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読書中 国家と謝罪 西尾幹二

   2007年 88冊 (今年も乱読しました。作品数ではなく実際の本の冊数です。)

★★★ 闘う皇族 浅見雅男
サブタイトルが『ある宮家の三代』である。ある宮家とは、昭和天皇皇后の実家である久邇宮家のことだ。その皇后の祖父・父・兄三代を描いている。
あとがきで、著者は自らを「週末歴史(愛好)家」といっている。勤め人とも書いていて、どうやら出版社に勤めているようだ。そのような生活環境で、膨大な資料を猟渉し、このような本を著すとは驚きである。他にも著書があり、似たような題材を扱っているようだ。
書き方がうまくとても興味深く読んだ。ただ一つ気になるのが、結局、色盲はどうなったのだろう、ということだ。最後に何か書いてあるかと思ったが、なし。これは意図的に何も書かなかったのか。分かり切ったことなのか。ここに興味を持ってはいけないのだろうか。

★★ 洗脳護身術 苫米地英人
面白い本ではあるが、技術的なことを書いている部分では、かなりの違和感がある。本当に出来るのか、という疑いがどうしても湧いてくる。自分でやってみようという気も起こらない。一方で確かに起こり得るという気持ちも存在する。「洗脳」という言葉が受け入れにくいのだろう。同じことをあらわす別の言葉があるような気がするのだが思い付かない。
大体、善だといわれている事柄自体が社会的判断である以上、その時々の権力者側から与えられたものであり、ある事柄を善と思うこと自体が洗脳されている結果だと考えるべきだろう。(p.24)
演劇には映画やテレビと違って、役者と観客との間に暗黙のルールが存在する。俳優が舞台に立って「星が綺麗だな」といえば、観客は懸命になって綺麗な星をイメージしなければならない。ここではリアリティを追及したセットや小道具は不要である。あくまでも観客が能動的にイメージしなければならない。(p.73)
共感覚というのは・・・先天的な感覚の性向である。本来の感覚とは別の感覚が伴う現象で、文字や音が色となって感じられたり、匂いに触覚が付随したりする。(p.93)

私も以前、匂いを触覚で感じたことがあった!
アメリカ南部の保守的な州では、現在でも中絶を行った産婦人科医が襲撃され、殺されるという事件がある。これは中絶医が胎児を殺すことはMurderであって許されないが、その中絶医を殺害することはKillであって神に許されるという論理なのだろう。(p.188)
宗教とは洗脳で、洗脳とは宗教なのだ。同時に、宗教とは脱洗脳であり、脱洗脳とは宗教なのだ。「悟りとは、究極まで洗脳を極めること」といっても過言ではない。・・・我々の心は、幼児期の両親の行動パターン、学校で学んだ思考パターン、社会で身につけた認知行動パターンなどの人質になっている。我々の無意識の選択は、自由意志ではなく、過去に学んだ思考パターンに知らず知らずのうちに制御されているのである。我々はなかなか我々自身の欲望(煩悩)が、我々の思考や行動を誘導することから逃れられない。(p1096)



★★ 佐藤可士和の超整理術 佐藤可士和
まず始めにカラー写真が6ページ。最初の3ページが著者の事務所、5枚、そのシンプルさにビックリ。次の2ページが国立新美術館の写真3枚、漢字を使ったデザインが素晴らしい。次の2ページは見開きで1枚の写真。これは何か、全くわからない。冷蔵庫に缶が並んでいるような感じ。上には人の写真がたくさん。本文を読んでやっと分かったが、ユニクロが始めた「UT」というTシャツ専門ブランドのフラッグショップ、「UT STORE HARAJUKU.」の店内。Tシャツをペットボトルに入れて販売するのです。写真の最後の1ページは携帯電話、ドコモのN720iD。これらがアートディレクターである著者の作品です。他にも本文で出てくるものに、ホンダのステップワゴン、 SMAPのCD発売キャンペーン、キリンの極生、などがあります。
これらの製作過程を紹介しながら超整理術について述べていくのです。 レベル1「空間」の整理術、これがタイトルから想像するもの。しかしこれだけではありません。レベル2「情報」の整理術、レベル3「思考」の整理術、これらがこの本のメインです。ポイントは次の一行。
状況把握・視点導入・課題設定の順に進める (p.47)
あたかも“神の視点”に立つがごとく、ものすごく俯瞰して物事を見つめるということ。(p.126)
もやもやとしていた思いを言葉にすることができれば、筋道を立てて人に伝えることができます・・・言語化することで、思考は情報になるのです。(p.157)

著者はいとも簡単に、平易な言葉で書いていますが、なかなか・・・

★★ 「タバコは百害あって一利なし」のウソ 武田良夫
最近流行のタイトルの付け方である。内容は、タバコには確かに害はあるが利もある、ということ。様々な分野の研究を使って論述してあり興味深いものになっている。以下の引用はほとんど誰かの説を引っ張っているものである。すべて、タバコにも利がある、という結論に導くために使われるが、元々がこのためではないので、関係なく読んでも面白い。
受動喫煙の慢性疾患に対する影響を科学的に評価することはきわめてむずかしく、現状、受動喫煙の影響は過大に評価されている (p.34)
現代の日本は、行政も企業も医療も教育さえも、合理主義と効率主義を追求するあまり、ゆとりのないグレーゾーンを認めないぎすぎすした社会になっています。(p.70)柳田邦男
わが国は世界に冠たる「喫煙大国」というのも広く知られた事実です。男性の喫煙者率は昭和三〇〜四〇年代は八〇%程度で推移し、昭和四三(一九六八)年には八三%に達しました。成人男性はたばこを吸うのが当たり前で、吸わない男性は何か特別な理由があると見られるほどでした。その後、喫煙者率は漸減傾向をたどっていますが、今日でも男性の約四〇%喫煙しています (p.74〜p.75)
今やそれ自体が生きる目標になったかのような、人々の「健康至上主義」 (p.120)
皮膚は重さ三キログラムで、一・四キロの脳をはるかに上まわる人体最大の“臓器”で(多くの臓器は移植できるが皮膚は移植が困難。しかも意を全摘しても肝臓が半分になっても生存できる人間が、皮膚の三分の一を失うと死ぬのはその重要性を示している)、その表皮からの信号が免疫系や中枢神経系などと密接な関係を持っていることが最近わかってきて、皮膚における情報の流れが全身に大きな影響を及ぼしていることが予想できる (p.168)
人の魂は皮膚の合わさる場所にある・・・悔しくて唇を噛みしめる時には、僕の魂は唇にある。ダメだと思って目を閉じたら魂はまぶたに移動して、チクショーと思って拳を握ると手のひらに移動するというふうに。(p.170)
「専門分化が進みすぎ、臓器の治療はできても、体全体を診ることができなくなってきているというのが、今の医学の弊害ですね」「医学は、患者の自然治癒力を手助けしているだけなのです。その場合、精神的要素は非常に大きいと思います。西洋医学では体と心を二元論的に分けて考えますが、東洋医学は心身を不可分なものとして捉えます」(p.178)渥美和彦(東大名誉教授)

★★★ 仏教・キリスト教 死に方・生き方 玄侑宗久 鈴木秀子
お坊さんというのは人が亡くなるまでは傍らにいて、亡くなると帰っちゃったんです。・・・葬儀をし始めたのは鎌倉時代、一般化するのは室町時代ですね。(p.15)
禅では「無事」という言葉があります。要するに、外に何かを求めない。・・・すべて内側にあるという確信。それをもって、自分の内側をもっとよく見ていくという生き方です。(p.70)
要するに言いたいことは、「死」の基準なんていうものは生きている人間の都合や思惑でいくらでも変わるということ。つまり、人為的な決定に過ぎないということです。(p.74)
「仏」は「ほどけること」だと言いましたが、これはロゴス(論理、理性)からカオス(混沌)になることです。だから「悟る」というのも「わかる」とは逆のことではないでしょうか。(p.167)
禅では「生死の世界」と言うんですが、これは生まれたり、死んだりを繰りかえす変化の世界のことです。今日なら今日、この一時間なら一時間ごとに生まれて死ぬんだと考えてしまえばいいんです。独立した「今」なのであって、連続しているわけではない。その考え方を、禅では「日々是好日」と言うんです。(p.208)

なかなかに味わい深い対談だ。対談だから、話しが論理的に積み重なっていくわけではないが、二人を支える強固なものの存在を感じさせる。そもそも宗教だから論理的なものは無いのかもしれない。しかし、説得力は論理とは関係ない。納得できることがたくさんあった。最後にもう一つ引用を。(ここに引用したものは偶々すべて玄侑宗久の発言です)
あんまり理屈で考えないほうがいいですよね。ものごとの解釈に整合性ばかりを求めないほうがいい。(p.818)

★★ ハル 哲学する犬 クォン・デウォン
あの星

今どこかで
あなたがあの星を見ていて
ぼくもあの星を見ていたら
あの星で
ぼくたちは、会っていることになるんじゃないでしょうか。

今、ぼくが見上げているあの星を
どこかであなたも見ていたら
あの星で
ぼくはきっとあなたに出会っているんです。

夜空に瞬く星たちを自分のものにしたかったら
手じゃなくて、心を伸ばしてみましょう。       (p.18)

相田みつお、を思い出させます。が、力強さはなく、やさしくそっとひそやかに心に入っていく感じです。一気に読んでしまいましたが、ゆっくりひとつひとつ味わうべきだったのかもしれません。

訳者はあの、蓮池薫さんです。

★★ ちょいデキ! 青野慶久
その仕事術のひとつひとつを見てみると、たいして効果は大きくないかも知れないけれど、誰もがちょっとデキる人になれるもの。これをこの本では「ちょいデキ」と名づけました。(p.11)
「ちょいデキ」の仕事術の本。しかし、一番面白かったのは、第一章、第二章の自己紹介である。この著者、謙遜しているが(そんな嫌味な謙遜ではない)、凄い人だ。
今、やっていることは「やりたいこと」ではないかも知れません。でも、「やっておくべきこと」なのかも知れないのです。それに気づくと、未来に役立つ経験ができます。それは、まだやりたいことが見つからない、凡人なりの学び方、幸せのつかみ方だと思います。(p.76)
「よく見せる」ではなく、「正しく見せる」。(p.93)

メールの書き方 (p.107〜p.108) 「要点プラスひとつ」。思いつかないときはまったく違う話を 「P.S.」で。状況に応じて顔文字、「。」を「!」に。
せっかく本を買ったんだからと、一ページ目から最後まで丁寧に読む人は、目的がいつの間にか「何かを得ること」から、「本を読むこと」にすり変わっていたりしないでしょうか。(p.144〜p.145) この意見には賛同しかねる。私の場合、本を読むことが楽しみである。だから、本を読む目的は、「本を読むこと」によって「楽しみを得ること」である。知識などを得ることはその結果でしかない。
「あなたは、給料を誰からもらっていますか」と聞かれたとき、なんと答えますか?(p.211)
この問はよく考えると示唆に富んだものだ。それぞれの立場で熟考の必要あり。
二十一世紀は、世界中が交わる時代です。国境を越え、人種を超え、宗教を越え、企業が、家族が、友人が交わる時代です。そこに求められるのは、個人主義ではなくチームワークの考え方。他人を敵だとみなすのではなく、仲間だと考える。(p.231)

★★ 本格保守宣言 佐藤健志
幅広い意味で「保守」について論じた本。ちょっと理屈っぽいが示唆に富んでいる。
「文明の疾走」への適応能力について、社会主義がいかんせん自由主義に及ばないことは、二十世紀が終わりに近づくにつれて否定しがたくなる。・・・フランス革命を契機とする急進主義的な社会改革の流行は、同革命の二百周年にあたり、ついに終わりを迎えたのだ。・・・バスチーユ監獄の襲撃という民衆の蜂起で始まった変化は、ベルリンの壁の倒壊という民衆の蜂起によって幕を下ろしたのである。問題は、国家主義や社会主義の敗退が、はたして自由主義の勝利を意味するのかどうかにほかならない。前二者が「文明の疾走」への適応を果たせなかったことは、「自由主義型の保守ならば、文明がいかに急進的になろうと、社会システムを望ましい状態に維持しうる」ことまで保障するものではないのだ。(p.91〜p.93)

歌舞伎に描かれた武士の生活感情や道徳観・・武士自身のものではなく、歌舞伎文化の担い手だった町人の視点で解釈された武士の姿 (p.112)
第7章 抜本的改革を成功させるには。著者自身の減量体験を対比させ興味深い内容になっている。
改革に取りかかった当初は、めざましい成果がしばしばあがる。だからといって、それがつづくと期待してはならない。(p.146)
第8章 新時代へのマニフェスト。作用反作用、リバウンド、トレードオフ、が面白い。
教育においては、従順さと元気の良さのトレードオフが重視されねばならない。(p.176)
必要なのは、「大成功と大失敗の同居」という構造そのものを、大成功もしないかわりに大失敗もしない――つまり適正なレベルで成功する構造へと変えてゆくことなのだ。(p.187)
「運命を切り開こうとすることによる自信や積極性」と「運命を受け入れることによる精神の平静」の間で適正なバランスを取ってゆくとき、現実にたいし最も有効に対処しうるのである。(p.194〜p.195)

★★ おっぱいバレー 水野宗徳
面白いよく出来たお話である。青春ドラマとスポコンものを融合したような感じ。いやらしさはまったく無く、不自然さもあまり無く、素直な子供と新任女教師の物語に、ケッコウ感動する。
教師の評価なんて、すべて相手の都合で変わることは前から知っている。生徒はもちろん、親だってそうだ。誰にでもわかりやすい授業をする教師を、バカ息子の親はいい先生と呼ぶ。一方、頭のよい息子の親は「子供の能力を伸ばしていない」と文句を言う。教師は家庭教師と違い集団を相手にしているから評価は割れて当然。共通して言えるのは、自分の子供の成績が伸びていれば親は文句を言わないということだろう。(p.201)

★★ 「朝2分」ダイエット 大庭史榔
同僚が貸してくれた。
最近この種の本を読むと妙に納得させられる。ダイエットできるということに納得したのではなく、整体師の言うことに納得するのだ。西洋医学は対処療法だということがよく判る。東洋の医学や健康法が注目されるのもよく判る。
親指側、つまり足の裏の内側に力を入れて歩くこと (p.96)
たとえば、ムカついたりイライラしているとき、自然と呼吸は浅くなります。「腹が立つ」とはよくいったもので、カッとなっているときは腹筋が立って固くなり、深い呼吸をする余裕はありません。(p.175〜p176)

★★ 病気にならない生き方 2 実践編 新谷弘実
一作目と同様、説得力のある本だ。読んでいてグイグイ引き込まれる。ただし、これ又前作と同様、何かを実践するかというと、多分大したことはしないだろう。
今回印象に残ったこと:腸は自ら考える「第二の脳」である(p.78):現代人の多くは、おいしいから、食べたいから、安いから、という理由で食べ物を選んでしまっています。(p.107):生き物はすべて、他の命をいただくことで自らの命を養っているのです。これを別の言い方をすれば、「命ある食物」でなければ、命を養うことはできないということでもあります。(p.111):私が電子レンジに抱く「一抹の不安」(p.172)…私も、不安、というより疑問を持っていた。電子レンジという機械は人間にどんな影響を与えるのか?

★★ 翻訳者はウソをつく! 福光潤
翻訳の苦労話を若者向きにくだけた調子で面白おかしく書いた本。英語や日本語に関するちょっとした発見があったり、映画に関して「へー」といった発見もある。
PC(political correctness)に関して:「マンホール(manhole)」を「パーソンホール(personhole)」に改めるのは行きすぎでは?(p.60) これ冗談話かと思っていた。辞書を引いたら載っていた!
「タイトル」は「題名」と同義で、本や映画や曲などの著作物に付された名札みたいなもの。原著者の思想や芸術性がいくら反映されていても、タイトル自体に著作権はありません。そのかわり、商標登録することは可能です。つまり、タイトルは作品本編の著作権を保護するために使われるIDであり、作品を商品として宣伝するためのネーミングでもあるのです。(p.118)
映画字幕は
〔映画とは〕別の著作物として扱われる (p.146)
「今、鍵盤の前にすわってクモの巣を見てるんだけど、なかなかネズミから手が離せなくてね」
「今、キーボードの前にすわってウェブを見てるんだけど、なかなかマウスから手が離せなくてね」
時間蝿は矢を好む。← Time flies like an arrow.
自分を指す英語「T(アイ)」は、100通り以上に和訳できる。
「T」の和訳で頻出するのは「 」という訳語である。(p.176)
→(つまり、訳さない)
翻訳者は、完全に一致することのない2言語を前にして、日々ぐるぐる・・・。作者も読者もハッピーになれる訳を探してぐるぐる・・・。翻訳とは、パラドックスの中で最良の答えを見つけること。たとえそれが、ウソのような答えであろうとも。それが妥協のアートというもの・・・。(p.180)

学生街の喫茶店はどこに 武田良夫
タイトルに惹かれて読んだ。始めのほうは期待通りの内容だったが、だんだん外れてきた。中年オジサンオバサンの恋愛論みたいになって、ちょっと興ざめ。おまけにアンケートを使っているのだが、標本数もサンプル抽出方法もいい加減。結局何が言いたかったのか?東京六本木のライブハウス、「スイート・ベイジル」には行ってみたいと思った。

★★ 日本の有名一族 小谷野敦
第一章、政財界の華麗なる血脈。第二章、近代文学の祖を継ぐ者たち。第三章、明治・大正の文学界、光と闇の系譜。第四章、昭和の文学界、激動と変革の系譜。第五章、知られざる学界の血筋。第六章、古典藝能の名家をたどる。以上六章からなる系譜付きで血縁関係を述べた本。
私自身は、親戚に一人の有名人も、有名でなくともその世界では偉い人なども、一人もいない。だから単純に、野次馬的な興味でこういうものを作っただけだが、有名人の家族の手記などを読んでいて、あまりの豪華さと余裕に嫉妬もしたものだ。子供の頃、野口英世の話などを聞いて、偉い人はみんなこんな風に貧しい中から身を起こしたんだろうと信じていて、のちに、そうでもない、つまり名をなした人がけっこういい家の出であることが多いのを知って、裏切られたような気持ちになったこともある。(p.5)
と、著者が書いているように、野次馬根性で読むと面白い。以下、私の野次馬根性が反応したほんの一例。小山内薫のいとこ、藤田嗣冶、小山内薫の孫の夫、立松和平。伊丹十三の妹の夫、大江健三郎。箕作阮甫(みつくりげんほ)のひ孫、呉茂一、箕作阮甫のひ孫の夫、美濃部達吉。江藤淳のいとこの子、雅子皇太子妃。第六章の歌舞伎の世界は同じ名前ばかりで興味のないものには判別できず。名は体を現すというまさに日本的命名法はもう古いのでは。落語の世界は大名跡を辞退するものがいるようだ。文学関係には著者のちょっとしたコメントが付いていて面白い。

★★ 八十四歳。英語、イギリス、ひとり旅 清川妙
53歳で英語を学び直そうと決意、何度か海外旅行を経験し、65歳で初めてイギリスひとり旅を始める。2005年、84歳で13回目のイギリスひとり旅。恐れ入ります。凄い人です。何故英語で、何故イギリスなのか、ということに関しては、いろいろな価値観があるでしょう。でも、素晴らしい人です。

★★★ オバサンの経済学 中島隆信
本書ではオバサンを「女性らしさを放棄した存在」あるいは「女性らしさの維持をやめた存在」と定義する。こうすることで、われわれはオバサンにかんして善悪論とは切り離した形で議論することができるようになる。(p.6)
女性らしさを維持するメリットよりコストの方が上回るならば、「女性らしさを放棄する」ことは充分理にかなっている(p.24)
自分が女性であることを意識している人にとっては、いかに空いているとはいえ男子トイレに入っていくことは恥ずかしくてできないだろう。また、男性にとっても、女性としての魅力に溢れた人がいきなり男子トイレに入ってきたら驚き戸惑うに違いない。ところが、周囲の目を気にしないオバサンならばそれができるのである。そして、男性もオバサンであるがゆえにそれほど違和感もなく受け入れられるのだ。(p.30)
流行とは買い物の際の取引コストを下げる働きをするのである。それは買う側にとっても売る側にとってもメリットがある。買う側にとって、数多ある商品の中から本当に自分の気に入ったものを選ぶのは大変な作業である。他方、売る側にとっても、作ったものが本当に客のニーズにあっているかどうか市場調査をするには多大なコストがかかるだろう。流行はこうしたコストを大幅に削減してくれる。(p.79-p.80)
オジサンについてもちゃんと書いてあります。
女性はオバサンになることを選択することによって中性化し、性的な特徴が表に出なくなっていく。一方、男性の場合は、オジサンになると外見上の逞しさ、格好良さ、そして清潔感などが失われていくにもかかわらず、相変わらずホルモンは分泌され続けるため、性的な機能だけが目立つようになる。つまり、オジサンは若さを失った後も性を捨てることのできない存在として生き続けなければならない男性と定義されるのである。(p.125)
ユニークな視点で捉えた面白い本である。オジサンとオバサンの対比は、実際はそんなに単純なものではないだろうが、分かり易く納得できる。

★★ 日本人に一番合った英語学習法 斎藤兆史
会話重視の英語教育を批判した本。このような本の中では、切り口がユニークで、説得力のあるものである。このような意見の持ち主がかなり本を書いているのに文科省の方向はますます反対に行っている。この本が強調している、日本人にとっての英語学習の難しさ、を認識すべきである。
日本語と英語とが、かけ離れた言語である以上、西欧で開発された英語学習法などを持ってきても、ほとんど日本人の役には立たない。日本人に一番合った学習法は、やはり日本人が開発したものでしかないのである。(p.140)
日本人全員が英語の使い手となる必要などはまったく無い。それぞれ自分が得意とする分野で活躍できる社会こそが健全な社会というもので、ある特定の言語ができなければ昇進もおぼつかないような社会は、ただの言語文化植民地である。(p.152)


読書中 我らクレイジー★エンジニア主義 リクナビNEXT Tech総研
エンジニアライフ応援サイト「Tech総研」に連載中のカリスマ技術人15名へのインタビューを本にしたもの。「プロフェッショナル 仕事の流儀13」で読んだ、石井裕についてをもっと知りたくて著書を探したが、専門書以外はないようだ。一般人が読めるのはこの本だけ、彼については20ページもない。
ソロバンの珠は、数字の情報を物理的な実体で表現できる。情報を直接指で操作して計算できる。ところが、現代のコンピュータはどうか。情報の表現はスクリーン上のピクセルで、マウスやキーボードを使って、間接的にしか操作できない。情報に物理的実体を与えて、直接操作できないという大きな難点があるんです。(p.16)
既存のスポンサーとのリレーションづくりはもちろん、新規スポンサー獲得のための営業活動も教授である私の重要な仕事なんです。(p.18)
以上二つは石井裕の言葉。他の14人も凄い人たちだが、やはり彼が群を抜いて光っていると思う。理系の人の発想は文系にはないものがある。
物質を扱うことはどんどん高度化していって、モノでもって生き物をつくりたいという動きになってくる。一方で生物を追求しながら生き物を物資化し情報化する。もう一方で物質を生き物化しようとする。そうすると何が起こるのかというと、哲学が変わらざるを得ないということです。(p.126)
そもそも洗脳というのは、第三者の利益のために行われている行為なんですね。一方で、自分のために行われている行為は、教育と呼ばれている。実はやっていることは同じなんです。(p.179)

★★ 明治天皇の一日 米窪明美
サブタイトル―皇室システムの伝統と現在―
タイトルの通り明治天皇の典型的な1日を描いた本。ふーん、なるほど、そうなのか、と思うことはあっても、それだけのもの。覗き趣味的好奇心は満足させてくれる。
明治宮殿時代にお供したのは、御内儀では女官二名、御学問所では侍従職出仕である。(p.145)
つまり、明治天皇がトイレに行くとき、居住場所では女2名、仕事場では男1名がついて行った。で、何をしたかは書いてない。お風呂では3人の女官が天皇の体を洗うと書いてある。身分の高い女官が上半身を、身分の低い女官が下半身を。さすがにトイレのことは書き難かったのか。
200頁位の本の最後の20頁ほどで、大正昭和について概観されている。宮廷の合理化が進むにつれ、侍従たちの見かけ上の作業効率は上がったが、その一方で政府要人との活発な交流は途絶え、外部の情報から遮断されてしまった。やがて日本は第二次世界大戦へと突入するが、昭和天皇は側近とともに政治機構のなかで孤立を深めていった。(p.202) 先日「失敗の本質」を読んだときも思ったが、昭和天皇の戦争責任については、きちんと整理されるべきだろう。
この本のサブタイトルに「現在」とあるが、大変物足りない。大正昭和についてもっと知りたいという覗き趣味的好奇心がムクムク湧いてきた。

中断 フィルム・アート ボードウェル/トンプソン
図書館にリクエストして手にしてみたが、とても二週間では読めない。取敢えず返却。

★★ 失敗の本質 戸部良一
サブタイトル―日本軍の組織論的研究―
1984年に出た本。先日ある講演を聞いたとき紹介されて読もうという気になった。
著者が書いている本書のねらい:「大東亜戦争における日本軍の失敗を現代の組織一般にとっての教訓として生かし、戦史上の失敗の現代的・今日的意義を探ろうとする。
ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦、について、防衛大学の教官が中心となり、研究会を持ちその成果をこの本にまとめた。
作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾し、したがって部隊の士気に悪影響を及ぼすおそれがあった。第十五軍は作戦期間を三週間と予定していたが、それは作戦が不利となった場合に三週間で打ち切るという意味ではなく、三週間で作戦が必ず終了するという「必勝の信念」に基づくものであった。(p.108-p.109)
与えられた目的を最も有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段群から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。(p.234)
組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習が出来るかどうかということなのである。(p.261)
日本軍の第一線の高級指揮官には人事権が与えられていなかった。彼の権限は、無能な指揮官の交代を陸軍省に上申することだけで、その発令があるまでは、その指揮権を奪うことは許されなかった。これに対して、米軍では、第一線指揮官に、その要求どおりの成果を上げられない隷下の指揮官を任免する人事権が与えられていた。(p.269)
およそイノベーション(革新)は、異質なヒト、情報、偶然を取り込むところに始まる。官僚制とは、あらゆる異端・偶然の要素を徹底的に排除した組織構造である。(p.273)
日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった、ということであった。(p.279)
この本を読んで先ず思うことは、あの戦争は始め方、戦い方、終わり方、全てがヒドイということだ。というか、どの戦争もそうなのだろう。次に、この本の意図は実際なんなのかと疑問に思う。現代の組織一般にとって教訓となるものがあるのか。最後の数ページにそれらしいことは書いてあるがあまり迫力ありとは言えない。それに対して、戦争の分析は面白い。それだけでいいのではないか。

★★ 映画検定公式問題集 キネマ旬報映画総合研究所
定年後の楽しみに検定を受けようかと思っていましたが、とんでもないことです。見たこともない映画について知識があっても何の意味もありません。

★★ バカでもわかる戦争論 福田和也
三人漫才の形で面白おかしく色々な戦争を論じた本。目からウロコ的な論もあれば、少々偏っている見方もある。ボケの役にやばいことを言わせ、普通人の感覚を出しているところはとても面白い。
この本の書き出し:まず、現状を認識するところから始めましょう。/日本は軍事面では、完全にアメリカの占領下にあります。自衛隊も、空、海については、ほぼ米軍の指揮下にあります。これは、日米安保体制、すなわち日米同盟の実態です。両国にとって幸福か不幸かは別にして、安全保障について考える上では、この事実はしっかり確認しておかなくてはいけません。(p.8)

★★ 旨いぞ、まるごと 広島の酒 (広島県酒類商業協同組合)
本というよりは雑誌。よくある、B5縦を横に3cmほど伸ばした大きさ。
酒、広島の酒、についての一般論がほんの少し。メインは広島の蔵元紹介。広島にもたくさんの蔵があり、それぞれ頑張って酒を造っている。どれも旨そうに思える。飲んでみなければ・・

★★★ 世間遺産放浪記 藤田洋三
写真というビジュアルを使い、近代化で捨ててきたモノを懐古するのではなく、置き忘れられたモノにひそむ物語を知ることで未来を探るのが、世間遺産の方程式。(06タバコの乾燥棟)
タイトルがイイですね。確かにどこかで見たのだが、今はほとんど見ることが出来ないもの、247が写真と小文で紹介されている。「遺産」といっていい、どこかに懐かしさ、貴重さを喚起させるものばかりだ。特に左官職人の仕事が多いような印象を受けた。先日、挟土秀平についての本(テレビ番組の書籍化)を読んで左官の仕事に惹かれたのでそう思ったのかもしれない。三ヶ所実際に見たものがあった。104がに湯(大分県長湯温泉、浸かりました)、183石屋根(長崎県対馬)、244峰入り(背景に有名な国東半島の磨崖仏が)。これからこのようなものを見たら記録しておこう。
202箔合紙(岡山県津山市)というものの存在を知った。金箔の間に挟むものだそうだ。

★★★★ 暗いところで待ち合わせ 乙一
久し振りにおもしろい小説を読んだ。最近よくあることだが、この本を読もうと思ったきっかけを思い出すことが出来ない。後で調べたら、去年映画化されたようだ。全くノーマークだった。きっと面白い映画になっただろう。ネタバレになるのであまり書けないが、実にうまく構成されている。種明かしがされてもまだ違和感のあるところもあるが、楽しむことを第一に考えれば気にすることもない。読書を楽しみたい方、是非。
かつて自分は、制服を着て勉強していた学校でも、作業着で仕事をする会社でも、いつも居心地の悪さを感じていた。どこに身をおいていても、手のひらに汗のにじむ緊張は消えなかった。はたして自分のいていい場所はどこなのだろうかと、考えたこともあった。しかし必要だったのは場所ではなかった。必要だったのは、自分の存在を許す人間だったのだと思う。(p.254〜p.255)

★★ ジェネラル・ルージュの凱旋 海堂尊
相変わらずこの著者の本は面白い。細かいことを気にする間も無く、グイグイ読ませる。しかし今回はストーリーよりも主張が強い。その為か、心停止の患者に対する手当ての描写には圧倒される(93ページから5ページほど)。終わりの方の28章も同様。以下は今回の主要人物速水のセリフ:
「収益だって?救急医療でそんなもの、上がるわけないだろう。自己は嵐のように唐突に襲ってきて、疾風のように去っていく。在庫管理なんてできるわけもない。小児科も同じ。産婦人科も、死亡時医学検索も。現在の経済システム下では医療の根幹を支える部分が冷遇されている。俺たちの仕事は、警察官や消防士と同じだ。トラブルが起こらなければ、単なる無駄飯食い。だからといって国家は警察官や消防士に利益を上げることを要求するか?そんな彼等に税金という経済資源を配分することを、国民は拒否するのか?」 (p.297)

★★★ アフリカにょろり旅 青山潤
東京大学海洋研究所「ウナギグループ」の冒険(?)譚。以前、ウナギは太平洋のど真ん中で産卵する、という話しを聞いたが、この人たちの研究成果のようだ。この本には、世界に18種類いるウナギのうち一つだけ手に入れていないものを求める、苦難の行程が面白おかしく書かれている。
「うおりゃぁー」 キョンキョンキョンキョン
「うおりゃぁー」 キョンキョンキョンキョンキョ
「うおりゃぁー」 キョンキョンガルガルルル
「うおりゃぁー」 ガルンガルンガルン

これはエンジンがかからない車を押している状況の描写である。さとなおの『うまひゃひゃさぬきうどん』を思い出した。この著者、文章がうまい。所謂昔の名文ではなく、現代的な視聴覚的うまい文章だと思う(視聴覚的な文章、この表現、いい表現ではありませんか?)。とても苛酷な内容なのにすらっと読ませてしまう著者の筆力がこの本を成立させている。

★★ プロフェッショナル 仕事の流儀 3
茂木健一郎&NHK「プロフェッショナル」制作班=編
WHOメディカルオフィサー 進藤奈邦子
日本人って結構世界の様々なところで活躍しているのだと感心する。鳥インフルエンザのことが分かったような気になった。
左官職人 挟土秀平
この人は凄い人だ。実際に作品を見たいものだ。
僕なんかは、生まれてたかだか四〇年。でも土って、そのはるか昔からあるものですよね。いざ壁に塗って一枚にしたときに、その色に対してはもう納得せざるを得ないというか、服従せざるを得ないというか、文句のつけようがどこにもないんですよ。(p.66)
臆病というのは、「怖い」「恐ろしい」と感じることですよね。恐ろしいからこそ、敏感でいられる。不安でどきどきしているからこそ、周りの空気とかを感じられる。そういう人間でなければ、僕は成功しないと思うんですよ。(p.70)
その方の文章を読みつづけているうちに、いつの間にか自分の腕が上がっていたような気がします。ずっと枕元において、繰り返し読んでいたほどです。練習とは別のもの、言葉とか気持ちとか思いとかいうものでも、腕って上がるんだなと思いました。(p.86)

塾・予備校講師 竹岡広信
実はこの人のことを一番読みたかったのだが、凡庸な内容だった。ガッカリ。

★★ ちょい太でだいじょうぶ 鎌田實
最近内容とは関係の薄い、人目を引くだけの本のタイトルが多い。しかし、このタイトルはちゃんと中身と一致している。著者が日頃から言っていることなのだ。
健康は目標ではなく手段、この本に何度も出てくる表現だが、先ずこれをしっかり肝に銘じるべきだろう。いろいろやさしく書いてあるが、やはり実行するのは難しいものが多い。以下のことに気をつけながら少しづつ少しづつ。
七悪三善一コウモリ/血管をダメにする七悪:(一)肥満(二)高血圧(三)ストレス(四)高脂血症(五)タバコ(六)糖尿病(七)高尿酸血症/血管を若返らせる三善:(一)運動(二)ニコニコしていること(三)食物繊維の多い食事をとること/一コウモリとは:アルコール(p.141p.142)
コウモリは羽のようなものがあって鳥のように見えるが、実際は哺乳類。(p.161)


★★ 目からウロコの大雑学本 博学こだわり倶楽部【編】
隣人が貸してくれました。以下、へーと思ったこと。
今の天皇は昭和天皇から約9億3450万円の遺産を相続し約4億2800万円の相続税を納めたそうです。/満員バスは定員オーバーだが、公共性を考え警察は黙認。/5月5日は男の子の節句、3月3日は女の子の節句、では4月4日は?−−おかまの節句。/日本の刑事裁判の有罪率は99.8%。理由は、検察が無罪になりそうな事件を起訴しないから。/身長160センチ位の人が波打ち際に立つと水平線までの距離は、4.3キロメートル程度。/アリの巣の近くに砂糖と人工甘味料を置くと、人工甘味料の方にはアリは寄り付かない。/江戸時代太平の世の中になると切腹は武士の体面を保つための名誉刑となり、作法も儀式化され自分で腹を切らなくなった。/頭の禿げた江戸時代の武士はちょんまげのかつらを付けていた。

★★★★ 森林からのニッポン再生 田中淳夫
「割り箸はもったいない?」の著者の本。予想していた以上に面白い本だった。一般人と視点が違っているのでとても新鮮に感じる。最初の方に以下のようなことが書いてあり、まずビックリ。

現在、日本の森林面積は67%、過去と比べると、明治の中頃は45%、江戸時代は全国に禿山が広がっていたようだ。他国と比べても、群を抜いて高率、世界の平均は30%程度、国別で高いところは、フィンランドが72%、スウェーデン66%、ブラジル64%、インドネシア58%、ロシア50%、多そうに思えるところでは、カナダ27%、アメリカ25%、イギリス12%、アジアでは、中国16%、フィリピン19%、といったところ。

イメージだけでは分からないものです。他にも、人工林が多いということ(つまり、森林再生の努力は絶えず行われている)、天然林の方が人工林より優れているというわけではないということ、などなどナルホドということがたくさん書いてある。特に自然の捉え方は示唆に富んでいる。

現代社会は、自律神経失調症になったかのようだ。身体の各器官の動きを調節する自律神経が正常に動かず、めまいや立ちくらみが起きるのと同じように、社会もギクシャクしている。しかし、都市と山村、自然と人工物の関係を再び結びなおすことが可能になれば、心地よい社会を生み出すことができるかもしれない。それを実現するヒントは、森林や山村の中にあるのではないだろうか。(p.234)

★★ プロフェッショナル 仕事の流儀 13
茂木健一郎&NHK「プロフェッショナル」制作班=編  娘が**から借りてきた。
NHK火曜午後10時からの番組を本にしたもの。過去を取り上げた「プロジェクトX」の後継番組で、今の人物を描く。初めの頃、駿台予備校の竹岡広信を取り上げた回があった。見れなかったが、このような本になっているのならば読んでみよう。この13は以下の三人を扱っている。
弁護士 村松謙一
落語にある「大岡越前の三方一両損」のように、三者がそれぞれ少しずつ損をしながらやるというのは、逆に言うとそれぞれにとって得なんです。(p.29) / 茂木のコラム:人間は、万物の霊長として、自然との闘いには勝った。もちろん、不幸な天変地異は今でもあるが、文明が成熟していくにつれて、自然との関係性において自らの存在が脅かされるという経験は減ってきている。(p.60) ← こんな事を言っていいのか!対比して、これに続く部分を言いたいにしても。その代わりに、人間にとっては、社会における他人との関係性が大切になってきた。
漫画家 浦沢直樹
茂木のコラム:アイデアが煮詰まったときに、ちょっと寝てみると、その間に脳がいろいろなものを整理して答えを出してくれるということが、科学者の間では経験則として知られている。(p.89) / この世は感じるものにとっては悲劇だが、考える者にとっては喜劇である (p.99) イギリスの作家ホレス・ウォルポール / 手塚先生にはとても追いつけません。まるでダ・ヴィンチやビートルズのように、一番最初にとてつもない山脈を築いてしまったという感じではないかと思うんですよ。でも、その山脈を眺められるのは幸せですね。(p.101)
コンピュータ研究者 石井裕
エンジニアリングが問題解決だけのものだったら、それはつまらないものです。一方、哲学がただ言葉だけのもので、現実の生活に何も影響を与えないとしたら、それもまたつまらないでしょう。そういうものが相互に影響しあって、社会的な影響力や経済的な価値を持つような研究を、私はやりたい。(p.134〜p.135)
「出る杭は打たれる」という言葉がありますよね。でも、出すぎた杭は誰からも打たれないんです。だから、出過ぎてほしい。実際は、難しいですよ。途中で叩かれて、つぶれてしまうこともあるでしょう。それでも、自分を信じて闘うことが大事なんです。そのためには、頭蓋骨が丈夫でなければいけないし、叩かれることを快感に思わなければいけません。「誰も理解してくれない」ですって?最高じゃないですか。それは勲章ですよ。もしかしたら、誰も行ったことのない極致に到達できるかもしれないわけですからね。(p.159)

この石井裕という人物、かなり凄そうな感じがする。著書を読んでみたいと思ったが、残念ながら、専門書以外は書いていないようだ。「我らクレイジー★エンジニア主義」という本にちょっとインタビューが載っているようだ。

★★ 「なぜ?」がわかる博学本 素朴な疑問探究会【編】
隣人が貸してくれました。
タイトルどおりの本。隙間時間に読むのに最適。
以下、フムフムと思ったこと。
○インスリンは体に脂肪をため込む働きをする。朝はこのホルモンの活動が非常に鈍い。午後になると活動が活発になるし、飢餓状態で食事をするとインスリンの分泌量は増大する。だから、朝食抜きはダイエットによくない。
○腋毛の処理はアメリカから伝えられた。ヨーロッパでははやしっぱなしの人も多く、特にイタリアでは腋毛は女性の魅力の一つと考えられている。
○日本の道路が狭いのは、馬車交通の時代がなかったため。
○武士は左腰にさした刀のため道路の左側を歩いた。ここに日本の道路の左側通行の起源がある。
○南方が原産の野菜や果物は、寒さに対する抵抗力がよわいので、冷蔵庫に入れると細胞膜に低温障害が起こる。

★★★ 闘う純米酒 上野敏彦
神亀酒造を多少美化しているきらいはあるが、なかなかに感動的なお話である。日本酒は文化である、と言われているが、まさにそうだ。日本酒の蔵はその自負を持って、大変ではあるが頑張っている。飲む方はそのような蔵の努力のおかげで美味しいお酒が飲めてうれしい。蔵を支援するため、日本文化を守るため、日本酒を飲みましょう。「ひこ孫小鳥のさえずり」、早速購入して飲みました。
一九七二(昭和四七)年、政府奨励米割り当ての関係でそれまで仕込みの三五パーセントは三増酒でなければならない、と決められていた規制がなくなった (p.30)
・・ こんなことがあったのだ!
私は、研ぎ澄まされた人材を育てていきたい。機械は導入したときから壊れ始めるが、人は蔵に入った時から育つのです。(p.51)
この年(2006年)五月の酒税法改正で、米、米麹で造った清酒にアルコールと水を添加して調味料で味付けした三倍増醸酒は清酒の範疇から外され、リキュール扱いとされることが正式に決まった。(P.253)
日本には『酒税法』はあっても、『酒造法』がないことが、一番の問題 (P.254)


★★★ 割り箸はもったいない? 田中淳夫
割り箸作りの現場から/「もったいない」から生まれた割り箸/市場を席巻する中国製割り箸/寄せては返す、割り箸不要論/国産割り箸に未来はあるか/割り箸から読み解く環境問題、以上6章からこの本は成り立っている。これを読むだけで書いてあることがおおよそ分かるだろう。
この本を読んで一番に感じたことは、割り箸は日本の文化だということ。ハレの日の箸は、白木箸だった。現在でも正月や冠婚葬祭には、中太両細の白木箸が使われる。・・箸の両側で食べられるが、片方は神が口をつけるという意味がある。・・ハレの箸である白木箸は、使用後捨てることが原則である。正月の箸も、正月飾りなどを燃やすとんどにくべる風習を持つ地域は多い。ハレの箸は期間が過ぎたら破棄されるのだ。ここに割り箸の使い捨ての原型があるように思う。・・もともと日本には“穢れ”の思想があるが、人が手をつけていない無垢の素材に対するこだわりがあるのだ。それは「素材の味を大切にする」という日本料理の原点からも探れるし、伊勢神宮の神殿を二〇年ごとに建て替える慣わしともつながる。(p.69〜p.70)
他にも、森林破壊の元凶として非難された割り箸に対して、如何に根拠のないことかを丁寧に説明したり、なかなかに興味深い内容がいっぱいである。それにしても、様々な問題にからんでくる中国は恐ろしい国になりそうである。

★★★ 農業は人類の原罪である コリン・タッジ
原題は、「ネアンデルタール人、ならず者、そして、農民」、サブタイトルに、「農業は実際どのように始まったか」。しかし、邦題は原題よりもこの本の内容をうまく表現している。最近流行の人目を引くための長めのタイトルととれないことはないが、読んで見ようという気にさせるタイトルではある。
農業は確かに人類進歩の始まりかもしれないが、別の見方をすれば、人間の苦悩の始まりであり、地球の環境破壊の始まりでもあった。ナルホド、確かにその通りだ。
狩猟・採集民は明らかにバラエティに富んだ食物を食べており、そのメニューの中には植物もいくつか含まれていた。ところが農耕民が普通食べるのは、ほんの数種類のお決まりの作物 (p.11)
「そして主はアベルとその供えものは顧みられたが、カインとその供えものは顧みられなかった」聖書が書かれた時代には、農耕はおそらく、牧畜に比べてはるかに「暴力的」なものとみなされていたのだろう。農耕の方がはるかに大きく直接的な影響を環境に与えるからだ。(p.21)
農業は生産的な面では成功した。それは農業がたのしいものだったからではなく、よく機能したからである。農業は、それをしないときよりも多くの食物を、環境から入手可能にさせるのである。おかげで、人間の数は増加した。それに狩猟生活は――人間にせよ他の動物にせよ――労力をかけたらそれだけ報われるというものではないが、農業の場合、がんばったら、その分必ず報われる。よく働く人間からなる大きな集団が、のんびりと過ごす人間からなる小さな集団を凌駕しても、それは仕方のないことだろう。(p.81〜p.82)
今や、アベルを殺したカインに象徴されるような頑固さや愚かさ、勤勉さ、つまり新石器時代の人間とその子孫を成功に導いたやり方、そういうものがこれからもずっとふさわしいかどうか問い直すべき時でもある。我々の遠い祖先の狩人は、ライオンと同じように、あくせくとは働かなかったに違いない。我々はそういう祖先からこそ学ぶべきではないだろうか。(p.82〜p.83)


★★★ 現代語訳般若心経 玄侑宗久
私の60年近い人生で、過去何回か般若心経が流行ったことがあった。学生時代にもあって、何冊か本を読んだ。先輩に暗唱している人がいて、私も挑戦したがダメだった。最近も又流行しているようだ。この著者は、僧侶であり作家である。以前、芥川賞を受賞した小説に感動した記憶があり、その後対談集も読んだ。それで、この著者の書くものはおもしろいに違いないと思い手に取ったが、期待通りだった。CDも出ているので、覚える努力をしてみよう、かな・・・
ソクラテスは、自己とは身体よりもむしろ霊魂(プシュケ)であり、この霊魂をよい状態に保つことに人間としての「しあわせ」があると考えた。しかし彼は、理知では届かない「無知の知」を大いに自覚していたにも拘わらず、結局はそれを体現する手立てを見出せなかった。霊魂(プシュケ)がある種の「全体性」であれば、むろん理知によって到達できるはずもない。いかにソクラテスがデルフォイの神託どおり賢明であり、その弁明が優れていたとしても、理知的な分析知は必ずや「全体性」を分断する方向にはたらく。「全体性」とは、体験的に観ずるものであって、分析するものではないのである。世尊が提出したのは、理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式である。そして世尊はそれを「般若」と呼んだ。「個」の錯覚が元になった自己中心的な世界の眺めは、このもう一つの「知」である「般若」の実現で一変するのである。絶えざる変化と無限の可能性が「縁起」として実感され、あらゆる物質も現象も、「空」という「全体性」に溶け込んだ「個」ならざるものとして感じられる。そのとき人は、「涅槃」と呼ばれる究極の安らぎに到り、また「しあわせ」も感じるのではないだろうか。こうしたもう一つの「知」の系譜は、たまたまというかほぼ共時的に中国でも発生していた。老子や荘子によってである。(p.11〜p.15)

★★ ソーシャル・ウェブ入門 清川海彦
一応一通りはやっているつもりだったが、なかなかに奥が深い。進化が早いので付いていけないという面もある。最終章に『グーテンベルク以来のメディア革命が進行中』というタイトルが付けられているが、あながち誇張とはいえないだろう。この先どこまで行くのか、それによって人はよりよい生活を送ることができるのか、技術面だけを追い求めてはいけないだろう。
Geogleについてもっと研究する必要がありそうだ。
この手の本によくあることだが、誤字脱字が多い。この本は特に多いと思う。

★★ 江戸の温泉学 松田忠徳
江戸時代に温泉が栄えていたのは分かるが、科学的な研究行われていたのには驚いた。もちろん東洋医学的なものもあって、現代のように科学一辺倒ではなく、うまい具合に温泉が利用されていたようだ。近代になってからは西洋医学全盛で、対処療法的になり、温泉の荒廃を招いたということのようだ。「西洋医学は体を治す。温泉は心と体を直す。」という言葉が何度も出てきた。
当時一番の温泉は城崎だったようだ。しかし、この本の著者は別の本で今の城崎をこき下ろしていた筈だが、一言も触れていない。まあ,この本は江戸時代がテーマだからいいのだろう。

オマケ「城崎温泉の堕落」(今までに得た知識のまとめ)
昔の温泉宿には内湯がなかった。湧出地の近くに共同湯があり、新鮮なお湯に入っていた。しかし、宿が内湯を欲しがった。客が呼べるからだ。湧出量が十分あれば問題ない。いや、湯質が落ちるので、遠くへ運ぶのには問題がある。更に、宿が風呂を大きくしたり数を増やしたりすれば、湯量不足は決定的だ。団体旅行全盛期にそうなってしまった。城崎が全国に先駆けてやったことは、個性的な源泉を全て一箇所に集めて、つまり混ぜ合わせて、各宿に配分するということだった。合理的ではあるが、温泉を単なるお湯としか考えていない。それでも足らないと温泉の使い回し(循環)ということになる。このようなやり方が全国に広まった。

★★ 夕凪の街 桜の国 [まんが] こうの史代
映画を見たので原作を読む気はなかったが、親切にも貸してくれる人がいたので読んだ。といっても、まんがで98ページ、のもの。かなり忠実に原作を映画化しているということが分かりました。

★★ 外国人力士はなぜ日本語がうまいのか 宮崎里司
意外なことに、いや、当然のことかもしれないが、当たり前のことが書いてあった。学問に王道なし、なのだろう。意外だったのは、外国人力士がみな真面目だということだ。相撲界に深く関わった著者が、悪口を書けないということもあるかもしれない。特に、朝青龍は真面目で言葉のニュアンスが理解できずに誤解を招くことがあると書いてあったが、俄かには信じ難い。7月場所後にも問題を起こしているし。

★★ ひとりぼっちの私が市長になった! 草間吉夫
生後3日で乳児院へ、2歳になって児童養護施設へ、という生い立ちの著者が、2006年2月に茨城県高萩市の市長に当選するまでの半生を書いた本。感動的な内容である。
こうした日本の児童福祉の実情を知るにつけ、私は自分が現場のスタッフの一人であることの無力さを痛感せずにはいられなくなった。この現状を打開するには、政治や行政のレベルからアプローチしなければどうにもならない。(p.151)
というわけで、松下政経塾へと繋がっていく。この辺りは感動的でない。何故この方向に行く人が多いのだろうか。いや、現場で頑張っている人のほうがはるかに多いが、世間で取り上げられ注目されるのはこの種の人だ。そして○○○先生のように、なんか違うんじゃないか、になってしまう。この著者には初心を忘れずに頑張って欲しいと思う。

★★★★ カラヤンとフルトヴェングラー 中川右介
ベルリンフィルを巡る物語である。物語といっても事実を丹念に繋ぎ合せたものだ。主要な登場人物は、書名になっている二人と、チェリビダッケの三人である。この三人を知らない人は読まないほうがいい。知らなくてもそれなりには楽しめるだろうが、知っていれば抜群におもしろい。300ページちょっとだが一気に読めた。実際は事実だけではなく、著者の想像がかなり入っている。しかし、著者の書き方が素晴らしいので、実際の出来事と著者の仮説が明確に区別され、説得力がある。
カラヤンを支える人々が多く存在しており、彼を守り支援した。逆に言えば、カラヤンによって食べていける人々がそれなりにいて、彼のために骨身を削るのを惜しまなかった。(p.202)
戦後ドイツ首相がこの音楽祭に初めて出席するのは、再開から半世紀以上過ぎた二〇〇三年のことだった。日本の小泉首相が本場でオペラを見たいという理由で政府専用機を飛ばしてヨーロッパ歴訪をした際の、あのバイロイト訪問時である。日本の首相を出迎える以上、ドイツもシュレイダー首相が行かなくてはならないという大義名分が立った。こうしてバイロイトの戦後は、二十一世紀になってようやく終わったのである。(p.229-p.230)


★★ ニッポンの境界線 境界線引き隊
『広告』という雑誌に連載されている企画で、「この国のあらゆる曖昧なものに、ズバッと境界線を引く!」ということをやっている。「太平洋と日本海の境界線」はバカバカしさがよかった。「ニートの境界線」はかなりその定義が難しいということが分かった。「青と緑の境界線」はおもしろさを追求したために掘り下げが足りない。それぞれそれなりの面白さはあるが、まあそれだけのものである。

★★ 朝の習慣 佐藤伝
この手の本は普通読まないのだが、購読しているメールマガジンで絶賛されていたので読む気になった。科学的な根拠が示されているものもあれば、信じるものは救われる的なものもあって、結構おもしろく読んだ。しかし、52の幸福を呼びよせる朝の習慣、すでに実行しているものもいくつかあるが、新たに実行しようと思うものはあまり無かった。

★★★ 愛国の作法 姜尚中
私はこの著者の言うことに共感できる。同世代ということもあるが、彼は世で言われるほど左ではなく、バランスが取れていると感じられるからだ。しかし、この本はあまり出来が良くない。変に力が入りすぎて、どこを対象に書いているのかハッキリしない。その分、分かりにくくなっていることが残念だ。
愛国心の対象である国といっても、それが「自然」と「作為」のふたつの世界にまたがっている以上、国を愛することが感情の問題だけに尽きないことは明らかです。(p.37)
祖国に対する強い愛情が一方にあり、政府が現に用いている政策に対する軽蔑と呪詛とが他方にある。二つのものは噛み合いながら結ばれ合って、彼の心のうちに充ちている。彼の心は分裂の状態に置かれる。(清水幾多郎『愛国心』)(p.114)
国民が国家に対して与えようとするものと、国家が国民に要求しているものとの間の距離は、教育の力を通じて埋められていくのです。(p.144)

patriotism と nationalism について考えてみなければならない。

★★★ 獄中記 佐藤優
500ページにも及ぶ大冊。手に取ったとき読むのをやめようかと思ったが、ちょっと読むと惹き付けられた。この著者はスゴイ人だ。512日間の拘留生活を読書と思索に費やすということは、変な言い方だが、羨ましいという気がしないでもない。実際にそのような立場におかれたら、出来るかどうか疑問だが。この本は日記だから書かれてあることが断片的になっている。今後も文筆活動を続けるようなので、あまりに宗教の専門書のようにならなければ、追ってみよう。
永山氏(永山則夫死刑囚)に対して私が一番違和感をもつのは、同氏に責任感が完全に欠如していることです。責任感は、学習能力や表現力、判断力とは全く位相を異にする概念です。帝王学では、あえて責任感の欠如した人物を作ります。金正日に対してわれわれが違和感を覚えるのも金正日の拉致問題に対する責任感が極めて希薄だからと思います。しかし、北朝鮮のこのシステムが、日本の近代天皇制のコピーであることに気付いている日本の知識人がどれくらいいるかということです。永山氏の場合も拘置所独房の中で思想的には「天皇」になってしまったのだと思います。(p.163)
ヘーゲル左派運動総括書「ドイツイデオロギー」は、マルクス、エンゲルス、ともう一人、モーゼス・ヘスによって書かれた。それは、マルクス主義に発展し、ソ連という国家を創り出した。一方、ヘスはその後、シオニズムのイデオローグとなり、イスラエルという国家を創り出した。二〇〇年後、マルクス主義は思想史上、「一九世紀末から二十世紀に強い影響を持ったユダヤ教の一宗派」という形で整理されるかもしれない。(p.311)
僕はソ連型社会主義が内側から腐っていった最大の要因は「性善説」を基本に社会建設を考えたからと思う。(p.317)
ルカーチが「立場を離れた自由な見解など存在しない」と考えたのは正しい。(p.443)

★★★ 字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ 太田直子
なかなかに面白い本だった。
「マダム・グルニエのパリ解放大作戦」 (原題 "Soft Bed, Hard Battle")の裏話にはとても興味を引かれた。昭和天皇がでてきてヒドイ描かれ方をしているようだ。劇場公開はしていないが、テレビで放映するだけでも英断だ。ソクーロフの『太陽』と絡めて読ませる話だった。DVDにもなっているようだが、見る価値があるかは疑問。
「読めない!〜文脈の壁/〜教養の壁/〜流行の壁」というセクションも説得力のある内容だった。今世の中には、状況の分からない、頭の回転が悪い、浅薄な流行ばかり追いかける、困った人たちが増え過ぎている。
字幕屋の悩みは深い。要は、どこに「知識の基準」を設けるかなのだが、知識の格差も多様さも広がる一方だ。映画の観客全員に納得・理解してもらえる字幕が理想でも、現実にはあり得ない。せめて「最大公約数」に限りなく近づこうと、字幕屋は今日も世間を漂流する。けれども、たいがい座礁する。(p.164)
早さと安さ、すなわち時間とカネの節約。このふたつを最優先にする効率主義がちまたにあふれている。質を保つために必要な時間(労力)とカネを惜しめば、世界は低劣で薄っぺらなものになってゆくだろう。けれどもヒトは順応性が高いので、いつの間にかそれに慣れてしまう。怖いのはそこだ。(p.201)

字幕の将来は危うそうだ。字幕なしで見れるといいのだが・・・

★★ 世界から貧しさをなくす30の方法
       田中優・樫田秀樹・マエキタミヤコ【編】
貧困を構造から解決する3つの処方箋/その1:食料の自給自足をめざすこと (p.60)
これが目新しい発想だった。でも、結局のところ個人としてはほとんど何も出来ない世の中になってしまっていて、分かってはいてもなかなか行動にはならない。どうすればいいのか?

★★ とっておき京都 中村壽男
サブタイトル、NO.1ハイヤードライバーがこっそり教えます。
勤続25年のタクシードライバーが京都を案内するという趣向。案内書としては、京都初心者にはいいかもしれない。そんなに取って置きのスポットが紹介されているとは思えない。印象に残った場所は、山中油店といったお店いくつか。印象に残った話は、臭いにすごく気を使っているということ。タバコはもちろん、食べ物も制限しているとのこと。いつか、中村さんのハイヤーで京都を廻って見たいという思いは強く持ちました。

★★ 螺鈿迷宮 海堂尊
この著者3冊目。相変わらず読ませる。面白い。しかし、何かが足りない。この手のものは読んで楽しかったでいいのかもしれない。でも、しかし、だ。これだけ医療の世界の内実を書いて、軸足がどこにあるのかわからない、どこへ向かおうというのか判らない。著者の医者という立場からすれば、書けないのかもしれない。書こうという意志は初めからなく、自分の熟知した世界を舞台にしただけかもしれない。やはりその辺りが物足りない。

★★ 団塊格差 三浦展
この著者の本は3冊目である。今年初めに読んだ『下流同盟』はよかった。しかし、昨年はじめに読んだ『下流社会』は?だった。この本も?だった。ともにアンケートをもとに書かれたものだ。オマケにインターネットを使っている。著者本人も書いているが、サンプルが偏る可能性が大である。
団塊世代についての3冊目の本だそうだ。団塊世代を飯の種にしているようだ。アレコレ分析しているが、他の世代との比較がないので、団塊世代に特徴的なことかどうか曖昧ところが多々ある。あとがきに「団塊世代はマスメディアによってつくられた大きな虚像である、という側面があるのではないか」とあるが、著者自身がこのマスメディアの一部であろう。

★★★ なぜ勉強させるのか? 諏訪哲二
教育再生を根本から考える、と言うサブタイトルにある。まさしく根本から考えている。この本の著者は、直前に読んだ本の編著者、プロ教師の会の中心メンバーである。当然同じようなことが多々書いてあるが、思考が深化していて哲学書を読んでいる気分になることもあった。前書と同じで、とても共感できる部分と前提が違っていると感じる部分とがあった。
学力低下は、子ども・若者たちの生きる姿勢や社会とのつながりから派生してきたことである。子ども(若者)はたくさん教えれば、たくさん学ぶわけでもない。子ども(若者)は水を入れる皮袋ではない。自らの意志とそれぞれの主体性を持っている。だから、「学力向上」問題は単に学力問題ではなく、子どもたちの生きる姿勢や学ぶ姿勢の変化とつなげて論じられる必要がある。(p.41)
「神」や普遍を前提としないで、人間は特別な存在であることを説明(証明)できない。私たちの近代世界は、そういう虚構(幻想)の上に構築されているのである。人間がほかの動物とあらかじめ異なるという事実は、科学的には証明できない。(p.74)
子どもは必ず社会に(世界)に途中乗車してくる。その始まりやルールの決定に立ち会ったわけではない。それでも社会の法や、ルールや、文化に従わなければならない。(p.80)
小学生の学びも、ただ子どもの「自分」が知識を受け入れることではない。「知」の構成力によって「自分」の内面を変革することなのである。そこで「自分」は一度否定されるのである。それができれば子どもの「自分」は、社会的な自己に変身する。勉強するということは、「自分」を社会的な自己に変革することである。勉強したあとでは、勉強する以前と「自分」のありようが変わっているし、変わっていなければならない。(p.134)
もともと「神」を持たない私たちの文化は、アメリカに追いつき追い越せという国民的目標を物質的(経済的)に達成したとき、垂直的な精神的価値を放擲してしまった。(p.204)
「なぜ勉強しなければならないのか」も「なぜひとは勉強しなければならないのか」と、「なぜこの私は勉強しなければならないのか」の二重に構成されている。(p.235)
ここ日本は、近代人の孤独を救ってくれる宗教を欠いている。すなわち、「自分」のことは自分で考え、自分で解決すべしという純化された近代社会であるとも言える。「世間も、共同体的なものも消失した」と言われてすでに久しい“個人の国”なのである。子ども・若者にはつらい社会なのである。(p.235-p.236)


★★ 教育大混乱 プロ教師の会【編著】
立ち位置は違うが、同業者であるから共感できる点は多々ある。
寺脇氏の<中学卒業時点で全員百点でないとおかしいんです>は教える側や行政側の主体が絶対で、学ぶ側の主体性が無視されているが、実は寺脇氏たち文部省キャリアたちは教える側=教師の主体性もまったく無視して改革を強行しようとした。自分たち文部省官僚のトップが決めたことは教師たちはそのまま受け入れるべきだと増長していた。(p46-p.46).
必修科目の未履修問題で露呈したように、法的規程を各地方教育委員会や各学校の実情に応じて「読み替えて」実施するという“知恵”が作動したのも、法的拘束性の見当違いの方向性を現実展開において修正していたといえます。(p.152
)
しかし、何か違うと思う点もある。「子どもが変わった」という主張だ。確かに子どもは変わった。だがこの主張が前面に出すぎて、何故かという掘り下げが足らない。ポイントの置き方がずれていると言ってもいいだろう。「ゆとり・生きる力」派と「学力向上」派は根本においてそんなにかけ離れたものでもないという気がする。学校は社会に取り込まれている、これが現実であり、出発点であり、結論でもある。

★★★ 病気にならない生き方 新谷弘実
ベストセラーになるだけあって、なかなか衝撃的な本であり、説得力もある。ただ、この手の本の常として、宗教的なにおいが感じられ、また、読んだ人がその内容をどれだけ実行に移すかは疑問である。実行しないと、世の中の人ほとんどが癌などの病気になるのが避けられない、ということになりそうだ。とはいえ、普通何もしない私が、一つだけやってみようと思ったことがある。それは浄水器を付けるということだ。つまり買ってくるだけでできることである。
印象に残ったこと:BSEは、そもそも草食動物である牛に動物性の食物である「肉骨粉」を与えるという自然の摂理に反したことを行ったためにおこった。農薬を使ったものより遺伝子組み換えの作物を選んだ方がいい(農薬はそれほど恐ろしい)。人の精神が肉体に働きかける力はとても大きい。

★★ 大学入試の戦後史 中井浩一
京大の後期廃止により、阪大や神戸大の後期志願者が大きく増えている。(p.32) これは嘘だ。
今の高校生の問題点は、発想、表現、独創性などを問う前に、基本的な経験が乏しくなっていること (p.74)
「論文入試」開始以降の受験世代で、現在京大経済学部の教員として勤務しているのは、分野・出身大学を問わず五名。うち三名が論文入試による合格者である。(p.80)
東大は国大協を割ることはできないし、文科省と真っ正面から喧嘩もしない。東大が抜ければ国大協は崩壊するだろう。一方京大は国大協を割ることも平気だし文科省を無視することも歯牙にもかけないやんちゃである。(p.177)
日本の教育改革で頻出する「多様化」や「個性化」ほどインチキな言葉はない。「多様化」や「個性化」はいつも、上から強制され、いつも横並びの均一化・画一化しか意味しないからだ。「多様化」や「個性化」「選択」の名の下に、実は正反対のことが行われる。「多様化」の中に多様化をしないという選択肢は含まれず、「選択」の中に選択しないという選択肢が含まれない。どこまでも、横並びである。(p.219)
教育に金をかけないでやってきたのだ。これは今も変わらない。(p.229)
入試においてだけは、絶対的「自由競争」が行われたが、それは唯一、大学の入口だけのことであり、それ以外は移動のない「ムラ社会」だ。それによって「ムラ社会」内部の一体感を守ったのだ。これが「競争しないための競争」の実体であり、日本の大学入試の核心部分だ。(p.352)

この手の本、一般人は読まないだろう。教育には、自分の子供が学校というものに行っている間だけしか関心を持たない、ということではないか。日教組が弱体化した今、教育はお上の意のままになりつつある。この本も、結構面白い分析をしているが、有効な提言はない。そもそも、そんなものはないのかもしれない。

★★ インテリジェンス 武器なき戦争 手嶋龍一・佐藤優
今旬のお二人の対話。この手の本は討論にならないのが欠点か。文を読んでいるだけではどちらが話しているのか分からないことが多い。内容は興味深いものもあるが、今ひとつ自分とのかかわりが実感できない。さらに共感できない点は、判断の基準がとても主観的に思われることだ。日常の活動方針、緊急の場合の動き方、その資金の問題、情報公開のやり方、など一歩間違えば大変なことになりそうだ。この本の中にも、人が情報を漏らすことを非難しているが、かなりやばいことが書いてあるのではないか。そのあたりの差が凡人には理解できない。
外務省の構造的な問題として、多くの課長レベルの外交官は語学力が基準に達しておらず、サブスタンス(外交の実質的内容に関する知識)や交渉力も弱い状況になっている。(p.162)
仮に現時点では嘘をついたとしても、後世に対しては絶対に嘘をついてはならない。そのためには記録を残しておかなければいけない。それが、国家や歴史に対する責任です。ところが今は、記録なしのメチャクチャな外交が行われている。(p.165)
いまの日本のジャーナリストの仕事を自嘲を込めて「焼き畑農業」と呼んでいるのです。燃え尽きるまで使ってポイなのですから。いわゆる中間研修、ミッドタームキャリアが、この世界には基本的にない。(p.201)

日本にはどの世界にも中間研修なんてないのではないか。

★★ 太陽の塔 森見登美彦
2003年、第15回ファンタジーノベル大賞受賞作。著者は、京都大学農学部大学院に在籍、二足の草鞋のようだ。大学生を主人公に京都市左京区が舞台で、先ずは懐かしく地図を見ながら読んだ。(御蔭通り、東鞍馬口通りという名前をはじめて知った。)文章は上手いが、内容とともに、少し軽い。若さゆえの、あるいは風土が生み出すものなのか、衒い、気負い、それと同時の、脱力、が面白く、私には好ましく思われる。太陽の塔が作品の中で上手く機能していないように思われる。様々な読み手に様々なイメージを与えるからではないか。最後にまとめようとしたのも中途半端だった。しかし、楽しく読めました。京都で生活した小説好きの人にオススメです。

★★ 右翼と左翼 浅羽通明
ヘーゲルによれば、他を抑圧して好き勝手をやるのとは対極な生き方、つまり自分のみならずあらゆる人間が「自由」なのだと認識して、他人を侵害せず、他人と共通する国家や社会の公共的な利益増進へ貢献すべく生きてこそ人は真に「自由」となるのだそうです。(p.82)
明治維新でできた政府は、天皇を国家の中心に据えました。しかし、それは薩長出身の国家指導者があやつるロボットでした。大日本帝国憲法制定後、それは立憲国家の象徴的君主というかたちで制度化されたのです。しかし、この近代的政治理論を理解していたのは、東京帝国大学などを卒業し、高級官僚や学者になるようなエリートのみでした。一般庶民、またエリートでも軍人向けの教育では、天皇は「万世一系」の「現人神」で全国民の慈悲深い父母と信じさせられたのです。戦後、思想家久野収は、これを仏教内のエリート向け教義と大衆向け教義とのダブル・スタンダードに喩えて、前者を「密教」、後者を「顕教(けんぎょう)」と呼びました。(p.152-p.153)
今から思えば、防衛問題と同様、ここ[経済問題]でも、「左」はトスを上げ、「右」はそれを受けて官僚など実務部隊により実行するという役割分担、棲み分け図式が見られますね。最大の左翼政党日本社会党などは、高度経済成長による儲けから、官庁や大企業の労働組合「総評」への分け前をがっちり要求するロビイストとして、自民党へぶらさがる諸団体同様、利益分配政治の一翼を担ってゆくのでした。(p.186)
もはや「自由」「平等」の方向へ歴史を進めようとする「左」と、それに抗する「右」という直線的な図式が分からなくなるのも、無理はありません。今や、左端と右端がある軸自体、経済、政治、文化、軍事、外交と、四つか五つは想定できます。これでは一次元である直線どころか、四次元、五次元です。(p.233)

「後手・守勢に回るばかりの現状批判――いつもおよび腰な平成左翼」(p.212-p.214)、は格調の低い、論理が独断過ぎる、最悪の部分である。ここまで、多少右寄りを感じさせる所はあったが、マアマアの内容だったので残念である。

★★ 日本の食卓からマグロが消える日 星野真澄
NHKのディレクターが番組の取材を基に書いたもの。NHKとはいえ、テレビ番組である、多少の誇張が感じられる。それを差し引いても、これからの日本の食卓が大きな変化を迫られることは間違いなさそうだ。というか、今すでに、変わりつつある。それも変な方にいっている。贅沢をしすぎたともいえるだろう。なにもマグロを食べる必要はない。野菜だけでなく、魚にも規格化ということが起こっているそうで、驚きである。小型のアジやサバは養殖魚の餌にまわされ、それも余っているそうだ。それを中国人が買い付けに来ている。高級なものだけでなく何でも買いあさっているようだ。これからは中国の動きが全ての面で世界を動かすということが一層印象付けられた。。
中国人に伝統的に伝わる食材のランキング/下段から順に、豚、とり、牛、そして最上段が魚介類となっている。/さらに最上段の魚介類の中は、二種類に分類されている。下段が川魚で、上段が海鮮である。(p.21)
規格外の小型サバと小型アジは、松浦市場の冷凍倉庫に数万トン、売り先の見つからない在庫として眠っている。(p.41)
中国との水産物買い比べで、すでに負けてしまった象徴的なアイテムが、オーストラリアのロブスターであった。(p.156)
日本の漁業全体が衰退の一途を辿る中で、様々な用途の漁船が、次々と海外へ売却されている。気仙沼で次々と売却され、港から姿を消していく遠洋マグル漁船。そのことが意味するものは、日本の食糧基地の崩壊であり、日本から急速に食料を自給する技術と人材が消滅していっているということではないだろうか。(p.229)


★★ 虚構 宮内亮治
サブタイトル、堀江と私とライブドア、と聞けば、著者が分かるだろう。もう少し突っ込んだ具体的な話を期待したが、なるほどと思わせることはあまりなかった。著者が描くホリエモン像と我々が持っているホリエモン像は見事に一致する。あまりにピッタリなので、変に邪推をしてしまう。つまり、その方が著者には都合がいいから、ひょっとして実際のホリエモンは違うのに、わざと世間の見方にあわせているのではないか、と。
本の内容とは関係ないが、ホリエモンの裁判に対する姿勢はとんでもないものだ。トップに立つものはいかなる場合でも責任を回避することは許されない。
著者の場合どうなのだろう。本を読んでもよく分からない。裁判の結果をまとう。彼の10年後、20年後を見たいような気がする。

★★ 彼女がニューヨークで一番の花屋さんになれた理由 佐藤富雄
著者がアメリカで聞いた話。ファンタジー、と書いてあるが、どちらかと言うと、寓話。前半がお話しで、後半はその解説になっている。『鏡の法則』を思い出させる。一応読ませるものではあるが、感動を受けるというものでもない。古い脳と新しい脳の話はおもしろかった。
まずは「今日もきれいね」と鏡の自分に向かって語りかけてください。そうすると、想像上の梅干しに唾液を流したように、「古い脳」はあなたの言葉をそのまま鵜呑みにして快楽ホルモンを分泌し、やがて「わたしはきれいだ」というセルフイメージをつくっていきます。

★★★ グロテスク 桐野夏生
上、397ページ。下、453ページ。
題名の通りちょっとグロテスクなお話しでした。東電OL殺人事件を下敷きにしたようですが、私その事件の名前は記憶にあるのですが、当時興味がなかったのでどんなことだったのかよく分かりません。参考文献に佐野眞一『東電OL殺人事件』が挙げてあるので読んでみようかと言う気になりました。気になっただけで、読まないでしょう。基本的に主人公の一人称なのですが、手記・上申書・日記、また手紙といった形で他の主要登場人物の一人称を挿入して(このような構成自体は珍しいものではないが)、面白い効果を出しています。そして、登場する女性たちの生き方、考え方、心の動き、変にリアリティがあり、薄気味悪く感じます。一気に読ませる力を持った傑作です。

★★★ 名もなき孤児たちの墓 中原昌也
久し振りに純文学を読んだ。今時、純文学という範疇があるのかどうか。
昔だったらとても感動したと思う。今でも結構感動した。ただ、若いなと思う。流れも文章もちょっと硬い。力を抜いているようで実際はかなり入っている。
この中の唯一の中篇「点滅・・」が芥川賞で総スカン、短篇「名もなき孤児たちの墓」が野間文芸新人賞をほぼ満場一致で受賞、というのも分かるような気がする。
この先注目。

★★ 映画館と観客の文化史 加藤幹朗
パノラマ館も映画館もともに観客を世界の中心に位置づけ、世界を視覚的に統御したいと思う人間の欲望を満足させる装置(p.9)
車から降りることなく映画を見ることのできるドライブインシアターが世界ではじめて出現したのは一九三三年の初夏(屋外上映会にうってつけのシーズン)、アメリカはニュージャージー州でのことであった。(p.128)
アメリカのシネマ・コンプレックスは、五〇年代から活動していた国内の多くのアート・シアター(非商業映画、芸術的映画、実験映画、要するに「非均質な映画」を専門的に上映する映画館)を閉館に追い込み、同時に外国映画の上映の機会を奪いことになった。アメリカの映画館からは異質なものは排除され、もはや外国映画を字幕付きで上映することはほとんど不可能となり、それとともに外国映画の再映画化権の売買という新しい商習慣が生まれることになった。(p163〜p.164)
一九七三年の第四次中東戦争に起因する石油危機と輸入車によるアメリカ国産車への圧迫がキャデラックのような五〇年代の大きすぎる車体を不可能なものにした。もはや車内は快適に映画鑑賞をする第二のリヴィング・ルームといえるほど広いものではなくなった。(p.165)
今日のシネマ・コンプレックスは一九世紀のパノラマ館の三六〇度の視界のかわりに、三六〇度の聴界を構成しているように思われる。(p.167)
ジャンルとしての小唄映画は生成的に二種類に分類することができる。すなわち第一に、あらかじめ小唄が人口に膾炙しており、その大衆的認知度をもとに映画化するというもの。第二に、なにもないところからはじめる方法。つまり主題歌(小唄)のレコードの企画制作販売とほぼ同時に映画制作を進行させ、レコードの浸透と同時に小唄映画を封切ってヒットさせるというものである。(p.231)

著者も書いているが、面白い視点からの取り組みであるが、まだ成功しているとは言えない。客観的データが不足していて、そこを主観で補足しすぎている。逆にそこが魅力でもあるのだが、論文にはならない。文章がちょっと変。紋切り型を使ったかと思うと、ひどくペダンチックになったり。カタカナ表記も、正しいのかもしれないが、慣用されているものを無視している。テレヴィ・ミディア・ドライヴ・など。

★★★ セックスボランティア 河合香織
障害者の性に関するノンフィクション。
この本の中にも書いてあるが、障害者の性を考えると言うことは、健常者の性についても考えると言うことだ。何れの性も公けに議論されることは少ない。何が正常で何が正常でないのかは判断が難しい。そもそも人間の性欲は異常なのかもしれない。
障害者に対する性のボランティア、障害者専門の風俗店、外国(オランダ)の状況、いずれも衝撃的な内容だ。特に、障害者ではないが、オランダの刑務所の話(受刑者はパートナーと会って、セックスするための個室を利用できます。パートナーではなくても、売春婦を呼ぶことも出来ます。(p.150))には驚いた。また、障害者にセックスをするためのお金を市役所が助成金として出す(p.171)、というのにもビックリ。

★★★ 夜と霧 ヴィクトール・E・フランクル
原題は「心理学者、強制収容所を体験する」
1947年に出された本。30年後に原著者が新版を出し、この本はそれによる改訳。
アウシュビッツの被収容者の心を描いたもので、とても衝撃的だ。第一段階収容、第二段階収容所生活、第三段階収容所から解放されて、の三部構成である。当然第二部がほとんどを占めるのだが、短い第三部も心に響くことが多い。引用の最後のものがそうである。
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。(p.113)
強制収容所所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義される(p.118)
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。(p.134)
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とは何ものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(p.145)
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。(p.149)


★★★ 脳はなにかと言い訳する 池谷裕二
著者が「おわりに」で書いているが、この本の内容は100%科学的なものではないようだ(科学風エッセイ、いや厳密には科学的な知見から派生した私の妄想 p.335)。しかし、いや、だからこそ、この本は面白い。例えば――ストレスの話。(重要なことは、ストレスを解消するかどうかではなく、解消する方法を持っていると思っているかどうかです。p.71)――血液型の違いは遺伝子の違いだから、人格に影響が無いとは言えないだろうという話。――1回記憶が固定され安定化すれば、なかなか消えない。しかし、一度思い出すと、安定して蓄えられていた記憶が不安定になってしまう。(引き出しの中のペンを取り出して使った後、きちんといつもの場所にしまわないと、次に使いたいときにどこにあるのかわからなくなってしまうことに似ています。p.256)――プラシーボ(にせの薬)を使った痛みが軽減される実験。(心は感覚さえもコントロールする。p.268)――血圧を下げる話。(コントロールできないはずだった自律神経も、実は「自律」でなく、意識によって自在に制御可能な神経になるわけです。p.327)――などなど興味深い話に溢れている。

★★ 文学賞メッタ斬り!リターンズ 大森望・豊崎由美
島田雅彦をゲストに迎え、パワーアップを図る。(マンネリを防ぐ。)うまく行っているように思われる。素人が思っていても口に出して言い辛いことを、ズバズバ言ってくれるのでなかなか痛快である。読もうと思っていた本をやめたり、これなら読んでみようと思わせることもある。ただ、最後の「文学賞メッタ斬り!」大賞、は悪乗りだ。

★★★ 下流志向 内田樹
著者の思考が見えてきた。当然ながら、以前読んだ本のあった思想がこの本にも繰りかえされている。何か違うと思うところがある一方で、なるほどと納得させられるところも多い。だから、読みながらいろいろと考えさせられる。日本の現状について、私も私なりの視点でまとめてみようという気になった。(実行への道は遠い!))
学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。(p.37)[『オレ様化する子どもたち』より]
「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。(p.72)
リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから、「リスク社会を生きる」というのは、巷間言われているように、「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。(p.102)
明治以来、近代化のプロセスの中で、日本人は「迷惑のかけ合い」という仕方でリスクをヘッジしてきました。行政には弱者救済の手をさしのべる余裕はないし、「パイプライン・システム」の確実性を享受できたのも、一部の教育エリートだけです。ならば、貧しいもの同士で相互扶助するしかない。(p.104〜p.105)
労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさです。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、自分の労働に対して、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っているのです。そして、等価交換を原則とした場合、彼らの言っていることはまったく正しいのです。(p.143)
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。・・・学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固執する欲望であるということです。(p.154)
本来育児って、すごく時間のかかる仕事であって、自分の育児が成功したか、失敗したかなんてことは、子供を持つとわかるけれども、二十何年たってもよくわからないものでしょう。(p.167)
ルーティーンを守って暮らしていると、一日が長いんです。・・・イレギュラーな生活って、ストレスがきつい。それに耐えるためには時間意識をむしろ鈍感にしていかないといけない。(p.226)
天才的なプレイヤーというのは、・・・時間変数込みで、三次元のシュミレーションができる。(p.227)
無時間ビジネス・モデル極限のかたちはプレイヤーに「おまえは誰であってもよい」と告げ、最後には「おまえは存在する必要がない」と告げることになるでしょう。


★★★ 探偵倶楽部 東野圭吾
短編集:偽装の夜/罠の中/依頼人の娘/探偵の使い方/薔薇とナイフ
「偽装の夜」はとてもよく出来た作品だ。伏線が張り巡らされ、読んでいてあちらこちらへ誘導される。最後の方まで謎に包まれているが、ラストはちょっとの意外性を含んだ納得の出来る結末である。登場人物の造形がうまく行っているので、人物が生きていて謎解きを支えるストーリにも面白さがある。
「罠の中」、ちょっと出来すぎ。「依頼人の娘」、これも凝り過ぎ。「探偵の使い方」、女は怖い。「薔薇とナイフ」、これが二番目の出来。とても楽しませてもらった。

★★ 英語耳ドリル 松澤喜好
英語学習法の本の中ではまともなもの。ただし、学習者が繰り返しに耐えられるかどうかは疑問。結局、言葉の習得はまず第一に学習者の意欲だろう。

読書中 <民主>と<愛国> 小熊英二
966ページ。厚さ、約5cm。製本技術が進歩しましたね。重さ1kg位。1ページ21行、1行52文字。
「ある少年兵の天皇観」(p.108)は具体的な話で、引き込まれた。その当時のかなりの人が天皇は自害すると思っていたようだ。
戦前の行幸で見た軍服姿の天皇と、戦後の地方巡幸のニュース映画で見た「バカの一つ覚えのように『あ、そう』を繰りかえす猫背の天皇」とのギャップに悩んだ(p.132)
昭和天皇を一人の「人間」として天皇制から解放するという、「天皇の天皇制からの解放」(p.136)
新憲法は、たんにアメリカからの圧力で押しつけられたというより、保守政治家たちの生き残り策として受容されたのである。(p.161)


★★★ 風に吹かれて豆腐屋ジョニー 伊藤信吾
ここの豆腐がいかにして誕生したか、よくわかる本です。豆腐の製造法に詳しくなくても理解できます。(何度か出てくる「ロケンロー」という言葉はたぶんロックンローラーの英語風発音だと思うが、ちょっと理解不能。)ここの社長、考え方がいいですね。行動力が素晴らしいですね。この先ずっと美味しい豆腐や豆腐みたいなものを作り続けて欲しいと思います。最後に書いてある、「三和豆友食品の社長であった父は、〇六年五月に突然の退任。」とはどういうことなのでしょう。
いまや100円ショップへ行けば、何でも買える。中国で生産した安いのが。それと競争していくには、ものの背後に世界観がなきゃいけないと思うんです。それがなきゃ、ものは売れない時代だと思う。(p.180)
何が格好好いかという基準が、あまりにも誰かに決められている気がするんです。ひとつのブランドだけに人気が集まって、値段がどこまでも上がっていくという。みんながみんな、あまりにも同じ方向を狙っている。そういう形じゃないブランド構築があったっていいと思う。(p.190)


★★★ 坐禅 対本宗訓
とてもためになる本だ。坐禅のなんたるかを理解できるだけでなく、当然の結果として、人は如何に生きるべきかについても示唆に富んでいる。後半ちょっと宗教臭さが強くなるのが欠点だが、キリスト教のことまで言及して視野が広い。以前に読んだ「禅僧が医師をめざす理由」よりも、著者が医師を目指した理由がよく分かった。
行住坐臥[ぎょうじゅうざが]とは、歩いて活動しているか、あるいは立ち止まっているか、坐っているか、寝ているか。われわれは一日二十四時間、いずれかの状態にあるというのです。坐禅とは、行住坐臥の中の坐禅です。・・・ということは、横になる禅もあるのです。これは臥禅です。歩く禅(歩行禅=経行[きんひん])もあれば、立ってする禅(立禅)もある。禅とは心を調えること、落ちつけることとするならば、坐っているだけが禅ではないのです。(p.15)
ミルクをお釈迦様に供養した娘さんの名前が「スジャーター」。コーヒーに入れるフレッシュミルクの名前ですね。あれは、このお釈迦様の伝説にちなんだ、とても素敵なネーミングだと思います。(p.23)
<調身・調息・調心>――身体を調え、呼吸を調え、心を調えることが坐禅です。(p.27)

呼吸であれば私たちの自由になります。長くしようと思えば長くもできますし、短くしようと思えば短くもできます。速くしようと思えば速くもなるし、しばらくの間だったら、止めておくことだってできるわけです。呼吸と心は繋がっているのですから、自由になる呼吸をコントロールすることによって、なかなか制御しにくいところの心をコントロールしてゆこう。これが坐禅の基本原理です。(p.45)
欧米語のリバティやフリーダムはどういう意味かといいますと、自分の身の周りに自分にとって都合の悪い状況があって、そこから自らを解き放つことを意味します。ですから、「何々からの自由」という言い方になります。・・・そのための解決方法は二つあります。一つには、影響力の及ばない所へ身を遠ざけるか、あるいは逆に都合の悪いものをよそへ隔離してしまう。二つ目は、自分にとって都合の悪い状況を、自分にとって都合のいい状況、苦痛にならない状況に変えてしまう。すなわち、距離を置くか、もしくは変えてしまうか。これが西欧流の自由の発想です。・・・ところが、東洋はそうではなくて、必ずしも周囲を変えるのではありません。周りを変えることも大切なのですが、それよりも自分自身のあり方を変えてゆこうという方向です。それが「自らに由る」という東洋的な自由です。何事においてもそうですが、東洋的な発想と西欧的な発想とは、相い補うべきものだと思います。お互いにバランスをとってやればよいわけです。(p.113〜p.114)
教育とは教え育てることではなくて、教え育つことである(p.117)


★★ 問題な日本語 北原保雄 編
言葉は生き物だと再認識しました。ただ、この手の本は、つまり、数ページ完結のことが集められたものは、最近苦手になってきた。
わかりきっていること、またその反対の、知るはずのないことについて「・・・じゃないですか」という表現を使うと、聞き手を不快にさせます。(p.25)

★★ 父は空 母は大地
絵本です。インディアンの首長シアトルが土地を買収したアメリカ大統領へ当てた手紙です。19世紀中頃のものですが、今の世にも響く内容です。、いや、今こそ、読まなければいけないものです。
大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。 (p.26)
あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。 (p.34)


★★★ メリーゴーランド 荻原浩
途中、軟弱な主人公にイライラしたが、一応面白く読めた。公務員がカリカチュア化されすぎているが、公務員でない人には問題ないだろう。(お話し全体がそうかもしれない。)主人公の奥さん・路子さんが、釣りバカ日誌のみち子さんを連想させ、最後はハッピーな一家のお話しで終わるのだが、なかなかに空恐ろしい内容だ。主人公一家以外の登場人物にはまともな人がいない。劇団「ふたこぶらくだ」は可笑しなだけでいいのだが、悪意を持った・無責任な・打算的な・自己中心的な人物ばかり。この様なことをサラッと書くのが作者のうまい所かもしれない。
「日本人にとってゴジラってのは生き物じゃない。天変地異なのさ。DNAに刻まれちまった脅威の記憶なんだな、きっと。ハリウッド製のゴジラとはそこが違う。人の力で抹殺して喝采する相手じゃないんだよ」・・
「闘っても勝てないものなの。どこかよそんへ行ってくださいって拝む神様なの。この国の人間って、昔から闘っても勝てないものをたくさん相手にしてきたから、闘うのが下手なんじゃない。百姓の国。無理して闘おうとすると、舞い上がるは、とち狂うはで、ろくなことにならない。誰が何をするかじゃなくて、誰かが何かをしたから、んじゃオラもやるべって、周りを見て雰囲気で突っ走るだけ。みんなで集まって耐え忍ぶほうが得意なの。そして、そうやって耐えてる自分たちが実は案外と好きなのさ」(p.255〜p.256)


★★★★ 中国10億人の日本映画熱愛史 劉文兵
中国で公開された日本映画を通して、日中関係や中国情勢を分析した本。『はじめに』のタイトルが「なぜ高倉健が張芸謀(チャンイーモウ)監督の中国映画に出演したのか」となっている。最近の売らんかなの本だったらこれが本のタイトルになっていたかもしれないが、そうならなかったのがこの本の良識か。とても判りやすく書いてあり、現在の中国映画の興隆が頷ける。欲張りかもしれないが、台湾のことに言及されていればもっとよかっただろう。
苦労を重ねながら子供をヴァイオリニストに育て上げていく父親の姿を描いた陳凱歌監督の『北京ヴァイオリン』(2002年)が現在の中国を舞台にしながらも、親子愛というテーマのみならず、クライマックスのヴァイオリンを演奏するシーンにおいて、主人公の回想シーンが交錯するという演出が『砂の器』を模していることは、日中の映画評論家によって指摘されている通りである。(p.74)

★★ 日本の右翼と左翼 [別冊宝島]
日本の右翼と左翼を人を中心に紹介する本。右翼16人、左翼17人、ほぼ同数であるが、右翼の方に大物が多いという印象は否めない。左翼がまだ権力を持ったことがないということにもよるだろう。内部の権力闘争も左翼の方が非生産的で激しく、人材が育たないのではないだろうか。
重信房子の父親が血盟団事件に関与していたというのには驚いた。

★★ 無敵のラーメン論 大崎裕史
新たな発見はあまりなかったが、楽しめた。わざわざラーメンだけのために出かけることはないだろうが、食べてみたいラーメンがたくさんあった。写真が載っているのだが、モノクロでは意味がない。

★★★ 下流同盟 三浦展
サブタイトル:格差社会とファスト風土。帯には:美しくない日本へ:負のスパイラル:日本のアメリカ化:どこまでもアメリカに追随する国の行き着く先―
世界中の市場を相手にビジネスを考える人間と、その人間の考えたビジネスモデルの中で歯車として働く人間、そして彼らが生産した物を消費する人間とが、はっきりと分断されている。ビジネスを考える人間同士は、日々情報を交換している。他方、歯車として働く人間と消費する人間は、まったくお互いを知らない。有名ブランドのスニーカーやサッカーボールが、遠く離れた国の貧しい少女が学校にも行けずに作ったものであることを、われわれはつい忘れてしまう。そもそもそんなことを知らずに使っている人の方が多い。その意味でそれらの商品には顔が見えない。人間が作ったものであるということすら忘れさせる。そしてブランドだけが見える。(p.236)
世の中が金という価値だけで動いている。だから、効率がいいことは、物の値段が安いことは、価値あることなのだ。そのために失われているものの大切さに人は今気付き始めているのだろうか。

★★ これから何が起こるのか 田坂広志
子供の頃21世紀になったらこんな世の中になります、という話しを聞いたような気持ちになった。予測が当たらないというのではなく、本当かなと眩暈に似た気持ちになったということだ。テンポ良く話を積み重ねていくのでそんな感じを持つのだろう。ふと我に返ると、理論が飛躍しているような居心地の悪さが残る。論文のような緻密さはないし、かといって人間臭さもない。というか、人間の存在は消されているようだ。善意の人間も、悪意の人間も、コンピュータを使わない・使えない人間も。

★★★ 戦争大統領 ジェームズ・ライゼン
サブタイトル:CIAとブッシュ政権の秘密。Original Title : STATE OF WAR
何かに実際に取り組むこととそれを批判することを比較すれば、明らかに批判する方が簡単ではないだろうか。だからと言ってブッシュ政権の肩を持つわけではないが、世界一の大国アメリカの政府は大変だと同情する。それにしても、この本に書いてあることが本当ならば、ブッシュ政権はお粗末だ。ただし、アメリカサイドから見ればそうだが、逆からはどうなのだろう。
ほとんど全編権力者のことなのだが、4−大量兵器を追って、9−対イラン情報工作の失態、に一般人が登場する。一般人といっても、イラク系アメリカ人医師と亡命ロシア人科学者、である。共にCIAがスパイにするということで、特に前者の話はこの本の中で一番興味深いものだった。

★★ 北方領土「特命交渉」 鈴木宗男・佐藤優
中国とは尖閣問題と靖国問題、韓国とは竹島問題と歴史認識問題、北朝鮮とは拉致問題があります。/こうした八方ふさがりの外交を抜け出すためのカギとなるのが、ロシアです。ロシアとの関係が強化されれば、中国と韓国の出方が変わってきます。この二国の態度が変わると、北朝鮮の動きは必ず変化するはずです。/北方領土問題を現実的な手法で解決しようとすれば、ロシアは必ずテーブルについてくる。日本が世界第二位の経済大国であることを忘れてはなりません。経済的な体力がある日本を、ロシアは絶対に無視することはないのです。(p.263)
このあたりが、ロシアとその周辺を専門に取り組んできた二人の主張である。説得力がありそうな、なさそうな。しかし、この二人の本はどれも同工異曲である。外務省の役人を実名を挙げてぼろ糞にこきおろしているが、反応が無いようなのはどうしてだろうか。反論を聞きたいものだ。

★★★★ ライオンと蜘蛛の巣 手嶋龍一
随筆集、と言っていいだろう。ゆったりとしたレイアウトの237ページ、29の小文からなっている。それぞれの初めに地図が描いてあり、ところどころに話に関係する絵が挿入されている。誰が画いたという記入がないので、ひょっとして筆者本人か?
中に幾つか「?」というものもあるが、殆んどがおもしろい。人・場所・建物が渾然一体となり、とても魅力的な世界が現前する。筆者の活動範囲の広さには圧倒させられる。
タイトルの意味:「かぼそい蜘蛛の巣も、人々が手を携えて紡いでいけば、ライオンをも捉えることが出来る」(p.185)
「米ソの冷戦から最も多く戦略的な恩恵を受けたのは日本だった。だが、冷たい戦争で多くを得た者は、同時に多くのものを喪っていたんだ。だが、誰もそのことに気づいてはいない」(p.45)
「日米同盟は勝者と敗者の間に結ばれた盟約です。それゆえ勝者たるアメリカの視点に立てば、日米同盟に、外に対してはソ連を封じ込め、内に対しては日本の軍事大国化を阻むという、矛盾するふたつの戦略意図をひそかに埋めこんでいたのです。このため日米安保体制は、主権国家としての日本の自立性にくっきりと影を落とすものとなりました。それゆえ、対ソ封じ込めには左翼陣営が、対日封じ込めには右翼陣営が、それぞれに反発して日本国内に反米感情を育んでしまい、その反作用として日米同盟には常に一種の遠心力が働いたのでした」(p.114)


★★★★ 集中講義!日本の現代思想 仲正昌樹
サブタイトル:ポストモダンとは何だったのか
ポストモダンだけではなく、そこに至るマルクス主義、消費資本主義の講義もある。著者の説明、例えがとても的を得ていて、判りやすい。忘れていた昔のことを懐かしく思い出した。丸山眞男、吉本隆明、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコー。生齧りだった構造主義など判ったような気になった。
マルクス主義が復活することはない、ということはわかった。では、今の状況でいいのか、アメリカの一人勝ちでいいのか、という問に対する思想はまだ無いようだ。社会主義国崩壊の後、世界はその自覚が無いまま多方面で迷走しているのではないかと思わされた。
反左翼の雑多な集団にすぎなかった戦後日本の“保守主義”には、具体的なイメージ戦略がなかった。明確な思想性を伴っていなかったからこそ、自民党中心の保守政治は長続きしているのかもしれない。(p.48)
象徴的な儀礼によってその秩序が繰り返し再生されるような未開社会では、「モノ=記号」の指し示す「差異」はほぼ固定化しているが、現代の大量消費社会では、人々を新たな「消費」へと誘うべく、新たな「差異」が、したがって新たな「モノ=記号」が作り出されている。新たに生み出された“モノ”が、それまで我々が見慣れてきた既成のモノとは異なる記号であることが、企業広告によって宣伝され、「流行」に乗せられることによって、記号の体系に囚われている“我々”は、新しい差異を示すモノに対して「欲望」を抱く。社会を秩序付けているさまざまな「差異」を象徴する「記号の体系」自体が、新たな「差異」を生み出しているのである。(p.97〜p.98)
短期間に「消費」されるべく産出された「モノ=記号」が指し示す「差異」は、自然物や、未開社会の呪物の間に見出される――絶対的な位置価を伴う――“差異”とは違って相対的なものであるので、「記号」として相互に入れ替えることは可能である。相互に「差異」を強調し合う「流行」の商品は、その名称や広告上のシンボル、キャッチフレーズなどの記号的部分を取り替えても、そのまま通用してしまいそうに思われる。「記号」と「物」んお結び付きはもともと恣意的である――“犬”のことを日本語で「イヌ」と名付ける必然性はない――わけだが、消費のために生み出され、どんどん新しいデザインへと交替する流行品は、その恣意性を際立たせる。そして、そうした「流行」を追い求めている人々は、お互いの個性の「違い」を際立たせるように見えて、実は“みんなと同じように熱狂的に流行を追っている”という姿勢、そして、“みんなから自分の違いを承認してもらいたい”という願望を示している意味において“みんな”=「大衆」との同一化を求めているのである。(p.98〜p.99)
バタイユによれば、人間が労働するのは、単に生活に必要なものを作り出すためではなく、そこには、過剰に生産した物を破壊し消費しようとする欲求が潜んでいる。そうした破壊と消費の大々的な形態が非日常としての「祝祭」である。(p.147)
「時代の感性」を信じる浅田は、スキゾ・キッズが病気なのではなく、むしろスキゾ・キッズを閉じ込め、資本主義社会に順応した“主体”として走り続けるよう強いてきたパラノ・ファミリーこそ病気であると見る。というより、価値のブラックホールである「貨幣」に引きずられて破局を遅延させながら、自転車操業を続けている「近代」自体が、根源的に病んでいる。(p.172)
「左」の知的権威独占に対抗する形で、七〇年代から保守論壇が徐々に形成されるようになったが、現時点では、日本にとっての政治的・軍事的な脅威であったソ連・東欧ブロックが崩壊し、再結集した“左”のほうにも知的権威がないので、「右」の言説は適当な批判のターゲットを失いつつある。そのため、社会主義の“生き残り”である中国や北朝鮮の脅威論を過度に煽り、場合によっては、日本を文化的に支配し続けるアメリカを「仮想敵」として叩くといった迷走ぶりを見せている。それを“左”の側が右傾化の極度進行によって生じた危険な兆候だとして騒ぎ、「スター」のもとでの「水戸黄門」的な結束を一層固めようとするので、思想業界のカンタン系デフレ・スパイラルがさらに進行する。わかりやすい二項対立をいったん受け入れないと、思想の“最先端”についていけないというヘンな状況になっている。(p.235〜p.236)


坊ちゃん物語 起業編 森祐介
まさに物語(?)です。人物はパターン化し、ストーリーを展開するロボットです。作者の意図が、主張が、何であるかよく判りませんが、一応苦痛なくそれなりに(?)読めました。

★★ 軟弱者の戦争論 由紀草一
何処か品に欠けた印象がする。文章がくだけているのが問題ではなく、論の展開が変だ。譲歩を使いすぎて、八方美人のようだし、修辞疑問も多く、脅迫の調子が感じられる。改憲論がさかんで、特に憲法九条について色々言われているが、その色々を集めたという点ではこの本は面白い。
もし将来、日本がこういうオープン・ネーション[無防備地域]になったら、私がアメリカ大統領だったら、さっさと日本を再占領してしまいます。(p.32) これは暴論でしょう。以下はなかなか面白い。
芦田均を委員長とする、アメリカ原案修正のための「憲法改正案特別委員会」が八月二十日に発表した共同修正案で、第九条は、第一項冒頭と第二項冒頭に語句を加えられ、現在の形になった。有名なのは後者の、「前項の目的を達するため」というわずか一一字である。/その意図はこうだったらしい。第一項で放棄されている「国際紛争を解決する手段」としての戦争とは、不戦条約に基づいてかんがえると、防衛戦争以外をさす。だから、自衛のための戦争はできる。これはケーディス[民生局次長]が含みとして残したことだった。[原案にあった、自己の安全を保持するための戦争をも(放棄する)、の部分は彼によって非現実的だからと言う理由で削除された。]そこへ「前項の目的を達するため」が入ると、「保持しない」とされている「陸海空軍その他の戦力」も「認めない」とされている「国の交戦権」も、すべて「防衛戦争以外で使われる場合には」に限定されていると読むことが可能である。・・・ただしもちろん、戦後の歴代内閣でこの憲法解釈が示されたことはない。政府にとって、九条=戦争禁止と受け取られることは、ときに足枷と感じられもしたろうが、益のほうが大きいと思われていた証拠であろう。(p.56〜p.57)



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