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読書中 天皇と東大(下) 立花隆

読書中 「食糧危機」をあおってはいけない 川島博之

2009年 101冊読破 
今年、時間にゆとりができた割には、冊数がそんなに増えなかった。部厚い、難しい本があったためだと思う。来年は、テーマを絞り、体系的な読書もやってみようと思っている。

★★★ 日本の食力 山本謙治
私が著者を知ったのは、「やまけんの出張食い倒れ日記」というブログだった。広島のお店のことが書いてあり、その時はそこを読んだだけだった。ブログのサブ見出しには、「私は農産物流通業者。日々、全国津々浦々の旨いもんを食い倒れる。さすらいの食い倒ラーとは私のことだ。」、と書いてあります。
本の著者紹介には、農産物流通コンサルタント、と紹介されています。仕事内容の詳細は本読めば分かりますが、その言葉の持つイメージ通りです。ただし、売るということを第一に考えるのではなく、著者の使っている漢字で書くと「佳い」食を目指しているという姿勢が窺われます。
利益を追求する資本主義の世界に「食」を委ねたら、いったいこの世の食べ物はどうなってしまうんだろう。バブル崩壊後、日本では「安いこと」が最高の価値になって、食品も、それ以外のものも全て輸入原料を使った安い価格の商品ばかりになってしまった。そしていろいろな事件が起こつた。当たり前の結果だ。「だから、農林水産業もきちんとしたビジネスにしていかなければならないんだ」という人もいるけれども、もちろんビジネスとして成り立つようにするのは前提だが、他のビジネス分野と同じようにしてしまったら、いま以上に悪くなるはずだ。/現在、日本の食の信頼性が少しでも保てているのだとしたら、それは農業の現場、流通の現場で踏ん張っている人たちがあってのことだ。その多くは新規参入者ではなく、利益が下がってきても、なんとか頑張っている既存の世界の人たちである。その延長線上にしか、日本の食の未来はない、と僕は思う。だから僕は、既存の農業関係者と一緒に歩きたい。(p.174〜p.175)
ナルホドと思った指摘:料理を知らない生産者と食材を知らない料理人
これを結び付けるのも著者の仕事のようだ。
食の世界は難しく、よく分からないことが多い。いろんな立場の人の話を聞きたいと思う。

★★★★ 絞首刑 青木理
私は死刑廃止論者ではない。しかし、この本を読んで、考えさせられた。
この本は、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と呼ばれる、3人の少年が起こした事件を5つのパートに分け、その間に4つの事件の死刑判決を挿入している。
1つ目、栃木・今市4人殺傷事件の死刑囚は、四半世紀に近い時を東京拘置所で過ごした75歳の、自立歩行すらできない車椅子の障害者だった。死刑確定から執行(06年12月25日)まで13年3カ月。
2つ目、愛知・半田保険金殺人事件の死刑囚は、被害者遺族と不思議な交流を成し遂げ、被害者遺族側が死刑の執行をしないように訴えていた。死刑確定から執行(01年12月27日)まで8年3カ月。
3つ目、埼玉・熊谷4人拉致殺傷事件の死刑囚は、一審で死刑判決を受け、弁護士の勧めでいったんは控訴したものの、直後に取り下げ判決を確定させている。07年7月死刑確定、執行は未だのようだ。
俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。/俺個人の価値観からすれば死んだ方が楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。/死を覚悟している人からすれば死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃がしてくれるだけです。/だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。/死を受け入れる変わりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。/なんて奴だと思うでしょうが死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。/人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。/将来のない死刑囚は反省など無意味です。(原文ママ) (p.128)
4つ目、福岡・飯塚女児殺害事件の死刑囚・久間は、捜査段階から一貫して無罪を主張した。有罪の根拠となったのはDNA鑑定だった。事件は92年2月、逮捕が94年9月、06年9月死刑確定、08年10月死刑執行。この後、足利事件との類似が指摘される。
実際、「足利事件」で冤罪の原因をつくった科警研のDNA型鑑定の結果が示されたのが91年の11月だ。そして実は、久間の事件で科警研のDNA型鑑定が行われたのも「足利事件」の鑑定からわずか半年後の92年6月であり、鑑定方法や鑑定メンバーまでがほぼ同一だったのである。
早すぎた久間の死刑執行から一年もたたないうちに、当時のDNA型鑑定のいい加減さが暴露され、足利事件の被告は釈放された。一方、飯塚の事件の証拠は保管されていないそうだ。とても遣り切れない、嫌な気持になった。
さて、3人の少年の事件であるが、一審では1人が死刑、2人が無期、二審では3人ともが死刑になっている。先の4つの事件を挟んで、3人の生い立ち、事件の詳細、事件後の様子が述べられるが、このような構成の意図は、ある意味露骨だし、ある意味稚拙でもある。死刑という刑罰の残虐性と無意味さ、死刑囚の被害者に対する謝罪、えん罪の可能性(これは3少年には無関係)。結局、4つの事件が強烈過ぎて、少年たちの話が霞んでいる。それはともかく、死刑については考えさせられた。本の最初に、著者が多くの人から聞いて想像した、死刑執行の描写があるが、これも衝撃的だった。我々は、死刑については考えることもあるが、死刑執行については殆ど考えないのではないか。
私たちは死刑についてしばしば感情に任せて語りたがる割に、その足下の実態をあまりに知らないように思う。死刑をめぐる議論は多くの場合、酷く表層的で、情緒的で、時に理念的だ。特に<絞首>によって執行される日本の死刑は、世界にも例がないほど徹底した密行主義の壁に覆われ、一体に刑場でどのような光景が繰り広げられているのか、公の職務として執行に携わっている人々がどのような想いを抱えながらそれに関わっているのか、そうした事柄自体が闇の奥に隠されていで見えない。(p.236)

★★ 昭和写真劇場 岡井耀毅
昭和、それも特に戦後の昭和、の写真史の本。著者は歴史にも造詣が深いようで、写真史をうまく歴史の中に位置づけている。ただ残念なのは、文があまりに技巧的で、何を言いたいのか分からなくなっているところが多々あることである。様々な所に発表したものを集めているので、全体的統一に欠けるところも見られる。時間経過とともに主張が変わっているのである。一番残念なのは、版権の関係だろうが、写真が少ないことだ。載せてある写真も縮小されていて迫力に欠ける。写真に関する本なのだからそこを大切にしてほしかった。
のちの社会党委員長石橋政嗣は、ヒロシマ・ナガサキが護憲勢力の原点と瀧定していて、筆者にこう語ったことがある。「戦後、護憲勢力がつねに三分の一の議席を守り抜いてきた最大の要因は、まさに原爆ですよ。これが反米の原点になり、不戦の原動力なんです」 (p.198〜p.199)
写真の生来の宿命が現実にあるものの映像化に依拠しているかぎり撮影側の一定の意志による解釈は当然ありえても、所詮は被写体の実体範囲内にとどまらざるを得ないので、ここに生ずる微妙にして決定的な対象への従属意識は、写真という表現機能において到底避けられないもののように思える。そればかりか、こうした写真の機能構成が、往々にして合成や多重などの技法のもとに現実を仮想化して非事実の「真実」という驚くべき映像をつくり出してきたことは、戦時中の戦意高揚の宣伝写真の実態をみれば、一目瞭然であろう。(p.265)
写真は、やはり、心の奥底にうずく渇望のような実体をとり出してみせるものなのだろう。ある日、ある時、ある場所で何かを見たとき、とても言葉にならないような一瞬胸の中をよぎつていく思念を追いかけながら、その一瞬の不意打ちの光景を愉しみ、あるいはたじろぎ、あるいはもだえて撮り収める「恍惚と不安」。そんな生の息づかいが聴きとれるような肉体感覚が写真にへばりついているようでいて、対象との距離感がほどよくて哀しいほどに透明である――。(p.354)


★★★ 牛を屠る 佐川光晴
タイトルを見て被差別部落にからんだ話と思う人がいるかもしれません。というか、現実に私の周りにいました。しかし、直接的に関係はありません。大宮市営と畜場(大宮食肉荷受会社)で著者が働いた日々のことが書いてあります。屠殺の様子も細かく書いてあり、2年ぐらい前に見た「いのちの食べ方」という映画を思い出しました。その映画では、牛や豚の屠殺の様子が映されるのですが、この本に出てくる「芝浦と場」(東京中央卸売市場食肉市場)の機械化されたやり方でした。著者が働いたところは機械化されておらず、力とテクニックを必要とするようです。明確に書かれてはいませんが、人が生きるために他の生物の命を頂く、という考えが根底にあるように感じられます。だからだと思います、グイグイと引き込まれて一気に読みました。著者はこの経験をもとに、「生活の設計」という小説を書き、新潮新人賞をとりました。読んでみようと思います。受賞からしばらくして、10年ぐらい働いた会社を辞め、文筆業に専念した様です。その後、芥川賞の候補には何度もなってはいますが、まだ受賞には至っていません。

★★ 静人日記 天童荒太
「悼む人」、坂築静人の日記。内容から考えて、「悼む人」よりも時間的に前だと思われ、全体としての完成度は高くない。一つ一つの話は長編小説にもなりそうな広がりを感じるが、そうのようなものがひたすら羅列されると読むほうはつらい。迷いは書かれてはいるが、彼の悼みに対する態度は変わらない。
そこが都会であろうと、田舎であろうと、歴史をさかのぼれば、いま足をのせた地面の下には、掘り起こされないままの死体があると言っても過言ではないだろう。人はそれを考えないようにして、生活している。泥を踏み越えないと、多くの人が埋まっている場所へ近づけないように、足の下の死者を意識しないようにしなければ、生活していけない。/ことさら足の下の死者を想うのは、偽善的かもしれない。しかし偽善を意識しながら、やはりせざるを得ないのが、自分の悼みだ。(p.82〜p.83)
最後の方は恋愛小説になりかけるが、面白い展開だった。更に、世俗を超越したような夫人が登場し、劇的な展開を期待していた私はワクワクしたが、下に引用した夫人のセリフにも彼が動かされることはなかった。「悼む人」の前ではなく、後が読みたい。
あなたの行為はあまりに重く、人としての分を超えている気がします。(p.309)

★★★ 佐藤可士和×トップランナー31人 集英社編集部
様々な分野の人たちと佐藤可士和の、3年間にわたる雑誌での対談を書籍化したもの。その時はページ数の制約があり、充分に内容を伝えられなかった、とあとがきに書いてあるが、この本でも短い人は、というか、多くの人は4ページ、長い人でも10ページが一人だけ。それも写真が2・3枚含まれているので、実質はもっと少なく、読んでいて、なかなかに面白いが、ちょっと物足りなさを感じた。この本に登場する人に多くみられることは、早い段階で高い志を持っていたこと、グループを大切にすること、短所ではなく長所を強調すること、自分のためではなく依頼者やお客・読者のために活動する、といったことです。ためになりました。「佐藤可士和の超整理術」もユニークだったし、彼はかなりの才人です。
僕もものをつくる時「軽さ」を重視します。「軽い」という感覚はイコール風通しの良さに通じるものがある。例えば日本は障子や畳といった紙や藺草(いぐさ)のような軽い素材をよく使うでしょう。日本にはそういう「軽さの美学」がある気がします。(p.83)
年とともにいろいろなことを経験してくると、ふと自分自身を振り返るようになる。俺の人生、これでよかったのかな、とかね。その時に自分の人生に欠けてきたピースを探そうとするんですよ。何か抜け落ちているものや足りないものがあったんじゃないかと思ってね。そういう時に、作家が人生のすべてを賭けてつくつた作品に触れると、そのパワーに心を揺さぶられ、溜飲が下がったり、答えが見えてきたりするんでしょうね。それが「生」の作品の良さなんだと思います。(p.175 村上隆のセリフ)


★★ ラバウル温泉遊撃隊 山崎まゆみ
著者は、温泉ライター(こんな職業があるのだろうか)で、混浴秘湯めぐり、で有名、マスコミにもよく登場している(らしい)。現在までに、21ヶ国、750ヶ所以上の温泉を訪ねたそうだ。その過程でラバウルの温泉に巡り合い、二次大戦中に日本兵が入ったという幻の温泉を探す、というのがこの本の内容。現代的な軽い若い女が、戦争の悲惨さ重大さに気付いていく物語、と言えないことはないが、それだと陳腐。温泉そのものも、当時の兵士にとっては貴重なもの、大切な思い出、だろうが、著者にとっては何なのか、不明。ちなみに、ラバウル温泉遊撃隊、というのは実在した部隊名だそうです。私は、ラバウルの温泉に入りまくった著者の自称かと思って読み始めました。結局、焦点のハッキリしない本です。

★★ 乳と卵 川上未映子
「ヘブン」が面白かったので、芥川賞受賞作を読んでみた。大阪弁の、息の長い文章で、「ヘブン」とは全く別物だった。そして、芥川賞だった。先日読んだ、「終の住処」よりは良かったが、最近この手の小説に『感電』することが少なくなった。虚構の世界にのめり込めないと言ったらいいのだろうか。
○ 最近はものを見てると頭がいたい、最近はずっと頭がいたい。目から色んなものが、入ってくるのか。目から入ってきたもんは、どっから出て行くのでしょうか。どうやって出るのか言葉になってか涙になって、でももしか、泣いたりもしゃべったりもできん人やったらば、そうやって目にたまったもん出していけん人やったらば、目からつながってるとこ全部ふくらんで、いっぱいになって、息をすんのもしんどくなって、それからどんどんふくらんで、目はもうきっと、あかなくなってしまうでしょう。緑子 (p.80〜p.81)
おまけに付いてる、「あなたたちの恋愛は瀕死」という超短編、この世界には暫くの間没頭できた。ということは、私の集中力が継続できる長さの本だったら感動できるということか。つまり、集中力や感受性が衰えているということか。

★★★ にっぽん劇場 1965-1970 森山大道
写真集、ではあるが文字も多く、それがなかなかに面白い。発想がユニークで、芸術家の精神はまさにこうでなければならない、といった感じである。写真も独特で、ほとんどがモノクロ、古いためだけではない、不鮮明さが不思議な世界を作っている。この時代のどす黒い情念のようなものを思い起こし、懐かしいような、さびしいような、それでいてワクワクするような、異様な気持ちになった。
「WELCOME NAVY!」と、双手をあげて歓迎もすれば、「原潜入港反対」のシリ馬にもちょっと乗っかる、きわめてウラハラなメンタリティ。その生々しいアクチュアリティにもかかわらず逆光に浮かび上がったゴーストタウンとして、私のイメージに結びついたヨコスカは、日本人の社会および社会構造の一端が、そのまま縮小され固定化されている湿地帯ともいえよう。

★★★ しがみつかない生き方 香山リカ
「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール、というサブタイトルが付いていて、何となくハウツーものに近い内容を想像していた。ところが、こんな言い方は変だけれども、まともな本でした。還暦おじさんが読んでも、共感できることが書いてあります。香山リカ、なかなかの人物だと思いました。10のルールを抜き出してみます。第1章:恋愛にすべてを捧げない。第2章:自慢・自己PRをしない。第3章:すぐに白黒つけない。第4章:老・病・死で落ち込まない。第5章:すぐに水に流さない。第6章:仕事に夢をもとめない。第7章:子どもにしがみつかない。第8章:お金にしがみつかない。第9章:生まれた意味を問わない。第10章:<勝間和代>を目指さない。
「まあ、いまのところはそう思っているのだけれど、もうちょっと様子を見てみないと何とも言えないね」といったあいまいさを認めるゆとりが、社会にも人々にも必要なのではないだろうか。そしてこの「あいまいなまま様子を見る」という姿勢はまた、自分と違う考え方、生き方をしている人を排除せずに受け入れるゆとりにも、どこかでつながるものだと思われる。(p.83 第3章の最後)
ふつうにがんばって、しがみつかずにこだわらずに自分のペースで生きていけば、誰でもそれなりに幸せを感じながら人生を送れる。それで十分、というよりそれ以外の何が必要であろうか。(p.204 あとがきの最後)

他の本も読んでみようかな。

★★ 自然栽培ひとすじに 木村秋則
ちょっと前、「奇跡のリンゴ」という本を読んだ。木村秋則さんというリンゴ農家を取材した本だ。その本人が本を書いているというので読んでみようと思った。やはり、本人が書いたものの方が描写力、説得力、迫力が素晴らしい。具体的な栽培方法まで書いてあり、素人にはよく分からないところがあるが、自然栽培というものの、意味・意図・意義がよく分かった。ますます彼のリンゴが食べたくなった。
作物に虫がついていたり、または虫喰いの跡があることを、農薬を使っていない(もしくは農薬使用量を抑えた)証拠として尊ぶ風潮があります。本当にそうなのでしょうか。農薬はもちろん、肥料も堆肥も与えない私の栽培法では虫さえ寄ってこない。自然環境のなかでは、無駄なもの、過剰なものは生成されません。もし何かが過剰になったとしても、それを摂取、分解する役割のものが現れて、バランスを回復させるのです。/肥料・堆肥は過剰な養分であり、それを虫が食べてくれているのだというふうに私は解釈しているわけですが、あらかじめ過剰な養分を与えていない自然栽培で虫の害が少ないという現象は、それを証明するものではないでしょうか。(p.114〜p.115)
シシトウの場合、水分が不足すると辛いものができてしまう (p.127)


★★ ココロの教科書                          ひすいこたろう+スズキケンジ
図書館で5月に予約 【この本に限ったことではなく、ほとんど図書館です】、市の図書館全体で3冊持っていて順位が23番目でした。届いたのが11月、予想よりはるかに遅く、この本を読もうと思った理由を忘れてしまいました。想像していたより軽い感じで、読みやすく、若者を対象にしたもののようです。ココロにスッと入っていく言葉、ココロを軽くしてくれるイメージ、ココロがウキウキするたとえ、なるほどカウンセリングとはこうやってやるのか、と納得しました。悩める若者、悩める若者の相談を受ける人、悩みは無いけど前向きに明るく生きていこうという若者、にお薦めです。
あなたの過去を、受け止められるのは、いまのあなた自身です。成長したあなたが、過去のあなたを抱きしめてあげればいいのです。(p.99)
この世界は鏡なんですね。相手の中にイヤなところが見えるのは、自分の中にも同じものがあるからなんです。逆に、いいなと思えるところは自分の中にもその良さがある。(p.127)

1967年に発表されたハーバード大学のスタンレー・ミルグラム教授による有名な論文があります。題して、「人間同士の相互接続性に関して」。ひと言でいうと、「知り合いをたどっていくと、6人目で誰とでもつながれる」というものです。(p.159)

★★★ ブラック・スワン(下) ナシーム・ニコラス・タレブ
難しい本でした。内容を完全に理解するには、様々な分野の勉強が必要だろう。巻末に膨大な参考文献が書いてあるが、ほんの一部でも読むことは不可能だ。英語の本だからというのではなく(翻訳が出ているものもある)、量的質的な問題である。数学的な勉強、統計学、脳科学、などなどをやりたいと思った。ちょうど今、株や為替を研究していて、さらに、株安円高の状況をみると、著者のいう黒い白鳥の存在を感じてしまう。ただ、論理的に対抗はできないが、この本の論理には人の良き意志が考慮されていないように見える。人類が発展してきたのは、人間の弱さも貢献しているのではないだろうか。
ここで私の主張をまとめておこう。将来発見される科学技術がわかっていないと、将来は予測できない。でも、そんなものがわかっているならほぼ自動的に、すぐさま私たちはその科学技術の開発を始められる。ゆえに、将来何がわかるのか私たちにはわからない。(p.17〜p.18)
人は損をすると恥ずかしく思うことが多い。だから、ボラティリティがとても小さく、でも大きな損失が出るリスクのある戦略をとる。機関車の前で小銭を集めるようなやり方だ。日本の文化はランダム性に間違った適応をしていて、運が悪かっただけでひどい成績が出ることもあるのがなかなかわからない。だから損をすると評判にひどい傷がついたりする。あそこの人たちはボラティリティを嫌い、代わりに吹き飛ぶリスクをとっている。だからこそ大きな損を出した人が自殺したりする。(p.68〜p.69)
電車を捕まえようと走ったりするのをやめて、私は優雅で美しい所作の本当の価値を知った。自分の時間や自分の予定、そして自分の人生を自分で思いのままにするということだ。電車を逃して残念なのは捕まえようと急いだときだけだ! 同じように、ほかの人があなたに期待する成功に追いつこうとするのがつらいのは、まさしく、そんなことをしようとするからである。/自分の意志でイタチごっこや序列を捨てるのなら、それはイタチごっこや序列を外れるのではなく超えるということだ。(p.217)

電車を捕まえる、は catch the train の訳だろうが、電車に間に合う、と普通訳すのではないか。理解しづらいのは翻訳のせいもあると読みながら感じた。
以下は巻末の注解:
無力感仮説によれば、自分の環境を統制または予測できないと感じた場合、人は深刻な意欲障害や認知障害、たとえば抑うつ症に陥る危険がある (p.317)
プロスペクト理論(中略)は、悪いランダム事象とよいランダム事象の非対称性を解釈している。加えて、この理論は、負の領域は上に凸であり正の領域は下に凸であることも示している。すなわち、100の損失を1回被るほうが1の損失を100回被るほど苦しくなく、一方、100の利益を1回得るのは1の利益を100回得るほどうれしくない。(p.314)
単純に言うと、実現する過程の条件の一つが自分の生存である場合、確率を計算することはできない。(p.311〜p.310)
原因を知るものは未来を理解する。しかし、神を除いてそんな能力を持つものはいない (p.310)

★★★ 同和と銀行 森功
副題:三菱東京UFJ汚れ役≠フ黒い回顧録
金融界に限らず、日本の政治や経済の世界には、表向きの活動を裏で支える勢力が長らく存在してきた。巷では、裏社会とかアングラ組織などと呼ぶ。不祥事や事件があると、しばしばその存在が取り沙汰されるが、表立った銀行の取引からは見えてこない。日本社会は、常にそうした裏社会やアングラ勢力と接点をもち、一定の関係を保ってきた。/そしてそこには、双方の関係を保つためのパイプ役やつなぎ役が必要だったわけだ。銀行で、そんな役割を担ってきたひとりが岡野義市である。/岡野が最も必要とされ、活躍できたのは、八〇年代後半のバブル期だったに違いない。アングラ勢力が、表の経済活動に進出してきた時代だ。部落解放同盟飛鳥支部長だった小西邦彦のケースも、例外ではない。/バブル期は、アングラ勢力と銀行との取引が活発になり、それまで見えなかった双方のつながりが次々と顔を出した。ただし、その関係はバブル経済の崩壊とともに泡となって消えたわけではない。/金融界は九〇年代以降も、その負の遺産を延々と引きずってきた。いまも表と裏のつながりが断ち切られているわけではない。/ときに過去のツケが一気に噴き出す。部落解放同盟の支部長だった小西が理事長を務めた財団法人「飛鳥会」による行政がらみの業務上横領事件ほ、その典型例ではないだろうか。大阪市の運営する駐車場と小西が不正な取引をし、収益をかすめ取った事件である。「アンタッチャブルだった同和のボスの摘発に乗り出した」/小西邦彦を逮捕した大阪府警に対し、世間はそう拍手喝采した。自治体と同和団体幹部との不透明な関係を明るみに出した事件であることは、疑いようがない。だが、そこには抜け落ちている側面もある。/事件は小西による単なる個人犯罪のように扱われてきた。小西という同和団体のボスとかかわりを持ってうまみを得てきた関係者たちへ、世間の目は注がれていない。/むろん、小西の影響力がおよんだのは、大阪市の駐車場経営だけではない。事件では銀行取引をはじめとした経済活動や国税当局との不可解なつながりも指摘されたが、それは解明というにはほど遠い。いかにも倭小化された事件と言わざるをえない。(p.5〜p.6)
引用が長くなったが、この「はじめに」の一節がこの本の内容をほとんど言い表している。著者は、三菱東京UFJ(事件当時は、三和)銀行の岡野義市へのインタビューを中心に、小西邦彦に切り込んでいる。飛鳥会事件は、結局小西個人の犯罪として収束したようだが、それに絡んだ、部落解放同盟、行政、そして銀行、こういった組織の方が最終的には強かで、小西を利用するだけ利用して、平然と生き残っている。小西という人間にも、行政や銀行にも、何やら禍禍しいものを感じる。

★★★ 新参者 東野圭吾
とても面白い小説です。348ページ、一気に読めます。全9章、それぞれが独立したもののようにも読めます。その理由が、最後の初出一覧を見て判りました。各章は小説現代にばらばらに発表されたものなのです。第一章は2004年8月号です。その後、2005年に二つ、2008年に二つ、残り四つが2009年です。一つの殺人事件に絡む(或いは絡んでいそうもない)出来事が連なり、徐々に全てが繋がっていく、実に巧みな筆運びです。日本橋(人形町)辺りが舞台で、地図を見ながら、昔歩いたあの辺りを思い出しながら、読みました。水天宮、甘酒横丁、鶏料理玉ひで(店名は出ていませんがここでしょう)、明治座、浜町公園、楽しい読書でした。

★★★ ブラック・スワン(上) ナシーム・ニコラス・タレブ
副題:不確実性とリスクの本質
興味深い内容だが、読むのに、理解するのに、骨が折れる。この本を読破したらものを見る目がちょっと変わるかもしれない。感想は(下)を読んでから。
この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。/第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とでも大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こつてから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。(p.3〜p.4)
作家とパン屋さん、投機家とお医者さん、サギ師と売春婦の違いを考えると、いろいろな営みがわかりやすくなる。世の中の仕事は、仕事量を増やさなくても稼ぎを何桁も増やせる仕事と、仕事量と仕事時間(どちらも供給には限りがある)を増やさないと稼ぎが増えない仕事、つまり重力に縛られた仕事に分けられるのだ。(p.69)
失敗した人たちの墓場で眠る連中には、こんな共通した特徴がある。勇気があって、リスクをとって、楽観主義で、云々。億万長者の母集団とほんとにそっくりだ。能力の点ではいくらか違いがあるのかもしれないが、両者を本当に大きく隔てている要素はほとんどただ一つ、運だ。純粋な運だ。(p.195)
たしかに私たちの知識は増えていく。でも、一緒に自信のほうも増えでいってしまう。おかげで、知識が増えれば、同時に混乱も、思い上がりも、うぬぼれも増える。(p.249)
予測は骨が折れるイヤな仕事で、しかも自信なさげにやるものだった。/でも、表計算ソフトが侵略してきて、ものごとは変わった。コンピュータが使える人の手にエクセルを渡せば、苦もなく、際限もなく予測ができるのだ! ひとたび紙の頁なり、コンピュータの画面なり、もっと悪くするとパワーポイントを使ったプレゼンテーションなりに現れると、予測は一人歩きを始める。もう曖昧でも抽象的でもなくなり、はっきりした存在になる。哲学者はそれを具象化と呼んでいる。手にとってさわれるモノに生まれ変わるのだ。(p.282)

★★★ ヘブン 川上未映子
これは芥川賞受賞作ではなく、芥川賞受賞作家の作。大阪弁をうまく使うと評判だったが、この作品は標準語である。この作者の本は初めてで、評判の大阪弁の文章と比較はできないが、表現・比喩が巧みだと思う。悲惨な感じになる恐れのある話だが、嫌悪感を感じさせず、割にサラッと書いている。気になったのは、登場人物が、中学生にしては饒舌になりすぎるところだ。特に最後の方、例えば・・・
たとえばあの男さ」と百瀬はあごで僕の斜めうしろをしめした。四十代なかばの夫婦と制服を着た僕より少し年上の女子高生の家族が門にむかって歩いているのが見えた。/「あの男がどういうやつか僕はもちろん知らないけれど、たとえばあの娘がさ、売春とかさ、ビデオとかで裸になってそのへんの男とやりまくる仕事につくって言えばかならず反対するだろうさ。たてまえならまだいいけれど、たぶんああいうのに限って本気で反対するだろうね。でもさ、こまかいことだけど、あいつも誰かの娘である女がでてるビデオ見たり誰かの娘である女が裸になってやってくれる店に行ったりしてるんだよ。そういうのふつうにやってるんだよ。相手の立場になって考えるのが道理ならさ、足をひらいたり裸になったりして自分に色々やってくれる女の父親の気持ちになれるはずだろ。でもそれとこれとはべつなんだろ、完全に。どの父親も目のまえの裸の女の父親のことなんか考えない。いや、僕は全然それでいいと思ってるよ。当然さ。それはさ、良いとか悪いとかじゃなくてさ、そういうのってあらかじめ区切られてることなんだよ。都合よくね」 (p.176)
中学生っぽさを出すためか簡単な漢字を使っていないが、とても中学生のセリフとは思えないものが多い。一人称で書いたことに無理があったように思う。ストーリーで言いたいことを表現するのはこのようなテーマでは難しいのだろう。とはいえ、なかなかに面白い本だった。著者は多方面で活躍しているようで、それも見たいと思う。他の著作も読んでみよう。

★★ 終の住処 磯崎憲一郎
今年上半期の芥川賞受賞作。この処、芥川賞をあまり読まなくなった。昔読みながら感じていたビリビリとしたものを、年のせいか感じなくなったから。この作品にもそんなに心が動かなかった。時間のスパンが広すぎて焦点がぼやけていると思う。確かに、それがいい点でもあるようには感じるのだが。
まったく不思議なことだったが、人生においてはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった。(p.103)
オマケの短編、「ペナント」は・・・・・何なのでしょう?

★★ 差別と日本人 野中広務・辛淑玉
被差別部落出身の野中広務と在日三世の辛淑玉(シン・スゴ)の対談、ではあるが、所々に辛淑玉のコメント・注釈が入り、全体としては彼女の本という感じがする。野中広務に鋭く切り込むところも多く、彼に知らなかったと言わしめることが数回ある。例えば、こんな感じ:
野中 あ、そう? いや、それは僕ら知らなんだな。自分で解決したと考えていても大きく欠落しているものがあるんだね、恥ずかしい思いがする。(p.151)
このところ差別について考えることがほとんどなかった。解消の方向にあると漠然と考えていた。が、残っているところにはまだまだ残っていると認識した。特に政治家の差別意識には唖然とするものがある。なかでも麻生太郎、酷いとは思っていたが、想像以上である。(p.162〜p.166)
意外と言ったら失礼だが、野中は38年間無報酬で重度障害者授産施設に関わっていた。ただ、この本を読むと彼にはそのような面があっても不思議ではないと思う。今後やりたいことに戦後未処理問題への取り組みを挙げているのも興味深い。

★★★ 同期 今野敏
帯に、「2009年の大本命・警察小説」とあります。こんなジャンルがあるのかと驚く、というか、笑う。さらに、大本命とは何のことなのだろう。
それはともかく、面白い。楽しむための本はこうでないといけない。分かりやすい(一つだけ、田端・滝田という登場人物が二人とも課長なのははじめ混同した、どちらかの「田」を変えたらよかったのに)、読みやすい(389ページ、一日半で読めました)、でもソコソコの捻りがあり(複雑怪奇にならず適度です)、読後感が爽やかでほっとする(これ大切)。お薦めです。

★★★ 匂いの人類学 エイヴリー・ギルバート
タイトル通り匂いに関する考察、学術論文のような本である。言われてみるとナルホドと感心することがたくさんあった。まず、嗅覚はとても複雑なものだということだ。昔高校で、嗅細胞は細胞の中で一番疲労しやすいものだと習ったことが鮮明に残っているが、そんなことは全く書いてなかった。そして、他の感覚と同じで、受容には脳が絡んでいるということだ。結局のところ、まだまだ判らないことがいっぱいあるようだ。
芸術と匂いについても考察してあり、文学についても書いてあるのだが、かのプルーストがなかなか出てこなかった。やっと最後のほうに出てきたが、どうもこの著者は彼を気に入っていないようで、散々こきおろしてあった。匂いつき映画の話も丁寧に書いてあり、なぜ上手くいかなかったかがよく分かった。
これから嗅覚についての研究が進めば、いろいろな不思議が解明されるだろう。人間の不思議についても、それとともに明らかになるのではないだろうか。研究は始まったばかりという印象を受けた。
親たちが温めている信念には、うちの子のうんちはよその子のよりもいい匂い、というのもある。驚くべきことに、精密な科学調査でも、この信念はくつがえせない。生後一四か月の赤ん坊を持つ母親がボール紙製のバケツにいれた汚れたおむつの匂いを喚いだ。それぞれの母親は、比較用サンプルとして準備された生後一六か月の知らない赤ん坊のおむつと、我が子のおむつとを比較した。どちらのバケツも無記名だと、母親たちは比較用サンプルのほうが臭いと答えた。とはいえ、バケツに名札をつけても(たとえば、ジェイソン″対よその赤ちゃん″)、評価の差が開くことはなかったし、名札を交換しても差が縮まるわけではなかった。つまり、母親らしいプライドが判断の妨げになつたわけではなく、本当によその子のおむつのほうが臭かったのだ。つけ加えておくと、この研究は、時間のあり余った感覚心理学者の存在をも裏づけている。(p.49)
食べることとなると、私は極端な匂い優越主義になる。味はつまらないからだ。舌の情報チャンネルは、苦味、甘味、酸味、塩味、うま昧の五つしかない(日本人の同僚たちは、塩気よりもグルタミン酸ナトリウムのほうが味の印象が強いと、長いこと言い張っていた。一九九六年に舌のグルタミン酸受容体が発見されると、ついに彼らの主張が裏づけられた。いまや、うま味は公式に味の殿堂入りをはたしている)。五つの味覚チャンネルもばかにならないが、三五〇種類の受容体と二ダースの知覚カテゴリーを持つ喚覚に比べれば原始的だ。(p.134)
嗅覚には非常に大きな多様性がある。色覚と比較すると、その広がりが把握できるはずだ。たとえば、色盲の種類が数十もあって(実際には三つ)、それぞれの発症率が七五パーセントにも達したら(実際には六パーセント)どうなるか、想像してみてほしい。こうした嗅覚の多様性は、匂いの科学者の懸命な取り組みにもかかわらず、依然として嗅覚最大の謎のひとつとなつている。(p.336)


★★★ ビヨンド・エジソン 最相葉月
この著者の本は、ちょっと前になるが、「絶対音感」と「青いバラ」を読んだ。両方とも面白かった。
この本は、12人の理系の科学者を取材したものである。それぞれの研究の紹介、その研究をするようになった経緯、感銘を受けた伝記や評伝、という構成になっている。各人の研究内容に驚くとともに、その人生に感動する。このような人が今の世の中を支えているのだと感じた。実用性に対する批判もあるようだが、科学は、そして芸術も、現実の役に立つかどうかだけが存在理由ではないだろう。
人間の行動範囲の拡大と地球環境の変化は、動物の生活圏に大きな影響を及ぼしている。近年の人獣共通感染症の流行は、人間が決して地球の征圧者ではないことを認識させ、いかにしてウイルスと共存すればいいのか、という重い課題を突きつけているのかもしれない。(p.159)
すべての世代には、前世代よりも高い見地から、新しい世界を見るよう心を開く義務があります。みなさんの視野は目に見える範囲でなく、心に見える範囲まで広げるべきです。いまや当たり前となっている多くの事柄も、前世代の目には非現実的な夢として映っていたものばかりです。もしみなさんにとって、過去の成果が当たり前のものになっているならば、みなさんが開拓できる新天地について考えてみてください。(p.241)
『風は偉大なる者を燃え立たせる 宇宙飛行士エスリン・オニヅカの生涯』からの引用

★★★ 天皇と東大(上) 立花隆
上:782ページ、下:706ページ、オマケに活字が小さい。2006年、出版されてすぐ読み始めた。市立図書館の返却期限2週間で読めたのが、上巻339ページだけ、予約が一杯入っているので、継続を断念。

あれから3年ちょっと、もう誰も読んでいないようなので、再開。読破にどれくらいかかるだろう。

二週間の期限を何回延長しただろうか。他の本を読みながら、少しづつ読み進み、ついに読破!

慣れてくると、明治時代の文章がとても面白い。現代の文には無い、リズムと響きがある。

明治維新において、桜田門外の変、坂下門外の変など、水戸の志士たちが命を棄てた破壊活動を展開することで、革命の火ぶたが切られた。それは今から考えるとかなり馬鹿げたところのある破壊活動であったが、それがあったればこそ、明治維新もなったのだと井上はいった。明治維新というと、本番の薩摩長州の活動がもてはやされているが、それも、その前段階で、革命の捨石となって命を捧げた大馬鹿者の破壊活動が口火を切ったからこそ成功したのだ。昭和維新においても、革命の捨石となって、命を捧げる者が必要だ。その大馬鹿者を自分がやるというわけだった。/これが、井上日召の建設の前の破壊という革命理論、革命の捨石理論だった。(p.645)
読後振り返ると、800ページ弱のこの本、この考え方について多くが書かれ、だから一番印象に残っている。昭和6年の、三月事件、十月事件、昭和7年の、血盟団事件、五・一五事件、昭和8年の、神兵隊事件、全てこの考え方が根底にある。この時代、共感はしないが面白い人物がたくさんいる。初めて名前を聞いた、権藤成卿、橘孝三郎、もっと知りたいと思った。

立花隆は学者ではなく、書くものは論文ではない。しかし、そのようなムードを持った、面白くなさそうで、実は結構面白いものだ。本物の学者に言わせると、偽物ということになるが、その学者が書くものより面白い。少しづつ(下)を読むとしよう。

★★★★ ドーン 平野啓一郎
この著者は10年ほど前、華々しくデビューした。「月蝕」、「一月物語」、と読み、感嘆した。しかし、何故か、その後の作品は読まなかった。そして、何故か、この作品を読もうと思った。
これは凄い作品です。前二作とは対照的ですが、素晴らしい作品です。前二作は擬古文とでも言うべき壮麗な文でしたが、今回は普通の文です(何カ所か名残が見えますが)。内容も、過去に対して未来。「月蝕」は芥川賞受賞作、この作品は芥川受賞作家の作品とは思えません。
読み始めてすぐに、未来にあると思われる機械が出てきます。コンタクト・レンズ型モニター。
庭の芝生の上で、裸のまま俯せになっていた明日人は、スイッチが埋め込まれている奥歯を二度空噛みして映像を停止した。/コンタクト・レンズ型のモニターに転送されていたのは、NHKの[・・略・・] (p.9〜p.10)
次に、聞いたことのない単語が出てきます。散影。
「……ニューヨークなんかに行ったら、もう、《散影divisuals》協力店ばっかりよ。どうしてあんな街に住めるのかしら? お買い物して、ホテルに戻るでしょう? で、ヒューストンにいる息子と電話でしゃべったら、何時にどこにいたかなんて、ぜんぶ知ってるのよー! どうしてってきいたら、《散影》でわたしの顔を検索したって。本当に、ぜんぶ出てくるのよ。朝100時にバーニーズに行ってスカート買うところから始まって、プラネット・ハリウッドで子供たちのおみやげを探してるところから、おひるごはんにハンバーガーを食べてるところ、それから、通りを歩いてる姿もそうだし、……もうとにかく、何から何まで、防犯カメラに映った姿は全部よ。『おみやげ、《軍神の饗宴》のTシャツでしょ?』だって。イヤになるわね。どうしてあんなものができてしまったのかしら?」 (p.23)
すぐ後に説明的な会話が続きます。
「防犯カメラの映像が、全部ネットにつながって、誰でも見られるようになってるんでしょう?恐いわねえ。プライヴァシーなんてあったもんじゃない。」/「それだけならまだいい。問題は、《散影》に、(顔認証検索)の機能がついてることだよ。たとえば、スーパーの防犯カメラに映ってる私の顔をマークしたら、コンピューターが勝手に、それと同じ顔が映ってる、あっちこつちの防犯カメラの映像を寄せ集めてくる。駐車場、地下鉄、レストラン、……何時何分にどこの防犯カメラに映ってるか、全部一覧になって出てきてしまうんだから、ほんとに厄介だね。」 (p.24)
このシステムは物語の展開に重要な働きをします。
監視社会というものについて、是非、もう一度よく考えてください。防犯カメラが一切ない社会。――そんな世界に、私たちは今更後戻り出来ますか? 現実的ですか、それは? 我々より上の世代の人間は、ただ感情的に、感覚的に、『監視社会反対』を唱えるだけで、何の具体策も示すことが出来ませんでした。夢のような理想主義じゃなく、現実的に考えるべきです! どうすべきなのか? 何が結局のところ、監視社会の恐怖なのか?いいですか、それは、単に見られるということではありません。情報の非公開の独占″と窓意的な活用″。それこそが恐怖なのです。国家が防犯カメラの映像を使って、個人の生活を好きなように出来るという、そのことなんです。/この社会から、防犯カメラや監視カメラを一掃出来ないなら、その運用の公正化を図るしか、我々には道がないのです。違いますか? 州や国が、一極集中的に管理している個々の監視カメラ、防犯カメラの映像を、国民全員で共有するのです。(p.219〜p.220)
今の社会は、どう考えても、複雑になりすぎています。社会はもっと、透明になるべきです。小さな愛すべき片田舎の町で、一歩家を出れば、誰もが顔見知りで、誰に見られても恥ずかしくないような生活を心がける。《散影》は、都市をそうした、小村的世界の平和へと圧縮するツールです。もちろん、みなぎんには、十分なプライヴァシーがあります。自宅の中、ゲイテッド・コミュニティの中まで《散影》は首を突っ込みません。眼差からのシェルターは、そこにちゃんと確保されているのです。(p.221)

さらに、ウィキノヴェル。これも小説の流れの中でうまく使われています。
ノスタルジックなSF的妄想に彩られたこの噂は、次々とその証拠″を積み上げてゆき、人気の小説共作サイト《ウィキノヴェルWikinovel》には、早速そのための数章が作られることとなった。(p.160)
この他にも、様々な未来の装置やシステムが登場します。しかし、この小説の眼目はそこにはありません。そのような状況で人がどう動くか、そして、その分析に使われる、分人 dividual という概念、が大きなテーマになっています。いや、この物語には他にもたくさんのテーマが詰め込まれています。それらが自然に結びつき、徐々に話が盛り上がり、最後は見事に収束します。実に巧みな書き方です。傑作です。面白いストーリーです。500ページ弱ですが、すぐ読めます。

★★★ 日本食物史                       江原絢子・石川尚子・東四柳祥子[著]
原始・古代から現代まで、食についての研究成果が書かれている。ほとんど学術書、359ページ、読み応えがありました。この本を読んで思い出したのが、昔何かで読んだこと:人間の肝臓は飢餓に備えるための臓器、だから、現代の飽食の時代に適応できていない。この本を読むと、日本人の歴史は、というか、普通の日本人の歴史は、飢餓との戦いだったということがよくわかる。時代を遡るほど資料が少なくなる中で、庶民の状況までよく書かれていると思う。
面白かった内容。中世の寺院は酒造りの高い技術を持っていた。(p.83) 「すりばち・すりこぎ」は台所に一種の革命をおこした。(p.98)
江戸では初物を食べると寿命が延びるといわれてもてはやされ、価格が跳ね上ることもあった。そのため幕府は寛文五年(一六六五)、売り出す時期を定めて初物に制限を加えたが、その後も禁令は守られなかった。このような初物の流行は、生産地での促成栽培を促すことになる。天保十三年(一八四二)の「江戸町触」では、従来から季節外の野菜を売買しないようにと命じており、とくに料理茶屋が競って買うことは、「不埒之事二候」としている。きうり、茄子、いんげん、もやしなどが促成栽培されたようで、ゴミによる温床、障子をかけることによる保温あるいは室内に炭団(たどん)の火を用いて保温する方法があったが、これらを禁じている (p.128) 昔もこんなことがあったのですね。
家庭向け料理書の刊行数は、この新中間層の隆盛とともに大きな伸びを見せていく。実際、料理書の刊行数は、明治三十八年(一九〇五)以降、急激な増加をみせ、また料理書の書名にも「家庭」「手軽」「簡易」「実用」「経済」などといった用語が含まれるようになり、そのほとんどが専門料理人向けの内容ではなく、家庭内を取り仕切る主婦向けの料理書として刊行された (p.228)
日本の外来文化受容の特徴に、折束・融合を繰り返しながら、自国特有の文化を創造し、馴化させてきた。たとえば、古くは奈良時代の大仏製造技術にはじまり、安土桃山時代の鉄砲製造技術、近代以降の製紙・綿紡技術などの伝来技術を単なる模倣にとどめず、国内において改良を加え、自国の文化へと転換させてきた経緯がある。そして、食文化の面においても、古代に受容した大陸の喫茶習慣を茶道へと大成させ、さらには江戸時代に中国から受容した卓袱料理や普茶料理を、日本風にアレンジしながら受け入れていった様子からも同じような傾向が指摘できる (p.233)
最後に身近な例があったので・・
具体的な地産地消運動の事例をいくつかあげてみると、平成十二年、広島県JA三次(みよし)は農村地域ではなく、広島市に拠点を置いた都市型農産物直売所を設けた。アンテナショップとしての「双三・三次きん菜館」とインショップ一一カ所の常設である。都市住民との交流を深めながら、農業振興、行政とも連携した福祉事業、次世代育成事業を行なっている。生産物販売では、「地産地消」を前面に掲げ、「大量生産・大量販売」から「多品目少量生産・販売」に方向を転換した。この試みは、生産者と消費者を結ぶ「食の道づくり」として脚光を浴び、業績を伸ばしている。(p.350〜p.351) この「双三・三次きん菜館」は我が家の近くで、よく行きます。インショップは現在13か所になっているようです。

★★★ 目に見えない資本主義 田坂広志
この著者の本は二冊目。一冊目「これからなにが起こるのか」はあまりピンとこなかったが、この本は、なるほど確かに、と思うことが多々あった。
現在の経済危機の後の世界の経済秩序を考えるとき、我々は、「自由競争の維持」と「政府規制の強化」という二つの方法だけでなく、「自己親律の促進」という第三の方法を重視しなければならない。そして、そのためには、まず、企業や個人の倫理基準や行動規範の確立という方策を、長期的な視点で、必ず進めていかなければならない。(p.67)
消費者を企業の意のままに操り、買えぬものまで買わせて、利益を上げたいと考える操作主義が、今回のサブプライム問題を引き起こし、世界の資本主義を誤らせたのではなかったか。(p.197)
いま、人類社会全体は、地球環境問題や資源・エネルギー問題など、「有限」という壁に突き当たっているが、実は、この日本という国は、遥か昔から、「有限の空間」「有限の資源」を前提として経済を発展させてきた国である。/それは、日本という国が、もとより狭い島国であったこと、江戸時代の鎖国政策が二〇〇年余り続いたこと、第二次世界大戦の一時期を除いて、土地や資源を求めて海外に植民地を広げようとしなかったことなどが背景にあるが、そうした理由から、我が国は、昔から、「狭い国土」と「限られた資源」を前提として、経済を発展させ、成熟した文化を築いてきたのである。(p.205)

最後の方は日本を礼賛しすぎだが、言っていることにはおおむね共感できる。価値は貨幣だけでは測れない。世のものは有限であり、絶えず変化する。
この著者は本を書き過ぎている。だから、そのような書き方が身に付き、読みやすいが掘り下げが足りない。恐らく意図してやっているのだろうが、物足りなさを感じる。

★★★ シャドウ 道尾秀介
これも面白いミステリーです。「龍神の雨」とは逆に、スッキリ明快に終わります。事件そのものは悲惨なものですが、最後がこんなにハッキリしていいのかというぐらい、スカッと未来が開けています。多少背徳的な所もありますが、楽しむという点では問題はありません。

★★★ 龍神の雨 道尾秀介
面白いミステリ−です。一気に読みました。人物造形がシッカリしていて、うまくストリーが流れて行っていると思います。残念なのは、読後感が今一つスッキリしないことです。明るい展望が、たとえチョットではあっても、必要ではないでしょうか。

★★ 京都紅葉名所 水野克比古(写真)
写真集です。有名な所からあまり知られていない所(私が知らないだけか)まで紅葉が満載。普通行けない所や行っても見ることができないようなものがあるので、なかなか感動的です。糺の森と京都御苑の公孫樹、美しそうです。もうすぐ紅葉の季節、実物を見に行こう。

★★ あるキング 伊坂幸太郎
帯に、「人気作家の新たなるファンタジーワールド」、と書いてあります。ファンタジー、なのでしょうか。一応面白くは読みましたが、読後感が今一つよくありません。語りの視点が移動することによって、安定感が失われているのだと思います。筋立てが、ファンタジーとはいえ、空想に過ぎるのではないでしょうか。ただ、終わり方は好きです。輪廻転生、因果応報、果てなき円環、好みです。

★★ 図説地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀 坂本勝
このシリーズ、「万葉集」、「聖書」を先に読んだが、そもそも読もうと思ったのはこれだ。やはり、地図とあらすじ、図がピッタリなのはこれである。ただし、系図はちょっと見づらかった。内容はうまく纏めてあって体系的に思い出すことができ、知らないことも、成程と思うことも結構あった。この時代は面白い。もっと読もうという気になった。奈良など関連するところへも行きたいと思った。

★★★ 外科医 須磨久善 海堂尊
「チームバチスタの栄光」の著者が、日本のバチスタ手術の第一人者へのインタビューを基に書いた伝記のようなもの。「この物語で筆者が描いたのは、須磨の光の側面である。(p.215)」と著者が最後に書いているように、この本にあるのは主人公の輝かしい業績ばかりである。この本はそういう本なのだろう。そして、それはそれで良いと思う。医学界の現状が垣間見えるし、知らなかったことが分かって面白かった。

★★ 図説地図とあらすじでわかる!聖書 船本弘毅
このシリーズ、二冊目。「万葉集」よりは地図とあらすじが効果的に使われていた。ただ、内容はとこかで読んだり聞いたりしたことがほとんどで、いい復習にはなった。史実と創作を分けようとするところが幾つかあったが、もっとこの辺りに切り込んだら面白いだろう。キリストが家庭的には恵まれていなかったという指摘は興味深かった。

★★ プリズン・トリック 遠藤武文
第55回江戸川乱歩賞受賞作。面白いのだが、読みにくい。登場人物の性格付けが弱いので、固有名詞で混乱する。何度前に戻ったことか。更に、メインキャラクターが何時までもはっきりせず、初めの方は章ごとに視点を持った人物が変わり続ける。それはそれでうまいのだが、徐々に散漫な感じになっていく。もっとスッキリした書き方が出来なかったのか。ストーリーがいいだけに残念だと思う。

★★ 村上春樹「1Q84]をどう読むか 河出書房新社・編
本当に何年振りかに、というか何十年ぶりかに、作家論・作品論を読みました。36人〈対談が一つ〉の人がそれぞれに二段組みで6ページほど書いていてほとんどが結構面白いものでした。
この小説は倫理的政治的に間違っていると言いたいのではありません。物語を語ることによって現実を作り出すという「文学」の戦いにおいて、自ら対抗すると語った筈の死の物語を反復強化しているという意味で、この小説は文学的に、完全に間違っている。(p.72)
当たり前のことではあるが、一冊の本を受容するということは、大概の場合、それを買って読む、という一連の行為を含意している。だがもちろん、それ以外にも、ひとに借りるとか、図書館で借りるとか、万引きするとか、或いは立ち読みするとかいったアナザー・チョイスも幾つかある。つまり書物を「買う」と「読む」とは、そのまま完全に一致しているわけではなく、そこには切断がある。それは「商品」と「作品」のあいだの「切断」でもある。一冊の本は、多かれ少なかれ「商品」であると同時に「作品」でもあるのだが、あのオジサンは『1Q84』の「商品」としての属性は無視して、ただ「作品」としてのみ受容したわけである。もちろん、オジサンのような存在は、『1Q84』が誰もが読みたがる超話題作である、ということを証明しているだけのことかもしれない。けれども、どうしてこのことに僕がこだわっでしまうのかといえば、「買ってないのに読んでしまったオジサン」という困った存在の反対側に、「買ったのに実は読まない人々」という存在が、けっこう大量にほの見えているような気がしてしまうからなのだ。「商品」としで購入することが「作品」として受容することよりも何故かはるかに上位にあり、ことによると後者が無意識のうちに切り捨てられてしまっでいるという事態が、どこかで生じてはいまいか、ということなのだ。(p.171)

改めて思うのは、本を読むのは楽しむためで、ゴチャゴチャ理屈をつけて解釈するためではない。が、このゴチャゴチャを読んで楽しんだという意味で、この本は面白かった。

★★ 再生 石田衣良
心に潤いを与え、ちょっとホロッとするお話が多い。病気に関する内容が多いので、著者がその方面の職業に関係があるのかと思ったら、そうでもないようだ。「あとがき」に・・・
ここに収められた十二の短篇のうち、半数以上は直接当人から話をきき、小説に仕立て直したものです。打ちあわせにむかうタクシーのなかだったり、テレビ局のスタジオだったり、サイン会を開いた本屋さんの店先だったり……。作家は予想もしないときに小説の種を手わたされるのです。みなさんそれがどれはど見事な花を咲かせるか考えもしないので、あれはど素敵な自分のライフストーリーを、とおりすがりの作家などに託してしまえるのでしょう。実に太っ腹です。心あたりのあるかたがた、ほんとうにありがとう。/この本のなかには、地球の危機を救うヒーローもいなければ、悲恋に身を焦がすヒロインもいません。日々を懸命に生きる等身大の人物がいるだけです。目のまえで起きていることに目を凝らし、それをきちんと書き留めていく。それは作家の数ある仕事のなかでも、とても大切で順位の高い要件のひとつです。(p.269)
これを読んで、何か釈然としないものを感じました。

★★★ パラドックス13 東野圭吾
そんなに活字が詰まった本ではないが、474ページの長編、しかし、一気に読ませる面白さがある。設定そのものには、腑に落ちないところ、理解できない、納得できないところもあるが、その中での登場人物の動きはとてもリアリティがあり、物語の世界にドップリ引き込まれた。極限状態で浮かび上がる様々な問題、日常我々が考えるのを避けている問題、が突き付けられる。例えば、安楽死の問題、152ページからの10ページほど、心を激しく揺さ振られます、涙が出てきます。最後は、予想通り、というか、穏やかな終わり方と言えるでしょう。この作品、映像化に向いていると思います。きっと映画化されるでしょう。
「おまえには、人生の先輩を敬おうっていう気持ちがないのか」
 冬樹は兄の顔を見返し、眉根を寄せた。
「人生の先輩? 何だよ、それ。そんな骨董品みたいな言葉が何かの役に立つのかよ。こんな状況なんだぜ。先輩も後輩も、年上も年下もないだろうが」
 すると誠哉は、呆れたように吐息をついた。
「おまえは、人々が消えたら何もかもがリセットされるとでも思ってるのか」
「違うのか? 学校も会社も組織も政府もないんだぜ。序列だけが残ってるなんてのは、おかしいだろ」
「じゃあ尋ねるが、おまえには歴史がないのか。おまえという人間は、誰とも関わらず、誰の世話にもならず、今のおまえがあるのか。そうじやないだろ。いろいろな人に支えられて、育ってきたんじゃないのか」
「たしかにそうだよ。でも俺は、このおっさんには何の世話にもなってないぜ」
「じゃあおまえは、何の行政サービスも受けなかったか。文明の利器を使わなかったか。文化や娯楽を味わわなかったか。おまえよりも先に生まれて社会に出た人間たちが、税金を払い、科学や文化の発展に貢献したから、おまえという人間がここにいるんだ。違うか。それとも、それらのものがすべて消滅したから、もう恩義も感じなくていいというわけか」
 誠哉の剣幕に、冬樹はたじろいだ。返す言葉が思いつかなかった。今いわれたような考え方を、これまでにしたことは一度もなかった。「目上の人間を敬え」と親や教師にいわれてきたから、道徳の一つとして捉えていたにすぎない。(p.141〜p.142)


★★★ 贖罪 湊かなえ
著者三作目、これも面白く読める。しかし、三作とも語りの構造が同じ、二作目は少し変わったが、今作は一作目に戻り、またこのパターンかと思ってしまったが、読み進むと物語に引き込まれ、気にならなくなった。今回も登場人物の告白は本音で語られる部分が多く、人間のいやらしさに見えないこともないが、読んでいて結構スカッとする(特にこの本では第二章)。最後に、「終章」という今までには無かったものが付いているのが今作の特徴だが、無くてもいいオマケとも言えるもので、評価が分かれると思われる。
次作は三人称で書いた作品を読みたいと思う。

★★ 最後の授業 ランディ・パウシュ
この本は、2007年9月18日、そのとき46歳の、コンピュータサイエンスの世界的権威、バーチャルリアリティの第一人者と言われていた、カーネギーメロン大学の教授が行った、最後の授業の記録である。彼は、その一か月前、膵臓がんの転移で余命数カ月の宣告を受けていた。文字通りの最後の授業である。演題は、Really Achieving Your Childhood Dreams (子供時代に抱いた夢の実現)、講義の最後に本人が言っているように、これは自分の子供たちに向けたもの、6歳・3歳・1歳半の三人の子供たちに伝えたいメッセージです。無論、部外者の我々が読んでも心を動かされます。この本には、最後の授業のDVDがついてます(YouTubeなどでも視聴可能)。これも感動的です。特に、嫌がる奥さんを講義に出席させ、サプライズを披露するところは涙を誘います。医者の予測よりも長く、彼は2008年7月25日まで生きたそうです。
グレアム監督はボールを一個も用意していなかった。ようやく仲間の一人が口を開いた。「すみません、監督。フットボールがありません」/グレアム監督が言った。「ボールは必要ない」/沈黙が流れ、僕たちはその意味を考えていた。/「フットボールのフィールドには一度に何人いる?」/一チーム一一人。だから二二人。/「では、どんな瞬間でも、そのときボールに触れている人数は?」/一人。/「そうだ!だから、ほかの二一人がやるべきことを練習する」 (p.55)
経験とは、求めていたものを手に入れられなかったときに、手に入るものだ。(p.172)


★★★ 生きる意味を教えて下さい――命をめぐる対話 田口ランディ
タイトルがあまりに「べた」で、ちょっと読むのを躊躇うほどである。しかし、私はこの著者の小説が好きだし、この本は対話を集めたもので、その相手が魅力的な人ばかりなのだ。藤原新也・内田樹・西垣通・鷲田清一・竹内整一・玄田有史・森達也・宮台真司・板橋興宗。三人は知らない人だったが、対話は全てとても面白いものだった。特に最後の対話が、他のものとは違って、丁々発止ではなく、どこか噛み合っていないような感じがよかった。引用したい言葉がたくさんあり、かなり絞ったが、それでも以下のようになった。是非お読みください。
もう死ぬことが決まっている人間を引き戻そう、引き戻そうというのは自分のエゴだよね。あの場面では、どうしてもみんな自分のエゴが出てくる。がんばって、がんばってと。がんばれというのもエゴなんだよね。捨てるほうがつらい。そのつらさのほうを選ぶ。(p.20) 藤原新也
言語の場合なら、英語ばかりじやなくて、フランス語も中国語もスワヒリ語もあるわけですから、語種がふえれば、それだけ多様な思想や感覚になじむことができる。現に英語をしやべるときって、発声法も変わるし、表情も変わるし、ジェスチャーも変わりますでしょ。それと同じで、身体運用モードをふつうの人は一個しかもっていないけれど、型稽古をすることで複数のモードが存在するということを実感できる。そのときはじめて自分にとってナチュラルな身体運用が、実は歴史的・地理的に規定されたものだということがわかる。僕の身体運用はたまたま現代日本人に生まれて、性別や年齢や職業によって条件づけられている。ほんとうはこのからだはもっと他の使い方もできる。それがあるかたちでしか使えないように無意識の縛りがかかっている。それに気づかないまま、自分のからだはこういうふうにしか使えないと思い込んで五〇年間暮らしていくのと、それとは違うかたちでもからだを動かせることに気づいて生きるのでは、見えるもの、感じられるものがまったくちがう。(p.56〜p.57)
内田樹
哺乳類の感情の基本は性欲ではなくて、おっぱいをあげること、子育てなんですよ。他の動物とくらべると、哺乳類の授乳期間はすごく長い。愛というのは、子育て期間で生まれてくるもの、おっぱいをあげる環境のなかで出てくるものだと思う。セックスに関連するいろいろな行為、たとえばキスなどは、もともと親の行為です。四つ足の動物は手がつかえないので、口でエサをやったり口でおしりのまわりをきれいにしてやったりして、子どもの世話をする。そういう親子の愛情表現の延長上で、異性が愛しあう行為が生まれた。(p.112〜p.113)
西垣通
京都にはね、掃除の仕方がある。京都は夏暑いから水撒きをするんだけど、それが夏の朝の一大イベントなわけ。そのときに、隣との境界があるじゃないですか。そこを微妙にはみだして水を撒くんですよ。でもこれがむずかしい。これ以上やったらおせっかいになる、これ以下だったらケチになる、そのはみだす呼吸を間違ったらあと大変になる。(p.171)
鷲田清一
われわれの「みずから」は「おのずから」でありつつ、かつ「おのずから」ではない。それが「あわい」という問題なんですが、一つでもなければ二つでもない、そこにあらゆる問題があるんじゃないかと考えています。(p.181)
竹内整一
痴呆のご老人をみていると怒涛のような記憶喪失のなかに生きながら、「みずから」があるんですよ。あの「おのずから」の老いのなかに「みずから」を立たせている佇まいに惹かれているんだと思うのですね。(p.215)
(竹内整一)
この終末医療の現状には日本人のある価値観が反映している。なんとかできるか、どうにもならないかで人を分けるんです。ニートもそんなふうに扱われているわけですよ。この人はこんなに長いことひきこもりをやっていたから働けない、となると、そこから先はなにもない。後はQOLと言われているのと一緒です。(p.238)
玄田有史
邪悪で凶悪だから人を殺すわけじゃない。むしろ善良で純粋で優しいからこそ、人を殺す場合があるんです。それも大量に。悪意が燃料になった場合は数人が限度です。人はそれほど強くない。でも善意や正義などが燃料になったとき、人はとても大勢の人を殺戮します。なぜなら摩擦係数が少ないから。だからホロコーストでも、あるいは文化大革命とかボルボトとか、これほどの規模の戦争や虐殺を考えるときは、悪意よりも善意を射程に置くべきだと僕は思っている。(p.260)
森達也
広島に原爆慰霊碑があります。そこに刻まれた有名なフレーズ「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」。このフレーズについて保阪正康さんが、新潮新書『あの戟争は何だったのか』の冒頭で、とても否定的に書いています。国際政治評論家の田中宇さんも、このフレーズはおかしいと発言しています。要するに主語がわからないということなんだろうな。で、東京裁判の際にA級戦犯全員無罪を主張したパール判事、彼もやっばり後の来日時に違和感を表明していますね。このフレーズはアメリカが発すべき言葉で、被害を受けた日本人が発すべきではないということですね。/とにかく昔から、何かと評判の悪いフレーズです。ほとんど四面楚歌。でも僕はこのフレーズを全面的に評価します。これは加害者が被害者に謝罪するためのフレーズではない。被害者と加害者との区分けではなく、今生きる人たちが原爆で死んだ人たちに対して誓うフレーズです。もし世代が変わったにしても、常に生き続けてる人はいるわけで、その生き続ける人が永劫に死者に対して誓うフレーズ。そう考えたら、とても重要な意味をこの慰霊碑は今のこの世界に対して投げかけていることに気づきます。(p.283) 森達也
ケ(気)が枯れた状態(ケガレ)を元に戻すためにハレがあります。ハレとは「日常じゃなくて非日常」ということ。非日常のカオスを通じて「部分性へと頽落していたところに忘れていた全体性を取り戻す」ということ。僕の言葉で言えば「〈社会〉から〈世界〉へ」。そうした回路を通じてケが戻る、つまり精気に満ちた日常が回復されるんです。/僕たちは「ケ→ケガレ→ハレ→ケ→……」というサーキュレーションを何万年も何十万年もやってきました。だからこのサーキュレーションが僕たちに刻みこまれています。その証拠に、「日常から離陸し、非日常のカオスを経験した後、日常に着陸する」ことで「以前と違った仕方で日常を感じ取れるようになる」というイニシエーション(通過儀礼)図式が、映画や小説や漫画を今も覆い尽くしています。(p.297〜p.298)
宮台真司
生きる、生きているということは、結論だけ言うと、からだがこうして生きているんです。頭じゃない、からだが息をしている、からだが感じているのです。これが「生きている」ことの事実です。それを命というんです。(p.391)
板橋興宗

★★★ 夜は短し歩けよ乙女 森見登美彦
二年ほど前に、この著者の「太陽の塔」を読んで面白いと思った。多分、同僚が貸してくれたものだった。出版から二年ぐらいたっていた。偶然だが、この本も出版から二年ぐらいが立っている。新しい物好きの私にしては、出版後一年以上たった本を読むのはあまりないことだ。
この本は四章からなり、初めはなかなか本の世界に入り込めなかったが、第二章から引き込まれていき、第三章が一番だった。内容は現実と空想が綯い交ぜになった楽しいものだ。それが、ちょっと軽いが巧みな文章とマッチしている。また、私の個人的な体験が絡んでいるのかもしれないが、ノスタルジーをくすぐる所がある。おそらく、好みがすごく分かれるだろう。

★★ 退職金は何もしないと消えてゆく 野尻哲史
広島銀行のセカンドライフセミナーで、この著者の講演を聞いた。広銀のセミナーは3回目だが、一番面白かった。その時、先着50名にこの本をプレゼントするというので申し込み、ゲットした。講演と同じような内容とのことだったので、復習を兼ねて読もうと思ったのだ。確かにほとんど同じ内容で、講演を思い出しながら、内容をゆっくり確認した。もっともなことが書いてあるのだが、どれだけ自分に当てはまるのか、ということが思案のしどころだろう。ひとつ、講演で話されなかった内容が最後に書いてある。「国内移住」。セカンドライフを地方の中核都市で過ごす、そうすればその都市の活性化にもつながる、という提案である。まさに広島のことである。広島の聴衆には話す必要のないことである。広島は、セカンドライフに限らず、生活するのに最高の所です。

★★★ 今こそアーレントを読み直す 仲正昌樹
最近よく見る名前、ハンナ・アーレント、読みたいとは思っていたが、とても手に負えそうにないので諦めていた。先日、県立図書館の新着図書の棚に、この講談社現代新書が置いてあるのを見つけた。パラパラと見て、これは読めそうだと思い借りた。著者が面白いたとえを出しながら分かりやすく書いているので、楽しく読めた。たくさん下に引用したので御覧あれ。
「政治」(と「人間」)の本質は、経済的な利害関係の調整でも、特定の世界観の下での善への遇進でもなく、(共同体にとつての)「善」をめぐる果てしなく続く「討議」である、というのがアーレントの考え方だ。「討議」し続けることが重要だという前提で「政治」についての哲学的文章を書いているのだから、「これこそが正しい考え方だ」と読者を納得させてくれるような分かりやすい答え≠示してくれるはずがない。アーレントの論文を最後まで読んでも、結論が見えなくて、肩透かしを食わされたような気分になることがしばしばある。その掴み所のなさが、アーレント・ファンにとつてはいいのである。(p.17〜p.18)
アーレントとほぼ同時代人の英国の作家ジョージ・オーウエル(一九〇三−五〇)は、「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる不可視の独裁者によって支配される近未来世界を描いたSF小説『一九八四』(一九四九)で、人々が「ニュースピーク」という政治的に正しい″新しい言語を話すことを強制されている様子を描き出している。全体主義体制が言論・表現の自由を奪い、検閲などを行なう形で思想統制することは比較的よく知られているが、それを突き詰めていくと、言語自体を単純化して、「複数性」の発生する余地をなくし、(政権指導部から見て)余計なことを考えさせないようにするのが、もつとも確かなやり方なのかもしれない。(p.81)
十分に討論を行なうこともないまま、もっぱら共通の利益を追求する市民たちの行動は、不可避的に均一化してくる。「経済」が社会全体で組織化・構造化されてくると、職業、地位、地域など、社会的な立場ごとに経済的利害関係がほぼ定まってくる。各人がそのようにして社会的に規定される自らの利益を、まるで本能であるかのように自動的に――現代日本のネット社会の用語で言えば、「脊髄反射」的に――追求するようになると、どういう問題に対してどういう人がどういう判断をするか予め予測できるようになる。アーレントに言わせれば、一九世紀から二〇世紀にかけて、行動心理学や統計学をベースにした社会科学が発達したのは、人々の行動が、「経済」的利害を中心に均一化されるようになったからに他ならない。/そのように各人が集団の中に埋没し、個性を失っていくことによって、西欧世界の伝統的な意味での「人間性」は徐々に崩壊していく。統計学的に行動が予測できてしまうとすれば、「人間」というより、動物の群れである。そこには、活動を通して「複数的」なパースぺクティヴを拡げていく余地はない。(p.106)
アーレントに言わせれば、そうした共感の政治″は、討論を活性化してパースペクティヴを複数化することには繋がらない。むしろ、「不幸な人々」に共感することを、人間としての正しいあり方として押し付ける排他的な価値観に繋がりやすい。場合によっては、苦しんでいる人たちに共感しない者たちを、最初から人非人として排除しようとする傾向を生み出す。現代日本の格差社会論議に顕著に見られるように、貧しい人たちに共感を示さない輩″を糾弾している人たちは、多くの場合、そういう輩を議論すべき相手ではなく、倒すべき敢と見てしまう。(p.130)
「私の意志」はいかなる原因も理由もなしに生じてくるというのであれば、それは、私の意志″が全くの「偶然」によって定まっていると言うのに等しいと思われる。つまり、サイコロの日の出方のような、全くの偶然性に従って私の意志≠ェ定まるような場合に限って、私は自由意志″を抱いていることになる。しかし、サイコロの目のような偶然によって決まっているとしたら、それが私の自由意志″だと言えるだろうか?(p.183)
それは、芸術作品が芸術作品として成立するには、制作者だけでなく、その美について判定する「観客」が必要である (略) その場合の「観客」は、制作者あるいは作品″と利害関係がある人物ではなく、純粋に美的に――人類が共有しているはずの「共通感覚」に基づいて――判定する者でなければならない。それと同じように、ある政治的出来事の意義を――やはり「共通感覚」に基づいて――歴史的な視点から評価し、それを共同体の中で記憶として残していくには、その出来事に対して局外中立的な立場にある「観客=注視者」が必要だ。判定者は、法廷の裁判官のように、事が起こった後で、その政治的出来事の意義を、自らの属する共同体を代表する形で「判定」するのである。(p.205)


★★ 芝居小屋 八千代座 永石秀彦 写真
県立図書館で偶々見つけた写真集。八千代座は、かなり前、山賀にラーメンを食べに行って、前まで行ったことがある。2001年の修復前なのか、後なのか分からない。中には入っていないのだが、入らなかったのか、入れなかったのかも記憶にない。今、写真集を見て、その魅力に心を動かされる。写真がまた素晴らしい。自然光で露出を長くして撮ったそうだ。
これも何時のことか記憶にないが、愛媛県内子の内子座に行ったことがある。この時は内部を隅々まで見て、結構感動した。また、これも何時のことか記憶にないのだが、香川県金毘羅の金丸座の前まで行ったことがある、が、どのような状況だったのか、入れなかった。こちらはその後、名の知れた歌舞伎俳優が来て公演をするようになって、とても有名になっている。
香川の金毘羅も熊本の山賀も、行く機会があると思うので、その時はじっくり見学しよう。

★★★ 世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く 植島啓司・鈴木理策(写真)
熊野について様々な方面から眺めたた本。著者は宗教人類学者なので、当然その方面からの言及が多い。熊野には神仏に関係する場所が多く、一見何もないところにも著者は聖なるものを感じると書いているが、それは普通の人間にも可能なのだろうか。というか、これから行こうと思っている熊野はそうであって欲しいと思う。行く前にこの本を読んでよかった。新書版なので大きくはないが、きれいな写真がたくさん載っているのもよい。宗教、歴史、地理、等々大変勉強になった。
熊野の神々は、もとからそこに住む地主神、産土神の集合体であり、そこに神道、仏教、修験道などの影響が積み重ねられたものだと考えられる。人びとが熊野に参拝に訪れた理由も、そこに籠もってさまざまな困難、病気、悩みについての託宣を得ることにあった。熊野はかなり特殊な地勢のもとにあり、それゆえに古くから山岳修行者の行場として人びとの関心を集めてきたが、彼らが行くところには鉱物資源があり、温泉が湧き、なによりも豊かな自然があった。それを求めて、一遍をはじめとする多くの宗教者がそこを訪れ、さまざまな霊感を得て新しい境地を開いていったのである。そうした力はいまも熊野に息づいている。(p.236)
この本は集英社新書ビジュアル版の一冊、このシリーズには面白そうなものがある。

★★ 臨床真理 柚月裕子
「屋上ミサイル」を読んで、『このミステリーがすごい!』大賞を分け合ったこの作品を読もうと思った。審査員4人の評価が真っ二つに割れ、それでは両方を、ということになったようだ。二作を読んで思うのは、確かに評価が割れそうで、その場合両方落選という選択肢はなかったのかということだ。まあ商業的な理由などあるののだろう。とはいえ、この作品も十分楽しめるものである。伏線が露骨で展開が読める、足らないことがないように書き過ぎている、というった欠点が見えるが、何故かぐいぐいと読ませる。最後に一つ、主人公が真犯人の犯行を引き延ばすためにとった行動にはひどく違和感を、嫌悪感を持った。

★★★★ 1Q84 村上春樹
BOOK1、554ページ、BOOK2、501ページ、ほぼ一気に、楽しく読みました。青豆の物語、天吾の物語、予想通りに、或いは予想に反して、絡み展開してゆきます。BOOK1は割に淡々と、BOOK2になるあたりから、独特の村上ワールドが拡がります。が、今までの作品に比べて、穏やかだと感じました。まず、文章が安定していて、思考の流れに無理がないので、とても読みやすくなっています。物語の結末が気になり始めるあたりでも、その流れは安定していて、終わりもすんなり心に落ちます。物語の世界が終結すれば、読書は終わりです。読者は現実を生きて行きます。続編が出るという説がありますが、必要ないと思います。

★★★ 奇跡のリンゴ 石川拓治
青森のりんご農家、木村秋則さんの、農薬も肥料も使わないりんご栽培についての話。2006年12月放送の、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で取り上げられ、大反響(残念ながら見ていない)。2008年7月、この本が出版され、これもベストセラー。りんご栽培、そして当然ながら、りんごという果物について目を開かされた。更に、人の生き方、自然との共存についても深く考えさせられた。人は自然に逆らって生きている。欲望を満たすために自然のサイクルを狂わせている。遠くない日、手痛いしっぺ返しを食うのは間違いなさそうだ、と読んでいて悲観的な気持ちになった。人の生き方を大きく変えるのは不可能だと思われる。ならば今の方向で突き進むしかないのだろう。それは勝算のほとんどない自然への挑戦になるだろう。
自然か不自然かということで言うなら、コーカサス山脈生まれのリンゴの木がここにあるということが、そもそも不自然なのだ。/ドングリの木があそこにあったのは、自然がそれを受け入れたからだ。/その年降った雨の量、湿度や温度、あるいは周囲の植物との関係。そういう条件が地面に落ちたドングリに適していたから、あそこで育つことが出来たのだ。ドングリの木を選んだのは自然であり、自然が必要とするからそこにある。その関係が変われば、ドングリの木は静かに枯れていくだけだ。/リンゴの木は違う。リンゴの木を植えたのは人であり、リンゴの木を必要としているのは、あくまでも人だ。自然の摂理に従うなら、おそらく枯れるしかないだろう。そのリンゴの木をなんとか生かそうとするのは、人間の都合なのだ。/それが農業というものであり、農薬を使おうが使うまいがそれは同じことだった。(p.155)
木村のリンゴがなぜそんなに美味しいのか。/そのことにはたぶん、合理的な説明がつけられる。/ワインの善し悪しを語るときに欠かせないテロワールという言葉がある。大地の香りとでも訳せばいいだろうか。ブドウの育つ土地の地質学的性格が、ワインの味や香りに深い影響を与える。この土地に由来するワインの特徴を、テロワールと呼ぶのだ。/このテロワールということで言うと、肥えた畑よりむしろ痩せた土地に育ったブドウが極上のワインになることが少なくない。乏しい養分を求めて、ブドウの根は地中深くまで張り巡らされる。その結果として、ブドウは土壌中の様々な微量の元素を取り込み、香りや味がより複雑で奥行きのあるものになるというわけだ。/台風でもびくともしないほど、太く長い根を地中に張り巡らせた木村のリンゴにも、同じことが起きている可能性は十分に考えられる。/肥料という人工の栄養で育ったリンゴに比べて、木村のリンゴがより複雑な香りや甘みを備えているのは、そう考えてみれば不思議でも何でもない。それはたとえば、天然の鯛と養殖の鯛の味が違うのと同じことなのだろう。(p.190〜p.191)

木村さんのリンゴ、食べてみたい。どうやったら食べられるのだろう。

★★ 図説地図とあらすじでわかる!万葉集 坂本勝
本屋で「図説地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀」という本を見つけた。図書館で調べたら、このシリーズ、他に、「聖書」、「万葉集」があった。
万葉集に、地図とあらすじ、はあまり関係ないように思ったが読んでみた。あまり関係なかった。初めに万葉集の時代を解説する章があり、そこには地図と図版が多く使われ、歴史が簡単に述べられる。しかし、結局は万葉集のことが書いてあるので、図説地図とあらすじ、はピンとは来ない。他の二つに期待。
中味はそこそこ面白かった。
験(しるし)なきものを思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし (巻三・三三八)
≪くよくよと物思いにふけるよりは、一杯の濁り酒を飲む方がよほどいい≫ (p.138)

★★ 世界をよくする簡単な100の方法 斎藤槙
普通の人一人一人がちょっとしたことをやれば、世界をよくすることができると著者は言う。そしてその為の方法を100あげている。正確に言うと99、100番目は、「あなたのアクションを決める。」となっていて、我々読者に行動を促している。各人が自覚を持ち行動を起こすことは確かに大切だと思うが、それで世界が良くなるとは残念ながら思えない。なぜかと言うと、自覚をしない人間が優に半分を超えているからである。私はどちらかというと性善説をとる。しかし、自分のためにいいことはするが世界のためにいいことをする人間はそんなにいない、と60年の私の人生経験は告げている。
この本に書いてあることは大変興味深かった。色んな人がいて色んな事をやっている、感動し尊敬する。ただ、「営利目的の活動を通して世の中をよくしていこうとする試み (p.210)」には、それができればいいとは思うが、実際は難しいのではないだろうか。ただでさえ、あらゆる手を使って儲けようとしている輩がごまんといるのだから。私は悲観論者である。
天然染料の始まりは、古代人が薬草として使用した植物のエキスが繊維を染めることの発見から。もともと服は病を癒す術として用いられ、「服用」という言葉もそこから来ているとのこと。だから、布を染める草木のスピリットは、皮膚を通して、あるいは香りとなって、身体に取り入れられるのだそうです。(p.51〜p.52)
もともと「働く」の語源は、「傍を楽にする」という意味につながっているという説があります。つまり、働きがいとは、傍(=周囲の人々)のためにする労働から得る価値だということです (p.216)


★★ 無銭優雅 山田詠美
この著者の本はかなり昔に短編集を一冊読んだ。何の印象も残っていない。今回初の長編(中編)。読みやすい文、現代的な文、軽い文(軽薄とも言えるか)、40代の恋を描くのにぴったりの文(今の40代はこんなに軽いのか)。この軽い流れに、少し色付けをするためか、ところどころに別の本の一節が挿入されている。ピッタリのものもあるが、意味不明のものもある。最後に出典が記してあった。この引用よりも、この著者の文に、キラキラと輝く表現がいっぱいある。
最初は、向こうの出方をうかがうつもりだった。にらみ合いの均衡を崩さないように待つつもりであった。生まれるのも消え去るのも簡単、それが、恋。どうせなら、その簡単な領域を卒業して、持久走の選手資格を取りたいではないか。今まで、クリアしたことのない難題に取り組んで行きたいではないか。なあんて気を張っていたら、相手は、すぐさま私を抱え込み、出し惜しみが反則であるのを、あっさりと教えたのであった。なんだ、秘訣って、そんなことだったの? 私は、その時、出し惜しむ程のものなど、自分にないことに気付いて、肩すかしをくらった感じがした。その瞬間、自分の内にあるものは全部差し出してみる。すると、次に差し出したいものが、新たに溜り始める。私の求めていた持久走が、そのくり返しで進んで行くものだなんて、今まで知らなかった。どうりで、何度恋愛しても失敗する訳だ。出し惜しみした思いは、その側から使いものにならなくなって行って、やがて賞味期限が切れちゃう。そんなものばかりを心に保存していたら、新しい思いを入れる場所もなくなる。それまでの私、相手へのいつくしみを、いつだってけちって腐らせていた。(p.94〜p.95)
ぴたりと決まる相性は四次元の中にある。(p.102)

★★★★ 心にナイフをしのばせて 奥野修司
1969年春、事件は起こった。高校一年生が同級生をナイフでめった刺しにし首を切り落としたのだ。私は大学の二回生だったが、全くこの事件を覚えていない。28年後の「酒鬼薔薇」事件ほど騒がれなかったのだろうか。この本は、被害者一家のその後を丹念に追っていく。彼らがいかに苦しんだか、切々と伝わってくる。しかし、彼らには国は何の援助の手も差し伸べない。それに対して、加害者には人権が認められ、「更生」後社会復帰が認められる。この加害者Aは見事に更正し、なんと弁護士になっているそうだ。筆者は淡々と描いているが、ものすごい矛盾を感じる。というか怒りを感じる。特に、筆者や被害者が、Aに接触したときのAの態度には怒りを通り越し唖然としてしまう。おかしい、どこかがおかしい。
それにしても、少年法に〈少年の健全な育成を期し〉と謳いながら、犯罪を犯した少年が少年院を出たあと「更生」したかどうかといった長期追跡調査がなされていないというのも不思議な話である。(p.38)
みゆきさんは、いまだに見つめられると身体が震える。これもすべてあの事件を引き起こしたAが原因である。それなのにAからいまだに謝罪の言葉ひとつなく、これで「更生した」といわれても、みゆきさんやくに子さんには白々しいだけだろう。/ごく単純なことだが、Aが「更生した」といえるのは、少なくとも彼が加賀美君の遺族に「心から詫びた」ときだと思う。「更生」とは、そのとき遺族が加害者のAを許す気持ちになったときにいえる言葉ではないだろうか。/もちろん少年法は、遺族に謝罪することを義務づけてはいない。それゆえ、法律上は彼が謝罪しなかったからといって非難される筋合いのものではない。だが、どこかがおかしい。少年法を楯に、加害者もその親も責任を免れるとしたら、やはり少年法のどこかが間違っているのだ。/「加賀美の家族はみんな苦しんでいるのに、Aだけが許されちゃって、せっせと金儲けに励んでいるなんておかしいよ。国は莫大な金をかけて殺人者を更生させ、世に送り出したんだろ。それなら最後まで国が責任をとるぺきだよ」/これは洋君の友人である佐々木さんが語った言葉だが、私の意見としても記しておきたい。(p.268〜p.269)


★★ 「国連」という錯覚 内海善雄
著者は、ITU(国際電気通信連合)という国連機関の事務総局長を二期八年(1999年〜2006年)務めた。このような地位に就いた日本人は、中嶋宏WHO事務局長(1988年〜1998年)と緒方貞子国連難民高等弁務官(1990年〜2000年)に次いで三人目だそうだが、その割には著者の名前が知られていないように思われる。出身の郵政省とITUの業務内容のためだろうか。更に、通信が電話からインターネットに移り、一層、ITUの存在感が薄れているようだ。この本には、インターネットがいかにアメリカに牛耳られているかが書いてあり、驚きだった。もう一つの驚きは、国際交渉のおどろおどろしさである。世界各国の利害が衝突し、とても全体のことを考えて議論しているとは思えない。読んでいるぶんには面白いのだが、このように世界が動いているのならば、かなり恐ろしい感じがする。佐藤優の書いていることの方がまだ展望があるように思う。それにこの本の著者は少々自己正当化、自己顕示欲が強いようだ。まあ、それぐらいでないとこのような仕事はできないだろう。知らない世界が覗けてまあ読んで損はない本です。

★★ 英語をやっていて、本当によかった。 吉越浩一郎
予想とはちょっと違っていましたが、説得力のある妥当な内容でした。英語学習にはこのような意見がたくさんあるのに、文科省は非現実的なことを押しつけ、世の中でどれだけ無駄なエネルギーが費やされていることでしょう。「文法の勉強は、英会話には役に立たない」というのは間違い (p.20) コミュニケーションにおいては、何よりも伝える「中身」「メッセージ」が大切です。それを磨くことが最優先であり、そのうえで必要に応じて語学力を身に付けることがよいのではないかと思います。(p.52) 目的を決めずにダラダラと英語を勉強しても、英語は身につきません。(p.132)

★★★ 極北クレイマー 海堂尊
このお話、初めはウンザリし、嫌悪感まで催す、舞台となる病院の状態から始まる。本当にこのような病院が存在するのだろうか。更に、著者の描き方が、以前からその傾向はあったが、ここにきて一層カリカチュアライズ(戯画化)されている。この冗漫さを救ったのは、あのお馴染みの「姫宮」の登場である。ここから俄然物語が面白くなる、が、予想に反し、いつものパターンにはならない。
読後、満足感は得られるのだが、振り返るとほとんど何も解決していない。続編が二三は出来そうである。そういえば、この本に登場する産婦人科医、以前の作品(どれかは思い出せない)で言及されていました。この著者の作品は9冊ほど読みましたが、小説に関しては、彼の頭の中に壮大な叙事詩が既にできているのではないでしょうか。次作が楽しみです。

★★★ 単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二
池谷裕二、五冊目。ついつい読んでしまいました。この本も普通に描いたものではなく、自分の母校で高校生を相手におこなった講義を収録したものです。「進化しすぎた脳」と同じ形ですが、新たな発見が盛り込まれ、同じことでも新たな例が示され、結構面白く読めました。高校生に話すという形は難しい内容を多くの人に伝えるのにはいいのかもしれません。しかし、最後の方に脳科学の袋小路みたいなことが書いてあり、脳みそがシェイクされているような気持ちになります。
この世のどこに「因果関係」が存在するのでしょぅか。答えは「私たちの心の中に」ということになります。つまり、脳がそう解釈しているだけ。因果とは脳の錯覚なわけです。(p.26)
体側は左右交差しますね。だから人の顔を見るとき、左側の視野で見たものは、交差して右脳に届きます。これでおわかりですね。私たちが見たものを判断するのは「左側」の視野が中心。/たとえば、スーパーマーケットや八百屋では、特売品やセール品は、人の流れに対して左側に置くと目に留まりやすく、販売数も伸びるという話があります。(p.46)
情報はきちんと保管され、正確に読み出されるというよりも、記憶は積極的に再構築されるものだってこと。とりわけ、思い出すときに再構築されてしまうことがポイントだ。思い出すという行為によって記憶の内容は組み換わって新しいものになる。それがまた保管されて、そして次に思い出すときにもまた再構築されていく。/記憶は生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返していって、どんどんと変化していく。だから「見た」という感覚がいかに怪しいかがよくわかる。(p.135)


★★★ ヒトはなぜペットを食べないのか 山内昶
iイヌを食べた人々、ネコを食べた人々、ペットを愛した人々、タブーの仕組み、贈り物と祭り、ペットと消費文明、の6章から成る。タイトルは最近流行の付け方のように見えるが、内容はヒトの生き方、集団生活の営み方、にまで及び、奥深い。論文のようになっているところもあり、煩雑で読みにくい面もあるが、興味を引くことが多々書いてある。著者は博学で凄いと思うが、それをひけらかしている印象があり、特に「読者のあなた」という言い方が鼻に付いた。
個人の無限の欲望を聖域とし、生産者はその欲望を充足させるための奉仕者にすぎないという理論だが、しかし欲望自体が生産システムのなかに組みこまれ、供給側によって需要が造出され、欲求自体が操作、管理の対象になっているのが、現代の消費文明だからである。(p.182)
人類がなぜ普遍的にカオスを線引きし、コト分けしてコスモスを創出しながら、そこからはみだした時空の境界(リーメン)をタブーとして抑圧してきたのか。にもかかわらず、コスモスの維持、存続のためには時空のクレヴァスでカオスへの回帰が必要とされ、祭りでタブーが侵犯されねばならなかったのか。そして近代以降になると、自然=カオスの制圧が進み、科学的合理主義が発展してくるにつれ、逆にカオスがコスモスと混じりあい、拡散されるヴァーチャルな世俗世界が出現し、インセスト禁忌とペット食禁忌がコスモスの崩壊を防ぐ最後の砦となったのか。今やこうした疑問が氷解するとともに、なぜ近代になって特にペットが厳しい食禁の対象になったのか、その理由が読者のあなたにもご納得頂けたことだろう。(p.186)
ここで本文終了。

すぐ食べたい!一膳ごはん 志賀靖子
「のっけめし」のときも書いたが、この手の本、もう食傷。レシピ本とぽしても貧弱。というか、ひょっとして今はこのようなお手軽なレシピ本が受けるのか。だとしたら、この先、食生活はどうなるのだろう。まともな料理が無くなってしまうのではないか。出版社も儲け主義を改めよ、こんな本を眺めている私も反省。

★★ テーブルの出来事 植松二郎
レストラン短編集、というサブタイトルがついていて、レストランにまつわる、客、ウエイトレス、料理人、といった人たちを中心にした、ちょっとほろっとする、いいお話が九つ。
あとがきを書いているのが、クリエイト・レストランツという会社の代表取締役という人。この会社で実際にあったことを基にして、この短編集ができたそうです。
この会社、記憶にあると思って調べたら、去年ブログに書いていました(こちら)。その時から更に店舗を増やし、今年2月現在全国で389店舗になっているようです。
私が行った店では、この本にあるような出来事が起こりそうにはありませんでしたが、これだけ店舗があればなかにはこのようなこともあるのでしょう。
本としては読んで損のないものです。

★★★ 資本主義はなぜ自壊したのか 中谷巌
自ら政府の委員として構造改革を推進した立場から、一転、自己批判をしてそれを間違いだったと認めるということは大変なことだろう。400ページに近い分厚い本だが、読みやすい。それは、あまり目新しいことが書いてあるのではなく、どこかで読んだようなこと、当然のことが書いてあるからだろう。経済の専門家ではないのでよくは判らないが、アメリカが宗教国家であり理念国家であるということと経済の関係、一神教国家と経済の関係、の付け方が強引に感じられた。また、日本という国の分析が、右翼的に過ぎるという印象も受けた。しかし、総じて面白く読める本である。
資本主義が発達して、消費生活がさかんになつた結果、伝統的な生活習慣が失われたとする。伝統が消えたことはその社会にとっては損失ではあるかもしれないが、その損失を金銭で表わせないのであれば、それは経済学の対象とはならない。まさに「外部」性なのである。/こうした経済学が持つ限界が、今や世界中で伝統文化を破壊し、社会のつながりを破壊していると言ってもいい。/文化には「価格」はつかないから、文化的な価値を市場活動が壊していっても、それは経済的損失としてはカウントされない。文化損失のコストは計算できないから、どんどん伝統文化は破壊されてしまっても、経済学においては問題にされない。(p.132)
近代になって登場した市場経済はやがては資本主義経済になつていくが、この資本主義の発展の中で人間は本来、交易の対象としてはいけないものに価格を付け、取引を行なうようになった。実はこれこそが市場経済が「悪魔の碾き白」となって社会の仕組みを歪ませ、最終的には人間性をも破壊してしまう決定的な要素になった。これがボランニーの主張のきわめて重要な部分である。/では、いったい何を取引することが市場経済をおかしくしたのか――それは「労働」、「土地」そして「貨幣」そのものの取引であると彼は言う。本来、これらの三つのものは商品として扱われるべきものでなかった。言うならば「禁断の商品」であったのに、近代の資本主義ではこれらを市場で取引するようになった。それがすべての間違いの始まりであったというのである。(p.142〜p.143)
『古事記』や『日本書紀』をひもとくと、神々が機織りをしたり、あるいは山彦・海彦の神話のように猟や漁撈をしていたという物語が頻繁に出てくる。現在の皇室でも、春になれば天皇陛下自らがお田植えを、秋には稲刈りをなさるし、また、皇后陛下も養蚕をなさっておられる。このように神々や、その子孫と信じられている皇室に自ら労働をするという習慣があるのは、日本においては「労働は神事である」という観念が古くからあったからに他ならない。/これに対して、一神教の世界でも、ギリシア神話の世界でも共通しているのは「労働は苦役である」という思想である。たとえば聖書では、人類の始祖であるアダムとイブは最初、楽園に暮らしていて働く必要がなかったが、蛇にそそのかされて知恵の実を食べるという罪を犯したためにエデンの園から追放された。人間が労働をせざるをえなくなったのは、アダムとイブの犯した「原罪」ゆえであるというのが聖書の教えである。つまり、労働とは神から与えられた罰なのである。(p.285〜P.286)

★★★ アフリカ・レポート 松本仁一
著者は朝日新聞の記者で、長年アフリカの取材に携わってきた。実際に見たことを基にした記述には説得力がある。我々はアフリカについて知らなさすぎる。というか、マスコミもアフリカについては取り上げない。私も不勉強だが、あのマンデラの登場で注目された南アも酷い状態のようだ。アフリカに限らず何処でも言われることだが、先進国の援助のやり方にも問題がある。また、各国の指導者の責任も重いのだろうが、一般大衆も意識が低いと思われる。最後の方に、民間から政府に頼らず自力で生活の向上を目指す運動が生まれているということが書いてあり、少し希望が見える。

★★ 橋本治と内田樹 橋本治・内田樹
二人の対談。特にテーマが決められているわけではなく、自由に様々な話題について話をしている。個人的にはこの二人は好きなのだが、この対談はいまいち。お互いのヨイショ(特に橋本に対する内田のヨイショ)が目について、読んでいる方には、面白いとは言いづらい。
現代国語は「書いた人間」と、「出題した人間」と、「解く人間」 の三人いるわけです。ターゲットはここ、「出題者」なんです。「書いた人間」 のことなんか考えちゃいけないんです。「出題した人間」の頭に同調するんです。(p.204)


★★★ TOKYO NOBODY 中野正貴
写真集です。タイトル通り、人っ子一人写っていない東京の景色です。景色といっても、人間が作ったものばかりです。だから、人はいなくても、都市が生きているという躍動を感じます。不思議な写真です。
何の説明もありません。初めに、1990−2000、と書かれているので、これだけの時間をかけて撮影したと思われます。影が長いので、おそらく朝の写真が多いのでしょう。

★★★★ ゴールデンスランバー 伊坂幸太郎
面白い本でした。500ページちょっと、たっぷり楽しませていただきました。いろいろ突っ込む人がいるでしょうが、どうせ小説なんて作りものです、楽しむのが一番。
実にうまくできています。読みながら、成程成るほどナルホド、と何度も唸ってしまいます。特に最後が抜群です。思わず微笑みがこぼれます。つまり、読後感、爽快。
マスコミの無責任、権力の恐ろしさ、よく伝わります。だが、何も解決していないではないか、と批判する意見もあるでしょう。でも小説はそれでいいと思います。
伊坂幸太郎、他の作品も読んでみよう。

★★ のっけめし 上條雅恵
「365日たまごかけごはんの本」、「おとなのねこまんま」、と読んできたが、だんだんしょーもないものになっている。書いてあることはレシピ本と考えればそこそこなのだろうが、「のっけめし」という範疇で考えると、その意義はない。例えば、「マーボーなすのっけ」(p.115)、単にご飯にマーボーなすをのせただけ。
と言いながら、ミーハーな私、次々と出されるこの手の本、もうちょっと読もうとしています。

★★ 杉並区立「和田中」の学校改革 苅谷剛彦 他
去年、藤原和博「つなげる力」を読んだとき、彼の取り組みに批判的な人の意見を聞きたいと思った。この本は、多少問題点を書いているが、基本的には同じ立場の人たちの考えである。ちょっと期待外れであった。しかし、書いてあることは真っ当なことで、特に印象に残ったのは、和田中の普通の公立学校としてのマスコミが取り上げなかった地道な活動を、藤原校長がバックアップしていたということだ。やはり、彼はかなりの人物だということのようだ。それにしても、批判的なことを書いた本はないのか。

★★★ 少女 湊かなえ
「告白」が六章からなり、それぞれが一人の人物の告白になっている、のに対し、この作品は、ほとんどが二人の少女が交互に語るという形をとっている。著者は、内容に合わせた、実にピッタリの形式を作り出している。最後があまりにハマりすぎという感じがしないでもないが、途中から結末を予想させ、読後になるほどと思わせる手腕は素晴らしい。この小説も難しいことは考えず楽しめばいいだろう。前作同様、深刻なテーマについて議論することも可能だが、そうすると、読書が楽しくなくなってしまうこと間違いなし。

★★★ 告白 湊かなえ
先日、本屋大賞をとった作品。さすがに面白い。久しぶりに面白い小説を読んだ。構成がなかなかによい。語り手たちが建前ではなく本音を吐露しているのが爽快である。我々が普通出来ないことし、言えないことを言う。リアリティーがどうの、主張がこうの、と言わずに楽しんで読めばいい。

★★ GHQ焚書図書開封2 西尾幹二
一冊目を読んだので、そして、結構面白かったので、「2」も読んでみました。400ページ弱の本で、何か根本的なところに違和感があるのですが、かなり惹き付けるものがありました。
当時の日本人は欧米諸国を「侵略国家」として認識し、指弾していたのです。日本は侵略されなかったアジアの最後の砦であったそういう捉え方が当時は当り前でした。/ところが、いまの新聞、雑誌、テレビ、あるいは教科書を見てください。日本がアジア各国を侵略したという話にガラリとすり替わっています。そんな馬鹿な話はありません。アジアの国々を侵略したのは欧米諸国であっも、けっして日本ではありません。日本は侵略された側の最後の砦だったのです。それなのにいつの間にか、日本は侵略した側に回されてしまった。というより欧米は無罪で、日本だけが侵略国にされてしまった。そんなとんでもないことが起こつているのは、敗戦国から抜けられない日本人の心理現実で、現代の敗戦国は領土だけでなく歴史も奪われる端的な証拠です。そしてその手段の一つが焚書でした。
日本についてはさておき、確かに、欧米がアジアの国々に対してやったことについて、アジアの国から非難の声があがらないのはどうしてでしょう。

★★★ 偽善エコロジー 武田邦彦
強烈な内容の本です。さらに、説得力があります。タイトルを見ただけでも衝撃的です。
レジ袋を使わない→判定/ただのエゴ/レジ袋は石油の不必要な成分を活用した優れもの
割り箸を使わずマイ箸を持つ→判定/ただのエゴ/「端材」から作っていた割り箸
温暖化で世界は水浸しになる→判定/ならない/「北極と南極の氷が解けて海水面が上がる」は間違い
ダイオキシンは有害だ→判定/危なくない/人間にとってはほぼ無害

確かに、ダイオキシンは一部の動物実験では毒性が見られた。逆の場合が、昔あったサリドマイド。これは、動物実験では無害だった。動物に危険=人間に危険、動物に安全=人間に安全、という判断は、大変危険と著者は言っている(p.92〜p.93)
私はリデュース、リユース、リサイクル、いわゆる「3R」と呼ばれるものが嫌いです。なぜかというと、まず英語を使っているからです。口本語で呼ばずに英語で呼んでいるむのに、ろくなものはありません。リサイグルをせずに焼却することをサーマルリサイクルと言ったりするのがその例です。日本人は、日本語で言ってもらうと正確に言葉を理解することができるのですが、英語で言われると本来の目的や意味があいまいになります。そのわずかな隙を狙って、相手をだまそうとしている人がウソをつくのに英語を使うことが多いからです。(p.222)
エコロジーといって金儲けをしているやつがいる、騙されないようにしないといけない。

★★ オバマのアメリカ 渡辺将人
まずアメリカの選挙についての説明がある。深く係わった著者ならではのエピソードもあるが、細かなことにまで入り込み過ぎたきらいがある。党大会の話は興味深かったが、ちょっとくどかった。地図が全くないのも理会しづらい。後半のオバマに焦点を合わせた記述は読ませるものが多い。人間、時の運に恵まれたものが大成すると強く感じた。更なるオバマの幸運と世界の安定を望む。
中国がグラスルーツ型で地方の利害をテコにしてアメリカに政治的に働きかけているのに対して、いまだに日本がホワイトハウス頼み型である (p.105)
多民族社会アメリカにあっては、「差異」は認め合うものであり、混ざり合い無色透明になるものではない (p.157)

★★★ 日本語が亡びるとき 水村美苗
衝撃的なタイトルだが、日本語が亡びると言っているわけではない。警鐘を鳴らしているのだ。
難しい内容を分かりやすく巧く書いている。すべてが著者のオリジナルではなく、出典が示してあるが、全体としてはオリジナルと言っていいだろう。言葉に興味のある人は読むべき本である。
読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものである。ある言葉を読むことはできても、その言葉で書くのは容易なことではない。いくつもの言葉を読むことはできても、いくつもの言葉で書くのは、困難である。ヨーロッパの知識人は、しばしば<三大国語>すべてを読んだが、たいがいは<自分たちの言葉>で書くようになっていった。(p.141)
インターネットは人類の文字文化にとって「グーテンペルク印刷機以来の革命的な発明だ」とほ誰もが言うことである。誰もが言うことが正しい時も世の中にはあり、実際、この先、インターネットぬきに<書き言葉>にかんして考えることほできない。ことに、ここで問題にしようとしている、<普遍語/現地語>という言葉の二重構造について考えることはできない。インターネットという技術の登場によって、英語ほその<普遍語>としての地位をより不動のものにしただけでない。英語はその<普遍語>としての地位をはぼ永続的に保てる運命を手にしたのである。人類は、今、英語の世紀に入ったというだけではなく、これからもずっと英語の世紀のなかに生き続ける。(p。240)

この意見には同意できない。というか説得力がない。
教育とは最終的には時間とエネルギーの配分でしかない。(p.287)
教育とは家庭環境が与えないものを与えることである。/教育とは、さらには、市場が与えないものを与えることである。(p.317)

おとなのねこまんま ねこまんま地位向上委員会
先日読んだ、「365日たまごかけごはんの本」よりもさらに期待外れだった。無理やり136種類作ったという感じで、「なるほど」、とか、「旨そ」、とかいうところがほとんどなかった。

★★ 絵で読む歌舞伎の歴史 服部幸雄
「能」に凝ったことはあるが、歌舞伎はそれほど見たことがない。見たいと思うようになってからは見る機会がない。昔、「能」についての本はかなり読んだが、歌舞伎についてはほとんど読んでいない。この本はタイトル通り歴史について書いてあり、よく理解でき、鑑賞の助けになりそうなことも書いてあった。明治以降についても書く予定があったようだが、著者が亡くなって実現できず残念なことだ。もう少し歌舞伎の本を読んで、近いうちに見に行きたいと思う。

★★★ 日本の庭 内藤忠行 写真
世界で類のない空間芸術である日本の庭は具象的でありながら抽象を漂わす。(p.199)
写真家の撮った美しい日本の庭を、幾つかのカテゴリーに分類し、様々な分野の人々がコメントを付けている。なるほどと思うものもあれば、?というものもある。
自然そのものに見えながら、巧妙に人の手が加えられ、自然と人工が紛らわされて渾然一体となった、都ぶりとしかいいようのない虚構の美である (p.54) 川瀬敏郎(花人)
庭園というのは、草木の生長と管理の仕方によって姿を変えていく。(p.94) 伊藤ていじ(建築評論家)
「つぼ」、もとは壺、そのような形の庭が「つぼ庭」、宮中の女房部屋には「つぼ」が設けられ、植えられた植物のよって「桐つぼ」などと呼ばれ、そこに住む女房が「つぼね」と呼ばれた。(p.114) 杉本秀太郎(日本芸術院会員)
中国では、古くからの景勝地の目立つ岩に風光を賛美する語句を刻む習慣がある。(p.147)
琉球の庭にはこの例が多いが、内地には一例のみ。 牛川喜幸(長岡造形大学名誉教授)
そういえば、北朝鮮にもありましたね。
自然の重力に逆らって、空高く人工の水を吹きあげる噴水には、自然を征服し、自然に打ち勝ってゆくことこそ文明だと考える西欧文化の本質がよく出ていると言っていい。/それに対して、自然のままに、上から下へ水を落とす滝を美しいと見る東洋の感覚は、あざやかに西のそれと対し合っている。(p.174) 五木寛之(作家)
立ち上がるために静かに座る紅葉の庭 (p.183) ひらのりょうこ(詩人)

★★ ゆったり泊まりたい癒しの湯治宿案内 野口冬人
タイトル通り、湯治のための温泉(宿)紹介。行ったことのある温泉(宿)は中四国九州ににちょっとだけ、行きたい所がたくさんある。特に、青森の酸ケ湯、秋田の乳頭、群馬の草津、岐阜の新穂高温泉・槍見館、といった有名どころには一度は浸かってみたい。

★★ 宮大工西岡常一の遺言 山崎佑次
かなり前に読んだ「木のいのち木のこころ」と云わんとするところは同じである。
木にはそれぞれに個性がある。だから、木はその個性を大切にして使われなければならない。そのようにして出来た建物は何百年ともつ。
この本には、薬師寺での仕事のことが詳細に書かれていて、興味深い。現代の目先だけの功利主義に警鐘を鳴らしている。

うまくいかないのが恋 高樹のぶ子
新書版よりちょっと横長ですが、171ページ、1ページ13行、1行30文字、しかも1ページに390文字あるページなんてほとんどなし、ということで、あっという間に読めます。ところどころに気の利いたような言葉はありますが、わざわざ教えてもらうほどのことでもなし。こんなことを教えてもらわなければいけないとすれば、世も末。ではなぜこの本を読んだのか。何かに面白いと書いてあったのだが、思い出せない。
男性は、一つひとつの恋愛を別のフォルダーに残して大事にしますが、女性は、今までのものを全部消去して上書きします。(p.29)

★★ ≪図解≫日本の「三大」なんでも事典 世界の「ふしぎ雑学」研究会
同僚が貸してくれました。なかなかに面白い本でした。
三大工業地帯。昔は四大だったのに、北九州が没落した。(p.54)
織田がこね、羽柴がつきし天下餅、座りしままに食うは徳川 (p.60)
江戸に多きもの、伊勢屋、稲荷に、犬の糞 (p.76)

歌舞伎町という地名は、敗戦後、歌舞伎劇場を中心に新興文化地域として復興させようという願いと決意を込めて付けられた。が、劇場は実現せず、古典芸能とは正反対のほうに発展した。(p.228)
いろいろ勉強になりました。食べたいもの、行ってみたいところが増えました。

★★ 生活保護 VS ワーキングプア 大山典宏
一九九〇年代のバブル経済崩壊後、日本では長期にわたって経済不況が続き、企業では終身雇用と年功序列型賃金のシステムを変えざるをえなくなりました。きっかけになったのは、一九九五年に日本経営者団体連盟(当時)が発表した「新時代の『日本的経営』」だといわれています。報告書では企業の中核を支える「長期蓄積能力活用型」が減り、専門的な知識を生かして仕事をする「高度専門能力活用型」と、必要な時期に定型的な業務をしてもらう「雇用柔軟型」の三つのグループに労働者を分けていくことを提言しています。/一九九九年には労働者派遣法の改正が行われ、それまで一部の職種に限定されていた派遣社員が、一般的な企業現場のほぼすべての職種で受け入れることが可能となりました。二〇〇二年の改正により製造現場での受け入れも認められ、事実上、派遣社員の受け入れに閲する制限はなくなりました。(p.27)
現在の格差社会を生み出したのはこれでしょう。確かに自己責任という部分もあるとは思いますが、為政者によって意図的につくられたという面は否定できません。
「水際作戦の被害者」と「受給者バッシングの受給者」は、まったく別人物として描き出されます。その結果として、問題の本質が一般の読者や視聴者に理解されることなく、いたずらに生活保護のイメージだけが悪くなっていくことになります。ある報道番組で出演者の一人が、「ヤクザや怠け者のような声の大きい人間には生活保護を与えて、必死に働いてきたお年寄りには生活保護を与えない。こういう生活保護のやり方は間違っている」という趣旨のコメントをしていました。視聴者が漠然と抱いた生活保護のイメージを的確に表した言葉だといえるでしょう。仮に、それが生活保護のごく一部分の特殊な事例を取り上げたものであったとしても、報道に乗ることで、「生活保護はそういうものだ」というイメージがつくられていきます。/そして、繰り返される報道のなかで、「生活保護=悪」というイメージは社会に定着します。「悪」の代わりに、「暗い」「怪しい」「後ろ暗い」「不正めいた」といった言葉でもいいでしょう。いずれにしろ、生活保護には強く負のイメージがつきまといます。(p.74〜p.75)
この本を読んで、生活保護というものが多少分かったような気がします。我々もよく物事を見なければいけませんが、報道機関の責任は大きいと思います。
必要となるのは、生活保護を利用することをゴールとするのではなく、自立のきっかけになるように支援していくシステムの構築です。現在の生活保護は利用者の長期化が進み、「一度、利用すれば死ぬまで」が当たり前となっており、様々な弊害を生み出しています。生活保護を利用したあとに、速やかに自立ができるようなシステムを社会のなかにつくりだしていくことが求められています。(p.223)
確かにこの通りで、生活保護が目的となってないけないのだろう。つい先日読んだ「子どもの最貧国・日本」にも同じ発想のことが書いてあり、早めに手を打てば結局経済的にも効率がいいということがよく分かった。効率という言葉は好きではないが、無駄遣いをして社会全体が損失を被るのはよくない
理論と現実、傍観者と当事者、建て前と本音、といった対立をどう克服するかが問われている。

★★★ オバマ演説集 CNN English Express
『CNNが伝えたバラク・オバマの半生』という章がまずあって、彼の生い立ちが書かれている。よくケネディーと比較されるが、全く好対照だ。彼が大統領になったということは、まさしくアメリカンドリームである。そして、それを実現するきっかけとなった、『2004年民主党大会基調演説「大いなる希望」』、これは、アジテーションという意味では、就任演説よりもすごい。彼の演説の素晴らしさはよく分かった。あとは、彼の実行力に期待するだけだ。

★★★ 女神記 桐野夏生
女神とはイザナミの命のことである。もう一人、中心人物であり、語り手である、「ナミマ」という女がいる。この二人の女の物語が実にうまく絡み合って読者を惹き付ける、面白い本である。
本の最後に参考文献が書いてあり、古事記関係はもちろん、沖縄の久高島関連の本が挙げてある。「ナミマ」の島については、久高島とイザイホーをイメージしたのだろう。
余談。先日読んだ、「古事記」の真実、という本に、稗田阿礼は女性だと書いてあったが、この小説に稗田阿礼が女性として登場する(黄泉の国にいる亡霊だが)。その彼女が、蟻になって現世に行き、戻った時は男になっていたという、折衷的な落ちが付いていた。

★★ 子どもの最貧国・日本 山野良一
この本に書いてあることは、下の引用にもあるとおり、我々が常日頃感じていることだ。著者はそれを丹念にデータで追って実相として浮かび上がらせる。だから読んでいてワクワクすることはないが、重い現実を突き付けられて考えさせられる。突拍子もないことを書くようだが、人間関係の中ではなく、動物としての人類はこの先どうするべきなのか、ということが大問題だと思う。
学力と家庭の経済力の相関関係は、現場の教師たちにとってはけっして目新しいものではなく、「いまさら」の感を持たせるものだったでしょう。児童相談所や一時保護所で働くソーシャルワーカーたちにとっても、「いまさら」という思いは共通しているところだと思います。(p.154)
男女両性の平等を求める人たちの視点からは、ひとり親家庭の問題は、男女がカップルとなって暮らす家庭内の性に基づく不平等さに起因するものであって、けつして社会的にもネガティブなものではない、となります。しかし、保守的な人から見れば、ひとり親家庭は伝統的な家庭の価値観を崩すものでしかなく、社会の退廃を象徴するものだ、となります。/こうしたことで、母子家庭の貧困問題を解決する上でも、ふたつの選択肢が出てくるのです。母子家庭そのものの数を減らし貧困問題を解決するか。それとも、母子家庭の所得を増やして貧困問題を解決するか、というふたつの選択肢です。(p.192)
コストの観点からすると、生活保護制度に比べての児童養護施設の非効率さはもっとはっきりしています。大都市部の児童養護施設では、子ども1人あたり最低でも月に20万円以上の予算がかかってしまいますが、生活保護制度であれば、母子ふたり家庭の場合、子ども1人あたりでは高く見ても月に9万円ほどですみます。(p.231)
相対的な所待格差に配慮しないで、全体の所得さえ上げれば、貧困な人たちにもさまざまな面(平均寿命・子どもの発達など)で改善がおよぶはずだとする政策は、発展途上国では通用するかもしれません。/しかし、先進国においては、こうした政策は、結局、所得格差の固定または拡大をもたらし、人々の心理的ストレスをかえって大きくすることで、社会全体の損失しか生み出さないことになります。(p.243)
子どもたちの貧困は私たちが思っているより高いコストを、日本社会全体に与えているのかもしれませんし、私たちが思っているより少ない費用で子どもたちの貧困をなくすことができるかもしれないのです。(p.246〜p.247)

★★★ 日本ホーロー看板広告大図鑑 佐溝力・平松弘孝=編
佐溝力という人が集めたホーロー製の看板や広告、この本に載っているのは2399、自分で資料館を作っていて、そこには二万点にも及ぶ資料があるそうです。よくぞ集めたものです、驚愕!
昔を思い出す懐かしいものがたくさんあります。意外に記憶に残っているものだと感心しました。
平松弘孝という人が解説を付けていて、へー、ということが書いてあります。
正露丸はもとは征露丸で、日露戦争の頃のもの、オロナイン軟膏の宣伝をしていた浪花千栄子は本名が「南公キクノ」であることから起用された、田辺製薬は延宝6年(1678年)の創業、カルピスの「カル」はカルシウム・「ピス」は五味の第二位「サルピス(熟酥)」に由来する〔昔聴いたことがあるような〕、セメダインはセメントと力の単位ダインとの造成語〔これも昔聴いたような〕、など。
やがて昭和時代も終わりに近づく昭和五十年代、琺瑯看板もその役割の終焉を迎える。琺瑯看板の耐久性に即しない商品サイクルの短期化、大規模店舗の増加による琺瑯看板の主たる掲示場所である小売店の減少、景観美化意識の向上など、他にも要因はいくつかあろうが、琺瑯看板が存在できる条件は確実に少なくなっていった。そして、明治時代末に始まり大正・昭和時代の風景を飾った琺瑯看板も、看板としての需要が消滅したのである。(p.145)

★★ 365日たまごかけごはんの本 山野良一
たまごかけごはんについて哲学的考察がなされている本、とまでは思わなかったが、これほど肩透かしを食らうとは思わなかった。ただひたすら様々なたまごかけごはんが羅列されている。要するに、ご飯の上に生卵がのっていて、そこにいろいろな食材を加えているだけである。これは、たまごかけごはんなのか?
やってみてもいいと思ったものも、無いことは無かった。「シラスの学校 T.K.G.」=シラスとイタリアンパセリをのせる。T.K.G.とは「まごはん」のこと、全てにこの語尾が付いている。命名のおもしろさを狙っているようだ。「センイ高揚T.K.G.」=味付ザーサイ・セロリ(小口切り)・糸とうがらし・豆板醤・ごま油。という具合で、毒にも薬のもならない本でした。

★★★ 魚偏漢字の話 加納善光
とても勉強になった。が、老化現象のためほとんど頭に残っていない。漢字を知らないということを痛感したし、魚についてもほとんど何も分かっていないということも思い知らされた。人生まだまだ勉強です。
「咸」は「戌(武器)+口」を合わせて、相手を脅してロを封じる(物をしゃべらせない)様子を暗示する図形。「強いショックを与える」というイメージを示す記号となる。感(ショックを受けて心を動かす)にはこのコアがある。「咸(音・イメージ記号)+竹(限定符号)」を合わせた箴は、生体に刺激を与えて病気を治療する竹製の「はり」を表した。金属製なら鍼と書く。裁縫道具の「はり」は針と書くが、これらの三字は通用する。箴・鍼は細長くて先端が尖った医療工具である。サヨリの下顎をこれに見立てて箴魚という。(p.171)
言葉だけ知っていてその表すものを知らない、ということが起こる。これについても考えなければならない。

★★★ 「古事記」の真実 長部日出雄
興味深く読んだ。しかし、歴史学者はどう思うのだろう。著者は直木賞作家である。作家の想像力が歴史を逸脱しているのかどうか素人にはわからない。しかし、面白かった。稗田阿礼が女性、高天原=高千穂峡と上野原遺跡との関係、高天原・出雲・大和・伊勢の絡み合い、など、なかなかに惹き付けるものがあった。古代史にはロマンがあると再認識した。また、いろいろ読んでみよう。
教会堂に集まった信者が、壇上に立つ神父の口頭の言語を通じて、神の教えを聞く聴衆であった旧教から、印刷術の発明もひとつの契機となった宗教改革を経て、信者がひとりひとり自室に寵もって聖書に向かい、文字を通じて神の教えに接する新教の時代に移行したときから、黙読の習慣が定着したというのである。/それまでは世界中どこでも、読書は声に出して朗読するものであった。/「音読」から「黙読」へ、「聴衆」から「読者」へ、「音声言語」から「文字言語」へ……というこの変化は、同時に、聴覚が集団的な快感や情感を呼び起こす「韻文」から、視覚が個人の観念的で抽象的な思考と想像力を触発する「散文」へと、文芸の主流が切り換わることにもつながっていた。/これを人間の進歩と単純にいいきれるかどうかは解らない。(p.77)

★★ ジャーナリズム崩壊 上杉隆
お説御尤もである。国際的に見て日本の新聞社所属の記者がいかに遅れているか、つまり日本人が真実のニュースを受け取っていないか、ということを縷々書いている。諸悪の根源は、記者クラブというものだと指弾する。著者はフリーランスの記者として、その打破のためいろいろ活動してきたと言っているが、それほどまでに良くないものであるならば、なぜ生き伸びているのか。もちろん著者はその原因を指摘している、が何か納得できないところがある。外国を、とくにアメリカを、ニューヨークタイムズを美化しすぎているところが鼻につく。問題点はよく分かったが、目指すところがはっきり伝わってこない。

★★★ 東京駅ができるまで 林章
東京駅を中心に、そしてそこを走る鉄道を中心に、日本の明治以降を眺める本である。一時期東京に関する本をかなり読んだので、視点を変えて書かれている内容がとても面白かった。東京が世界に類を見ないユニークな年だということを改めて再認識した。昔は江戸の名残を東京に見出そうとしたが、これからは明治の名残を探してみよう。東京へ行くぞ!
設計者と施工者の関係は、音楽における作曲者と演奏者の関係に似ている。楽譜も設計図も、紙の上に描かれただけでは実際の形にはならない。オーケストラが演奏して、施工者が建物を建てて、はじめて皆の前に姿が立ち現れる。どんなに優れた作曲家のものでも、それを実現する演奏者がいなければ、優れた音楽は再現されない。しかし、音楽は演奏がおわったら立ち消えるが、建物は形をとどめる。あのゲーテが「建築は、凍れる音楽」と唱えた所以である。(p.148)
明治天皇はあくまで行幸、すなわち東京へ出掛けられたのであって、ついに東京を「首都」とする勅令は今日にいたるまで発せられていないことは、よく知られているとおりである。(p.223)


★★★ オバマ大統領就任演説 CNN English Express
演説が1月20日、この本の発行が1月30日。誤植を一つ見付けた。
選挙戦中の演説には迫力があったが、就任演説にはなかった。大統領という立場がそうさせるのだろうか。しかし、内容は素晴らしいと思う。いろいろな気配りが感じられる。
それにしても、あのアメリカで黒人が大統領になるとは、世の中あまりいい方向に行っているとは思えないが、このことには明るい未来が見える。一方、我が国を見ると暗い。

★★★ 屋上ミサイル 山下貴光
第7回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。「臨床真理士」とのダブル受賞。この本の最後に選評が出ているが、評価が真っ二つに分かれたようだ。どちらの意見も尤もだと思うし、また、そんなことはどうでもいいじゃないかとも思う。所詮虚構は虚構であって、現実と比べても詮無いことだろう。
これは楽しませる作品だ。物語の背景に、アメリカ大統領がテロリストに監禁され、何時か何処かにミサイルが撃ち込まれるという恐怖がある。それとは殆ど直接的な関係はなく、高校生4人が様々な事件に自らの問題としても、巻き込まれていく。400ページ近くを読ませる何かをもった文章ではあるが、若者向きの軽い感じで最近の流行なのだろう。エンディングも同様で、もう少し訴えるものがほしい。
「臨床真理士」の方も読んでみよう。

★★ 神様の森、伊勢 今森光彦
写真集。著者は、竹内信敏が倒れた後、雑誌「サライ」に美しい季節の写真を連載している。
この本の写真も、神秘的な森を身近に感じれるように切り取っている。しかし、行ってみたいと思わせないところは巧いのだろうか。

女子必読書 楓悠
勤務先に転がっていたもの。関係者が出版、文芸社刊、恐らく自費出版ではないか。
「二十歳が書いた」という枕言葉が付いているが、内容は常識的なもので、とても若者が書いたとは思えない。それなりに年をとった人が言えば説得力はあるだろうが。さらっとホステスとやっていたと書いているが、それが主張を裏付けるものになっていない。他の経歴は書いていないので何故わざわざ書かなければいけなかったのか。もっと若者らしさがあれば読んでわくわくすると思う。

★★ 怒りのソウル 雨宮処凛
非正規雇用率(という言葉があるのですね!)、日本は3人に1人、韓国は2人に1人だそうです。その視点での韓国訪問記。結論は、日韓の状況がとてもよく似ているということ。それ以上の拡がりには言及されていませんが、つまり、今資本主義は世界中で同じ方向に行っているということでしょう。対立するものがないので、もうやめられないとまらない状態。でも歪みがあちこちに出ていますよね。
話を戻すと、この本の中にソウルの芸術村の話が出てきます。そこの人々の生き方は少し前の日本の若者を思い起こさせます。やはり、日本と韓国は似ているのでしょう。著者のこれからの、(著作だけではなく)行動に期待したいと思います。

★★ 見えないアメリカ 渡辺将人
保守とリベラルのあいだ、というサブタイトルがついている。
著者の経歴が興味深い。アメリカの大学で勉強し、その後、ヒラリー・クリントンなど政治家の選挙活動に携わり、
日本に戻りテレビ東京に入社、またアメリカに行き大学等の研究員になっている。特に、目新しい情報が開示されたり、独特なものの見方を披歴しているわけではないが、自分の肌で感じた言説には説得力がある。アメリカの二大政党システムが機能している理由がよく分かる。
アメリカの強い宗教性は「保守」「リベラル」を横断する国民的な特徴だ。この背景には「市民宗教」とよばれる象徴としての神の存在がアメリカにはある。(p.146)

★★ イノセント・ゲリラの祝祭 海堂尊
読ませるつぼを押さえた、よくできた作品だと思う。しかし、ずっとこの作者の作品を読んでくると、良く言えばテーマが一貫している、悪く言うと、マンネリということになる。著者の主張は「エーアイ」である。Ai (autopsy imaging) 死亡時画像診断。確かに彼の言う通りだと思う。医者としての使命感がそうさせるのだろう。だが、読む方はまたこのテーマかと思う。とはいっても、373ページをすんなり読んでしまった。すごい筆力だと思う。次作はぜひ違うテーマで書いてもらいたい。

★★★ 悼む人 天童荒太
450ページの大作。ちょうど読んでいるときに直木賞の受賞が決定。
とてもよくできた小説だと思います。主人公の異様さを、初めは読者と同じ視点で突き放したように描き、様々に個性的な登場人物を配し、徐々に物語の世界に引き込む手法は見事です。特に、エピローグでの収束は感動的で、唸ってしまいました。ただ、『永遠の仔』には及ばないと感じます。

★★★ 東京漂流 藤原新也
藤原新也、三冊目。最近、ここ一二年に出版された本しか読まなかったのだが、『日本浄土』を読んで、ともに1983年出版の『メメント・モリ』と此の本の二冊を読んだ。読んだといっても前者は写真集だが、此の本の方は殆ど写真もない445ページの大冊である。しかし、読み始めると面白く、すいすいと進んだ。
人の人たる所以は創造力・想像力だとは思うが、そしてそれらを働かせるのは思考だとは思うが、経験の果たす役割も大きい。先ずはこの著者の経験に圧倒される。このような経験をし、そしてそれを昇華し、文章に綴るというのは恐るべき才能である。
人の所有する時間には強弱緩急が必要である。その時間の緩急の幅が広けれは広いほど、人の精神は活性化する。現代人は、その「緩」や「静」の時間を持つことが苦手である。また、そういう場所も与えられていない。(p.26)
従来の大工の棟梁や小工務店が、鳶職、屋根職、建具工、ガラス工などの専門技能者を下職として配下に組織した「生業」はすたれ、それらの「人間の技」によって造られる「日本の家」は、徐々に時代から後退していく。つまり「家」は「手」によって造られる人間の体温を宿したものから、システム量産型の「冷たい」機能へと変革していった。(p.48)
私には、白さと香りのニュービーズに大衆が求める「さわやかな笑顔」をコマーシャルカメラマンが捏造するがごとく、通り魔殺人犯に「鬼畜の冷酷な渋面」を報道カメラマソが演出しようと試みるのほ、事物の普通の姿を写し撮るべき報道カメラマンが、大衆の要望にのみ焦点を合わせるコマーシャルカメラマソの方法と何ら異ならないものになりつつあるという商業主義社会を反映したものであるように思われた。/そしてさらに、その時、私が少なからぬショックを受けたのは、感情もろい市民のみならず、事実を直視すべき伝達者までが一丸となって、善と悪との腑分けへの「熱狂」へと巻き込まれようとする、あたかも、それが一つの時代の意志でもあるかのような不気味な群衆の見え方である。(p.281〜p.281)
このコマーシャルの世界では、人間とその生活のネガティブな要素は一切削除される。コマーシャルの世界観の中には人の喜びの表現はあっても普通に生きてきた人であれば誰でも持っている怒りの表現ほまず削除される。そしてまた愉楽の表現はあっても哀しみの表現はない。かくて、私たちのコマーシャル環境には怒と哀の欠け落ちた喜楽人間が氾濫する。(p.370)

最後の二つの引用が著者の言いたいことであり、読んでいると圧倒的な迫力でこちらに迫ってくる。

★★ その日本語が毒になる! 吉村達也
この本を読んでいて気になったのは、著者が日本語を欠陥だらけで不完全なものと見ていることだ。確かに著者が指摘する弱点はあるかもしれないが、長所もあるのだ。そもそも言葉は、どの言語でも完全なものはなく、言葉以外のもののおかげで伝達が可能になっているのではないか。だから、言葉に不信感を持つのではなく、言葉を信頼して使わなければいけないと思う。
ちょっとした対比に考えさせられた。
たとえば、罪と罰:凶悪な犯罪を犯しながら、犯行時は心神喪失や心神耗弱状態にあったとして、責任能力を問えず「無罪」となる状況に釈然としない人も多いだろう。たとえば「殺人」という「罪」は、犯人の精神状態によって「有罪」になつたり「無罪」になったりしてよいものか。「罪」は絶対的な視点ではなく、相対的な視点で変化してよいものなのか。(p.111)
また、反省と謝罪:反省は決して謝罪ではない。なぜなら、謝罪とは被害者のためにするものだが、反省とは加害者自身のためにするものだからだ。(p.115)
もうひとつ、夢と希望:「夢」と「目標」の分離はたしかに必要だ。だが、「夢は実現しないもの」と決め込むのは、夢が人間に与える偉大なパワーを過小評価している。夢を信じ、それを花咲かせようとする希望は、どんな状況にいる人間にも平等に与えられる力だ。(p.196)

★★ 日本のお金持ち研究 橘木俊詔・森剛志
面白いと言えないこともないし、何かの役に立つ研究と思われないこともない。
結局、日本のお金持ちは、企業経営者と医者ということのようだ。
社会階層ないし社会的地位に注目した場合、一つの重要な事実がある。それは、地位の非一貫性と呼ばれることである。所得、教育、職業威信の三変数は、意外と相関度は高くないのである。たとえば、教育や職業威信は高くなくとも所得の高い人がいるし、所得は低くとも職業威信は高い人もいるという事実である。(p.108〜p.109)
この文の後に図が出ていて、上層一貫(三変数が全部上の人)は1955年から10年ごとに、11.8→8.3→12.6→20.0、下層一貫は、40.0→32.2→22.2→10.0、非一貫は、48.2→59.5→62.2→70.0、となっている。まさに一億総中流だ。しかし、さらに10年後の1995年、上層一貫は22.9に、下層一貫は15.3に、それぞれ増え、非一貫は61.8に減っている。格差社会へ突入だ。この傾向はさらに顕著になっていると著者は予測している。