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読書中 日本のお金持ち研究 橘木俊詔・森剛志

2008年 108冊読破 煩悩の数と同じ もうすぐ除夜の鐘

★★★ 「明星」50年601枚の表紙 明星編集部・橋本治
雑誌明星、1952年10月号から2002年10月号まで、601枚の表紙をカラーで載せた本。70年代の終わりごろから次第に興味がなくなっていきますが、実に壮観です。意外なことに、私がファンだった弘田三枝子が2回も出ていました。吉永小百合はさすが21回。
初めは女優が一人だけ、60年代半ばからは男女のペアー、映画の凋落とともに俳優から歌手へ、71年から10年間、篠山紀信が担当して全盛期、その後は人数が増えていき、同じ顔が何度も登場している。
篠山紀信がはじめに、「顔」は時代を喚起させる、という文を書いています。
時代の顔になった人というのは、その顔を見ることでその時代を思い出させる、記憶を喚起させる装置になっています。(p.10)
「解題・橋本治」が面白い。以下に多量の引用を。
津島恵子のあり方は、その後の日本で何度となく繰り返される、「自分の生き方を探す女性スター」のはしりです。スターは、「作られたスターはいやだ」と言う。でも大衆は、「作られたスター」の持つ輝きを愛し、その輝きを持つスターを支持します。その輝きをすぐに失ってしまうスターもいます。その輝きを持ちながら、自分の意志でスターの座を下り、自分自身の道を探すスターもいます。津島恵子は後者でした。「夢と希望の娯楽雑誌」である『明星』は、その津島恵子から始められるのです。(p.17)
一九六〇年代、映画会社という「娯楽の王国」は、その領土をずいぶん縮小させていました。『明星』の表紙から「夢と希望の娯楽雑誌」という文字が消えた時、娯楽の中心はテレビに移りつつありました。領土を縮小した古い王国は、吉永小百合という新しい王女を生み、全権を彼女に託しました。伝統的なスターは彼女一人になった――それは「危機」ではないでしょうか?『明星』が見せた一九六〇年代の「変動」の正体は、これだったのです。(p.71)
一九五〇年代の日本映画界には、戦前からの大物スターがいました。『明星』の表紙を飾るような若い新人スターは、そこに登場したのです。大物スターと新人スターの二重構造が、日本映画の繁栄を支えていました。それと同じ構造が、一九七〇年代の音楽界にはあったのです。人気が優先する若い歌手達は、「実力」を当然とする大物歌手を見習わなければなりません。そこには、歌手としての「未来」があるのです。「夢と希望」が実現されていた時代、そこにはまだ目指すべき「未来」もありました。「黄金時代」は当然のことでしょう。(p.139)
一九八〇年代は、山口百恵の引退で始まります。貧しい家庭に生まれ、家計を支えるためにテレビのオーディション番組に出演して歌手となり、独特の存在感で「新しい女のイメージ」を提示する一方、三浦友和との愛を貰いて一切の反対をはねのけ、自力で結婚=引退へとこぎつけてしまった前代未聞の歌手・山口百恵。古さと新しさを同居させた山口百恵のあり方は、「貧しさから華やぎの項点へ進み、愛によって幸福を得る」という、戦後日本の大衆の夢見た神話そのものでした。山口百恵は、それを虚構のドラマではなく、自分自身の生き方として、日本人の前に提出してしまいました。どんなドラマよりもインパクトのある事実を見せつけられて、遂に「スターに物語を仮託する戦後」は終わるのです。(P.202)
豊かになった一九八〇年代の日本で起こる不幸は、スターの低年齢化ではありません。この時代の不幸は、アイドルがアイドルのまま完結して、その先に「大人のスター」を持たないことです。一九七〇年代には、アイドル達の上に「大人の歌手」がいました。「大人になる」という未来が必須のものとしてあったから、アイドル達には「成長」が必要だったのです。しかし、一九八〇年代にはそういう「大人のスター」がいません。時代はアイドルだけで、子供達は誰もがアイドルになりたがりました。しかも、「アイドルとはかくあるもの」というフォーマットも出来上がっていました。その通りにすれば、誰でもアイドルになれるのです。芸能界はシロートの時代になっていました。(p.207)
『明星』の読者の中心は女です。それは昔から変わりません。かつて女の読者は、「自分のあり方」を連想させてくれる女のスターを憧れて見ました。しかし、ジャニーズ事務所の男性タレントを見る女性読者は、もう女性スターを必要とはしません。自分のあり方が「確固」としているから、「理想の女性イメージ」を持つ必要がないのです。山口百恵が引退し、誰でもがアイドルになれそうな一九八〇年代を通過して、女は「自立」が当たり前になりました。女の読者は、仮想恋愛の対象である男のスターだけを求め、「自分」を振り返る必要がありません。(p.275)
今では、「使う」と「育てる」が分離しています。プロダクションは育てるだけ、使うのは別のところです。よく言えば「自由」があります。悪く言えば「わがまま」が横行します。育てる側に「育てる方針が立たない」という危険性が生まれます。どう育てても、「ウチではいらない」と言われてしまえば、それまでだからです。「商売になる」と思えば使う、「商売にならない」と思えば使わない――「育てる」を放棄したテレビというメディアには、その危険性があります。そして、今や多くのジャンルで、会社というものが「育てる=作る」を放棄しているのです。(p.341〜p.342)


★★ ごはんの旅人 向笠千恵子
安心の美味を求めて、という枕詞が付いている。「るるぶ」を中心に雑誌に載せた食に関する紀行文を集めたもの。衒いのない、ではなく、ちょっと衒いのある文章で、読んでいて、引っかかるところがある。内容も情報を詰め込みすぎているところがあり、まあ雑誌的ではある。
面白かったのは、東京のど真ん中で蜂蜜がとれるという話〔皇居、銀座――都産都消の蜂蜜の味(p.64〜p.67)〕。食べてみたいと思ったのは、たくさんあったが特に、佃煮の水茶漬け〔きりきり辛口がいちばんの「佃煮」(p.179〜p.182)〕。泊まってみたいと思ったのは、知憩軒〔庄内平野に息づく在来野菜と新感覚料理(p.22〜p.29)〕。著者紹介に、フードジャーナリスト、エッセイスト、と書いてある。いい商売だな。

★★★★ 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか 内山節
何気なく図書室で手に取りパラパラと見ておもしろそうだと感じた。予想以上だった。今年のベスト5に入るだろう。かなり難しい内容を平易な言葉でうまく表現していて、老化した頭でもよく理解できた。多少なりとも著者の言わんとするところが伝わればと思い、以下に本当にたくさん引用した。
日本の伝統的な考え方では、食事をとるとはミをとることであった。ミとは魂と書いてもよいし、霊と書いてもよい。つまり、生命の根本的なものをいただく、ということである。それに対して、ミを入れている容器がカラである。食べ物としてみえているものはカラで、ミをいただくために、カラも一緒に食べる。日本の伝統的な食事のマナーは、静かに、厳粛に食べることを基本にしている。ヨーロッパのように楽しく食べるのではない。それは食事とはミをいただくことで、いわば生き物の生命をいただくから、その生命が自分の生命になると考えられていて、その意味では食事とは他の生命を摂取することなのである。(p.19)
もちろんテレビにも作り手の主観が介在してくるのだけれど、そこで映し出され語られているものが、あたかも客観的な事実であるかのごとく伝えられていくのがテレビである。こうしてテレビの普及は、口語体の情報であるにもかかわらず人々から1読み取る」という操作を消し去らせ、与えられた情報を事実として受け取りその感想のみを感じるという、情報に関する新しい作法を生みだした。(p.46)
受験教育化することによって学校教育が偏差値を上げるための合理主義に支配されるようになった頃、子どもも、親も、この合理主義に価値をみいだす意識を身につけていった。それは当然ながら合理的にはとらえられないかたちで展開していた伝統教育を衰過させるばかりでなく、この伝統教育とともにあった人間の精神をも衰弱させた。/進学率の向上とともにおこった村人の精神世界の変化。それがキツネと人間のあいだに成立していた非合理的なコミュニケーションを不可能にしていったと、この第四の説を提唱する人々は言う。必ず「正解」があるような教育を人々が求めるようになったとき、「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化していったのである。(p.50〜p.51)
伝統的なヨーロッパの思想は、「人間らしさ」を、未来をつくりだしていく可能性として肯定する。人間が知性をもつことによって文明が開けたと考える。ところが日本の伝統思想はそうではない。知性をもつことによって自然であることを失なったと考えるのである。人間的な精神にも同じような視線がむけられる。その気持に言葉を与えたのが日本に土着化した仏教であったから、その気持を仏教で語れば、煩悩をもち、我執にとりつかれた凡夫としての人間ということになる。だからそういう人間として生きていく過程は、霊が穢れていく過程ととらえられたのである。/ゆえに最後の目標は自然に帰ることであった。我執を捨て、煩悩を捨て、知性によってものごとを解釈しわかった気になる精神を捨て、自然の一員になっていく。そうやって無限の自然と一体化し「ご先祖様」となり、ときに村の神=仏として村の共同体を守っていく。それが解放への道であり、救済への道であった。(p.52〜p.53)
森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。/この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。/伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界のなかにいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。人間は結び合った生命世界のなかにいる、それと切り離すことのできない個体であった。/伝統的な共同体の生命とはそういうものである。ところがその人間は「自我」、「私」をもっているがゆえに、共同体的生命の世界からはずれた精神や行動をもとる。/だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった。それが通過儀礼や年中行事であり、それらをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。/このような生命世界のなかで人がキツネにだまされてきたのだとしたら、キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力であった。(p.111〜p.112)
私たちは過去がどのように形成されてきたのかを考察することによって現在をつかみ、未来をみつけだそうとする。しかしそれは、大きな錯覚のなかでおこなわれている営為なのではなかったか。/過去とは現在から照射された過去である。(p.122〜p.123)
「国民の歴史」は、宿命的に、発展の歴史として描かれるしかないのである。ここに生まれた「発展」というイデオロギーこそが、人々を「国民」として統合し、その「国民」は「中央の歴史」を共有しているという擬制を成立させるために必要だったからである。「国民」としての達成感が、この歴史の基底にはなければならなかった。/この歴史を「直線的な歴史」ということもできる。歴史が過去を乗り越えていくものとして、直線的に描かれていく。/自然と人間の関係や、生者と死者の結びつきによって展開していく歴史は、そうはいかない。なぜなら簡単な理由があって、自然は過去を乗り越えようとはしないし、死者もまた同様だからである。すなわち、自然も死者も永遠の存在であって、どちらもが「あるがまま」でありつづける。この歴史は存在するだけであって、乗り越えていくというような指向性はもたない。(p.133〜p.134)
身体の充足感。生命の充足感。現在の問題意識から切断されているがゆえに「みえなくなった知性」の充足感。/知性を介してしかとらえられない世界に暮らしているがゆえに、ここからみえなくなった広大な世界のなかにいる自分が充足感のなさを訴える。それが今日の私たちの状況であろう。そして、だからこそ、この充足感のなさを「心の豊かさへ」などと再び知性の領域で語ってみても、何の解決にもならないだろう。(p.157〜p.158)


★★★ メメント・モリ 藤原新也
写真集です。「日本浄土」を読んで、見ようと思いました。83年出版で、昔見たことがあるような、少なくとも一部は見たことがあるような気なします。写真に添えられたコメントに素晴らしいものがあります。
街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。(p.3)
MEMENTO‐MORI/この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。(p.4〜p.5)
〔死を想え、の意〕
ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。(p.23) 〔人間を食べている犬の写真〕
ニンゲンの体の大部分を占める水は、水蒸気となって空に立ち昇る。それは、雨の一部となって誰かの肩に降りかかるかもしれない。何パーセントかの脂肪は土にしたたり、焼け落ちた炭素は土に栄養を与えて、マリーゴールドの花を咲かせ、カリフラワーを育てるかもしれない。(p.30) 〔荼毘に付されている人の足が見える写真〕
黄色と呼べば、優しすぎ、/黄金色と呼べば、艶やかに過ぎる。/朽葉色と呼べば、人の心が通う。(p.68) 〔紅葉を過ぎた枯葉のついた木の写真〕
家にも体温がある。(p.71) 〔スレート葺きの古い家、その前に、唐辛子の天日干し、コンクリートの壁にステテコ2着、くつろいでいる犬、の写真〕
あの人がさかさまなのか、/わたしがさかさまなのか。(p.148) 〔石段の下(なんとなくインダス川を思わせる)で褌一つで逆立ちをしている男の写真〕
人体はあらかじめ仏の象(かたち)を内包している。(p.151) 〔険しい山上、背後には谷、その向こうにまた険しい山、白い雲と濃紺の空、この景色の中央に首から下の人が移っている写真〕

★★ 「よい印象」の言葉力 宮本隆治
著者はNHKのアナウンサー、と言えば大抵の人が思い出すでしょう。紅白歌合戦や、のど自慢に出ていました。今は定年で独立しているようです。書かれている「言葉力」に関してはごく当たり前のことですが、NHK勤務を中心にした経験談は面白いものがたくさんあります。妹尾河童さんほどではありませんが、さすがに交際範囲が広く、へー、という話も結構ありました。そういう意味ではそこそこ楽しめる本でした。

★★★ 河童のスケッチブック 妹尾河童
スケッチとエッセイがペアで、実に様々な話題について書かれたもの。発想も行動もユニークで楽しめる。調べただけの知識ではなく行動が伴っているので、説得力がある。(「左か、右か?」 (p.164) の考察はちょっと中途半端、と偶々先日詳しく調べた私には思われたが、この本の体裁から考えると仕方のないことか。)読んでいて気になったのが、著者の家がどうなっているのかということだった。家族に顰蹙を買っている収集癖で膨大なガラクタ(失礼!)が家中にあふれているのではないだろうか。そして、それを覗いてみたいという気もする。
刑務所で受刑者が食べているタクアンは、だいたい25グラムで、嫌いな人は残してもいいが、それを他の人がもらうことは禁じられている。物品の授受は相互の力関係のバランスを崩すことにつながるからだという。衣・食・住の自由を拘束するのが、刑の執行であるからだ。タクアンを食べたいだけ食べられることは貴重な自由″を自分のものにしていることの証なのであった。(p.90)
この本は95年に発行されている。読みながら以前に読んだような気がしてしようがなかった。最後に立花隆の『ネコビル』顛末記というのがあって、これは確かにどこかで見た記憶がある。さらに、あとがきには、本書の三分の一ぐらいを、86年春から「サンデー毎日」2年間連載したと書いてある。父が購読していた雑誌なので、恐らく帰省した時にそのいくつかを見たのだろう。
下は本書の裏表紙、近々食べようと思う。




★★ フリーペーパーの衝撃 稲垣太郎
タイトルほど衝撃的なことは書かれていない。以下の引用がナルホド!と思ったこと。

資生堂のシャンプー「TSUBAKI」はフリーペーパーを使って宣伝した。(p.72〜p.73)
新聞の発行経費の25%〜30%は配送費、購読料収入もそのくらいの割合。ということは、配送の問題を解決すれば新聞の無料配布は可能になる(p.112〜p.113)
JR東日本は無料紙誌配布用ラック設置代金として年間八億円弱の収入を得ている。(p.139)
「有料誌は読者が選ぶもの、フリーペーパーは読者を選ぶもの」 (p.181)

現状は、しょーもないフリーペーパーが氾濫している。そのうち淘汰されるだろうが、世の中変な方に向かっていることの一つの表れではないだろうか。

★★★ 日本浄土 藤原新也
著者は写真家でもある。というか、そちらの方が本職だろう。この本にも多いと言うほどではないが、写真が載っている。写真も文も一風変わっていて、なかなか味わいがある。あとがきに、以下の文がある。
本書に登場する土地は有名な地でも名所旧跡でもない。またことさら声高にのべるような出来事が書かれているわけでもない。(p.236)
しかし、著者の経験は決して平凡なものではない。そして、それをしっかりと認識し、表現する力は素晴らしいものである。
野良猫が生きていける町はやさしい。/人間を怖がらず、手に触れさせる、/そんな野良猫が住んでいる町はさらにやさしい。(p.154) 猫の写真のキャプション
昨今の情報化社会というものはどうも有名なものだけにスポットがあたり、桜の名所であるとか有名な古木ばかりに人だかりができて、市井や野山の片隅に咲いているような桜は見向きもされない、つまらない時代だと思う。(p.218)
藤原新也の写真や著作をもっと観ようと思った。

100冊読破! よく読んだ。 

下流大学が日本を滅ぼす! 三浦展
あとがき/本書は、私が日頃大学や教育について考えていることを語りおろしたものである。実証研究ではないし、学問的論文でもないので、裏付けが不足していたり、推測や伝聞が多かったりするが、大筋としては現在の大学や教育の問題の本質をとらえていると思う。/提言についても、単なる思いつきと思われるかも知れないが、私はまじめである。(p.226)
書き下ろしは聞いたことはあるが、「語りおろし」は初めて、で、ネットで検索したら結構ヒットしました。しかし、これって手抜きではないでしょうか。この著者の本は四冊目ですが、これを含め、三冊は?でした。三冊目の読後、もう読むまいと思っていたのに、忘れてまた読み始めてしまいました。読んでいるとそこそこ面白いのですが、面白いだけで、著者があとがきに書いているように、内容に関して信憑性に欠けるという感じが否めません。偏見も多すぎます。まじめだと言っている提言に関しても、とても実現しそうなものではありません。実現の可能性がほとんど無いものを提言と言うべきではないと思います。

★★★ 思想地図 vol.1 特集・日本 東浩紀・北田暁大 編
468ページ、一部二段組み、内容もスラスラ読めるものではない、ということで読むのに時間がかかりました。他の本と並行して読んだのですが、一か月近く必要でした。これも図書館(市立)で借りたのですが、幸い次の予約がなかったので一回延長できました。以下、異常にたくさん引用しましたが、これ以外にも脳が刺激されたところが多々ありました。時にはこのような本を読まなければいけないと思いました。
いま僕たちが「よい社会」の前提だと思っているのは、多種多様な意見をもつ人びとが率直に話し合っていくと、いつのまにか一般意思らしきものが立ち上がり、それによって社会がコントロールされる。それこそが正しいプロセスだということです。それはそれでいいのだけど、ではそうなってくると、もっとも強力な権力の地点はどこかというと、話し合いが始まる以前、誰が構成員かを決定するところだということになる。ここからナショナリズム批判が来ると同時に、またやっぱりナショナリズムは不可避だという反論も出てくるわけだけど、その円環から脱出できないだろうかということです。(p.47)
税金を払うのはいい、たしかにいろいろやってくれている。けれども、その管理についてなぜ積極的にかかわらなければいけないのかと。金払っているんだから、おまえら勝手にやってくれと。そういう発想もありうるわけです。/そういう状況で、あえて市民に自発的参加を促さなければいけないと思うからこそ、「方法としてのナショナリズム」 の必要性が出てくる。(p.54)
政治参加なんぞ絶対に無理なので諦めたということなのか、それとも生活においてまったく満ち足りていて不満がないので政治参加したいなんていう動機が生じようがないということなのか、どちらなんだろうということです。僕の印象では、前者の要素のはうが優越しているのだが、それを内心認めたくないので、「俺は疎外なんかされていない!」と言って頑張っているように感じられるんですね。というのは、国家が会員制クラブと絶対的に違うのは、国家には自由な退出可能性がないからです。この可能性が現実に存在しないところで、国家をコントロールすることについて一切無関心になるということは、非常に深い疎外の表れなのではないでしょうか。(p.57)
データベース的な環境の中で、人格もまたキャラクター的なもの、一定の情報の束として認識されるようになる。人格が不透明な厚みを持った存在(近代的な主体)ではなく、共有可能性を持った属性=情報の組み合わせ(キャラクター)として理解されるのであれば、他の人格の中に「同じ情報」が含まれていることに気づいたならば、それは「自分を盗まれた」感覚を触発することとなるだろう。(p.165)
グローバリゼーショソとは、たんに人やモノや情報が国境を越えて移動したり、インターネットのような通信網がワールドワイドに設置されたりするようになるということではありません。それは、自国の経済の規模や利益を拡大するために、自国に有利なルールを他国にも受け入れさせることで世界市場を統合していくような運動のことです。それが日米関係においては、八九年の日米構造協議によって本格化し、いまの『年次改革要望書』へと引き継がれているわけです。八九年といえばまたベルリンの壁も崩壊していますよね。グローバリゼーションというのは冷戦の終結がなけれはありえなかった現象です。つまり八九年の日米構造協議は、グローバリゼーションの展開という点で、ベルリソの壁の崩壊と完全な同時代性をもつのです。(p.249)
この「セラピー文化」では、カウンセリングに典型的なように、社会に「再結合すること」が重要視される傾向がある。別言すれば、「セラピー文化」には社会変革よりも、自分が変わって社会に合わせる(「世界」を変えるのではなく、心の持ちようで「世界観」を変える)ことを重んじるような保守性があり、それはしばしば指摘、批判されている。つまり、デュルケームが強調したような「宗教性」がセラピー文化には指摘され得るだろう。このセラピー文化は先進国の精神文化の一翼を担っており、その影響力は無視できないものとなりつつある。別の言い方では「自己実現」や「自己の回復」、「スビリチュアリティ的営み」と括られる実践が、まさにセラピー文化の影響下にある。今やセラピー文化は、一代替的な宗教性を示すことからも判るように、現代人の行動を方向付ける倫理的な枠組みとして機能しており、ソフトな「人間管理」のツールであるという意地悪な言い方すらできるかも知れない。フーコーがかつて述べた「規律=訓練」型の権力を、カウンセリングなどセラピー文化の現場に見ることは、さはど不当ではないであろう。(p.312)
日本国の現行政体では、天皇は実質的な政治権能を持たない。したがって、実質的にみれば、すでに日本国は共和国といいうる。さらに、多くの政治学者や政治評論家が指摘し怨嗟するように、日本国は実質的には民主主義国家ではない。主として自由民主党に集う政治家たちと、行政の実務を担う官庁が結合した権力主体が、日本国の実質的な意思決定と運営を行っていることは、広く知られた事実だ。これを古代ローマ共和制に擬えて、自由民主党を「元老院」、大臣と官庁を「執政官とその官僚たち」と置きなおせば、日本国は、実質的に寡頭政共和国といえる。/したがって、現行の日本国はすでに古典的共和制だ。(p.380)
現在の寡頭的共和制を打破し、真に民主的な共和国とするには、あまりにも日本国民の政治参加意識は乏しい。今後、仮に日本国の政治状況がますます荒廃し混乱状態に陥った場合にも、おそらく国民一般が集合する民主的な政治勢力は形成されず、特定の利益集団によって、現行の寡頭的共和制よりもさらに悪質な反民主的政治体制が形成される可能性のほうが大きいと筆者は考える。/したがって最善の方法は、現行の寡頭的共和制を受け入れることになるだろう。所詮は我ら一般国民のものではない共和国に対して、政権の暴走も崩壊も無きようにと祈りつつ、批判と冷笑を基礎にしながら、自らが良しと思う範囲においてのみ貢献する、絶望と諦念を基礎とした共和国運営を我らは維持するほかない。日本国が母国である宿命のもと、物質的繁栄の残光の中に恍惚と仔む老母国に対して、よくその事実を理解しながら、それを支え続ける冷笑的かつ虚無的な献身が要求されているわけだ。これが、現在の我々を取り巻いている政治に対する閉塞的気分を、よく説明しているのではないか。(p.388)
果実と労力との関係が曖昧になれば、幸福と手段との関係において短絡や倒錯もまた生じる。幸福の実現が目的であるはずなのに、手段に過ぎない貨幣の蓄積が目的化したり、目標達成のために必要であるにもかかわらず、技能や能力の鍛錬を怠ったり、国家や組織や特定の個人に自らの幸福の実現の責任を負わせ、その実現を要求したり、といった状態だ。特に、近代以降では、国家が個人の幸福のために果たす役割が大きくなってしまった結果、どのような事柄であっても国家に働きかけ、国家の活動として幸福を実現するよう要求することが、なにか重要な社会活動であるかのような誤解が広まってしまった。そのような活動は、第一に、国家が肥大化し我々の生活に介入してくる口実を作る原因となるし、第二に、国家が衰退していく局面では、国家に何かを要求したところで、国家に実現能力や当事者能力があるとは限らないため、無為に終わる可能性が高くなる。/ここ数年で深刻になりつつあるのが、第二の問題だ。地球環境問題、年金問題、財政問題、地域の荒廃、家庭の崩壊など、我々自身に突きつけられている困難な諸問題について、現在の政府に解決を要求し訴えたところで、彼らには根本的な解決能力がなく、できることと言えば、請求者に対して何らかの金銭的利益を与えることで、問題を糊塗することになりつつある様子が分かる。(p.393)
通常の遠近法でほ、空間を成立させる超越的な視点は、画面の外側にいる私たちの「目」の位置に設定されていた。言いかえれば、画面に描かれた空間が空間として組織されるのは、私たちが外側から「見る」からであり、空間に対するイニシアチブはわたしたちの側にあった。しかし、その視点が内側に設定される逆遠近法でほ、描かれた図像こそが超越的な視点となる。したがって、描かれた図像から私たちが「見られる」ことで、こちら側の、私たちの空間こそが組織されるのである。(p.454)


★★ 温泉 自然遺産と文化遺産 社団法人日本温泉協会
県立図書館で借りました。奥付を見ると非売品、ギャンブル団体が社会貢献のつもりで金を出したようです。
28カ所の自然遺産としての温泉解説は理系的なもので、ふーん、といったものが多くありました。面白くない訳ではありませんが。34カ所の社会遺産としての温泉の説明は、ほー、といったものがいくつかありました。行ったことがあるのは西の方を中心に15カ所ほど、東の方に行きたい温泉がたくさんあります。来年からは東の方にも足を伸ばそうと考えています。

★★ 悩む力 姜尚中
本書では、誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味への意志が宿っていることを、文豪・夏目漱石と社会学者・マックス・ウエーバーを手がかりに考えてみたいと思います。(p.11)
序章にあるこの言葉が、この本のことをよく表しています。
不自由だからこそ、見えていたものがあった。自由になったから、見えにくくなったものがある。・・・自由の逆説と言えるものなのかもしれません。(p.136)
これに似た文が何度も出てくる。現代人の苦悩の源泉だと言っている。
愛とは、そのときどきの相互の問いかけに応えていこうとする意欲のことです。愛のありようは変わります。幸せになることが愛の目的ではありません。愛が冷めたときのことを最初から恐れる必要はないのです。(p.146)
トルストイは、「無限に進化していく文明の中で、人の死は無意味である。死が無意味である以上、生もまた無意味である」と言いました。人が自然の摂理に即した暮らしをしているときは、有機的な輪廻のようなものの中で、生きるために必要なことをほぼ学んで、人生に満足して死ぬことができます。しかし、絶え間ない発展の途上に生きている人は、そのときにしか価値を持たない一時的なものしか学べず、けっして満足することなく死ぬことになります。だから、確たるものの得られない死は意味のないただの出来事であり、無意味な死しか与えない生もまた無意味である――というのです。(p.151〜p.152
}
この本、1ページに560文字(14行×40字)です。文字数の多い新書は、17行×42字(714文字)です。かなり密度が薄い感じがします。内容も、予想に反して軽いもので、まあ、読みやすいと言えば読みやすい本でした。

★★ 料理のなんでも小事典 日本調理科学会・編
あとがきに以下のように書いてあります。
これまで技として伝えられてきた、いわばコツといわれるものの中には必ず科学が存在します。長い間の人々の生活の智恵を解明して、ある程度数字を用いて教えることができれば、コツを伝えやすいのです。(p.294)
まさにこのような内容です。科学的に過ぎて理解できないところがありましたが、ちょこちょこ面白いことも書いてありました。
油そのものには本来、味がないと考えられています。なぜなら、味は唾液に溶ける成分が味蕾に到達して初めて感じられるものですが、油は水には溶けませんし、分子も大きすぎるからです。油を食べたときの「風味」は、油の中に微量混ざっていて唾液に溶ける成分やにおい、さらには油の存在による舌触りなどをとらえたものであると考えられています。(p.32)
果物の甘味物質は、ショ糖(砂糖)、ブドウ糖、果糖の3つです。これらの甘味の強さは、ショ糖を1.0とした場合、ブドウ糖は0.7前後、果糖は1.2〜1.8で、果糖が一番甘いのです。また、ショ糖の甘味は温度が変わっても同じですが、ブドウ糖はわずかに、果糖は温度が低くなると顕著に甘味が強くなります。(p.281)


★★★ 飢餓国家ニッポン 柴田明夫
この本にはかなり恐ろしいことが書いてある。今の食糧不足は一時的なものではなく、パラダイムシフトが起きているのだと言っている。世間にはそのような認識がなく、だから当然、その観点での対策が取られていない、つまり、この先の日本の食糧事情は大変なことになる、ということだ。
この先、食糧不足が進めば、価格が一気に上がるだろう。局面が全面的に変わったと考えたほうがいい。/したがって、「日本はコメを大増産するしかない」のだ。今まで日本の農政は縮小再生産を前提にしてきたが、これからは拡大再生産に切り替えるべきである。コメが余れば、国がリスクを取って備蓄に回す。現在、減反奨励金として約4000億円が国庫負担になつているが、この予算を備蓄に使うべきだろう。(p.145)
人口が1億2700万人の日本では、残念ながら100%自給はありえない。江戸時代の300年は人口が3000万人台で安定し、大きく増えることはなかった。明治以降に開発された北海道を考慮に入れても、日本が自給できる限界は5000万〜6000万人分になると思われる。(p.148)

著者によると、食糧増産は相当難しいことのようだ。耕作地の問題、耕作する人の問題、そして成程と思ったのが、水の問題。真水は決して無限にある資源ではないのだ。
これまでの経済では、商品やサービスを売る「マーケット(市場)」は、先進国でも新興国でも富裕層と中間層を対象にして語られてきた。しかし、世界の人口の65億人のうち富裕層は5億人、中間層は20億人で、残る40億人は貧困層に該当するのだ。/食糧価格がこれだけ上がると、これからは上位25億人だけでなく、40億人の貧困層に一段と焦点を当てていく必要があるだろう。(p.154)
このような問題もある。この先、人類は生きていけるのだろうか。なにか悲観的になってしまう。

★★★ ラーメン屋 vs. マクドナルド 竹中正治
エコノミストが読み解く日米の深層、というサブタイトルがついている。メインタイトルは最近流行りの相変わらずの付け方で、さほど上手い付け方とは云えない。しかし中身は面白い。一つのことに精通している人は、学問の世界では専門バカが多いが、ビジネスの世界では、視野が広く洞察力のある人が多いような気がする。
日本は「危機駆動型アプローチ」、アメリカは「希望駆動型」、というとらえ方は以前からあるものではあるが、その分析、考察には素晴らしいものがある。将来へ向けた提言も説得力がある。
ビッグ・ビジネスは大きな興行収入を目標に掲げなくてはならないので、市場の最大公約数的な需要・好みを対象にして製作される。それを繰り返していれば、必然的にパターンのマンネリ化や標準化に陥る。これはマクドナルド的ビジネス・モデルでアニメを製作したらどうなるかを想像すれば判ることだ。米国に長く住んだことのある日本人ならみな感じることだが、マクドナルドの成功は米国の食文化の貧困と表裏一体である。その世界への普及は、米国ジャンクフードのグローバル化に他ならない。/ところが日本のアニメや漫画には、「ラーメン屋的供給構造」が根強く残っている。最大公約数の需要(好み)よりも、製作者が自分らのセンスにこだわって、多種多様なものを創出、供給している。従って、ひとつずつのビジネス規模(売上)は小さいが、多様でユニークなものが供給される。その結果、意外性や驚き駁あるものが多く、面白い。(p.33〜p.34)
日本がグローバルな経済競争と格差拡大トレンドに抗して行うべきことは、第1に若い世代の教育である。第2に技術革新の結果陳腐化してしまった労働力の再訓練である。双方に対する財政と民間を挙げた教育投資が必要だ。日本国民全体の教育、技能水準を一層引き上げることで、世界的分業体制の中で日本が一層高付加価値部門にシフトすることが政策目標となる。そのためには財政支出も惜しむべきではなかろう。/もっと具体的に言うと、教員の数を増やし、給料を引き上げても良いのではないか。その代わり、定期的にスクリーニングして不適格な教員には辞めてもらおう。グローバル化時代を担える人材を増やすべきならば、海外留学を志す若い世代10万人に年間200万円程度を政府が支給しても良いのではないか。そのコストは僅か2000億円である。(p.201)


★★★ フィンランド 豊かさのメソッド 堀内都喜子
フィンランドに魅せられた女性が、自らが体験したことを書いている本。そんなに入れ込むことなく、冷静に書いていて好感が持てる。もちろん専門家ではないので、多方面のことを書いているが、物足りないところは多々ある。しかし、ほとんど紹介されることのない国について普通の人が知るのには十分だと思う。楽しく読める本である。
不況を乗り越えるために国民の再教育を奨励し、小さな国ゆえに一人ひとりの能力が国の重要資産である、と位置付けた政策が今、義務教育、高等教育、成人教育で花を咲かせつつある。しかしこれだけ教育に力を入れている国であっても、受験戦争といった競争もプレッシャーも学校や家庭にない。むしろのんびりとした、おおらかな空気が漂っている。それは中学での選択が一生を決めてしまうということではなく、回り道をしても、迷いながらも、いくらでもやり直しがきく社会や環境があるおかげであろう。教育は何も親のためや強制されるものではなく、自分の身を守るための、そして能力を高めるための切り札であり、努力したぷん、いずれ自分にプラスになって返ってくるという意識がこの国にはある。(p.99〜p.100)

★★★ つなげる力 藤原和博
夜スペだけが取り上げられ批判の的になっていたが、この本を読むと著者の意図したことの全体像がよくわり、なるほどと納得させられる。そして、今の教育界は人材不足なのかと思ってしまう。もうひとつ思うのは、著者に批判的な人の意見、(この取り組みにかかわった人の中にもきっとそういう人はいると思う)、を聞いてみたい。本を読む限り私には欠点が見えなかったので。
校長を辞めてからの取組、新しい時計への取り組みに話題が移ると、面白いのだが、別の人の本を読んでいるように感じた。何故かはよく分からない。著者はやはり違う世界に住んでいる人かなと思ったりした。
子どもたちが江戸期の長崎の町民や武士たちで、大人たちが多様な知識や技術、圧倒的に異なる経験や文化を持ち込んだバテレン(ポルトガル、スペイン、のちにオランダから渡航した南蛮人)だと仮定してみてほしい。異国文化が流れ込むなかで、町民や武士の知識が再編集され、意欲や志も高まり、次の時代を拓く人材が養成された。世界とつながることでエネルギーが流れ込み、そのエネルギーを持ち込む異文化人と地元民とのコミュニケーションの渦が生まれ、新しい時代が準備されたのである。/学校だって、鎖国していれば沈滞する。どこか一カ所でいいから、一週間に一〜二コマでもいいから「出島」をつくり、そこにバテレンが入り込む余地を与えるべきなのである。バテレンは学習の動機づけを与えてくれる活性剤だ。(p,143)
他人の動機づけエンジンにどうすれば火がつくのか。/この章では、五つのポイントを示してみたいと思う。/@目に見える成果(日に見える成果を早く、細かく、続けて見せていくこと)/A言葉遣い (言葉遣いを曖昧にしないで、具体的にすること)/Bリズムとテンポ(天の時を待つのではなく、自ら機会をつくり出すこと)/Cお金の裏付け(お金の話を御法度にしないで、きっちり流れを管理すること)/Dそれぞれの動機づけ(人は自分の動機づけが実現する場で動く)(p.184〜p185)
「出逢いと出逢いによって、さらに出逢うこと」/つなぎ、つなげ、つながりながら、結び、結びつけ、結びつきながら生きる。すると「運」も引き寄せられてくる。人生は、「つなげる力」 によって、いくらでも切り拓くことができるのである。(p.243)


★★ 日本の歴代権力者 小谷野敦
この著者にしては大人しい内容である。ひたすら日本の権力者、権威ではなく、実際に権力をふるった人々を列挙している。まえがきに偶々と書いているが、その数、126人、ちょうど歴代天皇と同じ数である。300頁弱の本なので一人当たり二・三ページである。その大半が経歴、位・役職を追うことが多い。あまり面白そうには思われないかもしれないが、結構引き込まれる。それは歴史そのものの面白さだろう。最後にちょっと書いてある小谷野らしいコメントがいいスパイスになっている。
桶狭間の戦いから大坂城落城までの歴史は、あまりに多く小説、映画、ドラマ化されているので、近年、日本人の歴史知識がこの時代や幕末、源平合戦に偏り、南北朝から室町時代などにあまりに疎くなりつつある。(p.155)
いろいろ考えさせられることが多いが、日本はなぜ権力構造が重層的なのだろうか。この答えではないが、あとがきで、日本の天皇はヨーロッパにおけるローマ法王だと言っている。世襲かどうかという違いはあるが、なるほどと思った。
江戸時代までは系図が載せてあるが、明治からはない。ここからの系図の方が複雑に入り組んで面白いと思うのだが。代わりに下に張り付けたものがあった。これはこれで面白い。北海道は、私がカットしたのではなく、もともと本で無視されている。


★★★ 大人の時間はなぜ短いのか 一川誠
タイトルは今はやりの付け方で、この本の内容を正確に表しているとは言い難い。時間の問題を全般的に取り扱っていると言えるだろう。読んでいて、池谷裕二・糸井重里の『海馬』という本に、脳は整合性を保つためにウソをつく、とあったことを思い出した。この本には脳との関連は書かれていないが、人は時間を客観的に認識できない、というより、長い歴史の中でその必要がなかった、ということだ。時計という道具が世間一般に普及したのは、人の歴史から見ればほんの短い間と言える。時間とどう付き合うか、大きな課題と思われる。
本来は存在しないような動きが見えたり、本来は存在しないような大きさや角度の違いが見えたりという体験が共有できるということは、物理的特性からの知覚のずれ方が人間という動物種に固有で、しかも個体に共通の特性に基づいているということでもある。それは、知覚体験と物理的実在との間のずれ方に、種としての人間に一般化できる規則性があるということを意味している。(p.54〜p.55)
鏡を顔の正面にもってきて、自分の両目が見えるようにしよう。鏡の中に映った自分の右目から左目に視点を動かしてみよう(つまり、サッケードを起こして左右の目を見てみる)。このとき、自分の目の動きが見えるという人はほとんどいない。しかしながら、自分の目の動きが見えないのは、サッケードの速度が人間の知覚の処理系にとって速すぎるからというわけではない。/その証拠に、他の人が視点を鏡の中の自分の左目から右目、右目から左目へと動かしているのを観察してみよう。すると、他人の目の動きは実に簡単に見えることが分かるだろう。ところが、自分の目の動きは、まったく見えないのである。/私たちは普段、サッケードにより視点を移動する際、このような空白の時間帯があることに気づかない。実は、この空自の時間の間に、興味深いことが起こっている。サッケードが生じているとき、心的な時間の短縮が生じているのである。すなわち、サッケードが起こることによって、その前後に刺激の提示されていた時間の長さが実際よりも短く感じられるのだ。これは、視覚情報が抑制されている間の時間は、私たちの知覚の中でどこかに消えてなくなっていることを示している。(p.110〜p.111)
こうした人間の時間的制約は、せいぜい走り回ったり、歩き回ったりするのが最速の移動であったころからの進化の過程で、長い時間をかけて獲得されてきたものである。これまでの状況では、たとえば視覚の0.1秒という遅れ(第3章、第4章)が致命的な問題に発展するようなことほなかった。しかし、現在では歩いたり、走り回ったりする際の速度の何倍もの速さで移動することが可能忙なっている。0.1秒という遅れは、場合によっては、これまでになく致命的な問題に発展するかもしれない。/同時に知覚したり認識できる対象の数における制約(第4章、第5章)も、自らの足を使って走っているような状況では大した問題ではないだろう。しかし、一瞬の間に生じたことの認識に数的な制約があるという人間の知覚認知過程における時間的限界は、時速40キロ以上の高速移動の際には、致命的な問題に発展する可能性が多分にある。/「百聞は一見にしかず」ということわざが示しているように、私たちは普段、自分たちが見ているものを疑わない。物理的実在そのものを見ることができると思い込んでいる。このような見方は人間の能力の過大評価以外の何ものでもない。私たちは、自分たちの知覚や認知の過程に様々な制約があること、決して、ものそのものを見たり聞いたりしているわけではないこと、見えていること感じていることが常に正しいわけではないこと(むしろ、ちょっとしたきっかけで誤り得ること)を知っておくべきなのだ。(p.164〜p.165)
高速化した現在においては、様々な情報が入り、移動も高速化されたことにより、潜在的に実現可能な事柄の数は増えたに違いない。やりたいことの中には、「どうしても実現したい」というものもあれば、「やらないよりはやったほうがまし」というレベルの事柄も多く含まれていることだろう。/しかし、人間が一つのことをやり遂げるにはどうしても一定の時間がかかる。その時間が技術革新や経験、学習によって、増えた欲望を満たすのに必要な時間以上に短縮されないとしたらどうなるだろうか。当然、潜在的な可能性に基づいて肥大する欲望のうち、実際に満たされるものは一部のみということになる。この場合、やりたいこと、やれるはずのことは数多くあるのに、なかなかそれが実現できないジレンマが生じる。/そうなると、むしろ、できる事柄が少なかったころよりも時間が足りず、忙しく、やりたいことができないという感覚が強くなっているかもしれない。(p.166〜p.167)
いつまでも変わりなく均質的な時間の続く状態とは、身体的制約を免れた、抽象化された理想的状態でしかない。そのような時間を生きる存在とは「天上の存在」、身体的制約をもつ私たちには決して触れることのできない彼岸的存在といってもよいだろう。/私たち自身は時間的に有限であり、永遠に続く時間を生きているわけではない。時間を均一的なものとしてみようとする欲求は、もしかしたら、私たち自身の時間的制約(つまりは死)から目をそらそうとする根本的な自我防衛機制(もともと精神分析の用語で、不都合な事実の認知を避けたり、無意識的に抑圧したりすることによって、不快感情を緩和して心的安定を得て自我を防衛しようとする心の働き)に基づいているのかもしれない。/とはいえ、誰もが死から免れることはできない。おそらく、豊かな時間を得るためには、私たちはこの現実から時間を見直す必要があるのだろう。そこには周期的、季節的な時間と、一生のうちで一度しかない一期一会的な時間とが流れている。いつでもあり得るような均質化された「いま」ではなく、今しかあり得ない「いま」が常にあることになる。/時間を均質化し、特異点をなくしていく生活パタンが、この一期一会の時間性を見失わせることにつながっているとしたら、時間との対峙や生活設計において、方針を間違えることになってしまうかもしれない。また、本来は今しかないこのときを、いつもと同じ「いま」とみてしまうことによって、今しかできないことを見落とすことになってしまうかもしれない。(p.172〜p.173)


★★ 時が滲む朝 楊(ヤン)逸(イー)
本は読み始めの何ページか、たいていの場合、読みづらいものだ。この本はそれがかなり長い間続いた。一つには、中国人名の表記の問題がある。漢字を書いて、それに普通日本人が読めないようなフリガナを付けないでほしい。それもその後は漢字だけになってしまうのはどういう意図なのだろう。中国・朝鮮の固有名詞は漢字表記をやめ、カタカナ表記にするべきである。
もう一つには、文体の問題がある。何かが違う、表現に違和感がある、で、どうしてもスラスラ読めない、ということになる。省略が変だということに途中で気付いた。
話はなかなかに面白い。が、これは芥川賞をとった作品だろうか。どちらかというと、叙事詩である。壮大な話を無理やり短くしたと感じる。だから、忠実な映画化は無理だが、面白い連続テレビドラマにはなるであろう。

★★★ 「月光仮面」を創った男たち 樋口尚文
以下長くなるが、この本の意図をよく表しているので引用する。
まだテレビジョンは先行き不明のあやしげな「ニューメディア」であり、当時の花形産業であった映画業界は、テレビをちゃちな時代のあだ花としか考えていなかったので、将来のテレビとの共栄など露ほども考えず、人材や機材を援助してテレビを育てようという発想などまるでなかった。『月光仮面』という「テレビ映画」は、本来ならまだ番組製作のノウハウやハードに乏しいテレビ局ではなく、映画業界の持てる力で製作されるべきものであったはずなのだ。/だが、当時の映画業界はテレビを歯牙にもかけず、その協力にありつけなかったテレビ側としては、やけっぱちで自前の製作に打って出るほかなかったのである。/しかしその結果、テレビジョンは、やる気だけを手がかりに飛び込んできた若者たちにょって切り開かれ、その独自の魅力によって大衆を惹きつけ、映画産業の凋落に拍車をかけることになった。いや、産業の変遷として見るならばそういう言い方になるが、文化的な観点からいえば、テレビは自らの特質である実況の「現在性」を武器にすることによって、映画本来の可能性と限界をはっきりさせ、映画を本来の「骨董性」に送り返したともいえよう。/本書では、日本映画が史上最高の観客動員数を記録した(そしてこれをピークに地すべり的に不振をきわめてゆく)年にして、東京タワーが完成して送信を開始した(そしてこれを皮切りに急速なテレビの普及が実現してゆく)年でもある「昭和三三年」に誕生した『月光仮面』を、この両メディアの栄華と衰退の分岐点に位置する、きわめて象徴的な映像作品として再検証してみたいと思う。/それは単なる懐古的な意図によるものではなく、こうして未知なるメディアが生まれ出ずる時の人びとの反応や行動のありようは、テレビメディアとインターネットメディアが括抗するニー世紀にも敷術できるものだろう。(p.12〜p.13)
なかなかに面白い本だった。「忍びの者」など、懐かしいテレビ番組の名前が出てきて、昔を思い出した。これに関連した本、この著者の本、などもっと読んでみよう。

★★ 図説古事記 石井正己 写真篠山紀信
決して面白いと言える本ではないが、一応は楽しめた。それは、古事記そのものの内容によるところもあるし、著者の書き方にもよるだろう。この著者は、神話の内容をできるだけ正確に、そして簡潔に書こうとしているようだ。最近の本によくあるように、一般受けを狙ったものでないことは確かだ。
神話というものは全世界共通するものがあるようだ。近親相姦、殺人、謀略、略奪、等々、神聖にして犯すべからざる我が国の天皇家の歴史がこんなことでいいのだろうかと思ってしまう。

★★ B級グルメが地方を救う 田村秀
4分の3ぐらいのページがB級グルメの紹介に充てられている。それはそれで結構面白いし、逆に、後に書かれている考察はとってつけたようでさほど面白くない。
食べてみたいものがたくさん出てきたが、一番は岸和田の「かしみん焼き」だ。それは、カシワとミンチをかけ合わせて生まれたお好み焼き。最後にお遊びで、B級グルメ検定が付いている。不合格一歩手前の四級でした。附録に都道府県別のまとめがある。行けそうな所はメモしておこう。

★★ 知っておきたい日本の仏教 武光誠
仏教についての入門書だと思って読み始めた。確かにそうなのだが、実用書的である。それはそれで為になることが書いてあり、数ヶ月前から仏壇のある生活を始めた身には成程ということが多かった。ただ、総花的で広く浅いので、多少物足りない感じである。宗教臭くない宗教に関する本を読みたいのだが、無理な願望なのだろうか。

★★ ひかりの剣 海堂尊
以前、じっと剣道の試合を見続けなければいけない状況に置かれたことがある。これは極度の苦痛であった。分からないから全く面白くないのである。面が入ったと思っても、皆知らん顔をしている。そして何が起こったか分からないのに、旗が揚がって試合が終わってしまう。
この本は剣道の話である。スロービデオのように細かく解説してあるので、私のようなものにも剣道の試合が面白く感じられる。ほとんど剣道の試合に終始するのだが、スラスラと楽しく読むことができた。
しかし、それだけである。この著者の本にはいつも棘があった。この本にはない。それでも読者をひきつけるものが書けるというのはすごい才能なのだろう。ただ、この方向を今後継続してほしくない。次回作は、また元のような傑作を期待する。

★★ 中国社会はどこへ行くか 園田茂人 編
編者が7人の中国人と行った対談集。最後にまとめの意味合いか、日本人との対談が付いている。多方面の人々との対話で中国を浮かび上がらせようとしたのだろうが、一つ一つの対話が短いので物足りなさを感じる。それにしても中国はどこへ行こうとしているのだろうか。相当に矛盾を抱えた国である。二・三十年遅れで日本の後をついてきているという印象を更に強く持った。
一般庶民も、共産主義の理念を信じていません。したがって、マルクス主義を前提にした統治は、すでに不可能になつています。だからといって、共産党は自由主義的価値観を受け入れることはできない。となると、どうしても伝統的な価値観を利用せざるをえず、儒教は、その意味でも重要な役割を果たすようになるはずです。/将来の共産党の統治を正統化するイデオロギーは儒教しかありえない。儒教抜きに共産党の存続は不可能だと思います。(p.148)
多くの中国人が所得格差の生じた原因を非合法、不合理なものと見なしているからで、「不平等の制度化」が遅れているからではないかと解釈しています。/もし不平等を生み出すゲームのルールに対して合意ができているのなら、自分が経済的に恵まれなくても仕方がないと思うでしょう。ところが、ゲームのルールへの合意ができていなければ、「なぜ自分が経済的に恵まれないのか」と不満に思うでしょうし、そもそもみずからをどのように位置づけてよいかわからないでしょう。/中国は、「不平等の制度化」を進めてゆかねばならない状況にあります。(p.171)


★★ 若者はなぜ正社員になれないのか 川崎昌平
本書の効用はさまざまである。就職を控えた大学生ならば「こうならないように気をつけよう」と思ってくれればよいし、定職探しに懸命なフリーターであれば「下手の見本だ」と呆れてくれればよいし、企業に勤める社会人の方は「最近の若いヤツにはこんなのもいるのか」と笑ってくれればよいし、僕と同年代の子を持つ親御さんならば「うちの子はまだマシ」と安心してくれればよい。いずれにせよ、「職」と「働く」という二つの言葉に対して、何らかの考える契機となってくれるのであれば、筆者としては、これ以上嬉しいことはない。(p.19)
序章にこんなことが書いてある。一種の謙遜かと思ったが、まさに書いてある通りだった。読み物としては面白い。つまり、創りごとということだ。本当に就職しようという意志をもった、この著者のような若者が実在するのなら、世の中終わりだ。この本を書くために著者は行動した、としか思えない。実際彼はその後をそうのように生きているのではないか。

★★ GHQ焚書図書開封 西尾幹二
GHQが日本の戦前・戦中の本を没収したことを著者は「焚書」と呼んでいる。アメリカ軍は“confiscation”、日本政府は「没収」と呼んでいるが、著者は「焚書」だと主張しているわけです。このことがこの本の性格をよく表しています。7769点が「焚書」されたそうです。この事実には驚かされました。膨大な数です。著者個人では全体の研究が出来ないので、本のタイトルが「開封」になっているとのこと。次世代の研究に期待する旨があとがきにあります。著者自身もこの先、第二巻、第三巻、と継続して行くそうです。それよりも、反対の立場の人の意見も聞きたいと感じました。
結構面白く読めました。特に、第二部のオーストラリアの話は惹き付けるものがあります。根本認識のところにどうしてもズレを感じるのですが、時にこのような本を読むのは必要だと思います。

★★ ゆらぐ脳 池谷裕二・木村俊介
池谷裕二の本、四冊目。ついつい読んでしまったが、出し過ぎではないか。糸井重一との対談はよかったが、これは対談にもなっていない。彼がしゃべってことを木村俊介が本にしたということではないか。あとがきで言い訳みたいなことを書いているが、繰り返しが多いのはいただけない。それでもそこそこ面白いのは彼が書くべきことをまだまだもっていると云うことだろう。じっくり書いてもらいたいと思う。
目は見るために、脚は歩くために――身体のパーツには独自の役割があります。/しかし、尻尾はどうでしょう。動物によってこれほど用途が異なる部位も珍しいでしょぅ。水掻きだったり、飛行翼だったり、あるいは直立用の三本目の足、警告音の発生器、攻撃用の武器、空中ブランコの綱、求愛ツール、ハエ叩き、逃避時の身代わり。尻尾は生命の多様性を代弁しています。/言語学者のベイグル博士は最近、百以上の印欧言語で、単語のルーツを丹念に調べあげて、面白い発見をしました。たとえば「2」という単語は言語にかかわらず発音が似ています。Two、Deux、Zwei……。これは起源が共通しているというだけでなく、言語伝播の歴史で音の変化が遅かったことを物語っています。ところが「尻尾」は言語ごとにずいぶんと表現が異なります。Tail、Queue、Schwanz……。長い伝承の間にすっかり変化してしまったわけです。リバーマン博士は「使用頻度の低い単語ほど変化が速く、その半減期は使用率の平方根に比例する」と定式化しています。(p.195〜p.196)
嘔吐は生物を優位にします。/ネズミは吐きませんから、目前の食品が毒物かもしれない場合は、チョコっと食べて巣に戻ります。体調が悪化しないか、自分自身に起こる症状をしばらく観察しなければなりません。/「体調は万全。毒は入っていなかった」/と知ればまた食べに出かけますけれど、その間に他の動物にエサを食べられてしまうかもしれません。(p.207〜p.208)
海馬が損傷を受けたら認知症になることは認識されていましたが、認知症の初期症状の一つは「未来に対して具体的なイメージが持てなくなる」です。つまり、これらのことを別角度で捉えてみたら、もしかしたら「未来に夢が持てなくなる」というところから認知症がはじまるのではないだろうかと仮説を立てることもできるのです。(p.232)
仮説というものは、そもそもその正しさを証明することはできません。「その仮説はまちがっている」と指摘することはできますが(「背理法」と言います)、「正しい」といぅことは未来永劫できないのです。「真実が明るみになる」ということは、(1)帰納法によって仮説を立てて、(2)その反例を見出して「仮説は間違っている」という事実を証明すること、だけなのです。帰納法によって立てられた仮説(すべての仮説は帰納法によっで立てられることに注意してください)は、「否定」はできるが、「肯定」はできません。(p.245)


★★★ 不可能性の時代 大澤真幸
著者は、地下鉄サリン事件が起きた95年までの50年を二等分し、理想の時代、虚構の時代、と呼ぶ。そして、その後の時代を、この本のタイトルになっている、不可能性の時代と定義する。この現在の閉そく状況をどう克服するかが、上の時代分析を踏まえ、この本の眼目である。時に飛躍と思われるところもあるが、興味深い論理展開で、脳ミソにいい刺激だった。
戦後の当初は、戦争が終わったのが昭和二〇年八月一五日であるという了解は、国民的な合意事項ではなかった。八月一五日は、言うまでもなく、玉音放送がラジオから流れた日だが、考えてみれば、終戦の日に相応しい日は、他にもいくつかある。たとえば、日本が降伏文書に調印した九月二日や、ポツダム宣言を受諾した八月一四日(玉音放送で天皇が読み上げている日付も八月一四日である)などがありえたはずである。なぜ、それらの日ではなく八月一五日になつたのか。第一に、その日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」の日になるからである。日本が対外的に敗北を認めた日ではなく、天皇が国民に向けて戦争の終結を告知した日だからである。第二に、お盆との関係を考慮すべきであろう。このことは、戦争の(自国の)死者たちが、こともなく、先祖たちの集合の中に統合されてしまったことを意味する。(p.33〜p.34)
理想の時代の末期に現れたのが、一九六〇年代末の全共闘運動である。全共闘運動は、社会の革命・改革を求める運動であった以上は、理想の時代に属する出来事であったと、とりあえずは言わなくてはならない。だが、この運動がめざしていた理想、指向されていた理想社会とは、どのようなものだったのだろうか?全共願運動に参加した若者たちがめざした理想は、しかし、具体的・実質的な内容をほとんどもっていなかった。それは、ただ、従来の権威、従来の理想を否定するということ以外の内容をもってはいない。理想の否定だけが理想であるとするならば、この運動は、理想の時代の末期的な症状であると見なさざるをえない。(p.74〜p.75)
下層を真に過酷なものにするのは、その物質的な現状そのものではなく、それを捉える視点の(不)可能性である。そして、「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力を与えているのは、格差という現状そのものではなく、来るべき救済を読み取りうる視点の不在である。われわれの現在は、理想の時代から遠く隔たったところにある。(p.128)
なぜ、人格が多重化するのだろうか?というより、純粋に論理的に考えるならば、一般には、なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか、ということの方が不思議なことである。多重人格に陥らない一般の人には、あらゆる状況を貫通する骨太の同一性や心理的な継続線が、あるのだろうか。そんなものはあるまい。私の同一性とは、結局、その都度の間主観的な関係のゲームの中で割り振られた役割にほかなるまい。私は、ときに子とLて振る舞い、ときに友として振る舞い、そしてときに教師として振る舞う……。これら、多数の同一性を貫く共通性など、ほとんど何もない、と断定したほうが正直なところであろう。これらの同一性とは、その都度の状況において私がまとう「仮面」であり、それゆえ「構築されたもの=虚構」である。多重人格者は、むしろ、こうした条件に、素直に反応しているのである。(p.160〜p.161)


★★★ 感涙食堂
「オソト de ゴハン」感動体験エッセイコンテスト実行委員会
このコンテストで入賞した人たちのエッセイを集めた本。
外食での感動体験がたくさん、本当に涙が出そうになったり、心が揺り動かされたり、いい話でした。結婚や死に纏わる話が多いのは、それらが人生の大きな出来事だから当然でしょう。私も先日亡くなった父と、癌と分かってから彼方此方に一緒に食べに行ったことを思い出しました。外食が贅沢だった時代の話もあり、子供のころ父母と外食したことを思い出し、私もエッセイを書いてみようかと思いました。

★★★ 仏教「超」入門 白取春彦
タイトルの意味は簡単ということではなく、仏教の根本という意味である。易しく書こうとしてはいるが、内容が内容なだけに決して分かり易くはない。そうではあるが面白いし、目から鱗、的なこともある。我が家に仏壇が鎮座した機会でもあるので、ちょっと研究してみようかという気になった。
多くの日本人が仏教に抱いているイメージは、ヒンズー教とキリスト教の知識から合成されたもののようです。(p.4)
「空」とは、決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の「無」を意味すると同時に、現象の「有」を意味している言葉、となる。/では、そこに実体がないのに、どうして現象が生じているのか。/現象が相互に限定したり、依存したりすることによってである。/現象のこの相互依存は、「縁起」と呼ばれる関係である。「縁起」によって、現実世界がここに生じているというわけだ。/したがって、「縁起」が分からなければ、「空」の意味が分からなくなる。(p.75)
これ有るとき彼(かれ)有り、これ無きとき彼無く、これ生ずるとき彼生じ、これ滅するとき彼滅す。/すべてが、縁りて起こることだという。これを「縁起」と呼ぶ。/ブツダの悟りの中身はこれである。/悟りとは、神秘めいた超常体験のことではない。いっさいを見通すことである。ありのままに見る眼を持つことである。(p.71〜p.72)
行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭い人となるのである。行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。/……世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。(p.147)

★★ 遺伝子がわかる! 池田清彦
ちくまプリマー新書の一冊。これは、人気の作者を起用して、若者向けの入門書のようなシリーズだと思っていたが、何の何の、この本は専門用語がいっぱいで、難しい。しかし不思議なことに、その専門用語を適当に理解して(実際は理解せず)読んでいくと(何故か読めるのです)、かなり面白い。
細胞が分裂するたびにDNAの端がちょっとずつ切れて行って、ついには死んでしまうそうだ。それが人間の場合120年ぐらい。人の寿命は最大120年ぐらいと聞いたことがあるが、こういうことだったのかと納得した。この細胞の分裂限界をヘイフリック限界というそうですが、そんな言葉は一般人には必要ありません(57ページあたりに書いてあります)。
逆説的に聞こえるかもしれないが、致死率九〇〜一〇〇パーセントの場合より、二〇パーセントの場合の方が、感染者の規模がはるかに大きくなり、人類全体にとってはダメージが大きい。というのは致死率が余りにも高いと患者はすぐに死んでしまうため、他人に感染する確率は低いからである。(p.83)
脊椎動物は昆虫の背と腹が引っくり返って作られたかもしれないのだ。実のところ、脊椎動物でも昆虫でももっとずっと下等な環形動物(ミミズなど)や扁形動物(サナダムシなど)でも、使っている発生遺伝子はほとんど同じなのだ。つまり、一たび動物になってからの形の大きな進化は、新しい発生遺伝子を作ることではなく、使い方を変えることにより起きたのである。(p.163〜p.164)
通常の脊椎動物では肋骨が体の内部にあって胸郭を作り、その外側に肩胛骨がある。カメでは肋骨が肩胛骨の外側に飛び出し、これが甲羅になったと争えられている。肋骨を作る発生プログラムが肩胛骨の内側から外側へ変更になったのだろう。(p.166)

学問の進歩はすごいと思う反面、一方で新たな謎が浮かんできている。全容解明にはほど遠いということで、ある意味安心した。

★★ 「ニート」って言うな!
本田由紀・内藤朝雄・後藤和智、分担執筆
2006年1月に出版された本。ここに書いてあることは今現在ほとんどの人が認識しているのではないだろうか。簡単に言ってしまうと、「ニート」は個人や家庭の問題ではなく、政治・経済・社会の問題ということだろう。分かっていて分からない振りをしている奴がいるのではないか。一番の問題は「ニート」という言葉の定義が未だにはっきり共通りかいができていないことだ。そのまま議論をしてもまともなものにはならない。第二部の教育に関する分析は興味深かった(最後の引用)。
日本では(略)「習ったことを仕事にぴったり直結させる」という、一対一対応のようなものが理想とされがちであると同時に、他方では「学校で習ったことなんか仕事には全然役立たない、要は潜在能力や人柄なんだ」、というような、「教育の職業的意義」を全否定するような議論も強固で、この二つの両極端な「all or nothing」のいずれかに振れがちです。/それは不毛な考え方です。学校で習ったことだけで十分なわけでは決してないけれども、それは確かな有効性を持っていて、あとからの変換や発展をも可能にするという、バランスのとれた発想が、日本では弱すぎるのです。(p.108〜p.109)
p.125「強姦のドラスティックな減少」
というパートがあります。ここの主張そのものにに反対するわけではありませんが、一つ根本的な視点が欠けていると思います。今の若者は犯罪になるような強姦をする必要がないのです。
多くの場合、相手を教育するというのは攻撃でもあるのです。過剰な教育の意欲には、ふたつの意味が入り込んでいます。教育と称して、強迫的なコスモロジー修復儀式にふけると同時に、気にくわない相手を痛めつけるわけです。復讐としての教育です。しつけというときには、だいたい攻撃の意味が入ってきます。青少年への攻撃は、いじめや虐待もそうですが、だいたいがしつけと称して為されることが多いのです。憎しみをストレートに表現するのではなく、育てあげる、自立させる、しつける、という仕方で攻撃するのです。(p.176)

★★★★ マイ・バック・ページ 川本三郎
先日読んだ、本と映画で「70年」を語ろう、で言及されていたので読んだ。
予期していたよりはるかに面白かった。少し年上だが、同じ時代の空気を吸った者に共通するものがあるのだろう。正直な書き方で共感できる。川本三郎のイメージがかなり変わった。
全共闘の学生たちが問題にしたのは何よりもこの自らの加害性だった。体制に加担している自分自身を懐疑し続けることだった。自己処罰、自己否定だった。だからそれは当初から政治行動というより思想行動だった。なにか具体的な解決策を探る運動というより「お前は誰だ?」という自己懐疑をし続けることが重要だったのだ。質問に答えを見つけることよりつねに質問し続けることが大事だったのだ。だからそれはついにゴールのない永久懐疑の運動だった。現実レベルではあらかじめ敗北が予測された運動だった。/全共闘の学生にとっては実は「大字改革」といった具体的なテーマはどうでもいいことだった。そんなものはいわばハウ・ツーものに属することだった。それよりももっと根本的な自分自身の生き方への全面的な懐疑こそが重要だったのだ。「大学をどうしたらよくなるか」というような現実レベルのことよりも「お前は誰だ?」という理念レベルのことのほうが大事だったのだ。いわば学生たちは政治言語よりも詩的言語のほうを優先させていた。/こういう全共闘運動のとらえ方はあるいは倫理的すぎるかもしれない。一方にはたしかに革命や変革を求める政治活動もあったし、他方には「そんなこむずかしい顔をしないでリラックスしてやろうよ」という自己諷刺の軽やかなスタイル(真情あふれる軽薄さ)もあった。(p.17)

★★★★ サバがトロより高くなる日 井田徹治
サブタイトル:危機に立つ世界の漁業資源
この本のタイトルもまた最近流行りの人目を引くものだ。サブタイトルがこの本の内容を的確に表現している。読んでいると、遠くない将来、魚が食べられなくなるのが確実だと思う。どこかで人類は間違った方向に進んでしまったようだ。地産地消、という言葉を思い出した。
日本のウナギの流通と消費パターンも過去十年ほどの間に大きく変化した。九〇年代には国内の消費量のうちほぼ五〇%だった輸入ものの比率がこの十年ほどの間に急激に高まり、二〇〇一年にはほぼ九〇%が輸入のウナギになった。需要増が先か、供給増が先かは、卵が先かニワトリが先かという議論に似ているが、国内の消費量の急増を支えたのが、輸入ウナギ、それも中国からの輸入品だったことは明らかだ。(p.73)
私は供給増が先ではないかと思う。利益優先の体制が引き起こしたものではないだろうか。美味しいウナギを食べたいが、いつも食べたいとは思わない。実際、ウナギを美味しいと思うことが少なくなったような気がする。冬に食べるトマトやキュウリはおいしいものではない。
去年観た映画「ダーウィンの箱庭」に出てきた「白スズキ」のことにも言及している。人間の商業活動には恐れ入る。一つの生物を取り出して食べ物としてみるところに間違いがある。生き物は全体の調和の中で生きている。人間の存在そのものがその調和を崩している。
石油や石炭を使いたいだけ使い、海から捕れるだけ魚を捕るということがいつまでも続けられると考えるのは間違いだったことが、近年徐々に明らかになってきた。人間の活動は、何万年もの間、ほとんど変わらなかった地球の大気の組成や大海の生態系を変えるまでに大きくなったのだ。/人間の営みが、地球の資源と環境にどれだけの負荷を与えているのかを常に意識し、その負荷を出来る限り小さなものにしてゆく努力が、二十一世紀には必要になる。「海の魚を食べる」という、人間が古くから当たり前のように続けてきた営みについても、それは例外ではない。(p.255)

★★ ホームレス中学生 田村裕
初め読む気がなかったので、図書館への予約が遅くなり、7ヶ月待つことになった。
読んでみて、このタイトルも最近流行りのやり方で、内容を反映していないと思った。表現も変なところがあり、逆に言うとゴーストライターではなく、本人が一生懸命書いたということだろうか。テレビを見ないので、著者がどのような芸人か分からず、なぜこのような私的なことを赤裸々に世間に晒したのか疑問に思った。著者も書いているように、マザコンのなせる技だろうか。不愉快になることはなかったが、「へー」と感心したのが正直なところです。

★★★ 日本人の「死」はどこにいったのか 山折哲雄・島田裕巳
僕は最近の葬儀の大きな変化のひとつに、いまあなたがいわれた写真、つまり遺影写真のあり方にあると思っているの。いま、どの告別式に出ても、祭壇の中央に亡くなった方の大きな写真が掲げられている。そして昔なら中心に置かれるべきお位牌は、その説明板みたいな形で、その脇にまるで添え物のように置かれている。よく見ないとわからないくらいです。これはまさに主客転倒というべきで、ご遺体もどこにあるかわからない。写真が中心になっているんだ。/もちろんその写真にも変化があるわけです。むかしは生きているか死んでいるかわからないような、静かな、穏やかな写真が選ばれていたけれども、最近は違う。笑っていたり、遊んでいたり、いまそこに生きている気配を感じさせるような写真を飾っている。/これははたして死者を送る場なのだろうかと思うようになったわけです。(p.63〜p.64)
僕は比喩的にいうんですよ、13世紀に、ペシミスト親鸞が悪の研究を正面からとり上げた。それが結局、思想史的には流産して、近代にいたって、それはオプティミスト西田幾多郎によって『善の研究』にいたったと、そう結論づけているんですね。/それが最終的に西田がいった絶対無の世界。日本人の信仰はある意味、無の信仰だったと思っている。無の宗教。日本人はなんでもかんでも無宗教というが、あれは無の宗教でね、無が好きな民族ですよ。無というスポンジのような観念のなかに悪と善という観念をぜんぶ吸収してしまったと。(p.118〜p.119)
最近、日本社会を見ていて、僕はいたる所に殺意が蓄積されている気がする。それがある人間を通して爆発すると殺人行為になる。内面化し内攻していくと自殺になる。外にも出せない、内にも内攻させられない、そういうのがウツになる。/ではなぜそういう殺意が蓄積されてきたかというと、平等社会というのがそうだったと思うんですよ。横並び社会というのは、嫉妬、怨念、これが渦巻く社会ですよ。いつも他人と比較せざるをえない。横並び社会というのは。(p.126)
戦後ずっとイギリス式の福祉思想の影響を受けて、ゆりかごから墓場までという、あの考え方のなかには年をとって老いていく人間は、弱者であり、世界からはずされた者であり、救済されるべき対象だ、という思想がずっとあって、そのどこにも老人こそが人生の主人公だ、シテであるという思想は出てこなかった。/しかしわれわれの伝統世界のなかでは、翁の思想というのがあって、翁はシテの役割を果たす存在として尊重されてきたんだよね。しかし戦後の近代的な思想のなかでは、老人はすべてワキとして隅のほうに追いやられてきた。(p.233)

宗教家の話はどこか噛み合わないところがあるが、この二人は宗教学者だそうで、そのためか心に響くことが多々あった。いま日本は、世界は、変な方向に行っているのは間違いないようだが、ではどうするのかは分からない。分からないまま、人類は滅亡へと突き進むのか。

★★★ アヒルと鴨のコインロッカー 伊坂幸太郎
アヒルと鴨は166ページになってやっと出てくる。しかしここでは意味不明。次は261ページに出てくる。ここでは何の譬えか多少分かる。310ページでコインロッカーが登場。終る10ページほど前の322ページでこの三つが結びつく。この小説結局のところ何の話だったのだろう。帯にはミステリーと書いてあるが単純にそうとも言えないナではないか。現在と二年前が交互に語られ、いつの間にか流れに乗せられ虚構の世界へ嵌っていく。楽しい読書だった。またこの著者の作品を読んでみよう。
余分なこと:236ページに突然仙台という地名が出てくる(と思う、これ以前に出てきたのを見逃したのかもしれない)。何故だろう。

★★★ 本と映画で「70年」を語ろう 鈴木邦男・川本三郎
最近はそんな区別があまり意味をなさなくなってきたが、(元)右翼と(元)左翼の面白い組み合わせ。二人には共通点もあって、年齢がほぼ同じ(一つ違い、敗戦直前の生まれ)、若い頃新聞社に勤めていた(産経と朝日)、その新聞社を辞め(辞めさせられ)逮捕歴がある。
右翼の言葉は、出発点(当然の前提)の違いを感じ、ついていけないことが多い。しかし、鈴木邦男の言葉にはそんな感じはなかった。「元」だからか。右翼の考え方が少し分かったような気になった(共感ではない)。彼の本は読んでみる価値がありそうだ。川本三郎の本ももっと読まなければいけない。
京都の経済学者の佐和隆光さんが「全共闘運動はひとつのノーブレス・オブリージュだった」という説を出されて、なるほどなと思いました。自分たちが恵まれているからこそ、社会変革の運動をやらなければいけない。それが今では、みんな大学へ行くようになってしまったから、ノーブレス・オブリージュも持ちようがない。(p.22〜p.23)
野呂邦暢/『戦争文学試論』/「アメリカの戦争文学と日本の戦争文学には大き違いがある。それは贖罪意識だ」という内容です。日本の戦争文学は勝ち戦の場合でも、勇ましいのはほとんどない。みんな「申し訳ない」という気持ちで書かれていて、これはアメリカ文学ではあまり見られない。日本映画もそうで・・・(p.59)
これは私のまったくの仮説なんですけど、戊辰戦争に敗れた側の文学だと考えてるんですよ。つまり明治維新で勝った側の薩長は、明治の新しい時代を明るく生きることができたし、いい地位も与えられたわけですが、敗れた会津などはひどい目にあって、いい仕事にも恵まれなかった。その敗者の悲しみの持って行き所がなかったときに、初めて生み出されたのが時代小説なんじゃないかと考えたんです。(p.99)
SFXってだいたい、近未来の風景を描くために開発された技術なのに、近過去を再現してるというのは面白いですよね。(p.147)

以上の引用、偶々か、すべて川本のセリフです。

★★ 日本でいちばん大切にしたい会社 坂本光司
会社経営の使命と責任
一、社員とその家族を幸せにする
二、外注先・下請企業の社員を幸せにする
三、顧客を幸せにする
四、地域社会を幸せにし、活性化する
五、自然に生まれる株主の幸せ
以上の基準で日本のいい会社を紹介する本。主に五つの会社について書いてあるが、何れも素晴らしい会社で、涙が出るほど感動的なお話である。素直でない私は、本当にこんな会社があるのかと懐疑的になってしまう。いいことしか書いてないので余計にそうなる。きっといろんなマイナス面がないはずはないので(こういう発想がいけないのか)、問題点も書いてあればリアリティが大きくなっただろう。
100年カレンダーの話が出てくる。マイナス面が指摘されたものであるが、それについては何の言及もない。といった具合で、理論的で理想的、楽天的、な世界観にあふれていて、そうであったらいいなとは思います。読んで損はない本です。

★★★ 漢文力 加藤徹
久し振りに漢文を読みました。漢文調の文は心を打つものを持っています。理性にも感情にも訴えるものがあると言ってもいいでしょう。大和言葉にはないリズムと力強さ。
殺人之衆、以哀悲泣之。戦勝、以喪礼処之。(『老子[ろうし]』第三十一章)
人[ひと]を殺[ころ]すことの衆[おほ]ければ、哀悲[あいひ]を以[もっ]て之[これ]を泣[な]け。戟[たたか]ひ勝[か]てば、喪礼[そうれい]を以[もっ]て之[これ]に処[を]れ。
戦勝国の人々よ。勝利に酔いしれる前に、膨大[ぼうだい]な敵国人の犠牲者に対して悲しみの涙を流せ。葬式の礼法にしたがい哀悼[あいとう]の態度をとれ。(p.270)

「貝と羊の中国」を読んで感動し、この本を読みました。漢文の勉強をしたくなりました。
幻肢を感じる人は、手や足を失っても、脳のなかにそれに対応する神経回路が残っているため、手や足が存在するようなクオリア〔質感〕を感じ続けます。それは、なくなって見えなくなった手や足の指を一本一本細かく動かせると感じられるほど、リアルで奇妙な感覚だそうです。/実は、手足を失っていない健常者も、手足のクオリアを手足で感じているわけではなく、脳で感じている。その意味で、現実と幻覚は、本質的には互いに近いものと言えます。(p.36〜p.37)
キティちゃんの顔には、耳と目と鼻はあります。でも、なぜか口がありません。/ここに「魅」が隠れています。実ほ、キティちゃんの口は、ないことによって「ある」のです。(p.56)
お墓に花を供えるとき、墓石ではなく、生きている人の方に花を向ける理由も、「季札珪剣〔キレイカイケン〕」と同じです。死者は、墓石に宿っているのではなく、わたしたちの心のなかに生きているのですから。(p.90)
「炳燭の明〔ヘイショクノメイ〕」 (p.129〜p.131)
孝行のしたくない時親がいる ビートたけし (p.133)

★★ 強権と不安の超大国・ロシア 廣瀬陽子
ロシアと旧ソ連邦の国々の話。ロシアも、中国と同様近代化できない国だと思った。著者の予測では、4年後にプーチンが大統領に返り咲く可能性が大きいとのことだ。
ともあれ、民衆は大国ロシアを、安定を、そしてそれを実現してくれる強い大統領を求めている。ロシアは強い指導者が似合う国ともいえるかもしれない。強い指導者の存在は、おそらくロシアが、欧米諸国が望むような民主的で開かれた国家になることを妨げる。/そして、このような趨勢は、国家レベルではロシアが天然資源の収益によって、ますます経済大国となる一方、富を国民の一握りの人びとに集中させ、貧富の差を拡大させてしまうことにもつながるはずだ。/今後のロシアがどのような変化を遂げていくか、また変化しないのか、現段階では明確な答えは出せない。/しかし、ロシアは海を挟んでいるとはいえ、日本の隣国である。さらに、北方領土問題などの懸案事項もある。われわれ日本人は、ロシアの光と影をつねに注意深く観察しながら、今後の動向をしっかり見きわめていく必要があるだろう。そして、隣人として、よき国際関係、信頼関係が今後構築されていくことを著者は強く望んでいる。(p.260〜p.261)
機能的に記述しようとしている点はいいのだが、今一歩説得力に欠けるのが残念である。
229ページからの「難民にメガネを贈った日本企業」、金井昭雄氏の活動は初めて知った。このようなことは広く紹介されるべきである(私が知らなかっただけか)。

★★★ あの戦争から遠く離れて 城戸久枝
昔、日本が負けた大きな戦争があり、牡丹江を渡ってやってきた一人の日本人が、中国人の夫婦にもらわれて、成長し、本当の両親のものへ帰っていった物語 (p.445)。この日本人[城戸幹(きど・かん)・中国名孫玉福(スン・ユィーフー)]の娘が、親のことを調べて書いたもの。第一部が親のこと、第二部が自分のことを中心に、うまくまとめてある。80年代中国残留孤児がクローズアップされる10年前、著者の父親は自らの多大な努力で帰国を果たした。彼の半生が書かれている第一部には圧倒される。第二部の著者の格闘も心を打つ。分厚い本だが三日ぐらいで読めるほど惹き付けるものがある。

★★★★ 貝と羊の中国 加藤徹
カバー裏にある宣伝文句:財、貨、賭、買……。義、美、善、養……。貝のつく漢字と羊のつく漢字から中国人の深層が垣間見える。多神教的で有形の財貨を好んだ殷人の貝の文化。一神教的で無形の主義を重んじた周人の羊の文化。「ホンネ」と「タテマエ」を巧みに使い分ける中国人の祖型は、三千年前の殷周革命にあった。漢字、語法、流民、人口、英雄、領土、国名など、あらゆる角度から、斬新かつ大胆な切り口で、中国と中国人の本質に迫る。まさにこの通りです。とても素晴らしい本です。
筆者の専門は、「京劇」という中国の伝統演劇である。/世界のどこでもそうであるが、演劇は、社会的で人間くさい芸術である。京劇のドラマには、人情の機微を描いたり、ホンネを吐露した作品が多い。aた中国社会における京劇のありかた自体も、中国社会の機微と、密接に関連している。/筆者にとって、京劇を研究することは、必然的に、中国社会の根底にあるドロドロとしたものを分析する作業とつながる。/本書は、筆者が研究の過程で発見した知見の一部を、一般の読者のために、披摩したものである。(p.242)
引用したいところだらけです。
豊かな「周辺」をもつことが、過去の日本の強みだった。今の日本も、幕末のように社会が行きづまりつつある。しかし、東京一極集中のせいで、今の日本は、薄弱な周辺しかもたない。ここが心配である。(p.116〜p.117)
世界史上、唯一、西欧文明だけが地球的規模の世界文明になれた主因は、過去二千年にわたり、内外に競合的協力者を確保し、.発展の芽を絶やさなかったことにある。/ひるがえって、中国文明は孤高すぎた。その内側にも外側にも、競合的協力者をもてなかった。(p.218)
ソフトパワーの力は、あなどれない。「マクドナルドが店舗展開をしている国どうしは、絶対に戦争しない」という有名な「マクドナルド理論」も、その一例である。/気軽にアメリカ資本のハンバーガーを食べられるような国どうしは、民衆の生活レベルや価値観など、たがいに共通点が多い。そんな国どうしの関係が悪化しても、両国はギリギリのところで戦争以外の道を模索し、開戦には至らないだろう、という希望的仮説を、「マクドナルド理論」と呼ぶ。/もし日本人が、世界にむけて「日本のアニメ、たとえば『クレヨンしんちゃん』をテレビで子供が見られるような国どうしは、絶対に戦争しない」という「しんちゃん理論」を提唱するならば、あるいは「浜崎あゆみのファッションをまねする少女があふれている国どうしは、絶対に戦争しない」という「あゆ理論」を主張するなら、それらも案外、成りたちそうである。(p.222)

歴史を復習してこの本を再読しよう、この著者のほかの本も読んでみよう。
実に、久し振りに、刺激を受け感動した本だった。

★★★ 常識はウソだらけ 日垣隆
著者と8人の専門家との対談集。本のタイトルと以下の八つの話の題名を見るとおよそ何が書いてあるか分かるだろう。そういった予測があっても結構面白い本だった。物足りないのは、ではどうするのかということへの言及が少なかったり、あってもウソの追及ほどには説得力がないことだ。まあ、ことはそう簡単ではないので、しようがないか・・
第1話 リサイクルしない知恵    第2話 定期健診を受けるのは止めよう
第3話 血液診断のウソとホント  第4話 凶悪犯罪は本当に増えているのか
第5話 動物保護運動のまやかし 第6話 クジラを食べよう!
第7話 不妊治療に挑む       第8話 カウンセラーは本当に必要か
大村中華まんじゅうを使って喩えてみると、中に入っているあんこの部分が「気質」です。まわりについているふわふわした部分が「性格」、表面を覆っている皮の部分が「パーソナリティ」で、中華まんじゅう全体が「人格」だと考えてみたらどうでしょう。あんこの部分がすごく短気な人でも、まわりのふわふわしたクッションでうまくセーブする。一番外側についている皮の部分は、社会常識から判断してどう行動するかという知性を司るところです。
日垣おもしろい喩えですね。キレやすい人は、あんこだけがボテっとむき出しになつていると考えれば合点がいきます(笑)。
(p.75)第3話
河合殺人の犯罪認知件数は現在年間約一四〇〇件あるわけですが、この数のうちなんといっても子ども殺しが多い。
日垣いわゆる「心中」 ですね。
河合そのとおり。殺人の件数には、親子の心中がたくさん含まれているのです。
(p.97)第4話
小沢宗教家の方は「自分はこう考える」と立場や意見をはつきり示します。占い師も自分の考えを断定的に言うものだと思いますが、受け手の側は宗教家や占い師の言うことを半分信じながら「本当はどうなのだろう」と考えるものでしょう。一方、"心の専門家"は自分の考えをはつきり言うわけではありません。/では何をするのかというと、相談に来た人が話す言葉をよく開き、自分自身で「望まれている答え」を出すように援助するのです。カウンセラー自身がどういうふうに考えているのか。あるいはカウンセラーがどういう人生を歩んできて、日常どんな生活をしているのかということは全然わからない。カウンセラー自身の意見ははつきり言わず、
相談に来た人が周囲や社会から求められる方向へ自発的に適応できるよう、導いてあげるわけです。
(p.220〜p.221)第8話
 この最後の部分、スゴイ!

★★★ 食の世界 菊地俊夫 編著
県立図書館の新着図書の棚で見つけた(2002年の発行であるが)。
興味深い内容で、面白く読めた。まだまだ学ぶべきことがたくさんある。
輸入生鮮野菜の拡大は消費者が季節に関係なく、新鮮で安い野菜を食べたいという要求に支えられている。(p.49)
これは嘘だ!消費者は、普通の消費者は、そんな要求は持っていない!
フランス料理はフランス王にイタリアのメディチ家の娘が嫁いだことにはじまる。(p.69)
フランス料理の基本は、旬の食材をそれに適した調理法で食べることにある。(p.70)
上記二つのことは意外だった。
ブラジルは多くの人種・民族の移民によってつくられた多文化社会であるが、その在り方はアメリカのものと異なっている。このことは、ブラジルとアメリカにおける日系人の養老院を訪ねてみるとよくわかる。ブラジルの日系社会における養老院では日本語がすべてにおいて通じ、週末には必ず家族が訪ねてくる。他方、アメリカでは設備は立派であるが、日本語がほとんど適用しないし、家族の訪問も少ない。このことは、アメリカの日系社会が世代交代とともにアメリカの社会・文化と同化してしまい、日本の伝統的な社会・文化の特質が弱まっていることを反映している。しかし、ブラジルでは日本語や宗教、芸能文化(現在でも演歌や剣劇は人気のある娯楽となっている)、あるいは一世らが受けた徳育(親孝行や敬老など)の日本の伝統的な社会・文化が現在の日本以上に残されている。これは、持ち込まれたそれぞれの移民文化がブラジルという国全体のなかで調和を図りながら尊重され、そのままの形で残され、根づいてきた結果でもある。このような多文化社会はサラダボール型と呼ばれ、アメリカのるつぼ型(合金をつくるため金属を溶かす容器)のものと大きく異なっている。(p.78)

★★ 冬の陽炎 梁石日
面白かった。一気に読んだ。得意の、在日タクシードライバーのお話。
面白かったが、よくこれだけ様々なことを盛り込んだと感心した。途中、何がメインなのか分からなくなってくる。最後はどう纏めるのだろうと変な心配をしたが、流石、上手く収束した。

★★ ランチは儲からない飲み放題は儲かる 江間正和
「食い逃げされてもバイトは雇うな」的な本だと思っていたが、違った。理論ではなく、実践、飲食店経営のノウハウや裏話的なものだった。それなりに面白かったが、実際にやっている人たちは大変だとしみじみ感じた。大雑把に言うと、一般的な飲食店の費用は、材料費3割、人件費3割、家賃等1割、光熱費等1割、減価償却1割、残り1割が利益、だそうです。
最後の方にあったいいセリフ:一年一年があっという間に経ち、10年が過ぎました。「いつも同じことが、当たり前に続く」って、いいな、と最近思います。(p.247)

★★★ お金は銀行に預けるな 勝間和代
理論書でもなく、実用書でもなく、その中間をいっている本、つまり、中途半端と言えなくもない。しかし、なかなかに面白い内容だった。第3章「実践」にある、「ノーロード」、「インデックス投信」という二つのキーワードで始めてみようかという気になった。
金融とギヤンプルを分ける鍵は何でしょうか?/それは、金融はリスクの計量が.できるのに、ギヤンプルはできない、ということです。逆に、同じ金融であったとしても、投資家がリスクを計量しないままに投資をするのはギヤンルであつて、金融ではありません。(p.50〜p.51)
There is no such thing as a free lunch.(タダ飯なんてものはない) (p.66)
『セイヴイングキャピタリズム』 (ラグラム・ラジャン、ルイジ・ジンガレス、慶鷹義塾大学出版会、2006年)という資本主義の限界について述べた興味深い本があります。この本の英語の題名は『Saving Capitalism from the Capitalists』、すなわち「資本主義を資本家から救え」という意味です。これは何を意味しているのでしょうか。/この本では、社会が単純に市場原理だけを追求していくと、大きく分けて次の二つの問題が生じることを述べています。/@国家間や個人間において、「やる気」に応じた資源配分が必ずしもうまくいかない/A社会的に正しくない行いがあつたとしても、利益が出るものについては投資され、その結果として地球温暖化や環境汚染などを招く (p.198)
私たちが政治について参政権を持っているように、経済についても投資を通じて参政権を持っていると考えると分かりやすいと思います。すなわち、私たちが預けている1万円というお金をどうやって社会のために使うのかを積極的に考えることで、寄付やボランティア行動をするのと同等か、それ以上の社会への責任を果たしうるのです。そして、私たちが自分たちの将来や健康、子孫、社会への影響などを考えながら投資をすることで、私たちの意思を社会に表すことができるのです。/逆に、定期預金などにお金を預けつばなしにしておくということは、選挙時に投票に行かないことと同じで、資本主義に対する責任を放棄している、とまでいえるのかもしれません。(p.215)
日本は、すでに高度経済成長は一段落した成熟した国になつています。そして、このような国はこれまで通りの方法では付加価値をなかなか上げにくくなつています。特に、これまで国際的な競争力を持ち、産業全体の生産性を支えてきた製造業での競争がますます激しいものとなっています。このような状況下で無理に競争しようとしても、物価水準や賃金水準が違うため、労働だけで戦えば、長時間労働・低賃金になるのは当たり前の流れなのです。/そして、日本人が持っていてまだ使っていないスキルが、これまで貯めてきた豊富な個人資産です。このような個人資産をうまく働かせることにより、そのお金を持っているということを強みとして生かした方が有利といえるのではないでしょうか。/つまり、競争のために無理に働くよりは、労働時間を減らし、国外投資を含めた効率的な資本の働き方をさせて、国民全体が豊かになる方向を目指す方が現実的だということです。そして、そのためにはやはり、若年層から金融教育を始めること、と同時に、社会人でも継続的に金融と関わっていくことが不可欠となるのです。/そのためには、普段の生活の中で金融に触れる機会を持つことが大切になります。(p.218〜p.219)


★★ 古湯を歩く 松田忠徳
タイトル通りの本。全国の古湯60をそれぞれ4ページで紹介。歴史の紹介もあり、面白い読み物になっている。行ったことがある温泉は、中国・四国9カ所全部、九州10カ所のうち9カ所、関東2か所、甲信越1か所。東の方に行きたい。定年後に行こう。第一候補は、越後湯沢温泉。

★★★ 東京島 桐野夏生
中年夫婦が無人島に漂着、更に二組男ばかりが流れ着いて、というお話。楽しめました。哲学的な解釈が出来そうですが、難しいことは言わず楽しめばいいでしょう。収束の仕方も上手いと思いました。
なことを言いながら気に入った文を一つ:
ものに名前が付けば、意味が生まれ、認識され、世界が確立するものです。(p.83)

★★★ ジーン・ワルツ 海堂尊
タイトルを聞いた時、何のワルツか分らなかったが、本を見ると、"Gene"と書いてあった。遺伝子のワルツ?読むとすぐ説明がある。それにしても、なぜカタカナにしたのか。
内容は相変らず面白かった。今作は、話題の産婦人科問題・少子化問題を痛快なエンターテインメントに仕立てている。お馴染みの人物は登場しなかったが、著者のストーリーテーリングの才能には脱帽である。これはシリーズ化するのかな。

★★ アラブの大富豪 前田高行
アラブの大富豪度に驚くというよりも、石油・天然ガスがあると言うだけでこのような状態になっているということに唖然とした。今まさに石油高騰の時代、産油国の皆さんにこれからどうやったら世の中が良くなるのか考えてほしいと思います。
天然資源(natural resources)と人的資源(human resources)は全く性質の異なるものである。平たく言えば、石油・天然ガスという天然資源は、地下から汲み上げればそのまま市場価値のある売り物になる。しかし人的資源は、長期間にわたって教育と訓練を施さなければ市場価値を持ったものにはならない。もし教育と訓練を怠れば、それは無価値どころかむしろ社会にとってお荷物にすらなる代物である。その一方、天然資源は有限でありいずれ地球上からなくなるが、人的資源は教育と訓練を繰り返せば、常に新しい価値が付加され、無限の資源となることができる。/勿論、産油国もそのような人的資源の長所短所を認識しているはずである。ただ、人的資源の開発には、自らの未来を切り開こうとする本人自身の強い向上心がなによりも必要であり、またそのための忍耐や克己心が必要とされる。今問われているのは、生まれたときから豊かな生活に慣れきった産油国の若者たちにそのような強い向上心や克己心があるか、ということである。筆者の経験から見る限り、少なくとも現在の産油国には激烈な国際競争社会の中に身を晒す自覚のある若者がそれほど多いとは思われないのである。だからといって、産油国の若者たちを非難しょうとは思わない。豊かすぎる社会では、忍耐や克己心、まして更なる向上心を求めることがどれほど難しいか、それは現代の日本で既に、その答えを見ることができる。(p.186〜p.187)

★★★ 海馬 池谷裕二・糸井重里
池谷裕二、三冊目。面白い。糸井重里もなかなかの人物だと思った。
モチベーションのないことをさせると、結局コストがかかる (p.89)

脳は整合性を保つためにウソをつく。(p.101 からの盲点の話)
やる気がない場合でもやりはじめるしかない、やる気を生み出す脳の部分はある程度の刺激が来たときだけ活動する。(p.208)
海馬は寝ている間にその日の情報の整理をしている。(p.214)
強い力で宣言すると、言葉が走っていって、新しい回路を潮流のように生み出してしまうというマジックがある (p.293)
人間の認識は感性も含めて記憶の組み合わせでできています。ですから、創造性も記憶力から来ると言うことができます。(p.305)
脳の中には、宗教をつくる回路が用意されているんです。(p.338)

★★ 歴史学の名著30 山内昌之
タイトル通り、歴史に関する名著を30冊(プラス付録2冊)を紹介した本。著者は相当博識のようだが、ちょっと鼻につく所もある。特に、表現が凝り過ぎである。
32冊のうち読んでみようと思った本:
北畠親房『神皇正統記』、トインビー『歴史の研究』、宮崎市定『科挙』。
日本の施策についても冷静な批判の筆致を忘れていない。ヴェトナム人は死を求めても得られないほど悲惨な状態にあるが、将来の世界にはヴェトナム人という民族はなお存在するかもしれない。他方、いまの台湾人は「嬉々としてその生活を楽しんでいる」にせよ、あと十年もたてば台湾人というものはなくなるのだ。「どちらが不幸でどちらが幸福か、どうして私が知ることができようか」。また、日露戦争後の朝鮮に対する日本の取り扱いを見れば、「第二のヴェトナムのごとき現象」も出ている。同じ日本でありながら、どうして台湾と朝鮮に対する扱いが違うのかという播佩珠の問いは、現代の日本人も深く反省すべき文明論的な問題提起になっている。/それでも播珠は、日露戦争における日本の勝利に、ヴェトナムの将来ひいてはアジアの独立への希望と展望を見出した。「獄中記」には、「旅傾・遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私達の耳にも響いて来た」と、「東風一陣、人をしてきわめて爽快の想いあらしめた一事件」について感想を述べている。(p.196)

★★★ りすん 諏訪哲史
「アサッテの人」の作者が、芥川賞受賞後の第一作を書いたというので、読んでみた。私には意外だったが、そのまんまアサッテ路線だった。初めはガッカリ気味だったが、ダンダン面白くなってきた。
義理の兄妹の会話という体裁で、白血病の妹の入院生活を主に描いてある。が、そんな内容はこの小説の外面にすぎない。これは小説についての小説である。そんな小説が好きな、私のような人には面白いだろう。また一回だけだがベケットに言及される。後堂さんも登場する。これはベケットの、GODOT、に間違いない。たくさん引用したいところがあったが、一般的な面白さではないので一か所だけ。
『人称とは,あくまで小説における主観の位置であり,主観が自分なら一人称,相手なら二人称,第三者なら三人称となる。では‥この小説「アサッテ問答(仮題)」は何人称か。「三人称の」が二人(=兄妹)いるのか。聞き書きする姿なき「影の(=作者)」が主観なのか? 横光風な四人称、折口・ベケット風な非人称、もしくは無人称さえ、これを十全に定義しうるとは思えない。そもそもこれは小説なのか。純粋小説の目指す場所とは、ついに小説の墓場に他ならぬのか。』(p.91〜p.92)

★★★★ 【対論】言語学が輝いていた時代 鈴木孝夫・田中克彦
県立図書館の新着図書を展示する棚にあった。鈴木孝夫の本を数冊読み面白かったので手に取り、目次を見て読もうと思い借りた。言語学を超えた、とてもとても興味深い本だった。
雨→春雨・小雨[ame→harusame・kosame]
青→真っ青[ao→mas
sao]
朝→三朝[asa→misasa](p.55〜p56)
動物って意外にもばかなことをしない、最もばかなことをするのは人間である (p.73)
人間は例外的に本能を失った動物なんです。そこで進化の過程で失った本能を、次々と補ってきた。何で補ったかというと,それは文化で補ったのです。だから人間は文化で生きる動物。(p.74)
別の新しい環境の中に移った人間が変化しないで前のままでいられるのは、文化がその変化に対応して変化するからです。(p.81)
サーベルトラに見られたように、牙が大きくて太ければほかよりも獲物が余計に取れるという自分の得意な点を、どんどん進化によって大きくすると、ついにその牙が大きくなり過ぎて、損益分岐点を超えたときにはマイナスが増えてくる。人間の場合は最高の武器は肉体ではなく、脳という武器でこれだけで万物の王者としてほかを虐げて頑張ってきたんだけれども、もう損益分岐点をとっくに超えている。(p.83)
古代中国語、古代ギリシャ語・ラテン語、サンスクリットとアラビア語以外に、抽象概念の骨格を供給し得た言語というのは、私の知る限りない。(p.127)
半分は自然、肉体、生理を扱いながら、半分はものすごく抽象的な世界にかかわっているでしょう。自然と人工の両方に跨った、世にも奇妙で絶妙な、最も人間らしい矛盾に満ちた領域を扱っている。だから言語学はなかなかやりにくい。(p.255)

★★ 人事はどこまで知っているのか 岩瀬達哉
最近流行りのタイトルの付け方、にちょっと騙されたか。もっとドロドロした話を期待していたが、ほとんど想像の範囲内であった。それでも最後まで読めたのは一応まともなことが書いてるからだろう。といっても人に薦めようとは思わない。
「STAR」という手法・・Situation,Task,Action,Result,について聞く (p.34)

★★ おかゆ 福田浩・山本豊
サブタイトル、粥・汁かけ飯・雑炊・泡飯と粥のおかず。
福田浩の本、三冊目。発行順で言うとこれが真ん中。
この本は、「四季を味わう日本粥」と「素材で楽しむ中国粥」の二つのパートからなっている。日本粥が福田、中国粥が山本の担当。三冊見ると、さすがに福田パートにはダブりがみられる。
醍醐粥:トロリと溶けたチーズが白粥になじんで不思議なおいしさです。(p.48)
泡飯(パオファン):泡飯はいわゆる即席粥の一種で、ご飯はご飯らしく、スープはスープらしくしているところが従来の粥とは違います。いわば日本の茶漬けに近いものです。(p.120)


★★★ おいしいハンバーガーのこわい話 エリック・シュローサー
予測の範囲内のこともあったが、それ以上に凄い内容の本だった。全てが経済効率だけで動く世の中になったのだろうか。食べ物ではなく工業製品を作っているようだ。今年初めに見た「いのちの食べ方」という映画を思い出した。怖いのは、子供が一番の犠牲者だということだ。そして、物言わぬ動物達。人は傲慢になり過ぎた。人は地球を構成する一員であって、独裁者ではない。人は滅亡へ突き進んでいる。本当に怖いことだ。
人工香料と天然香料のちがいは、その名前から考えられるほど単純ではない。なにしろ、どちらも同じ工場で作られている。では、何を基準に区別するかというと、実際に含まれる成分ではなく、作る過程であることのほうが多い。天然香料も人工香料も成分はまったく同じで、ただ作られる方法がちがうだけ、という場合もある。たとえば、バナナ味のもととなる酢酸アミルは、バナナから作れば天然香料になる。ビネガーにべンタノールと硫酸を混ぜて作ると人工香料。どちらの方法で作っても、まったく同じょうにバナナの匂いがする。(p.116)
広く使われている着色料の原料には、思いがけないものがある。たとえばコチニールユキス(カルミン、またはカルミン酸とも呼ばれる)は、おもにペルーやカナリア諸島で獲れる小さな虫の死骸から作られている。このえんじ虫(コチニールカイガラムシ)のめすは、サボテンの葉を好んで食べるので、その体や卵にサボテンの色がたまる。えんじ虫を集めて乾燥させ、粉にすると、着色料になる。およそ七万匹の虫から約四五〇グラムのカルミンが作られ、加工食品をピンク色や赤色や紫色に染めるのに使われる。(p.121)

★★★ Meshi 飯 福田浩
「変わりご飯」(16程↓)の著者による最新版。見開きの片方に写真、もう一方に解説。
海籐花飯、旨そ!海籐花(かいとうげ)とは、蛸の卵の塩漬け。岩棚や岩穴の天井に産み付けられた卵塊のぶら下がった様が、藤棚に下がる藤の花のようなのでこの様な名前がついた。(p.74)
骨董飯。骨董とは古道具のこと、色々な物の寄せ集めの意味。五目飯よりいい呼び方ではないか。十種類ほど出ているがどれも豪華で垂涎。(p.135〜P.156)
曙鮓、タラコを適量の酢でほぐしご飯に混ぜたすし。(p.164)
あとがきに書いてある、愛知県にある稲田を庭とする懐石料理の店、行ってみたい。

★★★ 竹内敏信の熊野古道 竹内敏信
写真集です。最初の写真が『尾鷲湾払暁』、写真もタイトルも素晴らしい。
写真で見えている石畳は氷山の一角である。実はこの下には数メートルにも及ぶ石組みがなされているのだ。熊野市の松本峠の石畳道は厚さが5メートルもあり、その構造がよく判る場所が随所にみられる。(p.103) 残念ながらその場所の写真はない。しかし、石畳の石は黒光りがしていてとても魅力的だ。行かねばならぬ。

★★ 「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 山田真哉
この本の1ページは、1行38文字×14行、岩波新書は、1行42文字×17行、全部文字が埋まっているならば、532文字対714文字。1ページで182文字も違う。この下巻も、1時間で読めることを目指した (p239) とあるが、こんなことを目指してもなんの意味のない。上巻と一緒にした方が読む方にとってはとても便利である。本を作る方の金儲けとしか思えない。さすがに会計の本である。
内容的にも一冊の新書に収まるぐらいのものだろう。
食い逃げされてもバイトは雇うな、は会計的には正しい。しかし、ビジネスは会計的なものだけで成り立っているのではない。だから、食い逃げされてもバイトは雇うな、は大間違いである。なるほど。
すると、この本の出版は、会計的には正しいが、ビジネスとしては邪道である。

★★ ハリウッド100年史講義 北野圭介
ハリウッドは元来、必ずしも相容れない二つのベクトルを抱え持っていました。利益追求と文化の創造という、共同歩調をとることもときたまあるものの、基本的には対立することの多い二つのベクトルです。(p.173)
映画産業の基幹は、制作中心の経営から広い意味での配給ビジネス中心の経営になっていったのです。それは今日まで続いている傾向です。(p.235)
映画なるものは、多くの社会的な諸力の中で重層的に決定(アルチュセール)されるのであり、それら諸力が変化すれば、映画自体のかたちも変化する (p.259)

映画には色々なものがあってもいい。ハリウッド映画はその一つではあるが、最近魅力がなくなっていると思う。利益追求に走り過ぎではないか。だから、変な映画がアカデミー賞を受賞する。この本を読んで改めて確信したが、ハリウッドは、そしてその影響下にある多くの映画は、本来の映画が進むべき方向とは違った方向に行っていると思う。
映画は、芸術というものは、現実に働きかける力が必要だ。

★★★ ピアノはいつピアノになったか 伊東信宏
梅田のフェニックスホールでの8回に亘るレクチャーコンサートの記録。
年代順にピアノの発達が述べられている、興味深い本だった。それぞれの時代のピアノと作曲家を各回で論じ、現代の視点からではなく、当時の立場で考えているのが、ある意味新鮮だった。レクチャーコンサートの方はこれに演奏があったのだから、きっととても楽しいものだったのだろう。第8回の自動演奏ピアノを巡って、はピアノの将来を論考し、ピアノとは何か、音楽とは何か、を考えさせる示唆に富むものだった。
それぞれの時代のピアノがその時代の影響を受けたのはよく分かったが、ピアノが、そして音楽が、時代に与えた影響についても書いて欲しかった。

★★★ シェイクスピアのたくらみ 喜志哲雄
著者は英米演劇の専門家で、学生時代に著書や訳書をよく読んだ。直接習ったことはないが、同じ空間にいた時期があったはずだ。
この本は分かり易く書いてあるが、言わんとすることは以前と同じで、演劇の構造を中心に作品を分析している。実に久しぶりにシェイクスピアした。演劇を見に行きたくなった。
「人生は夢」という考え方は、「人生は芝居」という考え方、たとえば『真夏の夜の夢』の根底にあった考え方に通じる。「人生は芝居」という考え方によれば、世界は劇場であり、人間は俳優なのである。もちろんこれは世界や人間存在の虚構性を正面から認める考え方である。そしてそれは、『あらし』 のような劇において展開されると、劇の虚構性を認めるように見えて、実は劇の現実性を主張する考え方に転化する。確かに劇は虚構だが、それはいわゆる現実よりもはるかに現実的なものなのだ。(p.201〜p.202)

★★★ 流星の絆 東野圭吾
482ページの推理小説、ほぼ一気に読めました。タイトルになっている流星の使い方が特に上手いですね。意外性はあるが、違和感を感じることはあまりなく、細かいことは気にせず、ある意味安心して読めるものです。エンディングもエンタテインメントとしては申し分のないものでしょう。余りにパチパチパチの結末ではありますが。

★★ いつまでもデブと思うなよ 岡田斗司夫
健康志向の本・ダイエットの本はたいてい実行不可能に近いことが書いてある。書いている本人には簡単なことでも、他の人にはそうではないのだ。この本も同様、記録をつけるだけ、だけ、といっても簡単ではない。そして結局はカロリーを減らすということには変わりがない。ダイエットは摂取カロリーを減らす、これしかない。それをどうするか、各自の必要度に応じて自分で考えるしかないであろう。
見た目・印象を形作るのは、三つの層に分類される。/第一層「肉体そのもの」/肉体は体格と体型に分けられる。・・・第二層「ファッション」・・・第三層「言動」 (p.54〜p.55)
「太っている」という状態は、絶対に「太り続けるような行動」を毎日取らないと維持できない。(p.103)


★★★ 反米大陸 伊藤千尋
中南米の国々がアメリカ合衆国に抵抗し始めていることを書いているので、このタイトルがついている。しかし、この本の内容の大部分は、これまで如何にアメリカが中南米の国々を搾取してきたかと言うことである。そして、そのやり方を所でも使っていることを検証している。アメリカの本音の部分を抉り出していると言っていいだろう。ソ連の崩壊後、唯一の超大国となったアメリカは、危険な国であることは間違いないと思う。政治・経済が単一の価値観で進むのはとても危うい。自由主義経済もグローバル化もちょっと立ち止まって考え直す時期ではないだろうか。この本はもっと広く読まれるべきものだ。
キューバについて、一般のアメリカ人や日本人が知っている情報の大半が、アメリカのホワイトハウス発表や、アメリカのテレビの偏った報道による悪意に満ちたものだ。キューバを訪れた日本人の多くは、これまで聞いていた情報と、自分の目で見た現実の違いの大きさに驚いている。(p.191)

★★ 「夜のオンナ」はいくら稼ぐか? 門倉貴史
タイトルで惹き付けておいて、ちょっとは真面目な話をしよう、という意図のようだ。しかしこれは中途半端に終わっている。様々な職種の稼ぎをマクロで推計しているが、根拠に疑問が残るしそもそもその目的が不分明である。また、夜に働く主婦まで『夜のオンナ』に入れるのはちょと無理ではないか。更に、彼女たちの金の使い道まで探っているが、伝聞推測でしかないだろう。このような話は一般化せず、興味本位の話題にはなるが、個別の具体例を挙げたほうが面白く、俗物〔私〕の下世話な興味を引くと思う。その意味で、楽しく読めたところもあった。

★★ ニッポンの大学 小林哲夫
辞書事典、地図、グルメ本、以外は購入しないことにしているのですが、この本は買いました。理由は、線を引きたくなったからです。2月末からほぼ2ヶ月、のんびり読みました。よくこれだけ調べたものだと感心しました。偏差値以外のものさしで大学を評価したい。(p.3) というのがこの本の意図です。著者も書いていますが、この本の中に書いてあるランク、本当に大学の実態を表わしているのかは疑問です。しかし、面白い試みだと思います。楽しめました。
大学、高校、中学が成果主義と市場原理に振り回されている。日本の教育は大丈夫だろうか。(p.127)
ビジネススクール、金儲けの方法を身に付けさせる、一橋大は国立大学法人、一個人・一私企業に税金を使って金儲けの方法を教える、だから授業料は私立並みに。(p.206)
内田樹の寄稿文:
大学の研究機関としてのアクティビティはランク付けが可能であるが、教育機関としてのアクティビティにはランク付けが困難だ (p.251)
教育機関の目的を、数値的・外形的に表示可能な知識や技能のある水準をクリアーさせることだと考えている教師たちは、(すべての学生がきわだって優秀である場合を除いて)その労働時間のほとんどを不満といらだちのうちに過ごさなければならないだろう。だが、つねに学生学生に対する不満といらだち責められているナーバスで不機嫌な教師から学生が学び取ることができるのは「常に不満といらだちに責め立てられているナーバスで不機嫌な人間」の生き方だけである。/それは不幸な教育環境だろうと私は思う。/学生たちが学校で学ぶべきもっともたいせつなことは、「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高いということである。その教えの真実性は、現に教師自身が深い知識や高度の技能を有しているせいで幸福に生きているという事実によってしか担保されない。そして、教師ひとりひとりの「幸福に生きている」仕方はひとりひとり異なっており、どのような汎通的基準によっても数値化・序列化することができないのである。(p.252〜p.253)


★★ 生きさせろ! 雨宮処凛(かりん)
「生き地獄天国」という本を読んで、この著者に興味を持った。それほどの衝撃は受けなかったが、著者が自らの人生を切り拓いて行っているという感じを受けた。社会主義の衰退、グローバル化の伸展、価値観の多様化、難しい問題ばかりだが、今世の中がいい方向に向かっているとはとても思えない。著者のような若者の活躍を期待しよう。
なぜ、日本の若者は暴動を起こさないのかという言葉をよく聞く。/暴動はすでに起こっている。散発的に、暴発という形で。/すでにひきこもりと呼ばれる一〇〇万人が、労働を拒否して立てこもっている。ニートと呼ばれる八五万人が、無言のままにストライキを起こしている。(p.8)
クリーンルームは気圧が高くしてあるんです。全然埃がなくて、そこがきつい場所だというのはなかなかわからない。五感で気づきにくいからです。機械が一番嫌う埃だけをシャットアウトしている部屋です。機械優先ですから人間に害のあるものは二の次になっている部屋です。(p.175〜p.176)
僕が必要だと思うのは、ただ生きているだけでいいんだって、自分が思えることだと思うんです。(p.203)
「思う」が多い文だがいいですね。ただ生きてるだけでいいんだ、って自分で思えることが大切です。

★★ 僕はパパを殺すことに決めた 草薙厚子
どう表現したらいいのだろう。興味を持ってグングン読んだ。しかし、これはやはり覗き趣味ではないだろうか。著者があとがきに書いている。できれば改めて家族のあり方を考えてほしい。子どもはけっして親の所有物ではない。そのことに気付くだけで、避けられる「次の悲劇」があるかもしれない。(p.253) この父親は異常である、これは間違いない。子どもは広汎性発達障害だそうだ。最近よく聞くようになったアスペルガー障害を含む、生まれつきの資質に基づく発達障害のことである。これは彼が犯した罪とどのように関係付けることができるのか。覗いてはいけないものを覗いてしまったような気持ちになった。被害者と加害者がグチャグチャになったこの事件、一般化することはできないのではないか。

★★ レクサスとオリーブの木(下) トーマス・フリードマン
長い中断のすえ、やっと読了。面白くなかったという訳ではなく、図書館で予約した本が次々に到着し、そちらを優先して読んだからである。しかし、その間に読んだ本、「ルポ貧困大国アメリカ」、「アメリカ下層教育現場」、「アメリカの原理主義」、の内容と、この本の内容は相反する。この本は基本的に、アメリカ人によるアメリカ礼賛である。そして、グローバル化が不可避ものとして捉えられている。著者は、『オリーブの木』の大切さを口にはすることはあるが、圧倒的に『レクサス』に比重を置いている。結局最後まで納得できない部分が残り、根本的にグローバル化の是非の議論、長所短所の検討の必要性を感じた。別の言い方をすれば、人は本当のところ何を求めているのか、を考えなければいけない。
一九九九年の半ばの時点で、マクドナルドを有する任意の二国は、それぞれにマクドナルドができて以来、互いに戦争をしたことがない。(p.8)
“紛争防止の黄金のM型アーチ理論”・・・当理論では、ある国の経済が、マクドナルドのチェーン展開を支えられるくらい大勢の中流階級が現われるレベルまで発展すると、そこはマクドナルドの国になる、と規定する。マクドナルドの国の国民は、もはや戦争をしたがらない。(p.9)

最初のグローバル化時代、すなわち世界がはじめてグローバルな資本主義の創造的破壊を経験した時、反動勢力は、最終的に、まったく新しい複数のイデオロギー――共産主義、社会主義、全体主義――を生み出した。(p.119)
同じものを大量に作っていたころは、日本人は世界の権威であったし、われわれは同質性をすばらしい才能だと誤解していた。だが、今の世界は、同じものが大量に求められているのではない。(p.157)
わたしたちの好むと好まざるとにかかわらず、グローバル化はより高い生活水準を求めるけた外れに大きい人間の欲求と、日々いっそうわたしたちを結びつけるけた外れに強力な技術によって、推し進められている (p.200)


★★ 新左翼とは何だったのか 荒岱介
著者は、45年生れ、ブントの活動家。安田砦などの闘争で3年ぐらい臭い飯を食う。現在は方向転換をしているようだが、何をしているのか何を考えているのか理解できない。
この本は、旧左翼から新左翼が離れていく辺りから書いてある。部外者から見れば偏った見方だという批判が出るだろう。しかし、関わった側から見るとナルホドと言ったことが多々ある。ただし、今このような本の存在価値がどの程度あるのか。関係した人間の懐古趣味と言われても仕方ないような気もする。ということで、私にはまあまあ面白い本だった。バスなどに閉じ込められる時間の長かった日に一気に読んでしまいました。
全共闘的なものとは、自分の変革をかけた正義をめざす闘いだった (p.97)
〔七〇年安保闘争〕以降、運動はけっして下火になるわけではありません。党派離れした新しい社会運動が次々と生れていったのです。女性解放運動、部落解放闘争、アイヌ解放闘争、沖縄闘争、障害者解放闘争、反天皇制運動など、イシュー(論点)をねぐる闘いが開花していき、党派の領導する全学連運動などからは、大衆的【的は誤植か?】は次第に離れていきました。(p.109〜p.110)
ある意味では、サブカルチャーとしての新左翼運動、全共闘運動が、あまり深く考えない人でも参加できる運動をつくったという側面があったのではないかと、今では思い返されます。ついでながら、当時の社学同には「♪ゲバ棒持ったら日本一の、夢は大きな世界革命、理論はないけど元気な笑顔、プロレタリアの味方する、♪頑張れ、強いぞ、僕らの仲間、赤ヘル社学同」(元歌は「赤胴鈴の助の歌」)というのがありました。(p.148〜p.149)


★★ アメリカの原理主義 河野博子
唯一の超大国アメリカの保守回帰を考える本。著者は現在、読売新聞の編集委員。過去二回のアメリカ勤務、それ以前の留学体験、を踏まえ分析している。宗教と右翼の結び付き、自らを選ばれた民だと思うこと、復活する過去の偉人たち、などなど、状況は日本と似ている所があると感じた。大きな違いは、宗教の強さ、そこから出てくる、中絶反対・同性愛拒絶、などで、自由の国アメリカが自由でなくなっているという印象を持った。9・11は外から見るよりも遥かに大きな影響を与えたようだ。
仏教や神道をベースにした日本社会は性により寛容で、しかも個人的なこととして片づけられ、政治問題に発展することは少ない。(p.127〜p128)
リンカーンは、『神はわれわれの側にある』と言ってはいけない、と述べた。それは、自分たちが絶対不滅であると自信過剰に陥り、危険な外交政策を取ることにつながるからだ。リンカーンは、それよりも、真摯に祈り、われわれが紙のそばにあるかどうかを心配せよ、と言った。(p.200〜p201)
当然、自分が神の言葉を聞き、それに従って米国、ひいては世界を導いていると思えば、現実に基づいた分析や検証は必要なくなる。サスキンド氏のレポートは、ブッシュ大統領及び政権の「現実から学ぶ姿勢の欠如」がそうした「信仰」の帰結である、と示唆して人々に衝撃を与えた。(p.213)


★★★★ 生物と無生物のあいだ 福岡伸一
これは名著である。勿論内容が面白い。なるほどという結論がある。それにいたる説明が論理的である。実験の解説などは実際に自分がやっているような臨床感がある。背景の叙述が生き生きしていて本題を引き立てている。自分のこともうまく挿入して研究者の生活を明らかにしていて興味深い。そして文章がうまい。科学が進み過ぎた現代、この本は一つの指標になると思います。
生命とは何か?それは自己複製を行うシステムである。(p.4)
博士号とかけて足の裏についた米粒と解く
そのこころはとらないとけったくそ悪いが、とっても喰えない (p.84)

平均から離れて例外的な振る舞いがおこる頻度、平方根の法則。(p.142)
生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。(p.143)
空が海に溶け、海が陸地に接する場所には、生命の謎を解く何らかの破片が散逸しているようなきがする。だから私たちの夢想もしばしばここからたゆたい、ここえ還る。(p.152)
生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである。(p.154)
マンハッタンで絶え間なく発せられる音、地下深くにある厚い巨大な一枚岩盤まで潜っていき跳ね返ってくる音、人を鼓舞するニューヨークだけの振動。(p.204〜p.206)
ドミナント・ネガティブ現象/タンパク質分子の部分的な欠落や改変のほうが、分子全体の欠落よりも、より優位に害作用を与える。(p.266)
機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。/生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。(p.271)
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。(P.272 本文の最後)
私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。(p.285 エピローグの最後:つまり本当の最後)

★★ 明日の広告 佐藤尚之
この本の著者、ネットの世界では「さとなお」という名で知られている有名人である。それで読んでみようと思った。彼の本職の広告が、ネットの普及でどうなるかということについて書いている。スラムダンク一億冊感謝キャンペーン、を如何に成功させたかと言う話がとても面白かった。ただし、これは普通の広告とは違うと言う点で、成功といえるか、そもそもその範疇で捉えていいのか、少し疑問が残った。
いずれにせよ、この本は読者を惹きつけるものを持っている。これからの社会がどの方向に行くのかを示唆するものがある。

★★ 変わりご飯 福田浩・島崎とみ子
サブタイトル:〔江戸の料理書に見る変わりご飯、汁かけ飯、雑炊、粥〕
全199ページのうち、初めの76ページが色々なご飯のカラー写真です。ご飯には様々な調理がほどこされていて、とてもカラフル、器がまた素晴らしいものが使ってあり、垂涎夥しいものがあります。その後には料理解説、つまり調理法が書いてありますが、飛ばし読み、最後に少し米やその料理ついての解説があります。
同じ著者の「飯」という本を検索していて、この本を図書館で発見し読んだ、と言うか、眺めたという次第です。ほとんど食べたものはなく、どれも食べてみたいと思うものばかりですが、特に、薩摩芋を入れほうじ茶で炊く甘藷茶粥(いもちゃがゆ)を食べたいと思いました。

★★ RUN 小宮良之
サブタイトル:流浪のストライカー、福田健二の闘い
2月10日、寝ようと思ってリビングに行ったら、家族がテレビを見ていて、ちょうど『情熱大陸』が始まったところだった。サッカー選手福田健二についてだった。30分弱見てしまった。次の日の新聞に、タイミングよくこの本の広告が出た。早速図書館に予約。
本の内容はほぼテレビと同じだが、200頁ちょっと、フラッシュバックを使って彼の30年の人生が余すところなく描かれている。不器用だが実直な生き方だと思う。このような生き方をする人間が増えれば世の中がよくなるだろう、と思わされた。

★★ 食い逃げされてもバイトは雇うな 山田真哉
さおだけ屋はなぜ潰れないのか、はまあまあ面白かったが、この本を読むつもりはなかった。さおだけ屋と違って、答えが想像できたからだ。しかし、続編があり、そのタイトルが、「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い、と聞いてちょっと読んでみようと思った。まあまあ面白かった。サブタイトル、禁じられた数字(上)。(下)が楽しみ。

★★★ 交響曲第一番 佐村河内 守
著者は作曲家である。高校時代から様々な病気に苦しみ、20代で耳が聞こえなくなり始め、35歳で全聾となった。ゲームソフト「鬼武者」の音楽が素晴らしいようだ。全聾になってからの作品である。全聾になってからの方が積極的に作曲に取り組んでいるようだ。何れ作品を聞いてみよう。
著者は被爆二世である。本人は書いていないが、様々な病気の原因はここにあるのではないだろうか。病状については書いてあるが治療についてはあまり書かれていない。親に対する気遣いだろうか。
壮絶な半生である。ずべてに圧倒される。

★★ アメリカ下層教育現場 林壮一
著者はアメリカ在住のスポーツに関するノンフィクション作家である。恩師に頼まれてチャータースクールで20名ぐらいの生徒に日本文化を教える教師をやり、主にその体験を書いた本である。チャータースクールとは、公立高校ではあるが、従来の公立高校とは次の五つの点で異なっている。●おおよそ誰にでも学校を創設できる。●ほとんどの州及び地方の諸規則の適用を免除され、運営は基本的に自律的である。●家族が選択して、その子どもたちを通わせる学校である。●そこを選んだ教育者たちが教職員となる。●満足な成果を上げなければ閉鎖されることに従わなければならない。
元々の設立意図がどうであれ、現在は底辺の生徒を受け入れている学校である。状況は日本とほぼ同じといえる。その後、ユース・メンタリングという、一対一で若者をサポートするボランティア活動にも参加する。経済や教育の格差が広がり、アメリカの場合は更に人種差別が加わる。絶望的な状況だが、著者の奮闘は素晴らしい。勿論大きく状況を変えることは出来ないが、彼のような活動が世の中を少しずつ変えていくのだろう。

★★ 昭和天皇 原武史
著者の立場が今ひとつよく判らないが、それにしても、昭和天皇の戦争責任について考えさせられた。やはり彼は何らかの形で責任を取るべきだったのではないか。恐らくそのため、結局アメリカの意図も中途半端に終わり、今の日本も主柱のない建造物のようになってしまった。
明治天皇が宮中祭祀そのものを、「創られた伝統」と見なしていたことが考えられる。祭祀を「国体」の根幹と見なす後期水戸学の影響のもとに宮中祭祀が確立されるのは、前述のように明治になってからであった。京都に強い郷愁を抱いていた明治天皇は、自らの在位中に東京で宮中祭祀という「にせの伝統」が創られてゆくことに対して、どこかしら冷めた感情を持っていたように思われる。もっといえば、明治天皇には東京を正式な首都と認めたくない感情があったのではないか。(p.25)
現天皇は、「お濠の外側」では護憲を公然と唱えながら、「お濠の内側」では現皇后とともに、宮中祭祀に非常に熱心である。その熱心さは、古希を過ぎてもー向に代拝させないという点で、昭和天皇を上回っている。日本国憲法の理念でもある平和を「神」に祈るというのは明らかに矛盾を含んでいるにもかかわらず、最晩年の昭和天皇が「やすらけき世を祈りしもいまだならず」と悔やんだ思いは、次代の天皇に着実に受け継がれている。祭祀は「創られた伝統」なのだから、減らしても宮中の伝統そのものを否定することにはならないという見方ほ微塵もない。/それとともに、現天皇と現皇后は、皇太子(妃)時代から、広島や長崎ばかりか、沖縄や硫黄島、サイパンなど、戦後の昭和天皇が訪問できなかったかつての激戦地へ、慰霊のための訪問を繰り返してきた。そして過去の戦争や植民地支配に対しても、昭和天皇よりも踏み込んだ言葉を口にするようになっている。/昭和はまだ終わっていないのである。(p224)


★★★ ルポ 貧困大国アメリカ 堤未果
衝撃的な内容だった。これはアメリカだけの問題ではなく、このままではいずれ日本にも起こることであると思われる。民営化というわけの分からないことでの、弱者切捨ては日本でもどんどん進行している。医療・教育の民営化は、アメリカで深刻な事態を発生させている。この本を読んでいると暗澹たる気持ちになる。社会主義が消滅してから、資本主義が自由の名の下間違った方向へ突っ走っているのではないだろうか。
「サブプライム問題」は単なる金融の話しではなく、過激な市場原理が経済的「弱者」を食いものにした「貧困ビジネス」の一つだ。(p.6)
暴走型市場原理システム (p.9)
経済的に苦しいシングルマザーの言葉:イラクや北朝鮮で非情な独裁者が国民を飢えさせていると大統領は言いますが、あなたの国の国民を飢えさせているのは一体誰なの?と聞きたいです (p.30)
盲腸手術入院の都市別総費用ランキング(AIU Data 2000)(平均費用と平均入院日数)
1.ニューヨーク(243万円・一日) 2.ロサンゼルス(194万円・一日) 3.サンフランシスコ(193万円・一日)4.ボストン(196万円・一日) 5.香港(152万円・四日) 6.ロンドン(114万円・五日)
因みに日本は、四五日入院しても30万円を越えることはない。(p.66〜p.67)
アメリカ政府は国の付属機関を次々に民営化していった。・・国の仕事は軍と警察以外すべて市場に任せるべきだ・・さらに、戦争そのものを民営化できないか?と考えた。この「民営化された戦争」の代表的ケースが「イラク戦争」(p.146)
「個人情報」を握る国と「民営化された戦争ビジネス」に着手する企業との間で、人間は情報として売り買いされ、「安い労働力」として消費される商品になる。戦死しても名前が出ず数字にすらならない、この顔のない人間たちの「仕入れ先」は社会保障削減政策により拡大した貧困層、二極化した社会の下層部だ。たとえ一国内であれ地球全体であれ、格差は拡大すればするほど戦争ビジネスを活性化させ、そこから出る利益を増大してくれる。/現在、戦争請負業界で、イラクは「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれている。(p.188)

★★ 女になりたがる男たち エリック・ゼムール
フェミニズムの誕生以降に何がおこったのか、われわれ男がどう変わったのかを理解するのがこの本の目的だ。(p.5〜p.6) 著者の主張は、男女の役割分担がうまく行っていたのに、女権運動によってバランスが崩れ、男にとって、そして女にとっても不幸な時代が訪れた、ということである。いや、男にとっては責任が減っていいのかもしれない。表現にレトッリクを駆使し、アイロニーも満載で、読んでいて面白いが、著者と異なる意見を持つ人には頭に来る本だろう。しかし、どちらの意見の人ももっと真剣に考えるべき問題だと思う。
「男よりも劣っていると本能的に知っているのでなければ、女は身を飾る才能など必要としないだろう」とはニーチェの言葉。(p.39)
股間の重荷からやっと解放され、嬉しくて仕方がない男たちは女性化を止めようとはしないだろう。たとえ、その先に待ち受けているのが、服従と屈辱、不幸といった運命だったとしても。(p.164)

★★★ 容疑者Xの献身 東野圭吾
この著者の本は十冊ぐらい読んでいる。どれもおもしろいが、この本は今までのものに劣らずよくできている。現実にはいないであろう、ある意味理想の人格ばかりが登場し、下手をするとリアリティがなくなるのだが、うまくバランスを取り、不思議な世界を作り出している。どの人物にも同化でき、読後に素晴らしいカタルシスが得られる。

★★★ 死因不明社会 海堂尊
作者はあの「チーム・バチスタの栄光」などを書いた作家です。同時に医者でもあります。彼の作品にしばしば登場する、Ai (オートプシー・イメージング)、ひろく言うと、死亡時医学検索、を推奨する本です。彼の主張は明快で説得力があります。
本のタイトルのように、いま日本では人の死因がハッキリしていないようです。私も義父の死のときに経験しました。医者が、死亡診断書の死因に「・・・」と書いておきます、と言ったのです。正確な死因を判定できないのです。ただ、死んでしまった人の本当の死因が分かっても今更どうなるものでもないとも思いました。しかし、著者はそれではいけないと言います。死因が分からないということは、それまでの治療が良かったのかどうかという検証が出来ていないという事になり、ひいては医学の進歩を妨げるということにも繋がるのです。
更に、異常死の場合、多くの問題をかかえています。日本の死体の解剖率は2%台で、変死体の場合でも9%だそうです。つまり、9割以上の変死体は目で見ただけで死因を判定されているということになり、かなりの犯罪が見逃されている可能性があります。
といっても解剖には抵抗がある。そこで、Ai です。死体を“CT”や“MRI”で見るのです。いろいろ克服しなければならない課題もあるようですが、少しづつその方向に進んでいるようで、最後に具体例が少し示されています。

★★★ レクサスとオリーブの木(上) トーマス・フリードマン
レクサスはトヨタの高級車、オリーブの木は土地・文化・民族の象徴、国境を越えた最新技術の集結と古来の伝統的価値への固執という二つの要素で現代社会を分析する。
コンピュータからいくつかの簡単な類似例(アナロジー)をひいて(p.200)、の説明が面白い。
国をコンピュータの三つの要素にたとえる。まず「ハードウェア」。冷戦システムの間ずっと、世界には三種類のハードウェアが存在していた―自由主義ハードウェア、共産主義ハードウェア、これら両方の特徴をあわせ持つ混合(ハイブリッド)ハードウェア。ふたつ目の要素はハードウェアに用いる「オペレーティングシステム」。共産主義国の基本オペレーティングシステムは中央計画。混合の国では社会主義、自由市場、国家統制経済、縁故資本主義の多様な組合せ。自由主義には大きな産業資本主義のシステム。最後に「ソフトウェア」。法規の範疇にだいたい収まるすべてのもの。冷戦時代の大きな争点はどのハードウェアが世界を支配するかだった。冷戦システムの崩壊後、世界中が同じ基本ハードウェアになった。しかし、オペレーティングシステムやソフトウェアが欠如している。
まだ半分だが、ナルホドという部分と、「?」という部分がある。著者の価値観が明確に表現されていない点が、読んでいる側に不安定な感じを与える。後半で解決するか?

★★ 京都炭屋おもてなしはお茶の心で 聞書き 笠井一子
炭屋の先代夫婦、堀部公允・恵美子、現女将・寛子の語り。
京都で泊まってみたい宿、左京区の北・花背にある「美山荘」、市のど真ん中にある「俵屋」、「柊家」、それとこの本の「炭屋」。この本を読んで、益々行きたいと思う反面、世界が違うという気にもなった。特に先代の亭主は全く違う世界の人で、サービス業に従事していたとは思えない。現女将の話は時代の変化に戸惑っている老舗の苦悩が出ていた。
さて、何時か泊まることができるだろうか。

★★ 人のセックスを笑うな 山崎ナオコーラ
この作家、この作品、ずっと気になっていた。映画化され近々公開されるというので見に行こうと思っていたら、同僚が本を貸してくれた。これでもう映画にはいかないだろう。面白くなかったというのではなく、本で読んでしまったものの映画は見る気がしないということだ。
小説そのものは、名前から勝手に持っていたイメージとは違って、フツーだった。女が男の一人称で書いたというのは珍しいような気がするが、過去に例があるのだろうか。一時期女流作家をよく読んだ時期があったが、そのようなものはなかったような気がする。そして、女性が描く女性というものが面白かったが、この作品の女性は私の理解を超えていた。
自分に何ができるか、何ができないか、何が誇れて、何が欠陥か、そんなのはどうでもいいじゃないか。世界は広く、たくさんの問題に満ちている。とても辛い状況で、なんとか生きている人もいる。「自分がどうの」などと考えて過ごしているのは、富に満ちている国での怠慢だ。(p.45)
恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ。オレのファンタジーにぴったりな形があるわけではない。そこにある形に、オレの心が食い込むのだ。(p.62)

★★★ 脳で食べる 井上勝六
この著者、ものすごく博学である。医者であるからその方面のことは当然としても、文系的なことにも精通している。読んでいてとても為になったし楽しかった。引用したいところがたくさんあるが、膨大なものになるので以下に少し、といってもいつもより多いが、引用・要約を載せておく。***** 以下
内容は、「病気にならない生き方」に通ずるものが多いが、より綿密に多方面からのアプローチがなされている。しかし、一般受けはしないだろう。ナルホドと仕組みを理解しても実生活でどうするのか、となると困ってしまう。「病気にならない生き方」はその辺りをスパッと言っている(ように見える)のでベストセラーになったのだろう。
***** ***** ***** ***** ***** ***** ***** ***** ***** *****
「羊」がまるくまとまって「群れ」、羊の頭数は財産を意味したので「(羊の)頭」が語源のCAPITALは資本の意、羊が大きく太ると美しく美味しくなるので「美」、羊羹はもともと煮込んだ羊の皮から出たゼラチン質の固まったもの、精進料理でそれに似せようとして大豆を寒天で固めた、当初の塩味が砂糖に代わって甘くなった、など。(p.4〜p.6)
自然界でグルタミン酸が一番多い食品は、昆布、次がパルメザンチーズ、ほぼ昆布に匹敵。パスタに粉チーズをかける=味噌や鰹節を調味料として使う。(p.27〜p.28)
甘辛いものを食べたとすれば、甘味、辛味をそれぞれ認識しますが、異なった味が増えていくとそれぞれの味の成分の識別は困難となり、それらが融合した複雑な味わいとなります。(p.40)
おいしいものを食べつけると舌が肥えると言われるのは、舌の機能が良くなるのではなく、いろいろな食べ物の味が脳に記憶されるからです。食べ物が脳を刺激し発達させる、つまり食べ物が脳を作る、あるいは口が脳を作るとも言えましょう。そして食べ物の記憶が多ければ多いほど、さまざまな食べ物の味の違いを識別する能力が増し、食卓は楽しく、結果として健康な体が作られます。(p.41)
消化吸収過程で自分の意志でできるものは、食べ物が口の中にある間の咀嚼だけです。食べ物が咽喉を通ってしまえば、後は意志とは関係ありませんから意思によって行われる咀嚼をせいぜい大切にしなければなりません。顎関節の働きでは、他の肉食動物や草食動物より頑丈にできている下顎骨が、前後、左右、上下に自由闊達に動き、いろいろな食物の咀嚼を可能にしてきました。(p.47)
ヒトの必要な栄養素は五〇種類くらいありますが、未精製の穀物にはそのうちの四〇種類が含まれています。また、生命現象を円滑にする必須ミネラルは一七種類ありますが、そのうちの一二種類は穀物から取ることができます。(p.88)
モヤシが英語で sprout (発芽する)といわれるのも、「萌える」から「萌豆〔もやし〕」になったのも、モヤシには生命力があふれているからです。(p.98)
モヤシ―beansprout
ミソの語源は「未醤」(未だ醤にならず)で、やがて「味醤」から「味噌」になったといわれます。(p.99)
肉食を禁じた精進料理では、栄養の偏りがないよう特別の注意が払われましたが、その基本的発想も五味(味の偏りがない)、五色(栄養バランスがよい)、五法「生、煮る、焼く、揚げる、蒸す」でした。(p.104)
従来、栄養素といえばたんぱく質、炭水化物、脂質、ビタミン、ミネラルの五種を指しましたが、食物繊維の働きが再認識され、それが第六の栄養素とされ、ファイトケミカルはそれに続く第七の栄養素と考えられるようになったのです。(p.107)

「品のいい会話は第四の食材である」(p.142)
戦後日本の食の変化:飢餓→豊食→飽食→呆食→崩食→法食(p.161)
母乳は乳房の中の乳胞で作られる―脳下垂体から出るホルモンが調節する―このホルモンは妊娠すると分泌され始め、分娩とともに急上昇する―乳児が母乳を吸い始めると、数分のうちにこのホルモンの血中濃度が二倍から四倍になる―乳児の吸う力が強いほど回数が多いほどたくさん分泌され、母乳の分泌量も増えるー(だから、乳母という存在が可能になる)―母乳哺育は避妊効果がある―子孫を増やしたい貴族が乳母制度を編み出した (p.181)

★★★★ アサッテの人 諏訪哲史
実に久し振りに「文学」を読んだ。歳を取ったが私はこのような作品がまだ好きだということを再認識した。小説を小説にしたような作品、語りを重層構造にして、神の視点を消滅させる、こんなに楽しく読めるとは、作者が上手いのだろう。
この本の中頃、主人公の「叔父」が読んでる本が、なんとサミュエル・ベケットなのだ。なるほど。
大学はすでに長い休暇に入っていた。外は冬の空模様で、僕は自室の炬燵に入り、日がな一日サミュエル・ベケットを読んでいた。(p.107)
余談だが、この部分を読んだ次の日、図書館の棚にベケットの写真がカバーになっている本(写真集)を見つけた。なんと言う偶然。恐らく今は知る人が少ない(だろう)ベケットに二日連続で出会うとは。
引用したいところがたくさんあるが、一ヶ所だけ:
生きること自体が目的だと人は言う。だが個人が生きたいと欲することは、「意志」という宇宙的な欲望の渦の、ほんの一端に過ぎないのだ。僕の「食べたい」、「抱きたい」、「生き続けたい」という当たり前な欲望は人間という種を存続させるための巨大プロジェクトの一環なのだ。さらに、ここでもっとも重要なことは、この「意志」の欲求には最終的に何らの目的もないという一点だ。(p.128)

★★ 病気にならない生き方 レシピ集 新谷弘実・新谷尚子
具体的に著者が食べているものを見るとすごいと思う。そして、とてもできないと思う。いや、やろうという気は全くない。私は、食べたいと思う美味しいものは、少々体に悪くても食べるだろう。そして、珈琲もお酒も飲み続けるだろう。それが生き甲斐のひとつなのだから、止めるわけがない。あとがきに著者(の夫人)が書いている:食事にあまり神経質になるのはいいことではない
結局のところ、このシリーズ4冊を読んで私が始めたこと:浄水器を買って、珈琲以外はほとんど水を飲むようになった。エビの尻尾といったものを食べるようになった。

★★★★ 生き地獄天国 雨宮処凛(かりん)
凄い本である。ほとんど1日で読んでしまった。何が凄いのか上手く言えないが、上手く言えないところが凄いのだと思う。自伝である。25歳の時に出版されているので、当然そこまでのことであるが、凄い人生だ。その人生の出来事を通して、心の動きを実に客観的に、冷静に表現している。主義主張は違っても、深く共感できる。何年後か、何十年後か、彼女の自伝の続きを読みたいと願う。
参考までに本に載っている著者紹介:1975年北海道生れ。10代はイジメと自殺未遂とビジュアル系バンドの追っかけとして生きるも、96年に民族主義に覚醒。「超国家主義『民族の意思』同盟」で女闘志として活動家に。98年には右翼パンクバンド「維新赤誠会」結成、ボーカルを務める。2000年、土屋豊監督のドキュメント映画『新しい神様』に主演。“ミニスカ右翼”の異名を取り、街宣活動や執筆活動、バンド活動を行う。現在、「大日本テロル」ボーカルも務める。
この紹介だけでは右翼のままのようだが、彼女の活動範囲は反対側にも拡がりつつあることがこの本からでも窺われる。そして今現実に多方面で活躍しているようだ。彼女のことをちょっと追っかけてみようと思う。

★★ 三島由紀夫 追想のうた 村松英子
著者の村松英子、私の大好きな女優でした。1938年生れなので、私が学生のころ三十歳位だったでしょうが、知性が輝いているといった美しさでした。この本に書いてあるのはまさにその頃のことで、一言でいうと、三島由紀夫礼賛です。三島由紀夫は村松英子を礼賛していたので、そのこともたくさん書かれています。著者のファンではなかったら鼻に付くでしょう(ファンでもちょっと・・・)。
当時の著者の写真が一杯載っていてうれしかったが、白黒なのが残念。最後に、三島の戯曲の抜粋があるが、中途半端。

★★★ 学歴社会の法則 荒井一博
サブタイトルが、教育を経済学から見直す、となっています。面白い視点で教育を捉えていて、興味深い内容です。特に最後の方のいじめ問題や英語教育については得るところが多々あります。
学歴は情報の非対称性を解消する。(p.42)
大学が学生の能力を高めなくとも、高能力者は大学に進学するのです。(p.49)
資本市場の完全性の仮定 (p.52)

この仮定の下で今の議論が進んでいるから問題が多く発生している。
大学が日本全体にある程度均等に分布している場合よりも、大都市に集中している場合のほうが、女子の進学率は低くなるのです。(p.105)
iいじめを防止・根絶する方法・・・第一は、いじめネットワークに参加する(ネットワークを形成する)便益を小さくすること。第二は、その費用を高くすること。そして第三は、ネットワークを破壊することです。(p.179)
学校教師の社会的地位が医師や弁護士よりずっと低くなっています。しかし元来、教職のほうが聖職に近いと私は考えます。/医師や弁護士は、個別サービスの内容に応じて顧客から直接的に報酬を得るのに対し、教師はそうしないのがひとつの根拠です。授業を受けたり質問をしたりするたびに、生徒が教師にサービス料金を支払うことはありません。また、教師の自宅に電話して指導を受けるときも料金は払いません。推薦状を依頼する場合も同様です。/もっと本質的なことですが、教師は生徒の人生を変えることができます。偉業を達成する人間を教師は生み出すことができます。個々の生徒に生きがいのある人生を歩ませることもできます。これは一生涯続く効果であるため、きわめて価値のあるサービスです。/それに比して医師や弁護士は、ほとんどの場合に、人生のほんの一時点で発生する疾病・傷害や事件に関するサービスを提供するだけです。(p.184〜p.185)


★★ 病気にならない生き方 3 若返り編 新谷弘実
若返り編、となってはいるが、さすがに繰り返しが多い。
人は誰でも健康で長生きしたいと思っています。/同じように、人は誰でも若々しくありたいと願っているのです。/それは本能でもあるのですが、もう一歩踏み込んで、長生きして何がしたいのか、若々しくあることで何ができるのか、ぜひ考えていただきたいと思います。(p.16)
人はみな長生きがしたいのだろうか?
一貫して水の重要性が強調されています。体が水不足になると、「体は生命維持にとって重要な部分に優先的に水を配分します。」(p.73) つまり、生命維持における重要度が低い細胞は水かもらえないということになる、そして正常な新陳代謝が行われなくなり、きちんと働くことが出来なくなる、そうです。
みなさんのなかには、夜中に足がつり、痛さで目を覚ました経験のある人がいるのではないでしょうか。じつは、これも水不足のシグナルの一つです。(p.81) 睡眠中体温調節のために汗をかく→血中の水分が減る→ミネラルバランスが崩れる→筋肉の収縮がうまく行かない。
この著者の本を読んで唯一実行していることは水を飲むことです。花粉症にも水を飲むことがいいと書いてあります。これだけは継続しようと思います。

★★ だまされることの責任 佐高信×魚住昭
伊丹万作は映画監督だった。そして、「無法松の一生」の脚本を書いたりもしている。しかし、何よりもこの「戦争責任者の問題」という忘れられないエッセイを書いた人として記憶されるべきだろう。/敗戦直後に、日本人のほとんどが「だまされて」戦争に突入したと言い、自分の責任を溶解させようと思っていたころ、伊丹は、「だまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはない」と断定し、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と主張した。/そして、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう、喝破したのである。(p.1)
この本は、この「はじめに」で始まる。この伊丹万作のエッセイが、この対談のキッカケだ。
面白いことがたくさん書いてある。ナベツネと野中広務の経歴。小選挙区と自公連立の意味。
そして、この本を読みながら感じたのは、私自身の変化(?)。最近、「いわゆる右より」の本を読もうという気になる、が、読んで何か違うと思う。この本には、この本の論の流れには、親しみ、懐かしさを感じる、が、何か違和感が湧いてくる。何かまだよくわからない。

★★★★ 世界を変えた6つの飲み物 トム・スタンデージ
ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コカ・コーラ、という飲み物を中心に歴史を概観する。第1部メソポタミアとエジプトのビール、第2部ギリシャとローマのワイン、第3部植民地時代の蒸留酒(スピリッツ)第4部理性の時代のコーヒー第5部茶と大英帝国第6部コカ・コーラとアメリカの台頭。ちょっと強調しすぎというところも見られるが、全体的にとても面白く読むことが出来た。
パンとビールを賃金または通貨として利用したということは、この両者が繁栄と健康と同義語だったという意味である。どちらも古代エジプト人の生活の必需品であり、「パンとビール」は、生命維持に必要な食物を表す一般名詞だった――このふたつを組み合わせた象形文字は、食べ物を表わす記号だったのである。(p.45)
135ページに「しゅうけつ」の変換間違いアリ。
今日、合衆国で最も多く飲まれているのは炭酸入り飲料水で、飲み物全体の消費量の三〇パーセントを占めている。単一企業では、コカ・コーラ社が最大の供給者だ。地球規模で見ると、コカ・コーラ社は人類全体が消費する飲み物の三パーセントを供給している。コカ・コーラは二〇世紀を、そして二〇世紀とともに起きたすべての出来事――合衆国の台頭、共産主義に対する資本主義の勝利、グローバル化の進行――を象徴する飲み物である。ひとによって好き嫌いはあるだろうが、その魅力の広がりはだれにも否定できないだろう。(p.278)
原点回帰というエピローグがついている。
六つの飲み物が人類の歴史を形作ってきた。では、未来を代表する飲み物はなんだろうか?最有力候補が一つある。歴史を形成してきた他の飲み物と同じく、これも今日、巷で大流行であり、医学的論争の的となり、多くの人には気づかれていないが、実に広範囲にわたる地政学的な重要性を持っている。その供給力次第で、地球上における、いや、ひょっとしたら地球外における人類の行く末さえ決まる。また、これは皮肉なことに、太古の昔、人類に発展への第一歩を踏み出させた飲み物でもある。その飲み物とは――そう、水だ。人類の飲み物の歴史は、ここにきて原点に戻ったのである。(p.282〜p.283)

★★ 子どもの健康を考える 巷野悟郎
仕事がらみで読んだが、なかなか面白い本だった。
親に守られない子ども(児童虐待)が増えている。これは、人が、生物が、本来持っているものを失っているということになる。先日読んだ「進化しすぎた脳」にも書いてあったように、人類は破滅へ向かっているのではないか。
日本語の「発育」という語に相当する英単語はない。growth and development (成長と発達)=発育
発育には順序がある。
首の座りは、腹ばいにしたときに頭と肩を上げ、しかも胸を床から離していることができるとします。(p.22)
ウィルスに対抗するために発熱する。熱の上昇が体の間に合わない時に寒気がする。
病状とは、異常のサインであると同時に異常と戦っている状態であることを示している。
医療従事者・親以外は、子どもに薬を飲ませることはできない。
新生児といえども睡眠のリズムが必要。
(2000年の調査)睡眠時刻についてみると、一〇時以降に就寝する幼児は五〇%で、それより一〇年前は二〇%、さらに二〇年前の一〇%に比較して、一〇年おきに倍々ゲームのようにその率が増えています。(p.100)
おむつは赤ちゃんのためにしているのではなく、大人の生活が汚されては困るから使っているのです。(p.146)
アトピー性皮膚炎と食品の関係は見直されている。
乳幼児突然死症候群はうつぶせ寝・人工栄養・喫煙・暖め過ぎと関係がありそう。刺激の少ない生活環境・交感神経の働きが強まる時期なのに阻害している。

★★ いのちの食べかた 森達也
同名の映画を見たとき、映画館のカウンターにあったので読もうと思った。
子供向けの、牛と豚についての話しで、わかりやすく書いてある。東京の芝浦と場がメインといえるだろうが、日本を中心にした肉食の歴史にも触れる。著者がいいたいことは第一に「知ること」の大切さ。ということで、部落問題にも相当のページを割いて、詳しく述べる。そのほか話題は多方面に広がり、子供に理解できるのか疑問に思った。なかなかに面白い本だが、対象者とタイトルに多少問題あり。
トイレの別名は「御不浄」。だからそれを清めるために手を洗う。つまりトイレのもう一つの別名は「手洗い」となる。穢れと浄めが同居しているわけだ。(p.84)

★★ 「脳」整理法 茂木健一郎
あとがきに、「本書は構想の段階では、脳の使い方についてのノウハウ本になる予定でした。」とあります。私は、タイトルから、脳の機能についての本だと思いました。出来上がった本は、何か中途半端です。時に凄い具体例があり、納得し感動するのですが、全体的に抽象論が多く、また繰り返しが多く、冗長な感じが否めません。ペダンチックな点も少し鼻につきます。
ランダムだとはわかっているけれども、そこにある程度の規則や傾向があるようにも感じる。その規則や傾向を、自分だったら読み取れるような気がする。要するに、「わかっちゃいるけど止められない」というのが、ギャンブラーの心境なのでしょう。(p.69)
はたして、自分の恋人とうまくいくか。大切なミーティングで、相手に気に入ってもらえるか。これらは、ランダムでも規則的でもなく、その中間の、まさに偶有的な出来事です。このような偶有的な出来事こそが、「私」という自我の中枢の奥底まで入り込んでくる、きわめて感情的な体験をもたらすのです。(p.70〜p.71)
日常生活の中で私たちが出会うさまざまな出来事を偶然と考えるか、それとも必然と考えるかは、私たちの生活の質に重大な影響を及ぼす可能性があります。すべてをランダムだと片付けることは寂しいことです。だからといって、すべてが必然だと考えることは明らかな誤りです。ましてや、その必然を自分でコントロールできると考えることが、思い上がりも甚だしいことはいうまでもありません。(p.103)
「行動」、「気づき」、「受容」が、「偶然を必然にする」セレンディピリティを高めるために必要なのです。(p.113)
脳の仕組みからいえば、ある視点から見た「欠点」こそが個性であり、その人ならではの創造性につながる可能性もあるのです。(p.202)
脳が働く仕組みからいえば、不確実性を乗り越えてチャレンジする勇気を持つための処方箋は、結局一つしかありません。それは、すなわち、「成功体験を持つ」ということです。(p.230)


★★★ 進化しすぎた脳 池谷裕二
とてもとても面白い本でした。
脳の機能は局所化している、だからラジコンネズミというものが出来る。体と心を分けてはいけない、体が脳をコントロールしている。言葉は、伝達手段でもあり、抽象的思考を可能にするものでもある、心は言葉から作られた、言葉は咽頭から作られた、だから咽頭が心を作った。人はありのままを見ていない、三次元の世界を二次元の網膜が見ている、網膜から脳に向かう視神経は100万本ある、しかし100万画素のデジカメは滑らかな線を描けない。記憶は曖昧である、だから抽象的な思考が出来る、正面から見た人の顔をコンピュータのように記憶したらその人の横顔を見て別人と判断するだろう。
常夜灯をつけて寝た子供の34%が近眼になった、真っ暗の場合10%未満、ルームライトを点けていた場合55%、これは因果関係ではなく相関関係である。
いま人間のしていることは自然淘汰の原理に反している。いわば<逆進化>だよ。現代の医療技術がなければ排除されてしまっていた遺伝子を人間は保存している。この意味で人間はもはや進化を止めたと言っていい。(p.313)

★★ 文学の誕生 大東和重
文学をあまり読まなくなったここ最近、ましてや文学論など実に久し振りのことだ。久し振りだと結構面白い。脳みそもそんなに拒否反応を示さなかった。分析手法は私が文学にドップリ浸かっていた頃とそんなに変わっていないように思うが、対象作家・作品をその発表当時からの評価を実に丹念に追跡していることに感嘆した。ただし、このような研究は、下に引用した表現を借りると、外部の価値に拮抗できるのか疑問に思う。いや、文学(研究)はそれでいいのだろう。
作品を通して作者を読むことで、作品の受け手が自らを読者として主体化する行為ともなる。かつての、作品の技術的な高下を品定めする読みから、読者が作者の個性をオリジナリティとして読み込む<自己表現>へと移行することで、文学を読む行為は、作品の善し悪しを判断する超越的な参照基準から離れる。そして、作品の向こう側に作者を、作品のこちら側に読者を想定し、読者が作者と作品を通して対話をすると言う形式、作者―作品―読者という図式を手に入れる。(p.85〜p.86)
審美的価値は文学の内部においては効果を発揮するが、いったん外部の価値にさらされると、相対的なものすぎない脆弱性をさらす。文学が外部の価値の体系にも拮抗しうるためには、道徳的価値を包含しつつ優越する、あるいは他の現実的価値を無化しうる質のものでなくてはならない。(p.192)
作家たちの栄枯盛衰の物語は、光輝ある反面、残酷でもある。文学の概念に見合うとたたえられた作家たちが文学史に登録され千古に名を残す一方で、これは文学でないと判定され、霜川のごとく文学史から除名される、あるいは名は残っても消えぬ負の烙印を押された作家たちがいる。もちろん文壇・文学史上の地位はどうあれ、生身の人間としてみたとき、どの作家にも等しく死は訪れる。が、その死の重さは一様ではない。(p.214〜p.215)

そうだろうか?死の重さは結局同じになるのではないだろうか?
「文学史」である以上、史観による判断や取捨選択が働くことは避けられない。「文学史」は構想される時点で、たとえ「偏狭」で「独断」であっても、「いわゆる純文学精神」、つまり<文学>とは何かの判断を含み、すでにして不公平なものである。(p.216)

★★★ ピアノはなぜ黒いのか 斎藤信哉
大変興味深く、面白いことが書かれている本である。ピアノが黒いのは日本だけ、バイエルを使っているのは日本だけ、ピアノ生産台数が一番多いのは最早日本ではなく中国、一番安く作っているのも中国。長年ピアノの調律・販売をやってきた著者のいろんな客との出会いの話も、著者の人となりが窺われて素晴らしい読み物になっている。我々が知らないピアノの名器の紹介も、そのピアノの演奏を聴いてみたいと思わせほどうまい。家庭用に音の小さなピアノがないことがおかしいという著者の主張にとても共感できる。ピアノが好きな人、音楽が好きな人、必読。

★★ 国家と謝罪 西尾幹二
時々この手の本を読みたくなる。そして、止めとけばよかったと思う。断片的に同意できる部分もあるが、何か基本的な所で相容れないものがある。この本では、最初のパートにとても何かが違うという感じが強かった。その後は同じ保守陣営に対する批判が出てきて、結構面白く読めた。特に小泉批判は視点が独特で興味深かった。
政治は現実に妥協するであろう。それは仕方ない。しかし思想に妥協はない。(p.172)
いつの時代でも、政治家が「教育改革」を言い出したときには、本気で何かをしないための時間稼ぎであり、見映えの良い前向きの大見得を切って見せたいポーズであり、パフォーマンスの一種であると思ったほうがいい。(p.223)
教育は学校や親が目的とすることの出来ない領域に深く根ざしています。意図して得られるものはたいしたものではない。生活の中に訓練があり、人間が陶冶される場所が必要で、この種の基盤を欠いた単なる<個性>や<自主性>はわがまま好き勝手を助長するだけです。(p.250)
暴力を制するには暴力しかない。教師の体罰を許さないような今の学校社会が「いじめ」による自殺を増加させている。「いじめ」の密室化を防ぐには社会の中の野生の暴力をもう一度甦らせるしかなく、「生命を大切にしてみんな仲良く」といったきれいごとの教訓では、見て見ぬ振りの無責任と同じである。(p.255)