活に満足していない」と答えることができるのだろうか。大澤によれば、それは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろう」と考えることができる時だという。/将来の可能性が残されている人や、これからの人生に「希望」がある人にとって、「今は不幸」だと言っても自分を全否定したことにはならないからだ。/逆に言えば、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。つまり、人はもはや将来に希望を描けない時に「今は幸せだ」「今の生活が満足だ」と回答するというのだ。事実、多くの調査で共通して、高齢者は幸福度や生活満度が高い。(p.102〜p.103) これが結論だろう。
なぜ「日本」は僕たちにこんな色々なサービスをしてくれるのだろうか。それは僕たちが、そのサービスを強制的に買わされているからだ。所得税、住民税、消費税などという形で、僕たちは「日本に住むことによって得られるサービス一式」を買わされている。/普通、モノやサービスを買う時には複数の選択肢が用意されている。ホームセキュリティならセコムかアルソックか、スポーツウエアならナイキかアディダスか、というように。しかし「日本」には競合他社がいない。だから「日本」内にいる限り、僕たちは当たり前のように「日本」の提供するサービスを「一式」という形で買うしかない。(p.122)
二〇〇五年実施の世界価値観調査によると、「もし戦争が起こつたら、国のために戦うか」という設問に「はい」と答える日本人の割合は一五・一%だった。調査対象国二四ヵ国中、最低の数値である。ちなみにスウェーデンは八〇・一%、中国は七五・五%、アメリカは六三・二%。(p.150〜p.151)
フリーターに対する世間の目線も生温かくなったし、正社員にならなくても、一定の豊かな暮らしが送れてしまう以上、若いうちは無理して正社員になる必要もない。だから「若者の貧困」は切実な問題としてはなかなか顕在化しないのである。(p.248)
アジアの小国が戦争を繰り返し、領土を広げ、一時期は東アジア一帯をその領土や植民地にした。アジア・太平洋戦争には負けたけれど、様々なラッキーが重なり経済戦争の勝者になることができた。それは、国家主導のもと、とにかく経済さえ回っていればいいという時代だつた。/だけど、その仕組みにも陰(かげ)りが見え始める。経済成長さえすれば何とかなるとやってきた国で、経済成長が止まってしまったのだ。しかも民主主義という伝統がない国で、まるでみんながただ立ちすくんでいるように見える。/民主主義を犠牲にして経済成長を選んだことにより、世界有数の経済大国となつた日本。今僕たちは、その埋め合わせをしているのかも知れない。/ヨーロッパとは違う「近代化」を歩んできた日本で、即席で参考にできるような国は、もうない。(p.259)

★★ ひろしま うららか さんぽ の2 和佐由紀子
当然、散歩をする場所は違っているが、最初の本と全く同じ体裁で、同じ書き方。ただし、文体はひどくなっていて、ミーハー的。こちらも進歩のない感想ですが、情報源としては役に立ちそうです。

★★ シニアシフトの衝撃 村田裕之
今夏、著者の著書(共著)、スマートエイジングという生き方、という本を読みました。一言で言うと、賢い歳のとり方、についての本といえるでしょう。一方、この本は、悪く言うと、どうやって老人から金をまきあげるかということが書いてあります。この表現は老人の僻みかな。最後の引用にあるように、「人口動態のシニアシフト」が起こっている時、「企業活動のシニアシフト」をやらなければいけないというのがこの本のテーマです。つまり、我々ベビーブーマーは狙われています。これも歪んだ見方かな。いずれにしても、結構為になる本でした。我々も心しなければいけません。
エクスペリエンス・エコノミー(経験経済)という考え方がある。これは、顧客にとってのエクスペリエンス(経験や体験)が経済価値になるという考えだ。エクスペリエンス・エコノミーにおいては、コモディティ、製品、サービス、エクスペリエンスの順に価値が上がる。たとえば、コーヒーの値段は、顧客がどのような体験をできるかによって変わる。どこにでもあるコーヒー豆をバラ売りで売ると、コモディティとなり1杯分当たりの価格が1円にしかならない。それをパッケージにして売ると1杯分当たり10円になる。それをコーヒーにして売ると1杯当たり300円になる。さらに、それをホテルのラウンジで提供すると1000円になる、という具合だ。(p.108)
笑顔というのは無理につくろうとすると、それが人に伝わってしまう。しかし、そのレストランのスタッフの笑顔は、ごく自然で心の底からあふれ出ているような表情なのだ。こうした笑顔でもてなされると、たとえ多少値段が高くても許せてしまう。コストのかからない高付加価値策とは、「精神的な手間」を手間と感じずに、茶の湯の「手なり」のごとく自然に表現できることなのだ。(p.130)
全く同感です。素敵な自然な笑顔の人に出会うと、幸せな気持ちになります。
国連の定義によれば、高齢化率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」という(ちなみに21%を超えると「超高齢社会」というが、日本は2007年から超高齢社会になつている)。皆さんは、2030年までにアフリカや中近東を除く世界の多くの国が「高齢化社会」に突入することをご存じだろうか。ますます混沌とする世界情勢のなかで、世界中で確実な構造的変化は「人口動態のシニアシフト」なのである。/したがって、日本で本格化した「企業活動のシニアシフト」は、これから他の国でも「人口動態のシニアシフト」につれて一定の時間差をおいて必ず起こる。特に高齢化率の高いヨーロッパでは、近い将来間違いなく起こるだろう。(p.202)

★★ 尖閣諸島売ります 栗原弘行
尖閣諸島の所有者(の弟)が書いた本。肝心なこと、例えば、何故栗原家が尖閣諸島を所有しているのか、何故今日に至るまで売らなかったのか、何故今国に打ったのか、といったこと、などがぼかしてあるように感じました。
今年の4月、アメリカはワシントンの講演での尖閣諸島購入計画の表明を、降って湧いた話と感じる方も多いかもしれませんが、石原さんはそれこそ40年近く前からずっと考え、行動されてきたのですね。/その思い自体は、信頼に足るものだと考えています。(p.76)
石原慎太郎は清嵐会を結成した頃(1973年頃)初めて栗原家に接触したそうです。だから、東京都への売却を第一に考えていたのに、この本を書いたあと政府が買うことになった、ということが追記に書かれています。ここの理由も曖昧です。買った時や売った時の金額もなし。一カ所だけお金の額の記載がある所:
四島の賃貸料の合計、年におよそ3000万円が栗原家に支払われている形です。(p.88)
第六章尖閣諸島の可能性、「おわりに」での著者の自己紹介、余分でした。

★★★ その日東京駅五時二十五分発 西川美和
私の好きな映画監督、西川美和が小説を書いているということを初めて知った。それも、文学賞の候補になった作品もあるとのこと。読んでみて、確かにこの方面の才能も間違いなくあると思った。この作品は、彼女の伯父の体験をもとに書かれたもので、あとがきのも書いてあったが、今までにはない戦争物である。ただ、私が父から聞いた戦争体験も、この伯父のものとちょっと似たようなところがある。一気の読ませる力を持っているが、最後に出てくる姉妹が、意図的すぎて、違和感があった。

★★★ キッシンジャー回想録 中国(下) ヘンリー・A.キッシンジャー
ニクソン訪中で終わった上巻、つまり、この後のことがまだ半分あるのだ(下巻は p.300 から始まり p.604 まで)。米中の和解がハイライトとはいえ、著者の米中関係への関わりは41年にも及ぶ。この本は第一にこのことについての記述である。公職を辞したあとも様々な場面で活躍している。そして最後に、未来への提言も行っている。この有効性は判らないが、その分析には説得力がある。
毛沢東は中国の伝統を破壊し、その瓦礫を将来の近代化のための建設資材として残した。個々の中国人の自発的な力を、近代化の基礎とするだけの勇気を持ち合わせていたケ小平は、彼のいわゆる「中国の特色を持つ社会主義」を実現するため、人民公社を廃止し、地方の自治を育てた。世界第二の経済規模と世界最大の外貨準備高を持ち、いくつもの都市でエンパイア・ステート・ビルをしのぐ高層ビルが威容を誇る今日の中国は、ケ小平の先見性、執念、判断力の証しだ。(p.350)
現在の世界情勢における戦略的緊張の一側面には、米国が中国を囲い込もうとしているとの中国側の懸念があり、これと平行して、中国が米国をアジアから追い出そうとしているとの米側の懸念もある。太平洋共同体という構想は、米国、中国、その他の諸国すべてが、共同体の平和的発展に参加するというものであり、米中両国の懸念を緩和する可能性がある。(p.572)
著者が分析した中国、成る程と思う。長い歴史を持ち、自らを世界の中心と考える。その戦略は長期的で、侵略された場合もその異民族を取り込み中国に同化させる。などなど。著者が日本を分析したらどうなるか、きっと興味深い論が展開されるのではないだろうか。

★★ みんなの家。 光嶋祐介
内田樹が自宅兼道場を建て、そのことに関して本を書いた。先日読んだ、「ぼくの住まい論」である。この本は、その家を設計した建築士が書いたものである。当然ではあるが、内容的な重なりが多い。しかし、著者がここに至るまでを書いている部分もあり、結構面白い。関係者がお互いに誉め合っていると感じられる所があるのはちょっと残念。それと、建物の写真、カラー写真がもっと欲しかった。
左官職人さんたちが鏝で材料を壁の中にこすり込んでいくその佇まいには、見ていてホレポレさせられます。ビリッとした緊張感の中、鏝で壁に塗り込んでいくと心地よい音がします。最初は砂などの粒子がこすれ合い「ザラッ、ザラッ」と荒っぽかった音が、土が押さえ込まれて壁の中の密度が増すにつれ「シャリ、シャリ」に変わり、最後は「スー、スー」と土をなでるような優しい奥行きのある音が響きます。(p.121)
p.144 からの、時間に耐える建築―アルハンブラ宮殿と東大寺南大門、は面白い。
「衣/食/住」のうちの「住」を、閉じた私的な箱にはせず、外に向けて開放することで、「みんな」との共有感覚が生まれ、「困った時はお互い様」で支え合う関係性がつくられます。どれだけ強い人でも一人では決して生きられません。排除せずに受け容れる関係からしか、秩序のある強靭かつ多様なチームは形成されないはずです。(p.192)
人間の経験って、5年、10年経って振り返ると、そのあとの人生の文脈の中に置き直されて、意味が変わっちゃうでしょう。(p.211) 鼎談の中での内田樹の発言

★★ 「マツダ商店(広島東洋カープ)」はなぜ赤字にならないのか? 堀治喜
先日読んだ、「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」の著者による、続編(?)のようなもの。同じような結論、オーナーが悪い、ということが書いてある。事実と解釈が区別できるように書いている所は評価できる。解釈は、著者とは違ったものがあるかもしれないが、結構説得力がある。勿論、強引な所もあるが。それにしても、カープが37年連続黒字とは驚きである。それだから弱いという論も判るような気がする。最後に、主なプロ野球オーナーの成績表や成績ランキングが掲載されていて、面白い。もちろん(?)、松田元が最下位である。
初代オーナーとなった松田恒次も、それまで株を保有していた他の企業やフアンから株を引き受けるにあたって、球団の基盤を整備するために一時的にあずかるだけだと明言していた。カープ球団は松田家が世襲する営利企業ではなく、市民やファンにもどすべき公的な財産なのではないだろうか。(p.123)

★★★ AKB48白熱論争
小林よしのり+中森明夫+宇野常ェ+濱野智史
AKBが好きな訳ではありません。小林よしのりが好きな訳でもありません。その他の著者は知らない人たちです。しかし、この様な本は得てして面白い文明論になっていることが多いのです。読み始めて、この期待が外れたかと思いました。この四人、正真正銘のAKBオタクなのです。ちょっとついて行けないな、と思い始めた頃からだんだんと興味深い話になってきました。全面的に共感したり、納得したりした訳ではありませんが、面白く読め、大いに刺激になる内容です。ちょっとAKBを聞いてみようという気にもなりました。
[中森]今の世の中では、夢を持つことが許されないわけですよ。大人は「夢を持て」と言うけれど、いざ若者が夢を語り出すと「現実を見ろ」と言う。ツイックーでノマド系の連中の愚痴を見ると、実にそんな話が多い。実際、今はみんな公務員や終身雇用の会社で働きたいと思っていて、夢なんかない。ところがAKBの子たちは、明らかに現在の日本の許容度を超えた夢を持っている。それに対する罰ですよ。(p.47) 総選挙(一種の公開処刑)について
[宇野]楽曲それ自体は YouTube の公式チャンネルでいくらでも聴くことができるんです。だからここにはお金を払う「価値」は生まれない。しかしメンバーに「握手」して応援メッセージを直接伝えること、あるいは総選挙に投票して彼女たちの芸能人生を直接応援することは自分が今、ここで参加しなければ成立しない。そしてそれを実行(表明)することは気持ちがいい。そして単純に握手会の10秒の会話は毎回違うので、何枚も買う価値があるんですよ(笑)。(p.99)
[中森]これは呉智英が「中島みゆきは中山みきである」という文章で書いているんだけど、近代に入って誰でも自由恋愛が可能になったときに、「モテない男」が出現したんだよね。身分の差がなくなって恋愛が自由になったことで、そこで選ばれることのない不幸な人間が生まれるという逆説があるわけ。アイドルは、そういう層を救っている部分がある。それは女子も同じで、ジャニーズファンだって彼氏のいない層が多いでしょう。アイドルは恋愛をしないことで、「モテない人」を救っているんです。(p.153)
[宇野]プロレスから総合格闘技への変化で何が変わったかというと、八百長性が抜けていったわけですよ。ガチンコの勝負を見せる方向に行って、一時はかなり盛り上がった。それがまた衰退したのは、文脈を読ませる部分が足りないからでしょう。八百長には文脈があるけど、ガチンコの総合格闘技は文脈が弱い。それに対してAKBは、ガチンコでやっているのに、読むに耐える文脈が無限に生成されていくのがすごいんです。総合格闘技がやろうとしてできなかったことを、AKBが今やってるのかもしれない。(p.174)
[宇野]おニャン子からモー娘。までは、中森さんがおっしゃるようにフェイク・ドキュメンタリーなんですよ。マスメディア=テレビ番組の中で「半分だけ楽屋を見せる」ことで、「これは作り込んでいない、本物ですよ」というサインとして機能させる。これはテレビというマスメディアの性質に強く依存していた。作り手の繊細なコントロールの下で、楽屋裏をちょっとだけ見せる、その「ちょっと」の加減がポイントだった。/でも秋元康は、明らかにそれをAKBでは捨てている。もう「フェイク」じゃなくていいんです。単に毎日劇場で公演して、GOOGLE+を更新させることで女の子の生の姿をひたすら見せればいい。「ダダ漏れ」でいいんです。あとは劇場に通うヲタたちがその感想をソーシャルメディアに吐き出すことで、勝手に盛り上がっていく。(p.178〜p.179)
[濱野]AKBみたいな劇場を他の国に作っていけば、資本主義社会/自由恋愛社会では負け組になってしまうモテない若い男子がどんどん救済されていく。AKBの仕組みには何も神秘的なところはなくて、ただ劇場で間近に見られたり握手できたりするだけの、あまりにもシンプルなものです。しかも資本主義と結託して、とことん恋愛弱者のオタクから搾取しているだけのビジネスに見える。でも、その裏側では確実に負け組の救済にもなっている。文字どおりの生きる意味を与えていると思う。これは本当に面白いと思います。だからこれは新しいキリスト教やイスラム教みたいな「世界宗教」になり得るんじゃないか。(p.212)

★★ 定年後の勉強法 和田秀樹
初めの方に、勉強は健康法だ、と書いてある。それはいいのだが、その例としてオランダの調査があげてある。情報処理速度、流動性知能、というものが高いほど4年後の死亡率が低いとのこと。高い方と低い方を比較しているのだが、その中の年齢構成については言及してない。もし、知能が高い方のグループに年齢の低いものが多かったら、データの信憑性はなくなると思う。内容想像していたものと違っていた。人生を楽しむという視点が弱いのではないか。確かに、社会の中で役割を持ち、世の役に立つことも重要だろうが、定年後の生活にはまず、喜びとゆとり、が大切だと思う。と思いながらも読了し、下に引用したようなことを肝に銘じました。
記憶の第二ステップである保持とは、記銘(入力)した記憶を必要なときまで覚えておく貯蔵能力のことです。(中略)年齢を重ねるにつれて、若いときほど保持ができなくなるのはたしかです。ただし、この保持ができなくなったという人の話を聞いてみると、ある行為を忘れてしまった人が多いことに気がつきます。その行為とは「復習」です。(p.97)
記憶の第三ステップは、記銘(入力)→保持(貯蔵)と来て、「想起(出力)」です。保持された記憶を思い起こして、出力(アウトプット)することです。前述したように、最近の研究では、「覚えられない」とか「記憶力が悪くなった」という場合、多くはこの「想起」の問題だといわれています。(p.102)

★★★ キッシンジャー回想録 中国(上) ヘンリー・A.キッシンジャー
日本の外交がガタガタになっている今この本を読むと、ここに書いてあるキッシンジャーがやったような外交、アンテナを張り、情報を集め、分析し、交渉をする、ということを日本は出来ていないと感じる。一時期、鈴木宗男、佐藤優に関する本を読んで、外交官とはこんな人物だろうと思った。日本は人材不足だろう。
米国の特異性はその伝道好きにあって、自らの価値観を世界の隅々にまで広める義務を負っているという考えを持っている。中国の特異性は文化的なもので、決して自らの考えを変えず、自分たちの制度が中国以外で通用するとも主張しない。それでも、中国は中華帝国の伝統の末裔であり、かつては、中国の文化や政治体制にどの程度似ているかという基準で、あらゆる国をさまざまなレベルの朝貢国として格付けしていた。別の言葉で言えば、一種の文化的な普遍遍性を持っていたと言える。(p.E)
中国と日本は文化・政治制度の核心部分の多くを共有していたが、双方とも相手の優越性を認める気はなく、時には何世紀も接触しないことが、解決策だった。欧州はさらに遠く、中国人が「西洋」と考えるところにあり、一七九三年に時の皇帝が英国使節団に語ったように、中華文明に接することができず、気の毒にもそれを吸収することができない、というのが「西洋」に対する定義だった。(p.9)
中国の根本的なプラグマティズムは、征服者たちへの対応に最もよく現れている。外国の王朝が戦さに勝った場合、中国のエリート官僚たちは征服者に対して、あなた方が征服した国はかくも広大で独特なため、中国的なやり方、中国語、そして既存の中国風の官僚制によってのみ統治できる、という理屈を述べ立て、これに奉仕することを申し出た。どの時代でも、征服者たちは、自分たちが支配しょうとした秩序に次第に同化させられていった。結果的に、中国侵略の出発点となった彼ら自身の母国も、中国の一部となっていった。征服の目的の方向性は変化し、彼ら自身が中国の伝統的な国益を追い求めるようになってしまった。(p.23)
チェスが短期決戦なら、囲碁は長期戦だ。チェスのプレーヤーは完全な勝利を目指すが、囲碁の対局者は相対的な優位を追求する。チェスでは、すべての駒は常に給動貞されており、プレーヤーは対戦相手の戦闘力がよく分かっている。囲碁の対局者は、盤上の石だけでなく、相手側が繰り出そうとしている援軍の力も見極めなければならない。チェスの試合は盤面中央の奪い合いから始まることが多く、クラウゼヴィツツ将軍の「重心」や「勝敗分岐点」の概念を髣髴とさせる。一方、囲碁は、戦略的包囲作戦の技術を思わせる。チェスの上級者が、一騎打ちの連続で相手の駒を減らそうとするのに対し、優秀な碁の打ち手は、盤上の「空白」地帯に石を打っていき、相手が戦略的に石を打てる可能性を徐々に減らしていく。チェスは目的達成にひたむきな思考を生み出すが、囲碁は戦略的な柔軟性を養成する。(p.24〜p.25)
嵐を乗り切るために、中国は技術力や軍事力ではなく、むしろ二種類の探く伝統的な資質に頼ろうとした。すなわち、外交担当者たちの分析能力、そして、国民の忍耐力と中国文化に対する自信だった。これは、新たな夷狄たちを互いに争わせる巧妙な戦術を生み出した。外交関係を担当する中国の役人たちは、いろいろな都市で権益を与えたが、複数の外国人グループに巧妙に甘い汁を分け与えるという「以夷制夷」[夷をもって夷を制す]戦術を駆使し、特定の国が独占的になることを回避できた。
(p.60)
こうしたすべての背後で、大規模な騒乱が中国国内で発生していたが、それらは対外交渉を担当する中国官僚の不動の自信によって、相当程度覆い隠されていた。こうした覆い隠しは、現代になっても変わらぬ特質である。(p.65)
圧倒的に力の強い国々や、まったく異なる文化に包囲された国の代表には、二つの選択肢がある。一つは、文化的な溝を埋め、軍事的な強者の手法を学び、異文化を差別する誘惑から生じる圧力を減らすことであり、もう一つは、自国文化の特質を誇示することで、その有効性を主張し、その確信の強さによって尊敬を勝ち取ることだ。/一九世紀の日本の指導者たちは前者の道を選んだ。それができたのは、西欧と出会った時点でこの国がすでに産業化の途上にあり、国内の社会的結束も十分だったからだ。李鴻章は、国内の反乱で破滅しかかり、西欧の力を借りなければ反乱を鎮圧できなかった国を代表しており、彼にはこうした選択肢は残されていなかった。あるいは、この道を選ぶことでどのような利益があろうとも、李がその儒教的な出自を捨てることはなかっただろう。
(p.73)
ここまでが第二次世界大戦終了まで。なかなか面白い分析です。
先制攻撃についての中国的見方が、西側の戦争抑止の概念と出会った時、結果として起きたのは悪循環だった。中国国内で防御的と考えられた行為が、外部の世界では侵略的と扱われかねなかった。西側による戦争抑止のための動きが、中国では包囲と解釈されかねなかった。米国と中国は冷戦期間中、繰り返しこのジレンマと格闘した。両国はいまだに、ある範囲においては、それを乗り越える方法を見つけていない。(p.139)
毛沢東は関係改善を戦略的責務と受け止め、ニクソンは外交政策と国際的リーダーシップに関する米国のアプローチを再定義する機会ととらえた。彼は中国との関係改善を利用して、米国が消耗戦のさなかにあっても、長期的な平和への見取り図を提示できることを、米国民に示すつもりだった。彼とその側近たちは、世界人口の五分の一を占める国家との接触を再開して、その国を取り込み、東南アジアの一角からの必然的に不完全なものとなる撤退で生じる苦痛を和らげようと努力した。(p.230)
中国外交は一〇〇〇年に及ぶ経験から、国際間題においては、個々の問題をはっきり解決することが、大方の場合、関連する新たな一連の問題を生み出すことを学んでいた。このため中国外交では、関係を継続させることが重要な任務であり、おそらく公式文書よりも重要だと考えていた。(p.265)
秘密訪問にとっての第一の課題は、最初の会談を進展させるための十分な信頼を築くことにあった。ハイレベルの外交交渉は、ほぼ必ず、日常的な問題をすべて片付けてから始まる。秘密訪問が通常とは異なる特徴は、二〇年にわたって一切の接触がなかったために、短期間には解決不可能と見られていた二件を除き、解消すべき日常的な閉篭がなかったことだ。その二件とは、台湾とベトナムだった。問題はこれらの件をどのようにして棚上げにするかにあった。(p.268)
われわれは毛の書斎に直接招き入れられたからだ。部屋はあまり広くはなく、壁三面に本棚があり、その中にはかなり乱雑な状態で手書き原稿が詰め込まれていた。テーブルの上は本でいっぱいで、床にも本が積み上げられていた。簡素な木製のベッドが隅にあった。世界で最も人口の多い国の全権を掌握する支配者は、従来のような威厳というシンボルで権威を誇示する必要のない、哲学者である王として認められることを望んでいた。(p.277)
将来の中国の政策の方向は、イデオロギーと国益から成る複合体であろう。中国との関係改善で達成されたのは、利害が一致するところでの協力を増大させ、食い違いがあるところではそれを減少させる機会が生まれたことである。国交回復の際には、ソ連の脅威が弾みとなったが、今後のより大きな課題は数十年かけて協力ヘの信念を育て上げることであり、そうなれば新しい世代の指導者が同様の使命感を持って事に当たることができるようになる。そして米側にも同種の展開が育まれることになる。米中国交回復がもたらした恩恵とは、永遠に友好であるという状態でも価値観の調和でもなく、常に手をかける必要がある世界の均衡が回復されたことであり、さらには、時間が経てばおそらく価値観のより大きな調和が生み出されることである。(p.295)
昔読んだ「マオ」という本では、毛沢東がかなりの悪党として描かれていたと記憶しているのだが、この本では狡猾な戦略家のようになっている。(上)はニクソンの訪中で終わっている。(下)ではどんな話が出てくるのか、楽しみです。

★★ 一生お金に困らない個人投資家という生き方 吉川英一
株でお金を貯め、不動産投資で安定収入を確保する。言うは易く行うは難し、だと思いますが、著者は出来るといいます。どうやるか、著者自身がどうやったのか、が書かれているのですが、やはり誰にでもは出来ないでしょう。少なくとも私には出来ないと思います。ただ、著者の考え方はとてもスマートだと思います。そして、この様な生き方は素晴らしいと思います。でも、この様な本を読んで、様々な勉強をして、個人投資家の道を進んでも、うまくいかない人の方がはるかに多いのではないでしょうか。
人は、いくらたくさんお金を稼いでいても、時間的に縛られていたら、本当に幸せかどうかはわかりません。ラットレースから抜け出して、投資家やビジネスオーナーになつてこそ、経済的自由と時間的自由の両方を手に入れることができます。1歳でも若いうちに、未来のキャッシュフローを生み出すお金のなる木″を1本でも多く植えることです。(p.197)
株取引に対する考え方など、参考になる点は多々ありました。

★★ 美しい人をつくる「所作」の基本 枡野俊明
著者は禅宗の僧侶、ということで、書いていることはおおよそ想像できそうで、実際、ほぼ想像の範囲内でした。予想内のことが書いてあるのは、安心して読めるということですが、面白味には欠けます。まあ、この様な本は、書いてあることを深く理解し、日々の生活で実行していくことが大切なのでしょう。
所作を整えることは心を整えること、所作を磨くことは心を磨くことです。そして、ぜひとも知っていただきたいのは、「心」に比べると、「所作」は整えたり、磨いたりすることが、比較的やさしいということ。ここはもっとも重要なところです。(p.18)
「過去だ」「将来だ」とよそ見″をしている間にも、人生の時間は確実に流れていってしまいます。今を見つめることを忘れたら、時は空白のまま過ぎていく――といってもいいでしょう。もったいなくはありませんか?/「放下着(ほうげじやく)」という禅語は、なにもかも捨ててしまえ、ということです。まさにそれ。過去も将来も放っておけばいいのです。(p.137)
最近読む本にも、この本にも、呼吸の大切さが書いてあります。腹式呼吸、実行しようと思っています。

★★ ひろしま うららか さんぽ 和佐由紀子
本屋に、「ひろしま うららか さんぽ 2」という本が平積みされていて、面白そうだったので図書館で予約、30人待ちでした。で、「2」の前の最初の本を頼んだら、2年前に出版されたもので、すぐに到着しました。散歩と行っても街中で、お店めぐりがメイン、散歩と言えるかどうか。しかし、いろいろな情報を得ることが出来、私はまあ満足。この本の欠点は、A5の1ページに、上半分が大きな写真一枚に対して、下半分に小さな写真が6枚程度と小さな活字の説明、お年寄りには見づらいことこの上なし。
「無為」とは“何もしないことをあえてしてみる”という意味。(p.76)
無為という贅沢をしようと思うのですが、なかなか出来ません。

★★ 100円のコーラを1000円で売る方法A 永井孝尚
私があまり読まない部類の本である。ビジネス戦略についての本であるが、面白いストーリーを持ったフィクションということで読んでみた。物語そのものの出来はさほどではないが、主眼はそこにはなく、内容的には読ませる力を充分持っている。日頃読まない分野でもあり、結構興味を持って読めた。そして、よく言われる、どんな領域でもそこで真実であることは他の所でも通用する、ということを実感した。
いまや多くの日本の組織が網羅思考のワナにはまっています。“想定外”をなくすために、あらゆる事態を想定しようとすると、どうしても意思決定に時間がかかってしまう。細部にいたるまで赦密に立てられたプランは、“遊び”がない分、周囲の環境の変化に対応できません。計画どおりに実行することが自己目的化してしまって、本来の目標――たとえば売上を伸ばし、利益を確保すること――からはどんどん遠ざかってしまう (p.78)
何をやるか″を考えてやるべきこと″を足していくと、結局いろいろなものに手を出す羽目に陥ってしまう。それでは、ライバルと差別化できません。行き着く先は際限のない価格競争です。物事はすべてトレードオフ。何かを取れば、何かを失う。だから、何をやるか″ではなく何をやらないか″を決めることが重要なんです (p.138)

★★ ケルベロスの肖像 海堂尊
昔の記憶が曖昧になっているが、著者の筆致がコミカルさを増しているような気がする。やり過ぎという感がしないでもない。さらに過去の作品への言及が多く、ほとんど読んでいる私でも、記憶力の衰退もあるが、細かな点で消化不良になっているようだ。最後に怒濤のストーリー展開があり、そのスピード感はそれ以前と雲泥の差、そして、終わり方が無理矢理、など、ちょっと不満の残るものだった。とはいえ、新作がでたらきっと読むでしょう。まだ未読のものもあるし。

★★★ ぼくの住まい論 内田樹
著者が大学を退官し、初めて家(というより道場)を建てたことに関して、独特の論を展開している非常に興味深い本。時として理解できないことを述べているが、共感できる点は多い。土地の公共性について、林業の衰退について、日本家屋の優れている点、木へのこだわり、一見無駄な空間の必要性、職人仕事の大切さ、などなど、そして独自の教育論、どれも非常に刺激になりました。
書棚というのは、その人が今なにものであるかを示すというより、その人が「どんな人だと思われたがっているか」を示すものです。ぼくは人間を知るときには、その人が何者であるかよりは、何者だと思われたがっているかを知ることの方が情報としては重要なんじゃないかと思っています。(p.36)
歩哨の仕事は「ここまでは来てもよい、しかし、これ以上はいけない」と告げることです。「かんぬきと戸」の管理です。それには専門家が必要です。/でも、「境界線を守るもの」がいなければならないという人類学的な「常識」を現代人はもう忘れてしまいました。豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、日本人はその常識を忘れてしまいました。/でも、ぼくたちが生きているこの脆い世界が維持されるためには、どれほど時代が変わろうとも、「境界線を守るもの」たちの無言の、献身的な努力が不可欠だということは忘れられてはならないと思います。/能ではワキ方が演じる僧侶や聖が多くの場合にその役割を果たします。化け物が橋懸りを駆け抜けて幕の中に引いた後、ワキは2度大きく能舞台の床を足拍子で踏みならします。ぼくにはあれは「かんぬき」がかけられた音のように聞えるのです。/ぼくたちの時代には、もう「歩哨の専門家」というものがおりません。霊的にきわめて重要な仕事であるにもかかわらず、その有用性を世俗的な基準で考量し、数値化し、エビデンスを示すことができない。だから、そのような職能は存在しないし、存在する必要もない、ということになってしまいました。そのせいでぼくたちの社会制度のあちこちで綻びが生じ、制度の機能不全が起きています。でも、それが「歩哨がその仕事を果たしていないからだ」と考える人はほとんどいません。(p.144〜p.145)
建築家・光嶋祐介が、「みんなの家。」という本を書いています。この家について書いているそうです。設計者の立場から見るとどうなのか。面白そうです。近いうちに読む予定。

★★★ 日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか? 齋藤孝
日本人は弱い、と様々な観点から言われると、何か違うという気はするが、その根本認識は別にして、現状分析には成る程と思うことがある。しかし、その対処法についてもまた何か違うと感じる。どうも結論に共感できないのです。この本を読みながら、日本人は世界の中でうまくやっていけないのではないか、特に中国人のような人々とは、この著者が提言しているやり方ではつきあうことが出来ないのでは、と思ってしまいました。世界の中で、日本人は特殊な人種なのかもしれません。これからの世の中、生きていけるのでしょうか。
今、日本では「もっと個を強くしよう」ということがいろいろなところで言われているのですが、そこで言う「強い個」が成立する状態が完成する前提として「協調性がある」 ことが求められている (p.67)
ある意味自己実現というのは、自分に疑いを抱かない強いメンタリティを持った西洋人だからこそできるものなのです。気が弱く、周りの目を気にして、個よりも同質性の中で安らぐ日本人がやるには無理があったのです。(中略)「日本人は基本的に弱い」という自覚を持つことで、肩の力が抜ける。そして本来の地道な工夫とチームワーク、穏やかな明るさへと自分たちを方向づけてゆく。極端な変更ではなく、地に足がついた微調整の継続が明るい未来を作ると私は思います。(p.118)
日本人が目指すべきは、自分たちが日本語を捨てて、言語的国籍不明人になることではなく、日本語力を磨くことで、日本語の持つ可能性を世界に伝道していくことだと私は思います。(p.165)
日本人は、日本の経済力を、日本の企業がグローバル化という名の西欧化をすることで回復させようとしています。でも、そのための手段が社内公用語の英語化であるならば、むしろ日本というアイデンティティの喪失という本末転倒の結果を招く危険性があります。/言語には私たちが思っている以上の力があります。(p.166)

★★★ 小豆島・豊島今昔写真帖 谷岡稔(監修)
県立図書館で偶然目に付きました。来月小豆島に行くので、すぐ反応してしまいます。手に取ってみると、明らかに観光案内ではありませんが、面白そうなので借りました。カバーには・・・
いつまでも心に残る、懐かしいあの街、あの風景・・・・・・
いまよみがえる、失われた郷土の200景!!
激変するふるさとのすがたを、年代をへだてた対比写真で一目瞭然に!

あまり期待しなかったものですが、読むほどに引き込まれました。一地方の記録ですが、何処にでも通用する普遍性を持っています。昭和30年代の写真が中心なので、その頃を知らない人には何の感慨も起こさせないかもしれません。逆に、その頃少年時代を過ごした私には、凄く懐かしい気持ちがムクムクと湧いてきました。以下のような光景を鮮明に覚えています。
バイスケを置いてひと休み(土庄町・昭和30年代)
バラス(砕石)の上で休憩中のひとコマ。鞍掛(くらかけ)地区での農地保全水路工事。写真左に積み上げられた袋は重さ60キロのセメント袋。ミキサーなどの機械が導入される前の土木件業は、手作業主体の重労働であった。砂やバラスをバイスケ(竹製モッコ)で運び、鉄板の上でセメントと砂と水を混ぜ、ネリスコ(練るためのスコップ)でよく練って使用した。
(p.137)
確かに今は便利になりました。しかし、ここにある写真を見ていると、現在がなくしてしまった大切なものがあるように感じます。単なる郷愁かもしれません。人間存在に関わる根源的なもののような気もします。

ところで、この本の最後にある広告ページに、「高松今昔写真帖」、「中讃・西讃今昔写真帖」、「東讃今昔写真帖」、が書いてあります。この本の出版社は、「郷土出版社」、てっきり香川県の会社だと思ったら、長野県の松本市でした。HPを覗いてみると、全国のふるさと・地域の本を予約限定出版する、と書かれています。出版物リストを見ると、ありますあります、全国に渡って相当数が既刊です。広島県に関しては、26冊もありました(目で見る100年シリーズ、7冊、保存版・今昔シリーズ、8冊、図説・歴史シリーズ、6冊、ふるさと大百科シリーズ、2冊、保存版・ふるさとシリーズ、3冊。因みに、香川県は、目で見る100年シリーズが3冊、合計7冊でした)。一万円ぐらいする本ですが、そんなに売れるとも思えず、収支はどうなっているのでしょう。これだけ出しているのだから出版社は損をしていないはず、だとすると・・・、出版界の仕組みはよく判りません。

★★ あなたの知らない広島県の歴史 山本博文(監修)
最近広島に関する本が増えています。去年、「広島学」という本を読みましたが、「?」でした。今年、「これでいいのか広島県広島市」という本を読みました。これはもっと「?」でした。ともに広島とあまり関わりのない人が面白く書こうとしたものです。この本は、面白く書こうとしてはいますが、真面目な歴史の本です。古代から現在まで、70ほどのトッピックについて解説してあり、よく知られた話題からマニアックなものまで、結構楽しめました。
Q44 三次の鳳源寺に「赤穂四十七士」が祀られているのはなぜ?(p.122〜p.123)
三次藩の藩祖・浅野長治の娘が浅野内匠頭に嫁いでいた。境内にはその娘の遺髪が安置されている塔が残り、輿入れの際に大石内蔵助がこの地を訪れて植えたとされる枝垂れ桜の老樹も残っている。
Q67 呉海軍工廠で建造された戦艦「長門」の数奇な運命とは?
横須賀港で空襲を受け損傷、戦後アメリカに接収され、ビキニ環礁での原爆実験の標的に。
七月一日に行われた最初の実験は原爆を上空で爆発させるものであったが、「長門」はほとんど無傷であったという。二度目の実験は同月二十六日。このときは原爆を水中で爆発させたため、衝撃波によって船体が損傷。多くの船はすぐに沈没したが、「長門」だけは強力な装甲のおかげで四日間持ちこたえた。最後まで帝国海軍の意地を見せつけた長門は、現在もビキニ環礁の海底で静かに身を横たえている。

★★★ ハーバード白熱日本史教室 北川智子
著者は1980年生まれ、それでハーバードで教えているのです。それも、日本史というマイナーな科目で、多くの生徒を集めている、凄いことです。タイトルからは授業の内容がメインと思われますが、実は半分だけ、後は、そこに至るまでの経緯、そして、ハーバードの授業評価の仕組み、が語られます。この様な話は得てして自慢話になりがちですが、その辺はうまい語り口です。さらに、写真を見るとなかなかの美女だと思われます。
海外の大学で教えられる日本史は、それ自身がいわば「外交官」的役割を持っています。とりわけ、長い歴史がある京都には、日本のイメージをよりポジティブにできる要素がたくさんあります。日本の歴史の一部分を学生が気に入ってくれること、または自らの一部のように思ってもらえるように教えることは、きっと将来、何かの役に立つことでしょう。このように、国家としての外交政策とは違った学校からのソフトな取り組みが、現実の外交にも何かしらの効果を果たしうるのではないかと考えています。(p.174)
残念ながら、第二次世界大戟後から長い間、日本には「大きな物語」がありません。一般化された歴史叙述がないのです。つまりイデオロギー、アイデンティティーが不足しているのです。経済のバブルよりずっと昔の敗戦時に、日本にあった誤ったイデオロギーのバブルは崩壊し、それからずっと日本のイデオロギーは空っぽの状態が続いています。あなたが住む日本とはいったいどんな国で、世界の人々にどんな見方をしてほしいのか。日本のアイデンティティーを確固たるものにする歴史叙述が、緊急に必要とされているのです。(p.181〜p.182)

★★★ SHIBUYA 202X ケンプラッツ(編集)
7月に読んだ、東京「スリバチ」地形散歩、の参考文献に上がっていた本。サブタイトルにある、知られざる渋谷の過去・未来、そのままの内容である。いや、現在も充分書かれている。面白くないと思う人もたくさんいるだろうが、私にはとても面白かった。なぜこの様な本が好きなのか。自分でもよく判らないが、地理歴史、建築、都市計画、などに興味があるのだろう。そもそも私の東京体験は、渋谷から始まりました。大学受験の時、従兄が東横線の祐天寺近くに住んでいて、渋谷を基準に動いたのです。従兄が教えてくれた、渋谷駅の地下鉄駅は一番上にあるということが驚きとともに鮮明に記憶に残っています。その後東京についても本を読みその理由が分かりました。この本を読みさらに深く理解し、これから変わる渋谷がどうなるか楽しみです。しかし、15年ぐらい後、果たして生きているのか、生きていても見に行く元気があるのか。しかし、この計画を推進している人、47年生まれだそうです。負けてはいかん。

★★ 英語文章読本 岡部公彦
小説的思考のススメ、というこの著者の本を少し前に読み、英語の小説についても書いている、というので読んでみました。基本的に同じスタイルです。つまり、英語独特のことに関してはさほど書いていないと思いました。事細かな分析には感心しましたが、一般人はそこまで考えては読まないのではないか、少なくとも私はそのようには読みません。正確には、読めないといった方がいいかもしれません。楽しめないと思うのです。
文章を作品として読む場合には、言葉を情報の集積として処理すればいいわけではなく、言葉との接触の過程そのものを表現の一部として体験する必要があるのです。「読んでいる自分」を読むのだと言ってもいいでしょう。だから「1日に10冊は読んでるぞ」などということを喧伝するような人が、果たしてほんとうに本を読んでいると言えるのかは疑わしいわけです。いたずらに速度をあげた読書は、フイルムを早回しして映画を観るようなもので、ちゃんと読んだことにはならない。(p.66)
箇条書きは、書かれた言葉としての文章と、口頭でやりとりされる言葉との間をつなぐ有効な装置なのです。それは書き言葉的な濃密な論理性と、話し言葉らしい単純で反復的なリズムとをともに実現する、たいへん便利なスタイルです。/ただ、箇条書きは単なる便法であるだけではありません。それはたしかに思考の整理に役立ち、情報の伝達を効率的にわかりやすく行うのに都合が良いのですが、そこには独特のニュアンスも加わってきます。どんな文章でも箇条書きへと書き直すことは可能でしょうが、その一方で、箇条書きだからこそ表現できることもあります。そこには、固有の思想のようなものさえあるのかもしれない。(p.151)
そもそもこの小説の世界では、心理というものは隠される必要があるのです。隠されているからこそ、心理は心理たりうるのだと言ってもいい。だから小説の語りも、見えているものをそのまま差し出すという形をとるのではなく、隠されてそのままでは見えないものを、迂回して読者に伝えるという形にならざるを得ないのです。(p.173)

★★ 日本巨木巡礼U 宮誠而
宮誠而写真全集V ――日本一の巨木たち――
日本巨木巡礼全三巻の最後。実に様々な木の日本一が紹介されている。木のことはあまり判らないのだが、そんなに大きくないと思っていた木が、巨大になっていてビックリ、というものが結構ありました。60ページ〜61ページに、香川県土庄町にある「宝性院のシンパク」という凄いイブキの木が載っていて、実はこの秋行くので、見に行こうと思った。この全集、六巻まであるようです。挑戦してみます。

★★ ゴリラの森でうんちを拾う 牛田一成
サブタイトル:腸内細菌学者のフィールドノート
タイトルとサブタイトルだけで、著者のやっていることが判ったような気になる。そして、ほぼ合っていると思う。ただ、細かいことは判らない、というか、学問的に細かいことは書いてない。研究にまつわる様々な面白いことが中心で、読んでいて面白い。もうすこし理論的な説明が欲しいと思うところもないではないが、恐らくそうなると理解できないだろう。レクチャーという、5ページほどのコラム的なものがあり、少し論理的なことが記載されているが、最初の50ページぐらいに三つもあるのに、400ページ近いこの本にあと三つだけ。これは、後半の内容が各地の食べ物に関してのものが多いということと関係している。これはこれでなかなか面白かったが、タイトルともサブタイトルとも関係が薄いと言わざるをえない。などと堅いことを言わなければ、楽しめる本ではあります。
山極さん(ゴリラの研究者)は「人間だけが発明したと思っている性行為1の技術は、オーラルセックスなども含めてすべてサルで見ることができる」と断言されたので、「じやあ、縛ったり、叩いたりとかもあります?」と混ぜ返すと、「うーん、さすがに道具は使わないなあ」という返事だった。(p.120)
北アフリカの食べ物には、おいしいものが多い。一般によく知られている地中海料理にほかならない。もともとあったものとフランス統治時代に持ち込まれたものと、恐らくはない混ぜになったものだろう。そのせいか、唐辛子は、ほとんど使われていない感じだ。(p.192) フランス料理と中国料理が融合したベトナム料理を思い出しました。フランスは彼方此方で美味しい料理の創造に貢献しているようです。
長くて引用できませんが、メタンガスと酸化還元の話はとても興味深いものでした。
好冷菌の由来がいずれであったとしても、微生物生態学的には面白い。役にも立たないことの何が面白いんだよと言われてしまうかもしれないが、実は、これがまったく世の中の役に立たないかと言うとそうでもないのである。特に今回はきちんと生きている細菌を捕まえたので、産業的な価値もあると言えばあるのである。好冷菌は、冷たいところで生きているのでその体内で働く酵素は低温でも機能できるはずである。そうした酵素は、低温でも働くようにタンパク質のアミノ酸配列に特別な仕掛けがないといけない。それが何かわかればタンパク質工学的に人為的な酵素の改良なども可能になるかもしれないし、そこまでしなくても捕まえた好冷菌の遺伝子を取り出してその酵素を大量生産することもできる。こうしてつくった酵素は、身近な例では「冷たい水でもきれいに洗濯できる洗剤」などに応用可能なのである。(p.378〜p.379) この後に「おわりに」がありますが、これが本文の最後です。

★★ 日本巨木巡礼T 宮誠而
宮誠而写真全集U。「日本巨木巡礼」は、TからVまであり、最初にVの日本桜物語を見た。よかったので他の二冊を見ようと思ったが、花の無い木だけの魅力は凡人には判りづらい。この巻には、杉、楓、銀杏、楠、が載っている。確かにすごい迫力ではある。しかし、桜であれば見に行こうと思う(実際には行かないだろう)が、杉の木などにはそのような気持ちにはならない。だから、見ていてもそこまで引き込まれなかった。

★★ 人生がもっと豊かになる「お金」の格言1000 別冊宝島編集部(編)
1ページに六つぐらいの格言が載っている。それが200ページも続くと食傷気味になる。編集する人も苦労したのだろうが、同じようなものも多い。また、所々に「コラム◆いったいどんな人?」で人物紹介がしてあるが、取り上げられているのは結構有名な人が多く、判らない人が多くいる。格言1000に拘らず、格言を言った人の背景などを丁寧に書けば、もっと面白い読み物になっただろう。
資本とは労働の蓄積されたものだ。(p.73) マルクス『経済学・哲学草稿』
自分の収入の範囲で生活している人は、想像力の欠如に苦しむ。(p.87) ライオネル・スタンダー
科学理論は事実によって判定されるが、金融市場の決定は参加者のゆがんだ認識に基づいてなされる。だから、金融市場は科学的方法ではなく、錬金術的な方法を具現している。(p.134) ジョージ・ソロス『ソロスの錬金術』
所得税は己(おのれ)の良心にかけられた税と認識すべきである。(p.147) ミル『自由論』
貧乏人とは、多くを持たざる者ではない。多くを欲する者のことをいう。(p.192) スウェーデンのことわざ
この世で最も困難な仕事の一つは、バーゲンでも金が要るということを女たちに悟らせることだ。(p.206) エドガー・ワトソン・ハウ

★★★ 第四の消費 三浦展
第四の消費とは何か、p.33 の表を拝借します。

この表を見ると、本の内容まで想像付くのではないでしょうか。しかし、この後の分析は充分に読む価値があります。本文中にも名称だけの言及がある、マズローの五段階欲求、にも似ています。また、先日ブログに書いた、日経の記事、四つの美味しさ、にも通じます。納得出来たわけではありませんが、時代が変わり、この先まだ変わっていく、ということが判りました。年寄りはどうすればいいのか!
家電から個電へ (p.56)
「消費」から「創費」へ (p.60)
社会学を学んだ人間が広告代理店などに入社してマーケティングの仕事をするケースは多い。しかし、社会学というのは大衆を煽動する権力を批判する学問なのに、広告やマーケティングというのは消費者を踊らせるのが仕事であるから、社会学を学んだ人間は忸怩たる思いがする。(p.62)
商品にはまず「生きるために必要な商品(最低限の衣食住)」、第二に「社会生活を営むために必要な商品(ラジオ・テレビ・車など)」、第三に「差別化する、自己主張するための商品(流行・ブランド・毛皮など)」があり、第四に「自己啓発及び内的充足が得られるような商品(趣味、読書、芸術…)」があり、創費は第四の商品を買うことである (中略) たまたまこの商品の四段階は、本書の第一から第四の消費社会に対応していると言える。/そのような意味で創費は、第四の消費社会における「共費」とやや通ずる、「確立した個人同士による他者との共同作業としての消費」という側面を持っていたと言えるかもしれない。(p.63〜p.64)
第二の消費社会では、サラリーマンになることがよいと思われた。第三の消費社会では、サラリーマンを窮屈だと感じ、フリーターになる者が増えた。第四の消費社会では、サラリーマンでもなければ、フリーターでもない、安定と自由のバランスをとった働き方が求められるだろう。われわれは毎日の生活の多くを働いて過ごす。その働き方が時間の浪費、消耗ではなく、時間の充実、人生の充実につながるほうがよいのは言うまでもないであろう。(p.271)

★★★ 共喰い 田中慎弥
昨年度下半期の芥川賞受賞作。著者の受賞後のインタビューで話題になり、ミーハーな私、そんな人間がどの様な小説を書くのか興味を持ち、読んでみました。そして、うまいと思いました。いかにも、というところはありますが、才能があるのでしょう。仁子さんの右手は魚を並べてある硝子(ガラス)ケースに隠れて見えない。(p.9) この一文は見え見えだ。もう六十近い魚屋の仁子さんには、右腕の手首から先がなかった。(p.10) そして、最後の文、拘置所に入っている仁子さんに関して、生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った。(p.73) この文結構深そうです。
表題作以外に、「第三紀層の魚」が収録されている。落ち着いた作品で、こちらの方が出来がいいと感じた。実は私、下関に住んでいたことがあり、ここに書いてある鰻釣りを、やったことはないが見たことがあるのです。とても懐かしい気持ちになりました。

★★★ アースダイバー 中沢新一
東京の坂の本は何冊も読みました。先日は、東京を「スリバチ」と見る本も読みました。この本は、縄文時代の地図で東京を見るという物です。今の東京の低地が海だった時代と今を重ねるのです。そしてそこに哲学的思考を働かせています。様々な対立を捕らえ、恐るべき解釈を試みるのです。一神教と多神教、神道と仏教、縄文と弥生、湿気と乾燥、聖と俗、崖上と崖下、などなど、実にユニークな東京案内になっています。
グローバル資本主義の裏庭を掘ると、そこにはユダヤ教にはじまる一神教の精神的遺跡が、すぐに顔を出すのだ。あの出来事〔9.11〕以来、そのことを考えないではいられない。(p.8)
頭の中に措いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんだなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった。(p.10)
縄文文化というのは、とことん「湿った文化」なのである。これにたいして、高い温度で薄手の土器を焼き上げる弥生の文化は、あきらかに「乾いた文化」をあらわしている。(p.50)
渋谷
古代の売春は、死霊や神々の支配する、神社やお寺や聖地の近くでおこなわれた。生きている人間たちのつくる共同体では、きびしいモラルの綻(おきて)が支配していたけれども、死霊や神々の支配下にあっては、世俗のモラルは効力を失ってしまうので、そこでは共同体では警戒されている自由な性のまじわりが、許されていたわけである。そこに最初の資本主義が発生する。さっきまで気前よくまじわってくれていた女性が、楽しんだことへの代価を要求した瞬間に、資本主義の萌芽は生まれる。性的な快楽とそれを生み出す女性のからだが、商品となったのである。/そしてこのときから、ありとあらゆるものを商品に変えてしまう、資本主義の運動は開始されたといっても過言ではない。こうして、陽のあたる坂の街である渋谷では、死と性と資本主義がひとつに結びついていく素地が、しつかりとつくられていった。(p.62)
麻布
人間の心は、本質的に都市的なつくられ方をしているのだけれど、そこには「無意識」という釣り堀があって、暗い生命の欲望がへら鮒のように、見えない水中を泳ぎ回っている。この「無意識」とコミュニケーションを交わしあうことによって、人間の心は「自然」の豊かさを失わずにすんでいる。/夢を見たり、妄想をいだいたり、ときにはいままで現実世界の中には出現していなかった、新しいアイディアやイメージを思いついたりするのも、ぼくたちが知らず知らずにおこなっている、「心のへら鮒釣り」のおかげなのである。/そう考えると、麻布の一角に嘘のように出現するこの釣り堀はそのまま、都市というものをつくりだしてそこに生きている人間の営みの象徴みたいに見えてくる。ここもまた崖下である。金魚といいへら鮒といい、これは何事か重大なことを、ぼくたちに伝えようとしている。(p.131)
青山
ファッションの世界では、なんでも考えることができる。人体がまとうという条件を守るだけで、原則としては、その中ではなんだって自由なのである。しかも、ファッションは川の流れのように移り気な、資本の動きに連動している。なんの根拠もないのに「今年の流行」が決定されて、それに合わせて、業界全体が態勢を整える。/青山墓地を中心とした死霊の支配するその空間には、業界人が好んで住んでいる。ファッションメーカーの事務所やショップも、たくさんある。そして、そこからつくりだされる現代ファッションは、根も菓もない自由をこそ生命としているのである。(p.165)
銀座
貴金属も宝石も、ただの高級な価値物なのではない。それらはフロイトがよろこびそうな、無意識の欲望をたっぷり含んだ両面性をもっているからこそ、高い価値をもつのであり、そこから出てくる「高級感」の源泉はというと、そうとうに人間心理の隠微なところにつながっている。/それは排泄物や死との隠れた結びつきから生まれる、まことに豊かな象徴性をはらんでいる「高級さ」である。その意味で銀座は、貝塚や墓地や竃などと、よく似ている。灰のなかからダイアモンドが光り、ゴミ捨て場から金銀があふれ出て、死霊に抱擁された女性の裸の肌からぞくぞくするような美がこぼれ落ちる。(p.178)
浅草
神社の神様は森の中にいて、姿もかたちももたずに、アッラーやヤーヴエのような一神教の神様と同じように、天の高みにいる。ところが、仏教の御仏は、都市の中につくられた洞窟のような場所の奥まったところにいて、洞窟の向こうに広がる世界(そこには富と幸福が充ちている)とこの世とを橋渡しする、つなぎのような場所に立っている。目に見えない世界と物質的な世界の、ちょうど真ん中、それが仏像の立っている場所である。/絶対の秘仏となった観音像があるおかげで、浅草寺はじつにみごとな都市の中の洞窟となることができたのである。そしてそこにブラックホールができあがり、浅草にはそこだけとてつもなく深い、精神の井戸が掘られることになったのである。(p.194〜p.195)

★★★ 地球一周空の旅 瀧亮子(編集)
サブタイトル:上空から眺める55の絶景
何冊かこの様な写真集を見ましたが、まだ知らない美しいところがこんなにあるのかと驚きました。
知っているところでは、モン・サン=ミッシェルの建物がハッキリ判る全景に感動です。
知らなかったところでは、エチオピアのデブレダモ修道院、シリアのアレッポ城、イスラエルのマサダの砦、イランのチョガ・ザンビール、スリランカのシギリャ遺跡、中国の元陽の棚田、羅平の菜の花畑、オーストラリアのロックアード・ゴージ、などなど、素晴らしい光景。行ってみたいとは思いませんが(行ったにしても地上からはこの様な景色は見ることが出来ません)、写真を見るだけでも充分幸せな気持ちになりました。

★★★ 日本桜物語 宮誠而
宮誠而写真全集W
植物写真家という肩書きが付いている。全集のUとVが、日本巨木巡礼になっていて、この巻も桜の巨木が多いのだが、花の魅力があるので分けたとのこと。巨木絡みなので、圧倒的にエドヒガンが多い。樹の迫力や花の美しさもいいが、写真に添えられた文章も魅力的。樹や花の描写、歴史、立地、花を愛でる人や写真を撮っている人たちの様子、自らの立ち位置、など優れている。後半はモノクロになっている。これは成功していると思う。モノクロは想像力をかき立てる。この中にあった、浄蓮寺の枝垂桜とその近辺に行ってみたいと思う。
後半は、モノクロームの表現で、桜巡礼の熱気をどこまで伝えられるかに挑戦することにした。もし、モノクロームの作品から色彩を感じ取っていただけるなら、これに過ぎたる喜びはない。(p.89)
昔から桜の開花を追って日本を北上したいと思っていたが、なかなか大変だということがよく分かった。でも、全国は無理だとしても、一週間程度の旅はやってみたいと思う。
ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種からできた突然変異で、種子ができないため全てクローンである。/京都の庭師で有名な佐野藤右衛門が「ソメイヨシノは全て枝からできたもの、寿命は短い」と言ったというが、的を得ているように思う。寿命は60年そこそこである (p.90〜p.91)

★★ これでいいのか広島県広島市 川口有紀
この手の本を書くのはどういう人がいいのか? 地元の人が熱く語る、または、外部の人が客観的に分析する。それぞれに一長一短はあるだろう。この編者(著者ではなく)は78年尾道生まれ大学進学で上京と書いてあるので、両方の要素を持っていると言えるか。成る程と思うところもあるが、事実認識が違っているところが多々あり、全体的な分析内容に疑問を持ってしまう。
広島は、大型台風が毎度毎度直撃している土地である。(p.30) こんなことはありません。
鞆の地形を横切るように橋をかけるという、トンデモない計画が1983年に浮上した。当然ながら橋がかかると美しい景観は破壊される。つーか本当にその橋必要なの? という観点などから住民が大反対。計画見直しなども含め案は二転三転、とうとう地元住民が広島市に対して訴訟を起こすという事態に。2009年に広島地裁が原告である地元住民の訴えを認める勝訴判決を出したが、その後広島県が控訴中。(p.41)
最新情報がないのは仕方ないにしても、これでは地元の人みんなが反対しているように思われる。ついでに、「広島市に対して訴訟」、とあるが、「広島県」の間違いでしょう。この様な誤植(?)もたくさんあります。
広島人にとって我慢がならない言葉がひとつある。それは「広島風″お好み焼き」という言葉。(p.70)
この直後に、「広島焼き」という言葉を使っていて、裏表紙にはデカデカと、「広島“風”お好み焼き言うな!広島焼きじゃ!」とあります。これは全くの間違いで、「広島焼き」という言い方は地元にはなく、酷く嫌う人もいます。
この様な本は、まず事実確認をしっかりして、地元の人が違うと思うことがないようにすべきでしょう。

★★★ デフレの正体 藻谷浩介
サブタイトル:経済は「人口の波」で動く
著者の主張はサブタイトルに表されています。人口減少が今の状況の原因で、このことを認識した上で対処すればいい主と張しています。私は学者でないのでよくは判りませんが、ほとんどの専門家は当然のこととしてこのことを考慮に入れているのではないでしょうか。著者の対処法も、特別にユニークなものとは思われず、何処かで聞いたことのあるものです。ただ切り口はユニークで面白く読ませて頂きました。
高齢者市場が拡大しうる分野はまだ無数にあります。彼らが中心に保有している日本人の金融資産の一%、一四兆円でも企業努力でモノ購入に向けさせることができれば、政府の景気対策の何倍もの効果があるのですよ。オレオレ詐欺だけにこの市場を開拓させておくというのは、余りに惜しいことです。(p.214)
私は能力ある人間が貧困ゆえに抑えつけられることも問題だとは思っていますが、彼らが上ってこられない分「それほどの能力がないのに地位を得る人間の増えること」の方が、さらに一層社会に害悪をなすことだと思っています。本当に能力のある人には、少々抑えつけられても結局芽を出してくることが期待できますが、能力のない人間が地位保全だけに汲々(きゅうきゅう)として高い位置に巣くつているのを除去することは、極めて困難ですから。(p.248)

★★★ 呪いの時代 内田樹
この著者の発想は始めユニークに思われます。しかし、よく読むと、実に真っ当です。取っ付きにくいところは相変わらずですが、武道家的な思考なのかもしれません。つまり、肉体重視。結局は世の中の方が狂っているのでしょう。読んでいるとそれがよく分かり、未来への展望が開けないような気持ちになりました。
現代日本では「分際をわきまえる」ということが成熟した市民の条件だという了解はほとんど共有されていません。むしろ、どれだけ「分際をわきまえずに」、他人を押しのけて前面に出て、できもしないことを言い募るか、それが競われている。/「抑制」を担保しているのは身体です。自分には限られた時間、限られた空間、限られた能力しかないということを知っている人は抑制的になります。なぜなら、それらの 「有限の資源」をどう効果的に配分するかということをいつも考えないといけないからです。だから、「抑制が効かないというのは、「身体による限界づけ」が機能していないと言うことです。(p.48)
「原点」に立ち帰らないと国民国家は「気合い」が入らないということはどの国の方々もわかっている。でも、「建国の父」がその国の「あるべき姿」について未来永劫にわたる青写真を有していたなんていう物語はいくら図々しいナショナリストでも恥ずかしくて言い出せない。それがアメリカの場合はできる。これがアメリカが世界に冠絶(かんぜつ)する覇権国家たりえた秘密だろうと僕は考えています。(p.63)
宗主国の言語を巧みに操り、その能力によって同国人を見下す「外国語使い」に対する嫌悪感というのは、アジア諸国に共通して見られるものかも知れません。/ともかく、そのせいで、日本人の間には「英語ができる人間」についての微妙な不信感がいつもあります。それは当の「英語使い」たちがあまりにしばしば「だから日本はダメなんだ。それに比べてアメリカでは……」という言いかたをしたことに関係があると僕は思います。この心理的な抵抗がある種の巨大な「言語障壁」となつて、それが日本における英語教育の進展にブレーキをかけているのではないか。(p.89〜p.90)
婚括では就活における「情報」が「出会い」という言葉に置き換えられている。違いはそれだけです。「婚活」は、「就活」のビジネスモデルの使い回しなのです。現に、「婚括」業界を牽引しているのは就職情報産業です。ビジネスモデルが同型なんですから、当然です。「出会い」という言葉でソフト・コーティングされていますが、ありていに言えば、「あなたが不幸なのは情報が不足しているからです。必要な情報が欲しければお金をご用意ください」ということです。/結婚情報産業にとって、「婚活」者はクライアントです。クライアントは「神さま」ですから、彼らの人格については基本的に言及しません。「あなた自身はそのままでいいんですよ。あなたには本質的には何の問題もありません。ただ、自分の 『よさ』をうまくプレゼンテーションできないということと、『出会い』がないことが問題なのです」とにこやかに耳元でささやきます。女性に対しては、とりあえずエステに行き、ダイエットして、プチ整形なんかするのも「あり」ですねと指示し、男性に対しては、本音は「もう少し学歴と年収を上げるしかないんだけど……」と思っても、こればかりは今さらどうしようもないので、洋服のコーディネイトと会話術について付け焼き刃のアドバイスなどをする。(p.111)
結婚というのは普通の人たちが、別に「赤い糸」で結ばれていなくても、卓越した人間的資質がなくても、生涯変わらぬ激しい愛情なんかなくても、そこそこ幸福に過ごせるようなシステムとして設計されている。そのようなものとして設計されていなくては困る。/そのためには、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者と生涯にわたって熱烈に愛し合い続ける(愛に翳りが生じたら、即離楯)」というようなタイトな条件を課すよりは、「誰と結婚しても、そこそこ幸福になれる」能力の滴養に教育的リソースを投じるべきだと僕は思います。「誰としたって、まあ、似たようなものだよ」というゆるい結婚観をひろく社会的に採用し、その上で、「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる力」を身につけさせることに教育資源を集中する。それが成熟した社会における結婚のありようではないか、と。(p.116)
定められた礼法に従って、コミュニケーションを試みなければならない(返事はないが)。それにもかかわらず、「存在しないもの」をあたかも「存在するもの」たちのうちに交じってさまざまな(ときには有益な、ときには有害な)働きをなすものであるかのように「過する」という義務からは逃れることが許されない。だから、人間が一定数以上住む場所には、必ず霊的なセンターを置き、「存在しないもの」に対する配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない命令なのである。「存在しないものをして、『存在しないもの』としてそこにあらしめよ」というのは、私たちがそこから逃れることのできない人類学的命令なのである。(p.229〜p.230)
私たちが共同体として生きてゆくために必須の資源を「社会的共通資本」と呼ぶ。/大気、海洋、森林、河川といった「自然資源」、交通・通信・上下水道・電力といった「社会的インフラストラクチャー」、司法、医療、教育といった「制度資本」がそれに当たる。これらはどのようなものであれ、政治イデオロギーやマーケットに委ねてはならない。専門家が専門的知見に基づいて、管理運営しなければならない。(p.238)
「真理だけを語る少数の人間たち」だけを例外的に優遇するよりも、圧倒的多数の「間違ったことを語る人間たち」に「自分が間違っていることを自覚する」チャンスを保証する方が、「人類という種」のトータル差し引き勘定ではプラスになる。理非判定の公共的な場が立ち上がると、人々の語り方が変わる。「自説の正しさをうるさく言い立てる」ことを控えて、「自らの仕事を、それを行わなかった誰れか他の者に説明しようと」試みるようになる。 経験的に言って、自説の正しさを確信している人間は説明を好まない。「周知のように」とか「言うまでもないことだが」というようなフレーズを頻用する人間はこの類である。(p.273〜p.274)
「科学性」は、ある命題の正否のレベルにではなく、その正否が検証される公共的な場にそれが負託されているかどうかという事実のレベルにある。(p.275)
私の身体、それは私の道具ではないし、所有物でもないし、記号でもないし、商品でもない。それはいわば私のもっとも身近にある「自然」である。外に宇宙が拡がっているように、内には身体が拡がっている。もっとも、外と内の境界線というのも擬制だから、「何となく、このへんから向こうが外界で、手前が身体」というように、アナログな連続体にデジタルな境界線を引いてみただけのことで、そのような境界線が実在しているわけではない。(p.279)
呪祖は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪誼の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(p.285)

★★ 小説的思考のススメ 阿部公彦
久し振りに、文学の本、小説の本、というものを読みました。そして、思い出したのです。この様に小説を読むことが、私を日本の小説嫌いにしたのだということを。個人の体験に閉じこもる私小説、といったものが嫌いなのではなく、それをチマチマとスケールの小さい読み方で読む、と言うことに馴染めなかったのだと思います。しかし、歳をとったためか、結構楽しく読みました。ここで取り上げられている作家、大雑把な読み方をしたものもありますが、未読のものを含めチマチマと読んでみようかと思います。
小説では、遅れてひっそりと挿入されるような言葉によってこそ、語りが展開されていると言えるのです。そこでは「自分はだめだなあ」と思うことで保証される自意識が語りの柱となることが多いからです。とくに私小説はそうです。伝統的に日本の私小説は「ダメなことをしてしまう私」を反省する一種の"俄悔の文学″という形で語られます。だからこそ、私小説は低い声のつぶやきを拾い上げていくことができるのです。そうした弱い言葉は私たちの心のどこかを安心させる力を持っている。現実の行為でないにもかかわらず、現実の行為にも匹敵するような力があるようなのです。(p.155)

★★★ 選択の科学 シーナ・アイエンガー
この本を読み、人間の脳は様々な制約を持っていて、我々が行う選択は色々なことから影響を受けている、ということがよく分かった。自らの意志で選んでいるつもりでも、実はそうではないことが多そうだ。このことに関しては、もっと考えてみる必要があるだろう。
わたしは自分の人生を、すでに定められたもの、両親の意向に沿ったものとして考えることもできた。また自分の失明と父の死に折り合いをつける一つの方法として、それを自分の意思を超えた、思いがけないできごとの重なりと見なすこともできた。しかし、自分の人生を「選択」という次元で、つまり自分に可能なこと、実現できることという次元でとらえた方が、はるかに明るい展望が開けるように思われたのだ。
(p.12)
著者は目が見えないとのこと、まずこの事実に驚いた。どうやって勉強したのだろう。
わたしたち人間は、動物のように監禁されるおそれには直面していないかもしれない。しかし、全体の利益のために、個人の選択を部分的に制限するような体制を、自ら進んで生み出し、それに従っている。(p.32)
あなたは選択を行う際、「わたし」と「わたしたち」のどちらに重点を置くよう教えられているだろうか? この二つの枠組に限らず、どんな文化的スクリプトにも、人生を成功に導く指針を与えるだけでなく、社会全体の利益のために何をすべきかという一連の価値観を代々伝えていく、という目的がある。(p.55)
イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話を思い出してほしい。キツネはどうにかしてブドウを取ろうとして、しばらくの間がんばってみるが、どうしても届かない。そこでキツネはあきらめ、こんな負け惜しみを言って立ち去るのだ。「あのブドウは、どうせすっぱいに決まってるさ」。キツネの心変わりは、わたしたちが不協和を軽減するために本能的に取る方法の典型例だ。わたしたちは自分の信念と行動の矛盾に気づくとき、時間を巻き戻して行動を取り消すことはできないため、信念の方を、行動と一致するように変えるのだ。もし物語の筋が変わって、キツネがブドウをとうとう手に入れ、食べてみたらすっぱかったなら、キツネは努力が無駄になつたと感じないために、自分はすっばいブドウが好きなんだと、自分に言い聞かせることだろう。(p.123)
「完璧な自己」という彫像を引きずり下ろせば、アイデンティティが静物ではなく、動的なプロセスだということがはっきりするだろう。さまざまな決定を通して彫像を彫り、削ることが、自分自身を作る。わたしたちは選択の結果だけでなく、選択の進化を通して自分探しをする、彫刻家なのだ。発想を変えて、選択が流動的なプロセスであることを受け入れれば、選択は、なりたくない自分をたたき壊す破壊の力ではなくなり、わたしたちを解き放つ、継続的な創造活動になるのだ。わたしたちはいま意味をなす選択、いま置かれている社会的状況の中で自分の必要を満たすような選択を行わなくてはならない。わたしたちの選択は、他者の選択といつも結びついている。そして他者の目に映る自分は、内なる想像上の完璧な自分ではなく、これまでとこれからの選択の積み重ねとしての自分なのだ。(p.139)
以下は本論とはあまり関係ないが、へー、と思ったので。
サンタクロースを想像するとき、あなたはどんな姿を思い描くだろうか? 赤い服に帽子、黒いブーツにべルトを身に着けた、太った陽気なおじさんが、赤ら顔に満面の笑みを浮かべているイメージではないだろうか? スウェーデン人画家のハッドン・サンドプロムが、世界中ののどの渇いた子どもたちにサンタクロースがコーラを届けている広告を描くようコカ・コーラ社に依頼されて、このイメージを生み出した。(p.201)
幅広い選択肢を残しておくためには、時間であれ、心の平安であれ、利益であれ、何かをあきらめなくてはならない。(p.249)
行動を起こさないリスクより、行動を起こすリスクを恐れるという、人間のよく知られた性向が、とても困った状況をもたらす (p.289)
選択をするということは、すなわち将来と向き合うことだ。一時間後、一年後、あるいはもつと先の世界をかい閲見て、目にしたものをもとに判断を下す。その意味で、わたしたちはみな、素人の予言者だと言える。(p.317)
選択というプロセスは、ときにわたしたちを混乱させ、消耗させる。考えるべきこと、担うべきことがあまりにも多すぎて、安楽な道を選びたくなるときがあったとしても、無理はない。選択にこれほどの力があるのは、それがほぼ無限の可能性を約束するからにほかならない。しかし可能性は、未知でもある。選択を利用して自分の思い通りに人生を変えることもできるが、それでも人生は不確実性に満ちている。それどころか、選択に力が宿っているのは、世界が不確実だからだとも言える。もし未来がすでに決まっているなら、選択にはほとんど価値がなくなる。だが選択という複雑なツールだけを武器に、この不確実な未来に立ち向かうのは、わくわくすると同時に、怖いことでもある。自分の決定がどんな結果を招くのか、前もって知ることができれば、どれほど心が安まるだろう。(p.318)

★★ なぜ、「これ」は健康にいいのか? 小林弘幸
このタイトルの付け方を何と形容したらいいのだろう。そして読んだ後、「これ」が何なのか、フワフワとした感じである。自律神経のバランスを取る、が正解でしょう。兎も角、すべてが自律神経のバランスに繋がって解説される。勿論それは結構説得力はある。しかし、意のままに動かせないのが自律神経ではないのか。結局、「ゆっくり」、なのだろうか。終わりの方になると特に、「私の仮設」、といった言葉が出てくる。そして、
おもしろいことに、ラブレターは朝書いたはうが、成功率が高いのですが、面と向かって直接口説く場合は夜のほうが朝よりも成功率が高くなります。なぜなら、相手も副交感神経が優位になつているので、それだけ理性のハードルも下がっているからです。(p.170〜p.171)
証明されていない、という表現もあったと思うが、ここにはそれすらなくほぼ断定である。何処にデータがあるのか。自分の経験なのか。面白くためになる内容ではありますが、学術論文ではなくても、事実と推論の区別は必要でしょう。

★★ 哲学してみる オスカー・プルニフィエ
イラスト:ジャック・デプレ
原題: Le livre des grands contraires philosophiques 重要な哲学的対立概念の本、ぐらいの意味でしょうか。
邦訳は、文末を下げるのでしょうか、上げるのでしょうか。あまりいい訳とは思えません。
その対立するのも12組について書いてあります。以下のものです。
一と多、有限と無限、存在と外見、自由と必然、理性と情動、自然と文化、時間と永遠、わたしと他者、肉体と精神、能動的と受動的、客観的と主観的、原因と結果、(p.5)
まず見開き2ページで、それぞれの概念が文で説明されます。
自然と文化を考える1
自然 それは、人間の能力のおよばないところにあるもの。植物や動物、岩や山、人間の体やその脳といったもの。それはまた人生を導くものであり、人生に必要なすべてでもあります。(p.38)
文化 それは、人間の知性がもたらしたもの。言語、思想、芸術、科学、技術といったもの。人間の知性から生まれ、その後、世界を変えていく作品や仕事になったものも文化です。おなじ社会の人間を結びつける習慣や儀礼や信仰もそうです。
(p.39)
次の見開き2ページで、問題点が投げかけられます。
自然と文化を考える2
人間は、文化によって 自然を乗り越えることができるのでしょうか?
(p.40)
さらに次の見開き2ページで、考え方、結論めいたことが述べられます。
自然と文化を考える3
ひとは、自然の大きなサイクルの中で生きていて、死を避けることができません。
最先端の医療が死期を延ばしても、自分がいつか死ぬことをわたしたちは知っています。自然が動物よりも複雑な脳をひとに与えたからです。自分が死ぬという確信は、わたしたちの存在に意味を与え、この地上を通過したことの痕跡を残すように促します。こうして、ひとは考え、芸術作品を創りだします。あらゆる種類のものを考案し、制作します。世界を変え、空間を支配します。そして死者のために墓をつくります。わたしたちの文化は、死すべきものとしてのひとの自然なあり方を変えないにしても、わたしたちに死を自覚させ、受容させ、乗り越えさせてくれるのです。
(p.42)
この本は児童書に分類されています。絵本の体裁です。イラストが満載で、独特の、子供のような、ロボットのような、キャラクターが中心で、理解の手助けにならないこともないでしょう。しかし、子供には無理だと思います。大人にはものたりません。まあ、この本をきっかけに、色々考えてみようということでしょうか。

★★★ 極北ラプソディ 海堂尊
今作で著者が啓蒙したかったのは、ドクターヘリについてである。救急医療と共によく理解出来た。彼の主張が正しいのかどうかは判断出来ないが、色々と問題があるのは確かだろう。他にも日頃から医療に関して言っていることがちりばめられているが、そんな堅い話を際立たせることなく、面白い話に仕上がっている。少々出来すぎという感が無きにしも非ずだが、楽しく読めたのでよしとしよう。なお、相変わらず、海堂ワールドの人物がたくさん登場するが、他作との絡みを考える必要はないだろう。

★★★ 東京「スリバチ」地形散歩 皆川典久
スリバチ、とは窪地のこと、つまり、この本は東京の凹んだところについてのものです。そのようなところには必ず坂があります。だからといって、坂の本ではありません。まあ、ほとんどの人にはどちらでもいいし、そもそもそんなことには全く関心がないでしょう。私は昔から東京の坂が大好きで、このスリバチもとても面白いと思いました。東京の地理と歴史が詰まっています。東京というところは興味の尽きない街です。地図を見ながら読み、今度東京に行ったらここを訪れてみよう、と考えると楽しくなります。我ながら物好きだとは思います。
東京の7つの丘で最も広い台地面を持つ淀橋台、その先端にあるのが、かつての江戸城、現在の皇居である。そしてそれは東京の中心だ。/「いかにもこの都市は中心を持っている。だが、その中心は空虚である」と、ロラン・バルトが『表象の帝国』で表現した場所だ。地形的には深く密な谷が台地の突端部を刻んでいるが、これまで見てきた他の台地や谷と違うのは、原地形のポテンシャルを最大限に活かしながら、壮大な城を築くため大規模な造成が施されているところだ。太田道濯、そして徳川家康へと続く江戸城の建設には、いくつもの谷戸地形が活かされている。内堀・外堀の建設には小川や沼地、窪地が巧みに利用されたし、単に城の防衛のみならず、飲料水の確保なども谷地形に負ったところは多い。谷を制することで江戸という当時世界最大規模の都市建設を成功させたと言えるのだ。(p.188)

★★ 池上彰のお金の学校 池上彰
池上さん、ちょっと本の書き過ぎでは? といっても、そんなに読んでいるわけではありませんが。この本を読みながら、これならたくさんかけるなと思いました。口述筆記のような文体です。基礎的な内容ということもあり、スラスラ読めます。分かってることではあるが、まとめ方、例えの出し方がうまい。お金の歴史/銀行/投資/保険/税金/ニュースの中のお金/身近なお金、という構成です。ギャンブルの話があり、アジアのカジノ、シンガポール・韓国・マカオ、では自国民は入れないとのこと、初めて知りました。

★★ 年を重ねるのが楽しくなる![スマートエイジング]という生き方 川島隆太・村田裕之
「時分の花」は、若い能の演者には誰にでも備わっていますが、やがてそれは失われていきます。少年の愛らしさ、青年の若さゆえの美しさや躍動感や体力を意味しています。「まことの花」は、芸を磨く精進をした者だけが手にすることができるもので、これは生涯失われることがありません。老いが容姿や体力を奪い、「時分の花」を奪っていっても、努力を続け「まことの花」を咲かせて芸術を完成させることが大切であると世阿弥は説いています。(p.2)
私は、「時分の花」を忘れられずに、そこにすがりつきたいと願う生き方が「アンチエイジング」、加齢や老化と正面から向き合い「まことの花」を咲かせる「初心を忘れない」生き方が、本書で皆さんにお伝えしたい 「スマート・エイジング」だと考えています。(p.3)
最初から引用が長くなりましたが、ここに著者の言いたいことが凝縮されています。この本では、東北大学加齢医学研究所スマート・エイジング国際共同教育センターの研究と成果が語られます。どうすればいいかということについて、特に目新しいと感じられるわけではありませんが、一応列挙してみます。
<秘訣その1>有酸素運動をする<秘訣その2>筋力トレーニングをする<秘訣その3>脳のトレーニングを行う<秘訣その4>年金以外の収入を得る<秘訣その5>他人の役に立つことをする<秘訣その6>明確な目標を持つ<秘訣その7>好きなことに取り組む
第一部の実践は面白かったのですが、第二部の研究は論文のようで惹き付けるものがありませんでした。
本来、高等教育機関としての大学は、年齢で区切られた人生のある段階を一律に通過するところではなく、年齢にかかわらず「知的好奇心を持つ人の縁」で結ばれた「知緑」コミュニティであるはずです。大学キャンパスが知のネットワークの結節点として有効に機能することで、日本における大学のイメージが大きく転換し、大学が本来的な知の拠点として進化するきっかけとなることでしょう。(p.97)
今ではベテランの学者も、骨租しょう症は「後年、発症する若年期の病気」であると表現するようになりました。高齢期の骨租しょう症は、若い頃の運動や栄養の不足が引き起こすと思われるからです。脳の健康維持についても、これと同じ長期的見地、つまり生涯にわたる視点が適用されるべきです。若年期に骨を強くしておかねばならないように、脳も生涯にわたって補強されなくてはならないのです。/一方、脳の健康維持に必死になりすぎると、脳だけを問題にするという罠に陥る危険性があります。とはいえ、脳の健康維持に運動が非常に重要であることは、説得力のある証拠もあることから、誰もが納得するでしょう。このことから、脳は身体の一部として、さらに身体はより大きな環境の一部として捉えなくてはいけないことがわかります。脳の健康維持″という枠組みの中だけで考えると、脳を身体から切り離し、身体を環境から切り離すという二重に縮小された″視点に陥りかねません。(p.224) ハリー・ムーディー博士という人の特別の寄稿

★★ サムライと愚か者 暗闘オリンパス事件 山口義正
オリンパス事件を最初に告発した人が書いた本。ウッドフォード元社長の本の前にこの本を読もうと思ったのだが、図書館の予約数の関係で反対になった。こちらの方が事件を多方面からとらえて客観的だろうと考えて、当事者本人のものを後にしようとしたのだ。しかし、今振り返ると、元社長の本も決して主観的で感情に走ったものではないと分かる。そして、オリンパスという会社の悪辣さがよく見えた。この会社、再生出来るのだろうか。さらに、この事件を教訓として、日本は、日本の企業はこのグローバル化した世界で生き残れるのだろうか。かなり不安な気持ちになった。オリンパスのような会社、まだまだ日本に存在するのではないか。悪事をはたらく人間は多い。

★★★ インドカレー伝 リジー・コリンガム
338ページの本、2005年に出版、翌年に翻訳されたもの、数年前に読もうと思って借りたのだが、あまりの質と量に圧倒され断念、それ以来読むべき本リストに存在し続け、今回やっと挑戦。
前半は歴史の記述が多く、いろいろ調べながら読みました。ムガル帝国などが出てきて、ある意味懐かしい感じです。食べ物の視点から見るとちょっと違ったものが見えます。後半は料理の話が増え、これはこれで理解に苦しみました。固有名詞、人名、地名、料理名、が分かりにくいのです。しかも、料理の定義がどうも曖昧に思われます。プラオとビリヤニ、いまだに違いがよく分かりません。その他にも食べたことのない料理がたくさん、文字だけで食べ物のことを云々するのは無理なのでしょう。いろいろ食べてみようと思いました。
紅茶は、イギリス人のもとでは宗教・民族間の分裂を促進するものになったが、インド人の手にかかると、むしろそうした共同体間の関係を改善することのほうが多かった。多くのインド人にとって紅茶は外国からの食材であり、アーユルヴェーダの分類外にあるので、厄介な浄不浄の概念に煩わされずにすむものだった。紅茶は中立的なため、通常は飲食をともにするのを避けるカースト出身の相手とも、とがめられることなく一緒に飲みやすかったのである。(p.262)
一九八〇年代末には、インド食品はじつにさまざまな形態で、イギリスのどんなスーパーの買い物客にも手に入るようになった。サッチャー政権時代の不安定なにわか景気のなかで、カレーは安定と伝統に飢えたイギリスの大衆の心をつかんだ。インド料理は伝統的なイギリス文化として分類することはできなかっただろうが、そこには帝国の名残とイギリスの失われた栄光の日々が感じられたのだ。(p.311)
イギリス人の食生活にカレーが浸透しているのは、新しい多文化主義的な気配りからではなく、むしろイギリスの島国根性を表わしているのである。イギリス人がエスニック・フードを自国のものと混ぜ合わせるのは、自分たちの好む範囲でしかコスモポリタンになれないことの表われと読めるだろう。つまり、いかにもイギリス的な食習慣のなかにエスニック料理を取り込めるかぎりにおいてなのである。(p.313)
意外なことに、インド料理がイギリスにおいて占める地位に匹敵するほど、カレーが国民的に重要な位置を占める国を一つ挙げるとすれば、日本なのである。インドとは植民地時代になんの関係もなく、独自の洗練された食文化もある国なのだが。(p.327) この後2ページぐらい日本のカレー事情について書いてある。

★★ 中国嫁日記(二) 井上純一
昨年末に読んだマンガの第二弾。同じような構成になっているので、読む方には驚き度が下がるし、書く方にもマンネリに対する対策がないように思われる。まあ、そこそこ楽しめるのだがもう一工夫欲しいというのは要求しすぎだろうか。内容的には、本編にも、後半の描き下ろしにも、中国旅行の話があり、旅行案内にはないことが書いてあり、成る程と思うことがあった。九寨溝に関しても記述があり、そこは私が唯一行きたい海外旅行の目的地なのだが、人が多い、それもとても多い、そして、設備がよくない、とあり、行く気が失せてきた。

★★★ 京都名建築で食べ歩き 宝島編集部
月刊宝島に連載されたものをまとめたもの。21カ所について書かれているが、三分の二以上、全くその存在も、その名前すらも知らないものだった。行ったことがあるのは、長楽館だけ、それも食事ではなく、お茶を飲んだだけ。平八茶屋や東華菜館はよく前を通ったが、この様な歴史を持っているとは考えてもみなかった。ところで、この本、「食べ歩き」とあるが、建築の方がメインのようだ。読んでいて、そこで食事をしたいというよりは、その建物を見たいという思いが強かった。庭を含めた建物の説明が、歴史的なことも含めて、簡潔にポイントを押さえている。次に京都に行く時には、一つ二つに挑戦してみよう。

★★★ 世界遺産京都・奈良の27寺社 内山弘美(編集)
JTBのMOOKではあるが、読書記録に載せる価値あり。2008年に出版されたものなので、内容的に古いものもあるが、歴史的・文化的解説がいい。明治学院大学教授・山下裕二という人が案内人となり、多少お茶目なコメントをしているが、当を得ていると思う。航空写真を使い全体的像を与えているのが、とても判りやすい。ほとんど訪れたところだが、又この本を持って行ってみたいと思った。

★★★★ シューベルト 喜多尾道冬
1997年に出版された本、3・4年前に読もうと思ってリストに入れたままになっていました。新しい本を手に入れることが難しくなり、この様な本を読んでいます。読んでみると、これはとても面白い本です。音楽好き、歴史好きにはたまりません。シューベルト本人については勿論、その音楽の傾向や背景、他の音楽家との絡み、彼の生きた時代とそこから受けた影響、などなどが丁寧に書かれています。
シューベルトの音楽は美しい。しかしその美しさは、つねに愛と悲しみのもつれを宿している。人がほんとうに悲しんでいるときの姿には胸を突かれるものがある。そして、その真撃な姿を美しいと思う。その思いが愛となる。シューベルトの音楽の美しさは、この愛から出発している。芸術が真に創造的たりえるのは、悲しみへの真の共感と畏敬の念があるときだろう。(p.69)
ワルツは大衆産業社会の発展とも密接に連動している。静的なメヌエットは旧秩序の安定した社会にふさわしい舞蹄曲だが、ワルツはまさにダイナミックに発展してゆく時代のシンボルであり、都市市民の舞曲だった。変化とスピードに富んだワルツを踊ることは、時代の最先端にいることを実感させただろう。また男女のペアが体をぴったりと寄せ合って踊ることは、肉体とエロスの解放を合図していた。(p.102〜p.103)
リズムが生の活性化と関連し、ハーモニーが社会的な連帯と結びつくとすれば、メロディは個々人の心の夢想を、つまり神なき世の新しい祈りを合図している。/しかし、メロディは自分自身を神と錯覚する危険をも秘めている。シューベルトのメロディは、自分を超えたものへの畏敬の念と同時に、このナルシシズムへの傾斜の危うさをもひびかせ、両者の境界線上に沿ってのびてゆく。虹のように大きな弧を描くメロディには、そのような両極の対立の緊張が内包されている。/つまりシューベルトのメロディは、十九世紀の産業社会になってあらわれはじめた、さまざまな矛盾の生み出すきしみを、やさしく融け合わせようとする試みと成果そのものだったのである。(p.148)
政治的な弾圧はきびしかったものの、一見鷹揚な家父長的な制度の運用のおかげで、オーストリアでは貴族と市民との間にはフランスほどのはげしい対立は見られなかった。そのためにウィーンでは現実の基盤を持たない「自由、平等、友愛」の理念は、純粋な理論として音楽で追求される。つまりこの理念は、現実の対立の解決と理解され、解釈される。その図式は具体的には貴族社会と新興の市民階級の調和の理念となるだろう。それを言葉ではなく、音楽で表現しようとすればどうなるだろうか。ソナタ形式が登場するのはこのときである。(p.152)
この未完の問題は、シューベルトの未熟さとか意志力の弱さだけに帰せられない重要な意味をはらんでいる。ウィーン古典派は形式と内容の完壁な釣り合いを求めた。それは調和の理念から言って当然のことだ。しかしロマン派の芸術は、科学技術のイノヴェーションと、それにともなう市民社会の趣味の多様化、つまり「市民症候群」に促されてたえず流動発展する。言い換えれば、それは大衆の欲望をつぎつぎに刺激し、購買欲をそそる産業社会のシステムと軌を一にしている。/だからそこには、完成や安定というものがない事態も生じうる。その意識を先鋭化させれば、完成し安定しかかる自己をつねに破壊して、新たな挑戦に立ち向かうことが、もっとも時代にかなった姿勢となるはずだ。ロマン主義の理論はそこまで行き着く。この絶えざる発展とイノヴェーションの意識は現代にまでつづいており、十九世紀初頭にはじまったロマン主義の運動はまだその決着を見ていないと言える。/それは、今日の情報革命の日々新たな発展と変化を見れば明らかだ。たとえば今日のコンピューターを中心とした産業はその典型で、まさに日進月歩の技術革新によって、わたしたちはつねに過渡的な製品しか与えられず、それに完成というものはない。そのようなイノヴェーションの意識は芸術のあり方にも反映されるのは当然で、コンピューター・グラフィックなど、新しい芸術ジャンルの作品は過渡的な性格をおびる。完成は停滞に陥る危険を孕む一方、発展はつねに未完成と抱き合わせとならざるをえない。発展・革新という強迫観念がつきまとうかぎり完成はない。/シューベルトはそのような自己革新を意識してはいなかったにせよ、彼が交響曲の作曲で無意識のうちに行った自己破壊的な、あるいは蝉脱(せんだつ)の作業は、ロマン主義運動の理論と理念を無意識のうちに実行していた証にほかならない。その意味でシューベルトは、真にロマン主義的な芸術家だったと言えるだろう。(p.167〜p.168)
この上の分析は素晴らしいですね。未完に終わることの意味、考えさせられました。
シューベルトは、交響曲の構成を時間軸から空間軸に転換させることで、以前成功しなかったソナタ形式を自分なりの方法で克服しょうとした。彼はこの斬新な構成をさらに大規模に追求する時間的な余裕を持てなかったが、それはのちにブルックナーやマーラーに引き継がれることになるだろう。その意味でシューベルトは未来のために新しい地平を切り開いたことになる。(p.267)
「グレイト」、ゆっくり聴いてみようと思います。
わたしたちの文明がさらに進歩し、複雑になり、それにつれてメンタルなストレスが増大してゆくとき、シューベルトの音楽の訴える力は、いっそう増してゆくにちがいない。彼の音楽はけっして強制しない。そっと近づいてきて、美しい小さな花束を黙って差し出し、そしてまた消えてゆく。そんな、はにかみとつつましさが彼の音楽の核心をなしている。だから、おなじはにかみとつつましさを心に秘めて、生きる意味とよろこびを見いだそうとするものは、彼の音楽を友とするだろう。(p.301)

★★★ 出雲 瀧音能之(監修)
『別冊太陽』、『太陽の地図帳』の一冊、『おとなの「旅」の道案内』、つまり、旅行案内である。しかし、所謂ガイドブックを超えている。古事記のふるさとを旅する、とも表紙に書いてあるように、真面目な(?)旅である。とってもマニアックなところまで紹介してある。そして、「読んだ」あと、心に古事記の世界が広がる。出雲に行かなければ!
日本の神様のお住まい=神社は、有限物としての木造の建物を造替することによって有限存在の更新をはかり、有限なるものの造替・更新のつなぎの繰り返しによる永遠性の生成に、生命の継承と同様の意味価値を与えた。(p.8)

★★★ サファイア 湊かなえ
短編集、七編全てのタイトルが、宝石の名前、当然内容もその宝石に絡んでいる。この本は、推理小説的なものはあるが、純粋な推理小説ではない。どの作品もなかなかにいいお話である。特に、「ムーンストーン」が一番気に入った。最後の二編、「サファイア」と「ガーネット」は繋がっていて、よくできたストーリーだ。少し不自然さを感じるところがないわけではないが、そんなことは吹っ飛んでしまうほど面白く、惹き付けられる。

★★★ 救命 海堂尊(監修)
副題:東日本大震災、医師たちの奮闘
9人の医師をインタビューして作られた本。一人の医師は他二人と一緒なので、合計11人。ほとんどの人が自らも被災者である。震災を医療の視点から見て、改めてその酷さを痛感した。その様な状況で活動した医師たちにかける言葉が見当たらない。特に、歯科医師の身元確認作業には驚嘆した。逆に、行政の方の無能、迷走には、今更ながら呆れ果てた。日本という国は、現場の人間の努力によって、維持されているのかもしれない。
津波に飲み込まれながら九死に一生を得た春代おばあちゃんは、毎晩津波に襲われる夢にうなされ、夜中に大声を上げて避難所の人たちに迷惑をかけていると来院しました。コップの水も飲めず、味噌汁もダメ、水という水に拒否反応が起こると訴えます。/「この間みんなで健康ランドに行って、久しぶりにお風呂を楽しめると思っていたのに、いざ湯船に入ろうとしたら身体がぜんぜん動かんのよ。シャワーもダメだった。ワシはもうー生お風呂に入れんのかのう……」 (p.46)
僕にいわせりや、なんでそんなに自分を主張しなきゃいけないのか、度を越して一生懸命にならなきゃいけないのか不思議でたまらない。被災地の医療現場では、そんな態度や考えじやつとまらないんですよ。もっと自然に、もっともっと謙虚に患者さんや被災者に寄り添わないと。(p.126)
最後に海堂尊の解説のようなもの、というか何時もの主張が書かれています。
被災していない人間は、どんなに頑張っても被災者にはなれない。それこそが、天がこの地に引いた、冷酷な境界線の正体だ。そして瓦礫という表現を使う人間は、間違いなく境界線の外側の人間だ。自分の家の「瓦礫」を、人は決して「瓦礫」とは呼ばない。(p.244)
これからは、長くうんざりする不毛の戦いのフェーズに入る。ちょっとした言質をとがめ、誰かを悪者にしたり、功績をひとり占めしようとする連中が跋扈したりもするだろう。/鈍感さが見えにくくなってきている。そしてこれからいっそう見えにくくなるだろう。これからの戦いは困難をきわめるに違いない。そうした戦いをさらに職烈なものにするのが、被災しなかった人々の無関心と鈍感さなのだ。/特に、行政部門のそのような鈍感で遅い対応による被害は甚大だ。(p.248)

★★ 日本でいちばん幸せな県民 坂本光司
本調査研究の日的は、47都道府県民の「幸福度」に、ランキング評点を付すことではありません。私たちの思いは、ランキングや評点を通じ、客観的事実に基づく問題の所在の理解認識と、それに基づく地域住民の「幸福度づ<り対策」、つまり地域住民が幸せとなる地域づくりを講じてほしいことにあります。(p.2)
「はじめに」に上のように書いてあります。「日本でいちばん大切にしたい会社」の著者がどの様にこの抽象的な問題に取り組むのか、興味がありました。やはり難しかったようです。当然ながら、「幸せ」を評価するのは一筋縄では今ないことです。この様な見方もあるのだ、ぐらいで、楽しむ本ではないでしょうか。
因みに、我が広島県、総合18位、でした。一位、福井、二位、富山、三位、石川、最下位、大阪、ブービー、高知。こんな所ばかり引用したら、著者に怒られそうです。

★★ じろじろ見てよ 千一
副題:重度脳性マヒのぼくが議員になって
副題通りの内容。著者が自由に動かせるのは、左足の親指だけ。だから、日々の暮らしも介助なしには送れない。その状態の人が鎌倉市の市議会議員になって三期目を務めている。その状況がこの本に縷々書かれている。すごいと思う。ただ、私未だに、障がい者にどう対応したらいいのか、障がい者をどう考えたらいいのか、正直なところ、よく分からない。このような本を読むと頭が下がる思いがする。だがその後どうするのか。何もしていないのです。

★★ 解任 マイケル・ウッドフォード
著者の名前はまだ人々の記憶に残っているでしょう。あのオリンパスの事件絡みで解任された英国人社長です。事件そのものはニュースで判るのですが、この著者がどう関わったのかがあまり報道されなかったので(私が見逃しただけかも知れませんが)この本を読んでみました。そして事件の全体像がよく分かりました。著者がここまで深くオリンパスに関わっていたとは驚きです。彼の言っていることが全て事実なのかは判断出来ませんが、主張は正しいと思います。下の引用のように、今日本が停滞しているのは彼が指摘している点にあるのかも知れません。
一人のセールスマンとしては、日本企業の飛び抜けた商品開発力に魅力を感じずにはいられません。日本の技術者はじつにすばらしい製品を生み出しています。日本の方々は誇りに思うべきです。しかし技術は一流ながら、企業間のもたれあいやジャーナリズムの未熟さのせいで、低級なガバナンスや二流の経営がはびこり、世界で戦うための力が失われているのです。そこさえ改善でき、日本の企業が復活を遂げれば、この国はふたたび活力を取り戻すはずです。高齢化や人口減少、GDPの二〇〇%以上の債務を抱えた日本の現状を考えれば、日本にとっては企業の復活こそが最重要課題なのではないでしょうか。(p.215)
この世の中には掃いて捨てるほどたくさんのグッドナンバー2と、ごく一握りのグッドナンバー1がいる。グッドナンバー2が知識、経験をつんでグッドナンバー1になれる確率は驚くほど小さい。だから経営トップの後継者探しは、グッドナンバー1を探し出し、それに必要な教育を施すことが不可欠になる。それが出来ず、手近なグッドナンバー2を後継者に選んだ時点から、組織の衰退が始まる (p.218〜p.219) オリンパス医療部門の英国代理店キーメッド社で、入社9年目、30歳ぐらいの著者を社長に抜擢した人物の言葉。

★★ わたし、住職になりました 三浦明利
25歳で実家の寺を継いだ女性の「自伝的エッセー」。シンガーソングライターでもあり、メディアにも露出しているようです。本は、内容は兎も角、まさに坊主が書いたものという印象を受けます。書き方、文章表現、言葉がそうなのです。30前の女性が書いたものとは思えません。こんな人がいるのだと感心しました。
幸せの「幸」という字は、手伽〔てかせ〕(手錠)を意味します。しかし、「仕合わせ」は偶然のめぐり合わせのことをいい、よいことも悪いことも「仕合わせ」なのです。(p.169)

★★ サンデーとマガジン 大野茂
ちょうどこの雑誌を読んでいた頃の話で、なかなか面白かった。このような戦いがあったことは想像出来るのだが、テレビまで組み込まれていることには、テレビを見ない私には判らなかった。懐かしいマンガや漫画家が出てきて、当時のことを色々と思い出した。ビッグコミックのことがちょっと出てきたが、この雑誌のことについても同じような本が出ることを期待する。
マンガは悪書だと騒がれていたその時から半世紀ほど前、今から遡(さかのぼ)ること100年ちょっと前、明治末期の新聞にこんな記事が載せられていたという。
 近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。
(p.23)
「僕[少年サンデー編集長・高柳義也]はその頃、藤子不二雄さんたちと話していて、今の子どもが失いつつあるもの、それは『時間』と『空間』と『仲間』と、この3つだと気づかされた。受験勉強で時間がなくなり、遊ぶ空き地もなくなり、イジメで仲間もなくなっている。3つの『間』をなくして、子どもが皆、孤独になっていく。そういう話をする中で、やっぱり子どもマンガっていうものに対する気持ちは、我々は捨てないでおこう、っていうことを僕らは再確認しました。こういう志を持ったマンガ家たちとサンデーをつくつてゆくべきだなって」 (p.236)

★★ 深夜の赤信号は渡ってもいいか? 富増章成
哲学入門、哲学史入門、といった本です。タイトルは、注目を引くための最近の常套手段でしょう。ということで、退屈な部分もありました。しかし、著者はそれぞれの哲学者のポイントを要約するのがうまく、昔を思い出しながら結構楽しく読めました。特に最後の方は、もう一度サルトルなどを読もうかという気にさせられました。
アリストテレスは、「共同生活のできない人、もしくはその必要のないほど自足している人は、国家の一員ではなく、野獣か神である」(『二コマコス倫理学』)とまでいいます。(p.47)
自律的な精神とは、自分で自分をコントロールする精神。つまり自由です。/普通は自由というと、時間にも縛(しば)られずに、なんでも好きな物を買ったり、食べたり飲んだり、着たり……というようなことだと考えられています。/けれども、カントのいう自由はそれとはまったく異なり、因果律に縛られないで、自分の欲求をコントロールできることです。/自分で自己決定できるということです。/食べたくても我慢(がまん)するとか、勉強する時間をもっと増やすなど自分で自分をコントロールする力です。/もし、この力があれば人間は自由ということになります。(p.111〜p.112)
サルトルは、ナイフのような事物の存在の場合、その本質(ナイフの定義)は、ナイフが存在する前にすでに与えられているとします。/ナイフは「物を切る道具」としての目的が与えられて創られたものだからです。この場合は、「本質が実存に先立つ」といえます。/けれども、人間は、ナイフのように本質を与えられてから生まれるわけではありません。/まず先に存在し、世界の内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されることになります。すなわち、「実存が本質に先立つ」のです。(p.197)
資本主義においては、十分に満ち足りた状態というのがありません。/つねに新しい欲望を煽(あお)り、次なる新製品を開発し、購買意欲をそそるような宣伝がおこなわれます。(p.219)
労働と消費の切れることのないラット・レースに巻き込まれているのが一般の人々なのです。(p.221)

★★ 夢見る黄金地球儀 海堂尊
2007年出版の本。新しい本を入手するルートが無くなり、図書館に予約してもなかなか来ず、以前に読み忘れたものを読んでいます。医療に関係ない海堂尊の本は初めてです。桜宮市が舞台でチョコチョコと他の作品との共通点があります。一応はミステリーなのでしょうが、荒唐無稽な喜劇のようであり、いつものように風刺も効いていて、何とも不思議な作品です。様々な発明品が登場し、何が実在のものか混乱します。という具合に、不思議な時空を彷徨って、虚構世界を楽しむことが出来ました。
お前が手にした力は、本当にお前の力なのか? お前こそ、集団で見る組織という夢に悪酔いしていないか? 現実から遊離した虚構の世界で生き続けると、いつかどこかで破綻するぞ。もう一度、地に足をつけろ。忘れるな。(p.290)

★★ ブータン、これでいいのだ 御手洗瑞子
著者はブータン政府のGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)コミッションに初代の首相フェローとして一年間働いた。その経験をもとに書かれた本で、難しいことにはあまり踏み込まず、楽しく読める入門書のようになっています。とはいっても、なかなかに深い内容を含み、日本のみならず、世界の現状について考えさせられました。
初雪の日は祝日になるそうです。しかし、ここには誤解がありました。ブータン人ののんきさから、てっきり、雪がふったら寒いからお休みになるのかと思ったのですが、そうではなく、これは雪を神聖なものとして捉える文化と、また、今年も雪が降り天候が順調にめぐつていることへの感謝から、祝日にするとのこと。ちょっと素敵な祝日です。(p.73〜p.74)
歳入の3割を海外からの支援に依存し、その3分の2はインドからのものだそうです。しかしインドは支援してくれる大国であると同時に、一人当たりGDPで見るとブータンより貧しい国でもあります。このため、ブータンの場合、より安価な労働力をインドから調達することができるのです。インドに財政面で支援をしてもらいながら、自分たちがやりたくない仕事はより人件費の安いインドの非熟練労働者を呼んでやってもらう。そうしたゆがんだ構造をブータンは持っています。(p.155)
ブータンの人たちが「幸せかどうか」を問うとき、対象は「自分自身」が幸せかどうかではないのでしょう。自分の大切にする人たちの幸せも含めて自分の幸せと捉える。幸せを感じられる範囲、「幸せゾーン」(と、私は名付けています)が、ブータンの人たちは私たちよりずっと広いのかもしれません。(p.212)
これからブータンはどの方向に行くのか、注目しようと思います。

★★★ ブラックペアン1988 海堂尊
2007年出版の本。この著者の本には引き込まれます。この作品には、お馴染みの登場人物の若い頃もちょっと描かれています。あの田口先生が学生で顔をだすのです。著者の頭の中にはどんな世界が構築されているのでしょう。まあ、そんなことは考えず、この本単独で充分楽しめます。ストーリー展開の巧みさ、最後の種明かし、馴染みのない医学の世界を覗き見る楽しさ、面白いエンターテインメントです。

★★ 日本の夜景絶景50 渋川育由(編)
久し振りにこのシリーズを発見しました。相変わらず美しい写真です。ただ、夜の景色とは言えないものがあります。朝日や夕日に輝く光景です。まあ美しいからよしとしましょう。特にきれいだった所、タラシュベツ橋(ダムで水没したアーチ型の石の橋、水位によって見えたり見えなかったり)、弘前城の夜桜、美ヶ原。

★★ 花の鎖 湊かなえ
この著者の作品は「告白」からずっと読んでいます。この本は一年ぐらい前に出版されたものですが、図書館に予約してから、手元に来るまで297日かかりました。
いつも通り、面白い構成になっています。よくこれだけ様々なパターンを考えるものだと感心します。名前に雪月花を含んだ三人の女性が主人公で、6章それぞれは三人の語りからなっています。徐々になぞが解き明かされ、たのしく読めました。ストーリーそのものよりも、その展開の仕方で読ませる本です。

★★ もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら 工藤美代子
皆さんはこのタイトルからどんな内容の本だと思うだろうか。私はお化けに象徴される摩訶不思議な現象を科学的に解き明かす、或いは、そこまではやらなくても、否定的な見解が述べられる、と予測していた。そして、ノンフィクション作家の著者は「はじめに」で、ノンフィクションを書くという作業をまさにスタートさせる地点で「嘘を書かないこと」「盗作をしないこと」の二点を基本とした (p.3) と書いている。ところがである、この本には著者が経験した怪奇現象がズラズラと書かれているのである。かつて『怪談』を小泉八雲が書いた時代は、自分が遭遇した奇怪な体験を人々は平気で口にした。それを笑う人も馬鹿にする人もいなかった。/ところが現代では、そうした話をすると、いかにも無学で無教養な人間のように見られる。だからみんな話さないようになったが、実は私が考えているより、はるかに多くの人が、この世にあって、あの世の人を見かけたり、喋ったり、写真に撮ったりしているのではないだろうか。(p.199) 著者ははじめから自分のことを霊感に乏しく鈍感だと言い続けている。私はとにかく愚鈍な性格なので、いわゆる怪奇現象と呼ばれるものが自分の周辺で起きたとしても、それに気がつくのが、いつも遅い。ずいぶん時間が経過してから、ああ、そういえば、あれはこの世の人じゃなかったのかとわかったりする。(p.246) とんでもないことだ。ほとんどの人は起こったことも判らないし、後から気付くこともないだろう。著者は霊感に溢れ、感受性豊かな人だ。そうでなければ、この本に書かれているような体験は出来ないだろう。私は全くこの種の体験をしていない。だから、この本に書いてあることは、とても信じることは出来ないが、面白く読むことは出来た。特に、「三島由紀夫の首」という章はとても面白い。三島由紀夫、岡本かの子、石原慎太郎、川端康成、その夫人、などが登場し、非常に興味深い話だ。

★★ (あき) 佐藤あつ子
副題:田中角栄と生きた女
著者の母が、佐藤昭(50歳を過ぎて、昭子に改名)、普通の言い方をすれば、田中角栄の秘書である。角栄の政治団体、越山会で頭角を現わし、「越山会の金庫番」、「越山会の女王」、と言われた。そして、著者は、角栄の子供である。この本には、角栄の親としての知られざる一面も描かれてはいるが、メインは母と娘、そしてその二人の関係になっている。角栄に関する本は読んだことがないので、のぞき趣味的ではあるが、なかなかに面白い内容だった。もっとこのあたりの人間関係について色々な本を読んでみようと思う。まずは、佐藤昭子本人が書いたもの、もう一人の女、辻和子が書いたもの、あたりから始めようか。

★★ 坂の上の坂 藤原和博
司馬遼太郎の「坂の上の雲」が描く時代には、坂を上がると、見上げる雲があって、夢やロマンに満ちていた、と著者は「はじめに」に書いてます。そして今、坂を上がってみると、さらに坂があるという状況になっている、という認識でこの本を書いているのです。副題が、55歳までにやっておきたい55のこと、となっていますが、60歳を過ぎた私にも得るところがありました。説教調な書き方ではなく、自らの人生を振り返りながら、多彩な経験を元にした話なので、説得力があります。ただ、下に書いた「キャリア官僚の転職記」と同様、なかなか著者の言うことを実行に移すのは凡人には難しいと思います。まあ、色々なコミュニティーに参加することなど、少しでもやってみようとは思っています。
私は、こうした地域社会におけるお兄さん、お姉さん、おじさん、おぼさん、おじいちゃん、おぼあちゃんとの関係を、血縁があるないにかかわらず、「ナナメの関係」と呼んで重視しています。親子の関係、先生と生徒の関係は「タテの関係」、友だち同士の関係は「ヨコの関係」ですね。/今の時代を生きる子どもたちには、かつて地域社会に当たり前にあった「ナナメの関係」が圧倒的に足りない。「ナナメの関係」欠乏症です。/「ナナメの関係」が欠乏するとどうなるか。/「タテの関係」のほうが濃厚になってしまうので、どうしても褒められるより叱られることのはうが多くなり「セルフエスティーム(自己肯定感)」が低くなってしまうのです。(p.183)

★★ 1勝100敗! あるキャリア官僚の転職記 中野雅至
副題:大学教授公募の裏側
タイトル、サブタイトルから想像出来る内容である。巻末に、著者がすべった大学一覧、まで書いてあり、よくぞこれだけ挑戦したものだとただただ驚く。話も面白くスラスラ読める、が、大学の教員に転職しようと思わない人には、フーン、ソウカ、で終わってしまう。著者には失礼かも知れないが、楽しめる本ではある。

★★ この世で一番おもしろいミクロ経済学 ヨラム・バウマン
副題:誰もが「合理的な人間」になれるかもしれない16講
面白くて判りやすい経済に関する本はなかなかない。この本はマンガを使って分かりやすい方だとは思う。私の素養不足があり、ナルホドとまではいかない。もっともっと勉強しなければならない。
経済学は、最適化する個人を扱う・・・・・・そしてそういう個人同士の相互作用も考える。(p.6〜p.7)
この本に、最初から最後まで、繰り返し出てくる文:(答えはない)
ミクロ経済学の大問題:個人にとっての最適化の結果が、集団全体にとってもよい結果になるのはどんな場合?
「1+1」を「3」にする「取引」のパワー (p.53)
需要と供給はシーソーみたいなもので、市場均衡価格はその重心なんだ。(P.142)
課税の極意とは、最大限の羽をむしり取り・・・・・・わめき声を最低限に抑えることですな! (p.145)
この著者が、近々、マクロ経済学の本を出すらしい。読んでみよう。

★★ なぜデザインが必要なのか
エレン・ラプトン カーラ・マカーティ マチルダ・マケイド シンシア・スミス (著)
クーパーヒューイット国立デザイン博物館の2010ナショナルデザイントリエンナーレ「なぜ今デザインなのか?(Why Design Now?)」展は、10年前の構想以来高く評価されているインスタレーションの第4弾である。初めて全世界を視野に入れて、世界中のもっとも新しい先進思考のデザインを展示し、社会変化と環境への説明責任をめぐるテーマに取り組んだ。展覧会開催中も本書でも、来館者と読者に対して、問いかけ、呼びかけを続けている。/デザイン思考はなぜ、いかにして、今日のもっとも喫緊の課題の解決に不可欠のツールとなるのか。ビジネスリーダー、政策担当者、消費者、市民に、デザインの価値をなぜ受け入れてほしいのか。デザインはいかにして、環境保護、社会の平等、資源やサービスの確保、創造的資本を後押しできるのか。この展示会とそこに選ばれた138のプロジェクトは――効率向上とコスト削減を達成するゼニスソーラー社のZ−10集中ソーラーエネルギーシステム、音声なしで時刻を読み取れるデイビッド・チャベスのハブテイカ点字時計から、インド農村地帯の女性をエンパワーするサマルス自転車トレーラーまで――、こうした問いへの答えを提示し、さらなる議論を巻き起こす。デザイン実践のすべての領域で――単に製品とプロジェクトがどのように考え出されるかにとどまらず、商品、サービス、アイデアがどのように生まれ、広がり、世界中で使われるかも含めて――「革命」が起きている。それを映し出すこの画期的なデザインプロジェクト展を皆様にご覧いただけることは私たちの誇りである。(p.8)
この138のプロジェクトがこの本に紹介されています。様々なものがあり、総じて夢に溢れるもので、未来が明るく思えました。キーワードは、持続可能、です。このデザインを支える思想が控えめに語られます。
確実なのは、先進工業社会が現在歩んでいる道−エネルギーを浪費し、厄介な廃棄物を生み出す様式は、もはや持続できないということだ。再生可能エネルギーが技術的にも経済的にも実用可能な状況、エネルギー源が枯渇するのではなく豊かになり、人間を取り巻く環境が劣化するのではなく向上する状況を作り出すことは、デザイナーにとって重大な責任であり、やりがいのある知的挑戦にほかならない。(p.18)
混沌としたエネルギーは、地元の資源、発想、地域社会が一つになれば何ができるかの象徴だ。豊かさの足音は、槌が振り下ろされ、携帯電話が鳴るたびにますます確かに聞こえてくる。(p.108)
日本人が絡んだものはあまり在りません。
イッセイ・ミヤケ (p.93) きびそブックシェルフ、ふつクリスクロス、すずしストライプ (p.94〜p.95)
興味深かったもの。
アドスペックスの技術はシンプルだ。レンズの湾曲度を変えて、屈折度を変える。シルバーの創ったレンズには液体が入っている――高い屈折指標をもつシリコンオイルの透明な丸い液嚢が、2枚の透明な耐久性のあるプラスチック膜に挟まれている。(p.133) 安く簡単にめがねができる。
もう一つ興味を引かれたもの。ワールドマッパー (p.183) 例えば、人口の多さによって国の面積を決めた地図。その他色々。興味がある方はググってみて下さい。

★★★ どうで死ぬ身の一踊り 西村賢太
藤澤清造という作家に心酔している男の話。「墓前生活」、「どうで死ぬ身の一踊り」、「一夜」、の三編からなり、同じ主人公で繋がっています。かなり風変わりな人物ですが、私は結構共感出来ます。そして、惹き付けられる内容です。ただ、暴力描写や暴力場面が少なくなく、魅力を損ないかねません。とはいえ、充分に面白い作品です。最近ユニークな芥川賞作家がいるように気がします、全てをチェックしている訳ではありませんが。実はこの主人公、著者その人なのです。これは強烈な私小説。他の作品はどうなのか、読んでみたいと思います。

★★ 衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか? 堀治喜
ひたすら、カープのフロントを罵倒している本。ごもっともな内容である。とともに、反面、一方的な見方と言えるかも知れない。何れにしても、カープが10年連続勝率5割以下、14年連続Bクラス、ということは紛れもない事実である。著者の言う通り、何とかする気があるのか非常に疑わしい。そして腹立たしい。
面白い表現:
「広島東洋カープ・サーモスタット論」/このところのカープは節目の試合、ここで勝てば、というゲームでかならず失速してしまうという癖がある。これを「広島東洋カープ・サーモスタット論」と名づけてみたいが、とにかく勝率5割とか、ここで勝てばAクラスというところで力を発揮出来ない。そのラインのぎりぎりのところまで行ったとき、サーモスタットが切れてしまう。(p.118〜p.119)
最後に、独断と偏見の「わが夢のスタッフ」、が書いてあるが、夢とはいえあまりに非現実的である。

★★ ジワジワ来る□□ 片岡K
ジワジワ来る○○[マルマル]の続編、[カクカク]、前作同様のネットで拾い集めた面白画像集、著者自らが明言しているように、二匹目のドジョウを狙ったもの。さらに、狙うぞ流行語大賞「ジワジワ来る」、なぞと帯に書いてあります。それは兎も角、今回も思わず吹き出しそうになる面白い画像がたくさんあります。とはいえ、それだけのものです。衝撃は薄くなります。

★★ 人間と国家(下) 坂本義和
東大紛争に関しては、教員サイドから見たらそうだろうという範囲のものでした。裏工作については結構面白い内容です。全体的な感想は上巻と同じ。
このプロジェクトに参加して、私が衝撃を受けたのは、私が東西対立下での課題として、「核戦争の防止と核軍縮」を、人類にとって、何よりも優先的で普遍的な課題として提起したのに対して、コタリから「核爆弾で死ぬのと、飢餓で死ぬのと、何が違うのか」と反論されたことです。もとより、核戦争反対・核軍縮推進を世界的課題とする私の主張に異論が出たわけではありません。問題は、日本では人類の最優先[この三字に傍点]のグローバルな普遍的課題と誰もが考えているものが、日本に特殊な問題意識であることを知り、第三世界の優先課題がもつ普遍性をよく認識していなかったことに気づかされたことでした。/「世界」は多元的であり、優先順位は異なっても、そこに提起される問題(たとえば飢餓)は普遍性をもつのであり、排他的でない多元性という文脈の中で考えなければならない。(p.76〜p.77)
核兵器や原発は有用な道具だという前提が、二つの点で疑わしくなったのです。一つに核戦争が起こった場合、それがコントロール不能になる危険が大きいということ。もう一つ「平和利用」の原発でさえ、コントロール不能になることが、チェルノブイリの事故で分かたということです。つまり、核を本当に人間がコントロールできるのかが、きわめて疑わしなったために、会議で「大物」たちが、核兵器無用論ともニt一口うぺき危機意識を口にしていたでした。それが、その後ゴルバチョフが、核軍縮を本気で世界に訴える背景だったのではなか。私は、チェルノブイリ事故が、とくにソ連側で核実験停止や冷戦終結のイニシアティヴ推進する重要な一因になったと考えています。(p.132〜p.133)
二一世紀の市民が抵抗し克服しなければならないのは、不当な権力や利潤の追求、格差や差別の構造だけではなく、市民の「他者への無関心」でもあるのです。「無関心」は、往々にして、明示的な「反対」よりも対応が困難な、市民社会にとっての病弊であることを忘れてはならないでしょう。「無関心」や「アパシー(apathy)」を克服する、人間的な感性の活性化によって、はじめて「連帯」 の追求が可能になるのです。(p.230)

★★ 私の食自慢・味自慢Eラーメン 嵐山光三郎(監修)
ラーメンについて書かれた小品を集めた本。全体的に、洒落たものを書こうとして、滑っているものが多いという印象を持った。しかしそもそも、ラーメンについて文章を書こうとすること自体に無理があるのではないだろうか。このシリーズは全八巻で、他に、すし・てんぷら・そば・うどん・カレーライス・丼/茶漬け・おでん/鍋、がある。因みにこの本、大きな活字で読みやすい本、ということで、2600円です。勿論図書館で借りました。
日本とラーメン ラーメン・頼山陽・日本文化(奥本大三郎)日本ラーメン史の大問題(丸谷才一)ラーメンが「アジアの壁」を打ち崩す(邱永漢)別府ラーメン(種村季弘) ラーメン古今東西 ラーメン熱(小島政二郎)幻のラーメン(佐藤愛子)築地市場の路上ラーメン(尾辻克彦)屋台のラーメン(林静一)四十二歳の感傷旅行(上野誠)最高のラーメン(立松和平)不味いラーメン(小泉武夫) ラーメンのある風景 屋台の恩恵(鄭承博)ラーメン屋の女客(林真理子)ラーメン(内館牧子)スケスケドレスのアケミさんはなぜチャーシュウメンをたべるのか!(椎名誠) インスタントも美味い! 真夜中のラーメン(北杜夫)孤独な“ラーメンの復活”(山本晋也)我流インスタントラーメン(山本益博)味噌ラーメンの無念(柴田元幸)カップ麺の正しい食べ方(東海林さだお)
立松和平、林真理子、椎名誠、あたりが面白かった。

★★ 人間と国家(上) 坂本義和
「なぜ、ひとを殺してはならないか」という問いは、論理的な証明で答えられる、また答えるぺき問題ではありません。それは、「人間ほ誰もが同じく生命をもった人間だという感覚」、「他者の生命に対する畏敬の感覚」という、論理や論証よりも根源的な感性[この二語に傍点]にかかわることなのです。(まえがき p.3)
国家は人間の社会の一部であり、社会が国家の一部ではありません。(まえがき p.4)
前書きに痺れました。私が全く名前すら知らなかった、知の巨人かと思いました。しかし、本文に移ると、サブタイトルにある、「ある政治学徒の回想」そのものになりました。とはいえ、著者の生き方は、凄い生き方だと思います。読ませる力を持っています。また、世界的に著名な人物の名前が続々と出てきて圧倒されました。
これ(寮のアパート化)は、寮のきわめて劣悪な生活環境から生まれた、個人の生存のための行動様式でした。それは、広く闇市経済の下で生存競争を行っていた、当時の日本人全体の行動様式の寮生活への反映でもあったのです。はっきりしていることは、寮生活の基礎にあった共同体が崩壊し始めたという事実であり、それは、外の社会で敗戦後に共同体が崩壊していったのと並行していました。(p.79)
下巻は東大紛争から始まっています。楽しみです。

★★★ 日本代表・李忠成、北朝鮮代表・鄭大世 古田清吾+姜成明
二人のテレビディレクターが、対照的な二人を取材して書いた、色々と考えさせられる興味深い本。著者の一人は取材対象の二人と同じ在日である。著者二人も対照的で、それぞれの見方で交互にレポートを書いていく。はじめはテレビのドキュメンタリー番組のためだった。2008年に放送されたようで、一区切りついたが、ディレクター二人は取材を継続し、この本になった。サッカー好きな人、朝鮮半島問題・在日問題に関心のある人、人生の目的は何かと考えている人、単に面白い本を読みたい人、是非読んで下さい。読もうと思う人は以下の引用は読まないで下さい。読まない人は以下にこの本の結論のようなことが書いてあります。これだけでも読んでみて下さい。

同じサッカー選手で、同じストライカーで、同じ朝鮮学校を出た2人が、1人は日本代表として、もう1人は北朝鮮代表として、戦っている。/国と国を代表する真剣勝負の場で在日の選手が、違う色のユニフォームを着て同じピッチに立っている。在日の人たちは、そして日本の人たちも、どういう想いでこの試合を見るんだろう。/私は、モヤモヤと抱き続けてきたいろんな疑問が今日この場で解けるのではないかと、どこかで期待していた。歴史的な瞬間に立ち会っているはずだった。
 しかし、何かがおかしい。
 想像していたものと何かが違う。/私が求めていた2人の姿はそこにはなかった。「国の威信をかける」だとか、「ナショナリズムをぶつけ合う」だとか、そんな姿は見当たらなかった。目の前のピッチには必死でボールを追いかけるだけの2人のサッカー選手しかいなかった。少ないチャンスのなか、ひたすらゴールに向かおうとする大世。渾身の力を込めて執拗にシュートを打ち続ける忠成。
 目の前に見えるのは、ただ、ボールを懸命に追いかける選手たちの姿だった。/そこには、国とか、民族とか、アイデンティティとか、私が2人を追いながら考え続けてきたことが、なにも存在しなかった。/勝手に思い描いてきた「何か」が、このフィールドに落ちていない。
 ユニフォームの色は違う2人は同じ環境で育った。2人は異なる国を選択している。そうなのかもしれない。/でも、私の目の前にいるのは、サッカーがうまくなりたくて、ゴールネットを揺らしたい、チームメイトと喜び合いたい。そして勝ちたい。そういう気持ちで戦い続ける2人しかいなかったのだ。/その瞬間、2人がまっすぐに見つめていた先の景色が、初めて私にも見えたような気がした。私の期待していた思い込みは、フィールド上には何も存在しなかったのだ。

(p.274〜p.275)

★★★ 感じる科学 さくら剛
物理学者でもない著者が、相対性理論、量子論、進化論、などを分かりやすく面白く解説した本です。専門家ではないからこそ、うまくツボを押さえて書いています。以下の二つは、二・三冊相対性理論の本を読んで鱗が落ちなかった私の目を見開かせてくれました。もう一度、もう少し深い内容の本に挑戦しようという気になりました。
光は、どんなスピードのものと比べてもそのものより常に秒速30万キロメートル分速く進んでいるのです。(p.39)
この宇宙では、光速度が変わらない代わりに、光速度を変えないように時間と空間が変形しているのです。(p.41)
面白く書こうという思いが、上滑りしている所もありますが、以下はナカナカだと思います。
私たち(の子孫)は、太陽系だけでなく銀河系自体からも脱出を図る必要があるかもしれないのです。なぜなら、現在の銀河の動きから予測すると、およそ50億年後には私たちの銀河はアンドロメダ銀河と衝突すると考えられるからです。/衝突の結果甚大な被害が出るのか、それとも案外無事にすれ違うことができるのか、それはまだ今の時点ではわかりません。しかし仮に衝突を避けるため直径15万光年の天の川銀河から脱出を図るとしたら、アポロのスピードで50億年近くかかりますのでもうそろそろ出発しないと間に合いません。(p.240)
多くの生物はオスを選ぷ権利をメスが握っています。まあ、人間の場合もだいたいそうですよね……。/その結果、特に一夫多妻制が当たり前の動物の世界ではモテない個体は子孫を残せず、モテるやつだけがどんどん子どもを作るため、いずれその種のオスはメスの好みの形をした個体ばかりということになるのです。/でも、それならもうそろそろ人間の男もイケメンぱかりになっていないとおかしいのに、いまだに我々には厳しい個体差があるのはなぜでしょう。実に不思議です。不公平です。/あまりこういうことを言うのは良くないかもしれませんが、ここだけの話、小さい声で言いますが、これは一夫一妻制の弊害かもしれません。一夫一妻で誰でも子孫を残せるようにしてしまったら、自然選択による進化が働かないですからね……。その点一夫多妻制ならきっちり生物として自然な形で進化していけるので、この際人類のために日本も一夫多妻制を導入したらいいのにね……なんてことは私はこれっばっちも思っていません。本当にまったく思っていません。そんなことを世界で一番思っていない人間がこの私です。(p.264〜p.265)

★★ 私が弁護士になるまで 菊間千乃
アナウンサーが弁護士に、へ〜、と思って読みました。ちょっと前、未成年のタレントと飲酒をしたということで話題になった人だということを家族から聞きました。本文でもちょっとふれられています。それとは関係なく、弁護士を目指していたようです。割と飾らずに率直に書いているという印象を受けました。司法試験に受かるための努力の凄さに、想像はしていましたが、驚きました。受かってからの修習生の研修内容も興味深いものです。これからどんな活躍をするのでしょう。

★★ 日本の田舎は宝の山 曽根原久司
全国各地域を歩く中で、日本の農村に眠る膨大な資源の実態が明らかになってきました。日本の農村には資源、すなわち「宝」が膨大にありました。これらの農村資源を活用すれば、私は合計10兆円の産業と100万人の雇用創出が可能だと考えています。(p.13) プロローグにこう書いてあります。簡単に言えば、これに向かって行なっている実践を書いたものと言えるでしょう。説得力がありそうです。そうです、と言うのは、経済に疎い私には判断出来ないことが多いからです。数字がポンポン出てくるのですが、現実的にとらえることが出来ません。逆に数字が具体性に欠けることもあります。世界第2位の森林率を誇る、と言う表現が何度も出てきますが、日本の森林面積が世界と比べてどうなのかには言及がありません。まあ私に判らなくても、この本の主張が適切であれば、世の中、その方向に進むでしょう。そしてそれはいいことのように思われます。

★★ 官邸から見た原発事故の真実 田坂広志
著者は、2011年3月29日から9月2日まで、内閣官房参与として、原発事故への対策、原子力行政の改革、原子力政策の転換に取り組んだ。原子力工学の専門家として、これまで原発を推進して来た側の人間として、この本を書いている。本のタイトルを見て、どの様な真実が明かされるのか期待して読みました。
原発事故の後、現在、「最大のリスク」は何でしょうか?/それは、明確です。/「根拠の無い楽観的空気」/それが、最大のリスクです。(p.20〜p.21)
原子力の「安全思想」の落し穴/何でしょうか?/「想定外」という落し穴です。/正確に言えば、「技術的」に、どれほど安全な対策を施していても、「人的、組織的、制度的、文化的」な要因から、技術者が「想定」していなかったことが起こるという落し穴です。/もとより、安全設計において技術者は、「起こり得る全ての事態」を想定しているはずなのですが、先ほどのJCOの事故に象徴されるように、「想定を超えた事態」や「想定もしていなかった事態」が、現実には、しばしば起こるのです。/すなわち、言葉を正確に使うならば、安全設計において技術者が行っているのは、「起こり待る全ての事態を想定している」のではなく、「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎないのです。従って、その技術者、もしくは技術者集団の「想像力」を超えた事態は、「想像」もされなければ、「想定」もされないのです。(p.75〜p.76)
この引用のように著者が、今まで一般人が知らなかった情報を開示したり(守秘義務があるのでしょう)、格段に素晴らしい発想をしている訳ではありません。結論的に述べられている、廃棄物の問題にしても、今更という感じがしないでもありません。ただ、専門家に理路整然と言われると、とても説得力があります。ちょっと残念なのは、「政界、財界、官界のリーダーの方々」、と言う呼びかけが多く、「国民の信頼」というキーワードに具体性が欠け、最終的な方向性が示されていない、ということです。

★★ 味写入門 天久聖一
味写、とは、味な写真のことだそうです。デジカメが普及する前、写真はいったん現像しプリントしないことには出来が判らなかった時代、アルバムに貼られることの無かったボツ写真が出たものでした。そんな写真をあとから眺めると、意外に味な写真があるものだ、と著者が集めたもの、というか、著者の呼びかけに応募してきたものが、この本に収めてあります。確かに、意図しない、偶然の面白さがあります。また、その写真に付けてあるコメントが傑作です。
「無い」と題された写真。どんな写真家は以下を読むと判ります。なにも無い檻を見つめるおじさん。おじさんの眼差しは自己の内面に向けられている。そのおじさんを見つめる私たちもまた、おじさんを通して自己の内面を見つめている。なにも無い檻は、空虚な私たちの内面を暗示している。(p.68)
汚れちまったサイコロに、というタイトルの写真。ゴミの山にサイコロ(小堺一機が司会している「ライオンのごきげんよう」という番組で使っているもの、に見えます)がのっかている。
徹夜で飲んだ朝帰り、鼻白んだ街角で見つけたおなじみの六面体。聞いてくれる相手もない早朝のサイコロトーウ。あの夜、君に言えなかった恋バナを、さあどこから話そうか? 汚れちまったサイコロに、今日も小雪の降りかかる。汚れちまったサイコロに、今日も風さえ吹きすぎる・・・・・・。(p.106) 中原中也調が、笑える。

★★ 日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり” 山田昭男
日本でいちばん大切にしたい会社3、という本でも紹介されていた、未来工業、の創業者が書いたもの。当事者が書いたものだから、同じ会社のことでも切口が違っていて面白かった。カバーにも書いてあるヘンなきまり――休日数日本一、報連相禁止、命令禁止、70歳定年、全員参加の海外旅行(この旅行、社員が企画するそうです)。仕事をする上で大切なこと――徹底した差別化――よそと同じものなら作らない、儲かっていない会社と同じことはしない、日本一(初)にこだわる、常に考える。そして、目次から言葉を拾うと、この本の大凡の内容が分かります。社員に任せる、“餅”を配ってモチベーションを上げる。利益を生む小さな倹約、社員が喜ぶ大きな浪費、社員がしあわせなら会社は儲かる。豪快な語り口で、全てに共感できるわけではないが、ナルホドと楽しく読めました。
日本企業の一番ダメなところは、「いいモノを安く」というスローガンだ。これが衰退の元凶だと俺は思う。/日本にある会社の100%は、金儲けを考えている。商売というのは金儲けが目的だから。そう考えないで「社会貢献だ、なんだ」というのはボランティア。NPO(特定非営利法人)でやればいいことだよ。/その金儲けをしたい経営者たちが謳うのが、「いいモノを安く」という言葉だ。/しかし、俺は、いいモノを安く売ってどうやって金が儲かるのか? と言いたい。そういう経営者はどうかしているよ。(p.104)
成果主義のダメなところは、人間が人間を評価するところだよ。/人間には感情がある。誰だって、虫の好かない奴に良い評価を付けるわけがないんだから。(p.110)

★★★★ つぎはぎ仏教入門 呉智英
久し振りに読み応えのある本だった。今の私の読書態度では、理解するのが困難な本と言った方がいいかもしれない。仏教に纏わり付いている虚飾を剥がし、本質をさらけ出している。いや、仏教に限らず手当たり次第という感じである。特に、キリスト教を対比させ、論じることが多く、色々なことを考えさせられた。この本をもう一度読むか、別の本を探すか、そして、仏教について、宗教について、自我について、もっと追求してみよう。
釈迦出生の奇瑞(きずい)は釈迦出生を荘厳(しょうごん)するための神話表現であって、仏教哲学の本質部分でほない。これがキリスト教の場合は、そうではない。全体が神話という物語によって構成されている。神が万物を創造し、人間は罪を犯し、イエスが礫刑によってその罪を償う、というすべてが神話(物語)であり、論理的検討はそもそもありえない。これを信ずるか否かが一切である。万巻の書物を読んだ神学者より、無学でもただイエスを信じる農夫の方が救いに近い。無学な農夫どころか、知能に障害のある子供でもイエス像の前でただ無心に微笑むだけで救いはある。しかし、仏教ではそうでない。「智慧による解脱」を目的とするからである。/このように理知的な宗教であることは、宗教としては決定的に弱点となっている。宗教として広汎な人々の信仰を得るには、感動的で分かりやすい物語である神話を教義とした方が有利に決まっている。(p.103〜p.104)
ここ十年はどの新語で嫌な言葉の筆頭がこの「上から目線」である。そもそも「目線」という言葉はテレビ業界などの俗語で、あまり品が良いものではないが、それはさて措こう。「上から目線」が嫌なのは、上から目線であることが嫌なのではない。上から目線だと言えばそれで何かを批判できたと思う怠惰な精神が醜悪なのである。上に立つ者が上から目線であるのは当然ではないか。それのどこがいけないのだろう。社会全体の平準化圧力に同調していることを批判精神と勘違いした幼稚で甘えた連中の口にする言葉である。こんなものが批判の言葉として成り立つのは文明の衰弱以外の何ものでもない。(p.180)
現代病と総称される病気がある。高血圧、糖尿病、癌など、豊かさと便利さの中で増加した病気である。しかし、最もたちの悪い現代病は「自我という病」ではないのか。現代社会が爛熟した二十世紀の終わりごろから社会問題となっている「引きこもり」「ニート」「俺様化(おれさまか)」などのことである。これらは、動脈や膵臓や胃など臓器に起きる病ではなく、自我に起困する病である。さらに考えれば、自我は自我であること自体既に病であるのかもしれないと思えてくる。有限の自我を無限であると思い込み、現象であるはずの自我を実体であるとして固執するのは、当の自我自身である。(p.182〜p.183)

★★★ 経営者・平清盛の失敗 山田真哉
大河ドラマに便乗してアタリを狙った著作か? この著者のこれまでの作品を振り返るとそう思ってしまう。ただ、どれも面白い。私が読んだのは、『女子大生会計士の事件簿』シリーズ2冊、『さおだけ屋は何故潰れないのか』、『食い逃げされてもバイトは雇うな』『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い』。タイトルを見るだけで、ヒット狙いが見え目だ。
で、この本だが、さらに面白い。歴史の専門家はなんというか分からないが、面白い。経済的な視点から、平家や平清盛を見ていく。ナルホドと思うことがたくさんある。日本で使われた貨幣のことなんて考えたことも、教わったこともない。ただし、面白いことは面白いが、歴史解釈に誤りがあるのではないかと思うところもある。専門家の意見も聞きたい。

★★ グロービッシュ                      ジャン=ポール・ネリエール/ディビッド・ホン
GLOBAL ENGLISH 繋げて、グロービッシュ。簡単に言うと、英語を基にした、世界中の人がコミュニケーションのために使える言語、ということだ。英語ではあるが、単語数や用法、文法などを制限し、コミュニケーションの「道具」としての役割だけを負わせる。この本自体がグロービッシュの実践となっている。本を開いた左側がグロービッシュ、右側がその日本語訳となっている。確かに分かりやすい。日本の大学生なら、いや、高校生でも理解出来るのではないか。エスペラントの試みがうまくいかない今、英語が事実上世界共通語となろうとしている今、この試みはいいかもしれない。でもやはり英語、というところには引っかかりを持つ人が多いかも。
グローピッシュは、ツール(道具)以上になることは目指しておらず、だかろこそ、英語とは異なるのだ。英語は文化的な言葉である。とても豊かな言葉だ。ひとつのことを表現するのに20もの単語が当てはまる場合もある。さらに、そうした単語を、長い、長い文章の中で使う方法が山ほどあるのだ。英語を残さず学ぶことは一生の仕事ではあるが、大きな見返りもある。英語をしっかりと学んでいる人は、豊かな文化の世界を探究できるのだ。そうした人は英語をたくさん学び、身につけたもので、様々なことができる。/しかしグローピッシュは、そうした高みを目指してはいない。ただ必要な分だけでよいのだ。(p.51)

★★★★ 感染症と文明 山本太郎
感染症を中心に人類の歴史を分析したもの、と言えるだろう。何処かで読んだことがある内容があると思ったら、ジャレット・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』だった(p.87)。人類の歴史は病気との闘いであり、人が自然な生き方から離れるほどに様々な病気が出てきたようだ。さらに、病気の克服は一時的なものでしかなく、将来どうなるか予測もつかない、という記述には空恐ろしいものを感じる。この本のサブタイトルが、共生への道、となっているのは、病原菌との共生であり、その根絶がどういう結果をもたらすか分からないことに対する警告である。
環境が変化すれば、一時的な不適応が起こる。変化の程度が大きいほど、あるいは変化の速度が速いほど、不適応の幅も大きくなる。農耕の開始は、人類にとって環境を一変させるほどの出来事であった。長い時間のなかで、比較的良好な健康状態を維持していた先史人類は、農耕・定住を開始した結果、変化への適応対処に苦慮することになり、その苦慮は現在も続いている、ということなのかもしれない。(p.38)
長期にわたって進行する健康損失は、問題が顕在化するまでわからないことも多い。例えば天然痘根絶計画についても、この計画の成功が病原体と宿主を含む生態系にどのような影響を与え、長期的に人類の健康にどのような影響をもたらすことになるのか、現時点では誰にもわからない。(p.152〜p.153)
適応に完全なものはありえないし、環境が変化すれば以前の環境への適応は、逆に環境への不適応をもたらす。その振幅は適応すればするほど大きくなる。(略)過ぎた適応による副作用は、社会文化的適応にも見られる。狩猟がうまく行きすぎると、生態系のバランスは崩れる。牧畜がうまく行きすぎても牧草地は荒廃する。/ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか。/感染症と人類の関係についても、同じことが言えるのではないかと思う。(p.192〜p.193)

★★★ 下町ロケット 下井戸潤
物語を読む理由の一つは、虚構空間において現実には出来ない経験が出来ることだろう。その意味で、この本は素晴らしい。宇宙開発機構の技術者がロケット打ち上げ失敗のため退職し、実家の町工場を継ぐ、というところから物語りは始まる。この主人公がロケット開発に欠かせない特許を取っていたことから、実に様々な事態が発生する。あまりによく出来た虚構世界なので、本当にこのようなことがあるのか、と多少疑問を感じるところもないではないが、見事に感情移入して(させられて)、大いに心を動かされた。最近涙腺が弛みやすくなっているようだ。ただ、この種の本に変な要求をしてはいけないのかも知れないが、楽しんだ後、その先に見えるものがないのは残念である。

★★ チーズは探すな! ディーパック・マルホトラ
世界2400万部のベストセラーに異議あり! と帯に書いてあります。「チーズはどこへ消えた?」に反論する本です。英語のタイトルは、Who Moved My Cheese? に対して、I moved Your Cheese! です。原書はどうか分かりませんが、日本版は体裁もそっくりで、悪乗りというか、前書の売れ行きに便乗しようという意図が見え隠れします。
二書を対比すると、ネズミ2匹とこびと2人:ネズミ3匹、処世訓:哲学書、といった所でしょうか。迷路や壁などが暗示するものも違っています。そもそも前書ではその存在を問題視していません。
読みながら、時代の変化を感じました。この十年ほど、世界は大きく変わりました。この変化がこの二書の違いではないかと感じたのです。変化し混迷する現代、この本は今を反映していて、これからを生きる術を提示出来ていないのではないでしょうか。いや、その様な術を提示出来る世の中ではなくなったと言うべきなのかも知れません。
この世の中には、
マックスのように大きな目的をいだいた者たちがいる。
ゼツドのように制限を受け入れない者たちがいる。
ビッグのようにとにかく力強い者たちがいる。
あなたはどうだろう?
あをたの物語を始めてください。
(p.89)

★★★ 日本でいちばん大切にしたい会社3 坂本光司
タイトルにあるように、このシリーズ三冊目。書いてあることが真実だとしたら(と、こんな条件を付けてしまうが)、素晴らしい会社があるものだ。今回は七つの会社が紹介されているが、なんといっても最後に登場する、清月記、が凄い。東日本大震災――ご遺体の仮埋葬・掘り起こしで人間の尊厳を守りぬいた葬儀社、というサブタイトルが付いている。この震災については色々な報道がなされているが、この方面については初めて知った。
12月28日警察の発表で、行方不明者が、3468人、少しずつこの数字が減っていくのを見ながら、地道に活動している人がいるのだろうと思っていたが、葬儀については考えてもみなかった。この会社の仕事を知って、本当に頭の下がる思いです。さらに葬儀だけではなく、仏壇をなくした人たちのために、1500のミニ仏壇を無償で提供したということ、そして、この仏壇を納品したメーカーがこのことを知り代金はいらないといったこと、感動的な話がつながっていきます。
他の6社も貴重な会社だと思います。日本の将来に不安を持っている方、読んで下さい。

★★ チーズはどこへ消えた? スペンサー・ジョンソン
10年ぐらい前に読んだ本だが、最近出た「チーズは探すな!」を読む前に、復習しようと思ったのです。
敢えて一言で要約すると、世の中の変化に対応しなければいけないということ。
人は変化に対応することができるようになるのだ。それは――
 物事を簡潔に捉え、柔軟な態度で、すばやく動くこと。
 問題を複雑にしすぎないこと。恐ろしいことばかり考えて我を失ってはいけない。
 小さな変化に気づくこと。そうすれば、やがて訪れる大きな変化にうまく備、夏ことができる。
 変化に早く適応すること。遅れれば、適応できなくなるかもしれない。
 最大の障害は自分自身の中にある。自分[この二字に傍点]が変わらなければ好転しない――
 (p.65)
では、「チーズは探すな!」を読んでみます。